音声と文書:ヨハネの黙示録(10) サルデスにある教会へ 3:1~6

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PDF文書:ヨハネの黙示録(10)

ヨハネの黙示録 3:1~6
3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
3:6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』【新改訳改訂第3版】

上の写真は、古代サルデスのアルテミス神殿とアクロポリスの遺跡。近くの川から多量の砂金が採れ、富裕な町であった。トルコのイズミール(スミルナ)の約90Km東にある。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。


ヨハネの黙示録(10) サルデスにある教会へ 3章1節~6節

はじめに

ここでは、聞いたような言葉がたくさん出てきますね。
目を覚ましなさいとか、白い衣とか、いのちの書とか、父の御前と御使いの前で言い表すとか、こういうような言葉が何度も出てくる。
今日は、このサルデスという町にある教会が、取り上げられているわけです。

1.サルデスの教会はですね、この手紙は、いきなり非難から始まっている、ということがお分かりいただけると思います。褒めることがひとつもないんですね。書かれていない。
もう一つはですね、これまでの教会への手紙は、教会を代表する人々は、多数派の人々は、みな真実な人であったんです。ところが、サルデスのほうは、真実な人が非常に少なくなっている。不真実なクリスチャンが、多数派を占めていたわけですね。この手紙は、不真実なクリスチャンに宛てられている。
そういう意味で、サルデスの教会への手紙は、ちょっと異色なものであります。よほど、このサルデスの教会は腐敗が進んでいた。真実な人がごくわずかになっていた。瀕死の状態、という言葉が当てはまると思います。
こういう教会の状態によって、サルデスの町の人々の状態も、だいたいわかるわけですね。教会の質というのは、その町の質をも意味する。教会はその町の心臓部と同じですね。教会はその国の良心、精神、心であると言ってもよろしい。ですからサルデスの教会が腐って、もうどうにもならないところまで来ていたということは、サルデスの町の人は、相当に深刻な状態になっていた、と言ってよろしいと思うんです

2.サルデスは、テアテラから更に南東に約48キロ行ったところにあります。
ですから、ずいぶん南の方に進んでいるんですが、このサルデスは山の上にあり、自然の要塞の上にあったわけなんです。ま、こういうようなことが、分かっているわけです。
もう一つ、このサルデスの町は、羊毛の貿易が盛んであった。今、私達は、羊毛はそんなに珍しいものではないですが、当時は、羊毛は非常に高価なものであった。
また、サルデスは、羊毛の染色が初めて発明された場所であるとも言われています。
サルデスは450メートルくらいの絶壁の上にあり、この自然の要塞と、貿易で、人々は贅沢な暮らしをしていたんですね。みんな高級品なんです。

私はこれをみると、ああ、ちょうど日本に似ているなあ、と思うんです。日本は海という要塞があるでしょ。大陸との違いはどこかというと、日本という国は、列車に乗って外国にいけないんです。船か飛行機に乗らないと行けない。ですから、攻めてくるとしても、船に乗ってくるわけですね。大陸は歩いてでも外国にいけるんです。日本人は歩いて外国に行くなんて、考えられないわけです。ですから周囲が海に囲まれていて、敵が陸路を通って侵入してくる恐れは、まず日本にはなかった。また、貿易が盛んであったということは、非常にサルデスに似ているんですね。

ところが、この二つの好条件が、実はサルデスを腐敗させたんです。
一つは、彼らは、山という自然の要塞の安全性に油断をしたわけです。彼らは山の絶壁は絶対に登れないと考えたわけですね。
エドムの人達もそうです。絶壁の上に町をつくっていたわけですね。だから、絶対にそこは敵は勝てないと、思っていたわけです。それが攻め落とされてしまった。
ヘブロンもそうなんです。ヘブロンを、ダビデが攻め落としていますね。ヘブロンの人達は、この絶壁は絶対に攻め落とされないと思って、油断していたんですね。
実はこのサルデスの要塞は、2回ほどよじ登られているんですね。最近、ロッククライミングっていうのが流行っていますが、昔もロッククライミングがあったわけですね。しかも登って攻めていった。ですから、このサルデスの町は占領されてしまっているんですね。
もう一つ、しかも彼らは貿易で繁栄をもたらしていた。

私も、このサルデスのこのあたりの事を考えてみますと、現代の日本を感じさせられるんです。かつて金山とか、銅山とか、石炭がありました。
この間、どこでしたかねぇ、住んでいた町を爆弾でバンバン壊して、廃墟にして、あういうのをみると、どういうことなんだろうなあと、思いましたね。島全体が廃墟になってしまった。

最近のニュースを見ると、今度は東京が廃墟になるっていう話を聞きましてね、昔の空襲じゃないですけれども、B29は飛んで来ないんですけれどもね。なんか日本はおっかないですね。廃墟の山になりかけているんじゃないかなあ。
かつて漁業で栄えた町も、いろいろなふうにして廃墟に変わっていく。繁栄している時代は誰でも、廃墟になるなんて考えなかったわけなんです。観光に行ってですね、石炭を掘っている人たちをみながら、ここがやがて廃墟になるなんて考えなかったと思うんですよ。しかしそれが半世紀も立たないうちに、廃墟に変った。恐ろしいことだなあ、と思うんですね。
繁栄した後には必ず廃墟が来るということを、忘れないようしておかなきゃいけないと思うんですよね。インカ帝国とかいろいろあったけど、みんな廃墟になっている。バビロンとかニネベも廃墟になりました。最近こういう絵が、あちこちから出ている。模型が、あんなんだった、こんなんだったと。みると瓦礫の山。恐るべきことだと思うんです。
みんな、安全な境遇の上に油断をする。
自分が他の人のように、悩んだり、苦しんだりすることはないだろうと、思うんです。ところが、サルデスは、山の上で飲み食いしている時に崩壊した。サルデスの繁栄が、サルデスを滅ぼしてしまったんです。

ある歴史家は、こんなことを言っていますけれども。
当時のアジヤ、トルコ半島で、サルデスの町は、最も富をもっていた町ではないか、と言われています。しかし、他の歴史家は、サルデスの町ほど、荒廃した町はない、滅びた町もない、と言っているんですね。だから、うんと高く上ったかと思うと、うんと低くなちゃった。その差がこんなに激しい町は、他に見られないと言っているんです。
この原因は何かというと、最大の富を持ち、最高の贅沢をして、その結果彼らは最も怠惰な人間になったということですね。ですから、そういう町ですから、サルデスの教会もその影響を受けていたわけですね。

ここでイエス様は「死にかけている」と、こういうふうに仰っておられるんですね。

私もこれを読むとき、日本の教会も、日本の経済的な繁栄によって影響を受けないわけにはいかない、影響を受けている、とね。しかし今、キリストのために身を粉にして働く人は、非常に少なくなっている。ですから、日本の教会もサルデスの道をたどるんじゃないかなあ、という危険を身に感じるわけですね。
ま、うんと繁栄したところは、非常に怖いということです。アメリカだって、かつては自動車産業でうんと栄えた町が、今やゴーストタウンになっている。こういうのを見ると、これがかつての繁栄かと。繁栄は非常に怖いということです。
しかし片一方では、遊牧民族のように、その人生をしぶとく生き抜いている人を見ることができる。

Ⅰ.さて、このサルデスに対する手紙の中には、非難はあるんですが、エペソのニコライ派の異端とかはみられないわけです。あるいは不道徳な罪に対する非難もみられないんです。

彼らが非難されたのは、何のためかというと、1節、2節にありますね。

3;1「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

つまり、サルデスのクリスチャンは、見掛けは生きているようであるけれども、その信仰が死んでいる、信仰が緩んでしまったことのゆえに非難されている。
彼らの信仰は、神様の前に全うされていない。2節の終わりに「わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」と言われました。彼らが非難されたのは、邪悪な行いとか、異端を見逃しているからでもないんです。つまり彼らの信仰生活が、緩み切っていたということですね。み言葉がおろそかにせられ、祈りは忘れられ、信仰の行いや、愛の労苦はどこにも見られなかった。これがサルデスの特徴です。

確かに彼らは、羊毛の貿易で忙しかったと思いますね。次は何色に染めるかとか、忙しかったかもしれません。しかし彼らは信仰生活を守ることに、ベストを尽くしていなかったんです。信仰がなおざりにされていた。これが非常に大きな警告だったんですね。この怠慢が、サルデスの人達の命取りになったんです。彼らはまさに、信仰がなくても贅沢な暮らしができたわけなんです。それがかえって彼らを油断させて、それが敗北に陥れた。

これは、私達の現代に与える警告を持っていると思いますね。神様第一にしなくてもいい、信仰がなくても生きていける。これが、サルデスの安易な油断した考えであった。これがサルデスの町を実は滅ぼしてしまった。

先ほどお話しましたように、その地域の教会とかクリスチャンの信仰というのは、光なんですね。灯火なんです。教会というのは、そこにある、ということによって、意味を持っている。
私も九州にいました時にね、教会にお見えになられた方がね、「ああ、ここに教会ができた、この町が明るくなる」とおっしゃってね。電灯や看板で明るくなるんじゃなくてね。
この間も、教会の看板の蛍光灯が古くなって切れているのがありまして、横山さんに替えていただいたんですがね。「やっぱりね、手間賃とれない、教会からはお金取れない」と仰いましたが、教会は看板だけが明るいんじゃなくて、「ここに教会ができたのか、この町が明るくなった」と、言われて、ああ、そういうものかなあ、と思いましたね。だから、教会がそこに存在するっていうのは、これは大きな光なんだなあと思うんですね。大きな力をもっているんです。

ところがどうもサルデスは、看板をかけていても大して光がなかったんですね。神様がお嘆きなさるのは当然だと思うんです。
むしろサルデスの教会の人は、サルデスの町の人に同化してしまった。イエス様が仰ったように、塩が塩気を失ってしまった。これは何の意味もなくなってしまう。サルデスのクリスチャンの人は、町の人々の心を神様に向けさせようとか、警告しようとか、そういう影響力を全然持っていなかったわけです。
影響力を持っていないだけではなくて、使命感とか義務感とかも感じていなかったわけですね。ですから、言ってみれば、先祖の財産を食いつぶす、胡坐をかいた生き方をする人に似ているわけです。ですから神様は「あなたは生きているとされているが、実は死んでいる」と仰られた。

サルデスの教会は繁栄した町ですから、立派な建物を持っているんですね。先のとがった建物をもつ。そこに彼らは、毎週集うんです。だから、見掛けは立派な教会に行く敬虔なクリスチャンに見えたんですね。でもその中身は完全に死んでしまっている。
彼らは優れた賛美歌を歌う。そして、豪華な華やかな集会を持つことができる。いくらでも金を使うことができる。羊毛で儲けたお金でね。でもそこには信仰がどこにも見られない、ってわけですね。
今、中国のあたりでも、教会の無いところで、(教会の中で集会するっていうのはごく僅かなんです)、ある人達は林のなかでね、ある人達は谷のほうでね、そういう所で集会を持っているわけなんです。で、そこに信仰がある。
「死んでいる」ということは、つまりそういうことであったわけなんです。中身がない、信仰が死んでいた。

Ⅱ.こういうような怠慢、サルデスの教会の特徴は「怠惰」ということですが、1節で、イエス様はこういうふうに現れたんですね。
『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方』

「七つの御霊」というのはこの前もお話しましたが、神の御霊の完全性を示している。
「七つの星を持つ方」というのは、星は教会のことですから、教会に対する権威をお持ちであるイエス様、ということですね。

つまりサルデスの教会は、キリストの権威を認めていなかった。忘れて捨ててしまっていたわけです。そういうところに対して、キリストは権威をもってお臨みなさった。今でも教会は、牧師も信徒もそうですが、キリストの権威を再確認する必要があると思うんです。

いったい、教会ってなんなのか。
これは、キリストの権威、をしっかりと持つ。これが大事だということですね。これを無視するときに、教会は必ず堕落していく。教会の中からイエス様がいなくなっちゃったら、堕落する。
エゼキエル書なんか読みますと、だんだん神の栄光が去っていく記事が出てくるんですね。
それで捕囚にあってしまう。堕落していく。

キリストは、かつてのサルデスの教会とクリスチャンの、信仰と行いを惜しんでいるわけです。サルデスの教会も、はじめは素晴らしい信仰をもっていたわけです。それで繁栄もできたわけです。しかしその繁栄の影に、だんだんと霊的な衰退を見てきたわけです。

ですから教会は、残念なことですけれども、しばしば霊的なうえに、過去の栄光の上に安住しやすい、ということです。
人間は、過去の栄光に安住しないように、気を付けないといけないと思うんです。かつて、エルサレムやユダヤもそうでしたね。その信仰のゆえに栄えたんです。しかし彼らは、その繁栄の上に居座ってしまった。その時に、イエス様はなんて仰ったか。葉を茂らせただけで、実をつけなかったイチジクの木を、呪われた。呪われてしまったわけですよ。
あるときイエス様は、塩気を失った塩は、踏みつけられると、おっしゃいましたね。これは中身を失ってしまったものの意味ですね。無意味さを語っているわけです。
あるいは、マタイの福音書の3章10節を見ますと、良い実を結ばない木はみんな切り倒されて、そして火の中に投げ込まれる、と仰いましたね。
ですから、サルデスは、本当に大変なことになってしまったんですね。

日本もかつてはですね、すごく栄えて、熱気に満ちて、信仰の戦いを戦っていた戦士がいた。もはや昔物語りになってしまった。そういう昔の繁栄の上に立っている。信仰は、常に今の上に立っていないといけない。ですから私達も、この言葉に十分に耳を傾けていく必要があると思うんですよ。

かつての栄華の上に座っている。これがサルデス。そして気がついた時に、自分達は死にかけている。繁栄した社会では、必ずこういうことが起きてくる。
これ、個人においてもそうです。ま、三代目が一番危険だといわれますけどね。どうなんでしょうかねえ。要するに居座り安いんですねえ。胡坐をかきやすいということなんでしょう。

Ⅲ、イエス様は、信仰が眠りこけているクリスチャンに対して、2節で、

A.「目をさましなさい」と警告を発せられました。

この「目をさましなさい」というのは、イエス様は福音書の中で何度も語ったことですね。
これはどういうことをするのかというと、3節に、「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」と、言われています。

1.まず第一には、それを「どのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」
と言っていますね。目を覚ますとは、こういうことです。
キリストの救いをどのように受けたのか、あるいはキリストの福音のみ言葉をどのように聞いたのか、つまりもう一度、原点に帰りなさいということなんですね。

私もこのごろ、じいっと考えますとね、現代人というのは、見ること、騒ぐことには慣れていますけれども、じいっと聞くとか、じいっと読むとか、じいっと学ぶとか、じいっと書くとか、なんか、そういうのに非常に弱くなっているんじゃないかと思うんですね。こういう点を怠って、よく訓練されていないかなあと、思うんです。
まあ、便利になるのはいいことです。が、あまり便利になると、人間の基本的なことが疎かになってしまって。このあたりは、サルデスは訓練されていなかったんでしょうね。

ある技術者が言っていましたがね、これからは漢字を書けなくてもいい。ワープロがありますから、仮名を打てば、漢字はまちがえて出てきませんからね。鉛筆をもって書くとなると、書けないですね。こういう時代になってきた。もうやって来ているのかもわからない。辞書がいらない時代がやってきた。

私達は基本的なこと、福音の原点に帰りなさい、という大きな呼びかけに、絶えず耳を傾ける必要があると思いますね。

昔の栄光を思い出して、今の怠惰な生活を嘆くことを、すすめているんじゃないんです。よく、年輩の方でですね、かつての相応しい信仰生活を知っておられる方はね、今の信仰はぬるい、とお叱りを受けることがあるんです。今のこれではダメじゃないか、といわれるんですが、かつての栄光を思いだして嘆いても、どんな解決があるのかなあって思うんです。クリスチャンの中にもね、昔の栄光を語って、今を嘆く人が非常に多いんです。

しかしイエス様は、自分の救いと、キリストの福音の原点を思い出すように、絶えずその原点にかえるようにと、仰った。
私達はわからなくなったら、どこにかえるか。それは、十字架のもとにかえる。私達の原則は何か。道に迷ったら、元来たところに帰る、ということではないでしょうか。これが「目を覚ましなさい」という第一番目のことです。

2、もう一つは、「それを堅く守り」
と書いてありますが、彼らは今の安全と繁栄に身をゆだねて、心を許したんです。そうすると、信仰を「堅く守る」ことを止めてしまう。それが堕落の原因であったわけです。
サルデスの時代もそうですが、現代も、とにかく繁栄した社会では、信仰を「堅く守る」というのはそう簡単ではないんですね。非常に難しいんです。繁栄した社会ではね。物質的な安定と豊かさは、いつも人を怠惰にさせる。

3.そして「悔い改めなさい」
ここでは特に、生活の方向転換を意味していると思いますね。
怠惰な生活から、再び神に熱心な民になることですね。み言葉に仕え、祈ること。パウロの言葉を借りれば、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐をもって、神に仕える。これらが「目を覚ます」っていうことだったんです。
しかもこれは、自分が「目を覚ます」だけではなくて、2節を見ますと、「死にかけているほかの人」。ま、凍死しそうな者。冷たく寒くなってくると、本当に眠くなってくる。そしてついには死んでしまうのです。そういう、凍死しそうな他のクリスチャンも揺り動かして、励ます必要がある。「死にかけている他の人を力づけなさい」、とイエス様は仰っているんですね。これはペテロにも語られているんですね。「あなたは再び帰ってきたならば、他のクリスチャンたちを励ましなさい。」(ルカ22:32)

4、しかし、もし悔い改めないならば、どうなるのか。
それが3節の終わりに、「盗人のように来る。」とイエス様は仰っている。
これはキリストの再臨の事を言っているんですね。
テサロニケ5章2節を見てみましょうか。これはパウロが言っているんですね。
Ⅰテサ5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
と、こう言いました。ペテロも同じように言っています。
第2ペテロ3章10節で、
Ⅱペテ3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

つまり、盗人のように来るというのは、主の再臨の時を言っている。これは、不信仰な者にとっては、いつ主の裁きが来るのかわからない。イエス様は、いつあなたのところに行くか決してわからない、と。

怠惰な者というのは、本当にそうですよ。怠惰な者というのは、イエス様がいつ来るか全然知らない。あのノアの時もそうでしたね。こういうように、神様は警告を発しなさったわけです。

Ⅳ.最後に、サルデスの教会の忠実なクリスチャンに対しては、豊かな報いが約束されているんですね。

4節、5節当たりに書いてあるんですが。

1.繁栄した社会には、いろいろな人々がいます。
例えば、エノクとかノアとかヨブは、非常に繁栄した社会に生きていた人たちですが、彼らは決して多くはなかった。
「サルデスには、その衣を汚さなかった人が幾人かいる」と書いてありますでしょ。「幾人かいる」といっていますから、幾人ていったい何人くらいでしょうか。そう多くないんです。この聖書の言葉をみますと、サルデスでは本当に数えるくらいしか「衣を汚さなかった、忠実なクリスチャン」が少なかった、ということですね。
こういう、周りが繁栄して、堕落していて、怠慢極まりないような社会でも、確かな報いを忘れない、ということですね。もう少ないからと言って、ノアの時代にノアを覚え、ヨブの時代にヨブを覚えた。私達も忠実な信仰生活を全うすれば、わずかな人間であっても、神様は私達を覚えてくださる。

2.4節の終わりに
「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」とあります。
「白い衣」とは何を意味するか。
聖書の中には、何度も「白い衣」が出てくるんですが、まず第一は勝利でしょうね。あるいは純潔を意味するでしょう。あるいは白というのは、神の義を意味しますね。あるいは、死んだ者と言われている者に対して、命、あるいは復活を表わすところのものですね。
サルデスの大半のクリスチャンは、生きた屍の状態でありましたね。それに対して、このわずかな者は、真に対照的な祝福を受けていますね。彼らは「わたしとともに歩む」と書いてあります。これは大きな特徴ですね。

これを、ちょっと見てみましょうかね。例えばエノクは、「神とともに歩んだ」、と書いてありますね。エノクの時代は、大変な時代だったんですね。でも彼は神とともに生きた。
創5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
エノクの信仰生活ですね。300年、神とともに歩んだ。その前もあったと思いますが、少なくても聖書に記されている限りは、300年、神とともに忠実に歩んだ。そして彼は亡くなってしまった。神様がおとりになった。
24節にも書いてあります。
創5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった
驚くべきことだと思います。

ノアも同じことが言われていますね。
創6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
ノアの時代は、周囲は暴虐に満ちていた。悪に満ちていた。しかしノアは神の人であった。神とともに歩んだ。

ヨブも見てみましょうかね。ここには神とともに歩んだという言葉はありませんが、1章1節を見てみましょうか。いつかヨブ記を読むことがあってもいいかな、と思います。ヨブは、族長時代の人ですね、アブラハムと同じ時代の人でした。
ヨブ1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた
ヨブはひどい病気になる。家畜も家族も、娘も息子もみんな取られてしまう。大きな試練に会う。それでもなおかつ彼は神とともに歩み続けた。
ヨセフもそうですね。創世記の後半を見ますと、牢屋の中にいても、どこにいても神とともにいた、ということが記されていますね。

こういうのを見ると、全て神に喜ばれた聖徒達っていうのは、ひどい状況の中に置かれても、ある時は繁栄の中、ある時は周囲が全くの悪の中、あるいは孤独の中、苦難の中に置かれても、彼らは、絶えず神とともに歩みつづけた人物なんですね。
皆さん、これは決して楽なことではないと思いますよ。
だから私達は、神様から本当に報酬を受けるために、勝利を得るために、一番危険なことは何か。怠慢にならないで、神とともに、いつも歩むことではないかと、教えられますね。

イエス様は私達とともにいてくださる。
マタ28;20見よ、わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
こういうふうに約束してくださいましたから、キリストとともに歩む生活というのは、平凡のようですが、非凡な祝福を与えてくださるということです。
そして私達を、天の御国で生活するのに相応しい者にしてくださる。

黙示録の3章に戻りますが、「彼らはそれにふさわしい者だからである。」と書いてありますでしょ。
つまり、神とともに歩む、キリストとともに歩むというのは、天国に相応しい者になるということですね。イエス様とともに歩み続けることによって私達は、天国で生活するのに相応しい者になるように、変えていただくことができる。

3.5節を見ますと、彼らは永遠にいのちの書に記される、ということですね。
「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」
永遠のいのちの書に記される。これが決定的ですね。わずかですけどね、サルデスからはわずかな者しか天の御国に行かなかった。これは他人事ではないんですよ。
この教会から何人の人がいのちの書に記されるか。神様が、書いたり消したりしたら困りますんでね。是非一回書いたら、消されないようにして頂きたいですね。サルデスからは幾人かでしたからね。最低、幾人かよりは、多くないといけないと思うんですよね。さてどのくらいの人が天国に行くか、楽しみですね。

そしてここでは、父の御前で、あるいは御使いたちの前で、名前を呼んでいただく。オリンピックの時にね、金メダルか何かをもらいに呼ばれることがあるでしょ、何とか誰それってね。あれ以上ですね。最後の報酬を受ける。そういう時に名前を呼ばれるわけです。その時の誉は、誇り高いですね。
いつ呼ばれるんだ、いつ呼ばれるんだってね、クリスマスでご褒美をあげる時にね、最後の方になって、忘れられているんじゃないかと、心配するわけですね。じいっと顔を見られると、「忘れてないのに」と思うんですよね。どうでしょかね。
天の御国に入る時に、最後に名前を呼ばれる人って、どれだけ心配でしょうかね。どうでしょうかね。僕の名前、書き忘れたんじゃないかとね。最初に呼ばれる人がいれば、最後に呼ばれる人もあるわけですから。

ここで、危険な事は何かというと、人間はいつも、内容を考えずに多数派の方に傾きやすいということです。サルデスのクリスチャンは、少数派ですけれどもそれを守り通した、ということですね。
クリスチャンは確かに世界的に多い。しかし多くても、全世界の人口からみれば、3分の2はキリストを知らない人ですね。日本なんかみますと、圧倒的に知らない人が多いわけです。クリスチャンはとても少数派であると。
サルデスの忠実なクリスチャンは少数派でしたが、守り通したんです。
私達も、周囲が不信仰で怠惰であっても、忠実な少数派を守り通さなければならない、ということですね。
また、神様は決して、わずかな人数だということで、軽んじられることはない、ということですね。ですから、忠実な信仰は必ず、偉大な誉を受ける。わずかであっても、誉を受ける。

私達は主とともに歩む。それが天に相応しい者である。天国ってどんなところだろうと、考えないで、今、歩みつつ、私達は天国に相応しい者になっていく。つまり、天の御国の前味わいをしているわけですね。この経験を深めさせていただきたい。
そしてこの地上で、エノクのように300年も歩めないかもしれませんが、歩んでいるうちに、天国っていうのはこういうものだなあ、ということを、内的に経験できるようになってくる。 気がついたら、天の御国に許されているということを、私達は経験させていただくことができるようにね。

サルデスには非難から始まっていました。しかし、そこにも聖い種が、幾分かありました。
どうか私達の生活にも、神様の恵みをよく覚えて、迷ったならば、いつも十字架の元に立ち返るということ。迷ったままで先に行くと、どんどん分からなくなりますから、十字架のもとに立ち返る、ということですね。
どうか、自分が置かれている安全な場所、そして繁栄、これは非常に大きな危険性を持っている、ということを心にいつも覚えて、警告を自ら発し続けながら、この生涯を辿らせていただきたいと思います。

〔お祈り〕

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そしてわたしは彼らの名前をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名まえを父の御前と御使いたちの前で、言い表す。」
恵みの深い天の父なる神さま、私達の住んでいるところもサルデスと同じように繁栄し、安全でありますが、そのことのゆえに、私達の心は油断しやすく、安住しやすいことであります。そのことのゆえに怠惰と、信仰が死んでしまいやすい。神様は警告を与えました。
どうかあなたに相応しいような、イエス様とともに歩み続ける信仰を、どうぞ守らせてください。そして最後の勝利をこの手にするまで、私達はその道を辿り続けることができるように。もし私達が、いつまでも少数派であり続けるならば、その少数派を守り続けることができるように。それは、決して簡単なことではありません。
エノクもノアもヨブも、本当に難渋なことでありましたが、彼らはその生涯を全うして、恵みに到達することができましたように、私達にもその恵みを、主よ、与えてくださることを、お願いいたします。
このときを感謝して、イエス様の御名によって祈ります。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

古代サルデス場所は、下の地図を参照。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。