音声と文書:ヨハネの黙示録(09) テアテラにある教会へ 2:18~29

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PDF文書:ヨハネの黙示録(9)

ヨハネの黙示録 2:18~29
2:18 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。
2:19 「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。
2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
2:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
2:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
2:23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。
2:24 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
2:25 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
2:26 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
2:27 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
2:28 また、彼に明けの明星を与えよう。
2:29 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
【新改訳改訂第3版】

上の写真は、トルコの古代テアテラの遺跡。現在のアクサヒルの町にわずかにローマ時代の列柱街道の跡が残っている。テアテラは紫布の商人ルデヤの出身地であった。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)


ヨハネの黙示録(9) テアテラにある教会へ 2章18節~29節

はじめに

1.ここは、テアテラの教会に向けて書かれた手紙ですね。
この部分は、手紙の中では一番長い個所になります。テアテラの教会は、七つの教会のうち四番目に出てくるんですが、ペルガモから南東に64キロぐらい下がったところにある。少し内陸になるわけですね。
これまでの3つの教会は、比較的海岸に近いところにあった。エーゲ海の海岸線に近かったわけですが、テアテラは少し内陸の方に入る。ですから都市ではありますけれども、その重要性はエペソ、スミルナ、ペルガモに比べると少し劣っている。しかし、そうだからといってですね、大した町ではないというわけではありません。テアテラは貿易道路に含まれていましたので、繁栄した貿易の中心地でありました。

2.この町は、皆さんもご存じのアレクサンダー大王、彼は30歳でこの世を去りましたが、彼が軍隊を率いて行って平定された町のようですね。そのあと繁栄していったと言われています。
今までの教会は、要塞があって攻めにくかったんですが、テアテラは平地にあるわけなんですね。ですから、あっちこっちから、しょっちゅう攻撃を受けていたんですね。歴史家が調べても、テアテラの町の歴史は、空白が非常に多いんです。戦争に次々と巻き込まれて、残っていないわけですね。そこに非常に強かったアレクサンダーが平定し、そしてやっと落ち着きを取り戻した、というのがこのテアテラの町であった。ですから歴史はそんなに古くはないんです。

3.テアテラの町は、歴史に残る優れた人物を輩出しています。その一人がルデヤという人であります。使徒16:14,15を見ますと、
使16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。
と、こういうふうに書かれているんですね。
ここに書かれているのは、マケドニヤのピリピという町なんです。ルデヤという人は、仕事で、家族でピリピに来ていたわけです。紫布の商人であった、と書いてありますが、今でいえば反物商ということができるでしょう。

そこにパウロが伝道していて、巡回してきた時にパウロの話を聞いている。この時ルデヤは回心したわけですね。救われた。ルデヤだけでなく家族全員が救われて、ピリピの教会が始まったわけですね。最初の回心者であった。パウロの働きを最後まで支えた人達であった。

ここで大事なことは何かと言いますと、ルデヤの仕事に見られるように、テアテラの町には多くの職人や商人がいたわけです。そこには組合、ギルトっていうんですかね、皆さん、西洋史なんか習いますとね、中世くらいになってくると、いろんな組合組織が出てきて、労働争議なんていう問題が出てくる、ってありましたでしょ。テアテラでは、そういう組織が既にできていたようですね。ルデヤもその中の一人であった。
これがエーゲ海を超えて、マケドニヤの方まで反物商が広がっていた。凄いものだと思いますね。ちょっとした家庭のパートぐらいではないですね。ずうっと外国までですね、家族引き連れて出かけて行ってんですからね。
テアテラの背景を見ますと、そういう貿易と商人、職人が非常に多くて、そういう職人の間に、組合というのがずうっとあった。実はテアテラのクリリスチャンの問題は、この組合と関係があったようなんですね。

Ⅰ.このテアテラの教会に、イエス様はどういう姿で現れたか。

A.『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子』として現れた。

「燃える炎のような目」というのは、キリストの目は、あらゆる隠されたものを見通す鋭い目、ということですね。
23節の終わりには
「わたしは人の思いと心を探るもの」といれていますね。同じような意味なんです。人間はどんなに隠そうと思っても、神のまえで隠すことができない。「燃える炎のような目」というのは、そういうことを指しているんですね。

B、足のほうは、「その足は光輝く真鍮のよう」であり・・・

これはキリストの力強さと堅実さを示しています。
テアテラの教会は、イゼベルという女の人に振り回されていたんですね。そういうものを、しっかりと見抜く能力がイエス様にはあった。
それからもう一つは、テアテラの教会の多くのクリスチャンが、イゼベルの影響を受けて、堕落した生活に陥っていて、ガタガタに揺れ動いていたわけです。ですから、しっかりとした堅実なイエス様が現れた、ということは意味のあることです。
テアテラの教会が、手出しできなかった理由の一つは、実権を握っている組合とイゼベルが手を結んでいてですね、多くのクリスチャンがこの組合組織の中で仕事をしていたものですから、教会はなかなか手出しができなかった、というのが現実の問題でありました。で、そのまま放置していた。
20節を見ますと、「イゼベルという女をなすがままにさせている」と、イエス様に言われているのは、そういうことが背景にあるということですね。このように、揺れ動いているテアテラの教会に対して、イエス様は、あらゆるものを見通し、力強い堅実なお方としてご自分を現わした、ということなんです。

Ⅱ.19節に移りますと、テアテラのクリスチャンに対する賞賛、誉め言葉がここに書かれているんですね。

どんなものを褒めているかというと、あなたの愛と、あなたの信仰と、奉仕と忍耐。最近の行いは、初めの頃の行いよりずっと優れていますよ。と、こう言われているんですね。

皆さんはこの7つ教会をですねえ、褒められているものは何か、非難されているものは何かを表にしてみると、一目瞭然で分かってくることがある。
それは何かといいますと、賞賛されている部分を比べてみますと、非難がある教会の方が、賞賛が多く述べられている、ということが分かるんです。
ですから、エペソとかテアテラの教会の方が、非難の無いスミルナやフィラデルフィアよりも、賞賛が多く述べられているんですね。

これはいくつか意味があると思うんです。
まず第一は、イエス様は公平な目で評価しておられる。非難があるから、褒めるところは褒めないでおこう、ということはなさらないお方である、ということであります。非難があっても、褒められるべきところは、イエス様は褒めておられるということです。
もう一つの面は何かというと、賞賛されることがたくさんあっても、非難されることが差し引きされて帳消しにされることがない。褒めるところは褒められる、非難されるところは非難される、差し引きはない、ということを意味されている。はっきりと示しておられるわけです。

A.テアテラの教会で賞賛されているもので、特筆すべきものがあります。

1.まずここに「行い」と書いてある。
これは、クリスチャンとしての働きのことなんですね。ですから、テアテラのクリスチャンが、どんなに善行に励んでいたかを、示していると思います。

聖書には、どんなものであったかをここでは記していませんが、先ほどのルデヤの記録からみますと、ルデヤは、旅の途中で会ったパウロを、家に招いてもてなしていますね。あるいは、自分の家を伝道の根拠地にして、提供しているというようなことですね。おそらくピリピの教会は、川端の教会で祈り会が行われていた町でありましたのでね、きっとルデヤの家庭を中心にして、集会が行われていたんではないかなあと、思うんです。また、ルデヤが育ったテアテラのクリスチャンたちは、こういうことをよくしていたんじゃないだろうかと。ですから、彼らの働きがだんだん広がっていったのではないかと思います。

こういうのを見ますと、現代の日本の教会もですね、もっともっと伝道の働きを進めていく必要があるんではないかと思うんですね。クリスチャンの家庭が伝道の根拠地になって進んでいる。

先日もある新聞を読んでいましたら、モントゴメリーという人が言っている言葉がありました。人口1000人に対して、1つくらいの教会が必要である、と。
教会でなくても、とにかくクリスチャンの家庭を中心にして、何らかの福音の働きをなすべきだ、ということを言っているわけですね。日本は1億3000万人いるとすれば、1000人に一人とすると一体何個所くらいの教会がいるか、ですねえ。計算すると13万か所になりますね。相当大変な数になるわけです。テアテラの教会は、そういう働きをどんどんしていった。
ですから、19節の終わりを見ますと、「近ごろの行いが初めの行いにまさっている。」ということを、意味しているんだろうと思うんです。こういう素晴らしい働きを進めていたのが、テアテラの教会です。

2.それから「行い」だけではなくて、ますます活発に働くために必要な、内的なことも霊的なことも、かなり充実していたということが分かります。「愛と信仰」ということも、ここに含められているんですね。霊的な面でも相当充実していた、ということが分かります。

3.その次には「奉仕と忍耐を知っている」

(1)「奉仕」というのは、ディアコニヤ、という言葉が使われているんですが、霊的な面と物質的な面と両面から、他人に対して自己犠牲的な奉仕をしていくこと、これをディアコニヤとよんでいるわけです。

今でも西ドイツでは、「ディアコニッセ」という、婦人の奉仕団体があります。ディアコニッセの婦人たちは、生涯独身なんですね。病院とか老人ホームとか学校とかで、奉仕をずっと続けているんですね。非常に優れた働きを、信仰をもってやっているんですね。ま、相当、訓練も受けていると思いますけれども。どんな事があっても、彼女たちの献身は揺るがないと言われています。こういう宣教団体、奉仕団体があります。
このほかにも、ノルウエー、スエーデン、英国にもこういう優れた団体があるわけですね。ヨーロッパのキリスト教は衰えた、といっても、まだまだ、キリスト者としての自己犠牲的な奉仕の信仰の根は深い。なくなってはいない、ということを私達は様々なニュースから知らされる。

日本でも最近、西ドイツの奉仕団体とかいろんな奉仕団体から、そういう人が集まって、博愛的な働きが始まっているんです。前からあるのは、ミッドナイトミッションというのもあります。ミッドナイトミッションというのは、真夜中の宣教団体というんですね。もともと何かといいますとね、家出している人とかが盛り場に集まってくると、お父さんの肖像画とかを掲げてですね、見つけるんですね。そして教会に導く。そういう働きをしている。
日本でもあるんですけどね、あまり盛んには為されてはいないんですけれども、そういう宣教団体、いろんな奉仕がですね、為されている。貴重なことだと思うんです。

そのほかにもフェイスミッションとか、草の根みたいな働きが、いろいろな課題を抱えてやっているわけですが、なかなか根付かないような感じがしますね。どうしても、外国から受けることばっかり考えてきた日本人というのは、自分を犠牲にして与えることが、なかなかできなくなってしまっているのではないかなあ、と思います。テアテラの教会では、そういう鋭い働きをしていたということが分かります。

(2) そしてここにはもう一つ、「忍耐」というのが書いてありますね。
「忍耐」というのは、ヒュポモネーと言われますけれども、苦難とか逆境に続けて耐え抜いていく。これもなかなか大変なことですが、賞賛に値する働きである。

こういうふうに彼らの賞賛すべきものは、非常に多かったわけです。
今日の私達の教会に当てはめてみると、どんなところがイエス様に褒められるかなあ、と思うんですね。テアテラは、行ない、愛、信仰、奉仕、忍耐、これら全部褒められているんですから、大変な教会、優れた教会だなあと、ここを読みながら思わされるんですね。こんな教会はいくつぐらいあるのか、考えてみたりするんです。

Ⅲ.しかしこういうような素晴らしい教会にもなお、「非難すべきところがある」とイエス様は指摘された。

否、私は、こういうような素晴らしい教会であるからこそ、イエス様は非難したのではないかなあと、思うんです。非難されるべきところをそのままにしていたら、もったいないですね。こんな素晴らしい教会は、もっと素晴らしくなってほしいと考えるのは、当然なことです。

A.テアテラの教会が非難されている点は、どういう問題かというと、イゼベルという女性を放置していた、放っておいたということですね。

20節の終わりの方を見ますと、「わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」と書いてあります。

これは14節の「行い」と似ているんですね。これはニコライ派のことでありましたから、おそらくこのイゼベルという女性は、ニコライの異端の思想を持っていたのではないかと思われます。ここにもニコライの影響が出ていたのではないかと思います。

1.ここでの特徴は何かというと、イゼベルという女性が中心的であったということですね。
イゼベルというのは、もちろん本名ではないんです。イスラエルの王アハブの妻としてイスラエルに来た人で、シドンの王エテバアルという人の娘なんです。この人が、フェニキヤの方のアシュタロテとバアルという偶像を持ち込んだ。これは列王記に書いてある。列王記16章31節をみますとね、イゼベルという婦人がですね、こういう物を持ち込んだと。
ここでは、イゼベルというのは本名ではないんですが、地位ある人なんでしょうが、「自分は預言者である」と自称していますからね。

教会の中で「イゼベルさん」、なんて言われたらおしまいですからね。世界三大悪女の内の一人に、入ってしまいますからね。彼女がやっぱり、教会の人達を惑わしていったわけですね。
本物のイゼベルさんもそうなんですが、イスラエルにバアルとアシュタロテを持ち込んで、イスラエルの人達に罪を犯させ、とうとう後に、イスラエルの滅亡につながる最大の原因になった。ですから恐ろしいんですね。

イエス様は、テアテラのクリスチャンが、実によく働き、忠実なクリスチャンであることを認めていました。けれども、このイゼベルをこのまま放っておいたら、必ず教会は滅亡するに違いない、と思われたんですね。ですから、ここは厳しく指摘したわけです。

イゼベルという人がどういう人であったかは、今日よくわからないんですが、当時の人は「イゼベルさん」といえば、「あ、あの人のことだな」と分かっていたわけですね。ある人は、このイゼベルは、テアテラの教会の監督の奥さんではないかと言っているんですが、推測でよくわからないんです。
20節を見ますと、「この女は、預言者だと自称している」と言っています。神の言葉を語っている、と言っているわけですから、確かに彼女は、テアテラの教会の指導的地位にいた者か、あるいは、他から巡回してきた女預言者であったのかもしれません。この、女預言者を名乗るイゼベルの教えを受けた者たちの悪影響が、テアテラの教会に広がっていたのです。

日本でも、自ら教祖になった女性が何人かいますね。神がかりやすいんですね。
マホメット教の教祖の背後にも、彼の奥さんがいたんですね。実権は奥さんが握っていたといわれています。マホメットは操られていた。そういう歴史が残っているわけです。
一風変わった教えに従っていく人達は、今でも少なからずいるわけなんです。で、恐ろしいことが起きてくる。イゼベルについていく人もかなり多かったようです。
23節に、「また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。」と書いてあります。「この女の子どもたち」というのは、イゼベルの影響を受けた、弟子になっていった人を指している。

2.これらの事が、教会の中でだけで行なわれているのなら、テアテラのクリスチャンたちも、取り除くことは比較的容易であったと思います。
ところが、それがなかなか解決できなかったのは、イゼベルの働きが、貿易の組合、商人とか職人の組合の会合や、祭りの時に行われていたからなんですね。テアテラの教会のクリスチャンたちは、これらの組合に加入していた人達なんです。ですからそこに行くと、職業上どうしてもイゼベルの影響を受けてしまう。会合で、いけにえに捧げた肉を食べていたばかりでなく、悪い人達と一緒に酒を飲み、不品行を行っていたわけですね。イゼベルは、「これは便宜上の付き合いである」といったわけですね。あるときは、「これはクリスチャンの寛容である、だから許されるものなんだ」と。そんな風に、だんだん進められていったわけですね。これは問題ですね。

戦争中も「神社は宗教じゃない」と言ってですね、「神社参拝しても偶像礼拝をしたことにはならない」と言って、強要したこともあった。そういう風に妥協することを勧めた。
これ非常に危険ですね。そうすればクリスチャンになる人が増える、というのが当時のイゼベル達の言い分でありました。現代もそういうように考えている人が、少なからずいるわけです。
しかし、根本的に、キリストに反することをしていて、真の救いに与かる者は起き得ない、あり得ないと、イエス様もこういう風に話しておられるんですね。
そしてこのイゼベルの、もっともらしい教えに引っかかる者は、みるみるうちに堕落して、不義を平気で行う者になっていってしまっているんですね。

B.

1.21節を見ますと、イエス様はこのイゼベルさんにも悔い改めるチャンスを与えたと言っています。
「わたしは悔い改める機会を与えたが、」と言っています。
これは、イエス様はどんな人にでも、まず、悔い改めるチャンスを与えるということですね。しかし、そのチャンスは永遠に与えられているわけではありません。やがて悔い改めのチャンスは閉じられてしまう。そのチャンスを生かして悔い改める者は、神の審判から逃れることができる。
ですが、彼女は、不品行を悔い改める事をしないと、21節で言われています。「この女は不品行を悔い改めようとしない。」この婦人の態度は、彼女の教えが、全く非キリスト教的なものであることを証明してしまったわけです。
もし彼女の言っていることが、本当にイエス様がおっしゃっている言葉と一致しているならば、あるいは彼女が間違っていることに気づいたならば、正しい信仰を持っていたならば、悔い改めるはずなんです。
悔い改めないという態度は、彼女がキリストに逆らう者であるということを証明してしまったわけですね。ですから、どんなもっともらしい話も、悔い改めない態度は、全くの欺きだということです。教えられてしまいました。

2.22節、23節では、イゼベル以外の人についても、神の審判が加わるということを教えているんですね。
まず、「この女を病の床に投げ込もう」と言っています。この婦人だけでなく「また、この女と姦淫を行う者たちも」、23節では、「この女の子どもたちをも死病によって殺す」
と、言っていますね。
つまりニコライ派の会員たちには、もし悔い改めなければ、「病の床に投げ込もう」と。これは罪の結果としての「病」、審判のことですね。ただの病気のことではない。
つまりこれは、神の審判によって彼女たちがとり除かれる、ということですね。これを言っている。非常に恐ろしいんです。
全教会は、彼女たちが裁きを受けることによって、キリストが人の思いと心を探るお方であることを知り、各々の行いに応じて裁かれるお方であることを知るようになり、もう一度神に立ち返るためにある。

残念なことに、人は、自分か自分の身近にキリストの裁きが下るまで、本当にキリストが生ける神であるということを、あまり認めようとしないわけなんです。残念なことだと思いますね。いつも手遅れなんです。手遅れにならないうちに悔い改めていただくのは、とても大事なことです。
ここで、非常に危険な事は何かというと、テアテラの教会は、熱心で捧げ切っていたわけですけれども、隠れたところで、このニコライ派の堕落が、しばしば行われているということですから、サタンは、絶えず教会に毒麦の種を播こうとスキを狙っている、ということを忘れないようにしたい。油断をすると必ず毒麦が入ってきます。こういうことを教えていると思いますね。

Ⅳ.24節、25節は、イゼベルの教えを受け入れていない人、染まっていない人への勧告ですね。

彼らには「他の重荷は負わせない」と仰いました。
ただ、彼らが持っているもの、19節でイエス様からほめていただいたもの、すなわち、愛とか忍耐、信仰、奉仕、そういうものによるところの働き、これを、イエス様の再臨の日まで続けることを勧められている。油断するならば、再びイゼベルのような人物が、偽りの教えを持ち込んでくるからですね。
これは2章10節で、「死に至るまで忠実でありなさい」というのと同じだと思うんですね。そういう人に、神様は報いを与えてくださるというんですね。

Ⅴ.26節から29節に、勝利を得るものに、挑戦と約束が記されています。

A.勝利を得る者とはどういう者か、というと、

1.「最後までわたしのわざを守る者」、という意味ですね。
普通はですね、勝利を得るというのは、手柄を立てるとか業績を上げるとか、そういうものですね。ところがここではそういう者が勝利を得るのではない。「最後までわたしのわざを守るもの」、これが勝利を得る者だということですね。これがね、私達に非常に大事な点であると思いますね。
人間は、手柄や業績を自分の勝利の目標にするから、そこに争いであるとか、犯罪であるとか、そういうものが生じてくるんです。もしこの言葉にあるように、最後までキリストの業を守れば、そこには争いとかは生じない。ですからここに注目しなければならない。
どういう人が勝利を得る者なのか、っていうことですね。よく働いた人とは言っていません。「最後までわたしの業を守りなさい」。これが勝利を得る者の特徴であります。

2、最後にそういう人には何を与えられるかというと、
「諸国の民を支配する権威を与えられる」
これは非常に大事な要素が含まれている。それは何かといいますと、イエス様もこのことを仰っているんですね。

マタ19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」

ここでは、イエス様は、12弟子が12部族を支配するって言っていますね。

ルカにも書いてあります。
ルカ22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

これは、イスラエルの12部族を支配する、っていう意味じゃないんです。そう言っていますがね、これは終末における霊的な支配を意味している。支配権の描写には、旧約的な思想が反映されているんです。ですから、ここに12部族を支配する、という言い方がなされているわけですね。これは、文字通りイスラエルの12部族を支配するということではなくて、終末における霊的な支配の事を言っている。

これはパウロも言っている。「聖徒が世界をさばく」ともいっています。

Ⅰコリ6:2 あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

やがて聖徒が世界をさばくようになる。これも、終末の最後的結果として、悪に対して福音の真理が勝利を得る、ということを、言っているわけです。ですからこれは、イエス様が黙示録で、「諸国の民を支配する権威を与える」というのは、つまりこのことである、というわけです。

27節を見ますと、「鉄の杖をもって土の器を打ち砕く」というのは、粉々に打ち砕くっていうんですから、これは完全な支配権を意味するってことですね。しかもこの権威を受けた者は、神を抜きにした無神論の、この世の勢力を破壊して、神の王国を建設するために、神の協力者として働く、ということです。
「わたし自身が父から支配の権威を受けている同じ」権威を与えると約束したんですね。それほどに大きな権威ですね。
「忠実に神様のわざを守る者」にこれが与えられる。これは実は、マルコの福音書の終わりの方にも書かれているんですね。神様は私達にこの支配権を与える。これは素晴らしいものであります。

B.28節に「また、彼に明けの明星を与えよう。」とありますが、明けの明星というのは、キリストご自身のことです。

イエス様自身が、勝利者は、復活の時に偉大なる輝く星として、明けの明星というのは最も輝く星として、キリストを頂くことができる、ということを預言している。

ですからテアテラの教会というのは、教会の働きと、この世の働きの中にあって、なかなか難しい問題を抱え込んでいたわけですね。そこに悪賢いイゼベルという女の人がいまして、その中でうまく橋渡しをして、妥協させて、次から次へとクリスチャンを堕落させる、こういうようなことが行われていた。
一面から言えば、世渡りがうまいイゼベルデヤったと思います。これに引きずりこまれる人も大勢いたわけです。商業が発達して盛んなところに、こういうことが起きやすい、ということも知っておかないといけませんね。
今の私達の時代も、テアテラの教会によく似ているところがあると思います。ですから、これはぜひ気を付けなければならない、と思うんですね。

このように示されたら、誰に対しても、神様は悔い改めるチャンスを与えておられる。
悔い改めてたちかえるなら、神様はそれをお赦しくださり、もう一度新しいやり返しをさせてくださいます。
どうか願わくは、私達も、記されているような教会、愛と信仰、奉仕と忍耐、日本の教会にも、これほど褒められた教会は多くないと思いますね。
どうぞ私達も、こういうふうに育っていきたいと、思うことであります。

〔お祈り〕

「わたしはあなたの愛と信仰と、奉仕と忍耐を知っています。また、あなたの近頃の行いが初めの行いにまさっていることを知っています。勝利を得る者、イエス様のみ業を最後まで守る者には、諸国の民を支配する権威を与える」と、お教えになりました。心から感謝いたします。
テアテラの教会は、さまざまな課題があり、しかも何重にも課題がありました。彼らはもはや自分達の力ではどうしようもないと、そのままにしておられました。イエス様はそれを指摘なさいました。もし、そのままズルズルと引きずっていくなら、教会はやがて全滅してしまうような打撃を受けてしまう。ですから、主はこれを自ら取り除かれたことでありました。
今も毒麦は、次々とサタンによって教会の中に播かれていることは事実であります。
しかし、私たちはよく祈って、それを取り除き、神に喜ばれるように進んでいくことができるなら、神様は大いなる力を与えて、栄を現わしてくださることをおぼえて、心から感謝いたします。またこの日本にも、次々と神の教会が建設せられて、主の栄が現わすことができるように顧みてください。
この時を感謝して、尊きイエス様の御名によって祈ります。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

トルコの古代テアテラは、現在のアクサヒルの町。場所は、下の地図を参照。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。