音声と文書:ヨハネの黙示録(11) フィラデルフィアにある教会へ 3:7~13

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PDF文書:ヨハネの黙示録(11)

ヨハネの黙示録 3:7~13
3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
3:8 「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
3:13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』【新改訳改訂第3版】

上の写真は、現在のアラシェヒルの町の展望(1988年頃)。ここが古代のフィラデルフィヤとされ、ビザンチン時代のヨハネの教会跡がある。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。

ヨハネの黙示録(11) フィラデルフィヤにある教会へ  3章7節~13節

はじめに

七つの教会、いよいよ6番目に入ってきました。
フィラデルフィヤというのは、「兄弟愛」という意味があります。なかなかいい名前ですので、「フィラデルフィヤ教会」という名前を付けている教会もあります。家内にね、「どうしてラオデキヤ教会って名前をつけないんだろう」っていってね、すぐこういう、意地悪な事を言うんですけどね。どうでしょうかね。
フィラデルフィヤ。非常にいいですね。「兄弟愛」。非常に素晴らしい名前を戴いています。これは一面、意味があるんです。後でボツボツお話しますけれども。

フィラデルフィヤというのは、この前学びましたサルデスからさらに内陸に入り、トルコ半島の奥にある。しかもこのフィラデルフィヤには、コガミス川という川があって、地図を見ますと、この川のところに位置しているんです。その谷間の上に広い高原があって、フィラデルフィヤの町があったわけですね。

フィラデルフィヤの特徴は二つあるんです。
この町は、ローマから郵便道路が通って、さらに東に延びているんですね。ですから、今でいえば情報ネットワークに、位置していたわけですね。フィラデルフィヤにいくと大体様子が分かる。
もう一つは、高原地にありますのでね、日本でいえば、山梨とか甲府とか、ぶどうの産地なんですね。ちょっとよく似ているわけですが。ですから、ぶどう酒でも有名な町が、フィラデルフィヤでもあったようですね。

ところがこの町は、歴史的には、あまり芳しくないんです。それはなぜかといいますと、

① 紀元70年に、大地震が起きているんですね。
その後しばらく地震が続いていたようなんです。この町の人々は恐れてですね、町の中では住めなくなってしまった。それで、町の周囲に住んでいる、という有様だった。
ですから、そういう意味で、フィラデルフィヤは、一度、壊滅状態になっているわけですね。

② 最初は、このフィラデルフィヤは、ギリシャ語とギリシャ文化を発展させるという意味でつくられたのが、この町であったんですね。
ですから不思議な名前、フィラデルフィヤという教会の名前がついているんですがね。日本では、こういう「兄弟愛」て名前の町は、あまりないですね。中には「オモチャの町」とかで、オモチャばかり作っているところかもしれませんけど。「兄弟愛」なんてのはない。

この町は、地震の後に再建したのは、ローマ皇帝のティベリウスという人なんですね。ですから、ティベリウスが再建しましたので、「ネオ・カイザリヤ」という名前、「新しい皇帝」、という名前に変えてしまったんですね。そういうようないきさつのある町なんですね。
ここをイエス様は、言語と文化が発達した町に、キリスト教を宣教するのは相応しいわけですね。あとでもお話しますが、「わたしの言葉を守る」と、言葉を非常に強調されているんですね。キリストの言葉。ここをイエス様は、宣教の町にしようと、考えておられていたようですね。

フィラデルフィヤは、ある意味では現代の日本に非常によく似ている面があります。世界をみても、日本では文字が読めない人がほとんどいなくなりました。文盲率は0%に近くなっているんじゃないかと、字の読めない人がいなくなってきています。そして日本は、世界のあらゆる文化が結集しているような国であります。
ですからねえ、外国から来る宣教師たちの話を聞きますと、不思議でしょうがないっていうんですね。字が読めない人はいない、様々な文化があるのに、なぜキリスト教が受け入れられないのだろう、と、こういうふうに言われるんです。本当に私もそう思います。

けれども、字は読めても、読んでいるものが違っているわけですね。立派な紳士が鞄の中から出してくるものはね、ジャンプとかね、週刊誌とか、スポーツ新聞とかが出てくる。
随分前ですが、私も電車に乗りまして、戸塚から電車に乗りました。隣に座っている奥さんが、一生懸命になにか本を読んでいる。私も何だろうと思ってのぞき込んでみると、聖書だったので、「珍しいなあ」、と思ったんですけれども。一生懸命に読んでいるので、声をかけなかったんですけれどもね。たまァに、そういう方がいらっしゃいますね。
もう一人の人は、地下鉄に乗っていましてね、前の席にいたんですが、一生懸命に教会の教案を読んでいらっしゃるんです。年配の奥さんでしたけどね。ああ、一生懸命に勉強しておられるなあ、と思って。そういう珍しい人が、たまぁにおられる。もっといてほしいなと思うんですね。

私はこの頃は、乗り物の中で本が読めないんですね、字がチョロチョロしてしまってダメですので。昔はよく読んだんですがね。私は車の運転をしませんが、乗せてはもらうんです。夜であっても、車の中で、聖書を開いているんです。信号のところで車が止まってね、そうすると後ろの車のライトで、聖書が読めるわけです。また、車が走りだすと、読めなくなります。信号で、車がまた止まると、後ろの車のライトで聖書読めるんです。それでも家に帰ってくる間に、2、3章は読めるんですね。そんなことをしているから、だんだんと目が衰えたのかもしれませんが。

まあ、しかし、日本ていうのはですね、いろんな文化が入っている。字はみんな読める。なのに、どうしてキリスト教が受け入れられないんだろう、と、よく言われるんです。随分前も、フィリピンからいらっしゃった方がね、電車に乗ったら、みんな何かしら字を読んでいる、っていうんですね。フィリピンの人は、字が読めない人が大勢いるんです。「すごーい」って言ってね。そうしたら横に乗っていた人が、「心配いらない、これ皆、漫画を読んでいるんだ」って、教えたっていうんですね。
それにしてもですね、電車に乗っている人は、みんな字が読めるのは、私達の国では、普通かもしれません。でも世界を見渡すと、そういう国っていうのは、限られているんです。アメリカだって字が書けない人はいっぱいいるんです。だから、日本人ていうのは、すごい国民ですね。

それだから、なぜ聖書を読まないんだろう、って言われるんですよ。聖書を読む心がない、ということが最大のネックになってしまう。これは、幼いころから聖書の話を聞いていないから、興味がないわけなんです。
私達は子供の頃、どうです? 聖書なんていうと、どんな感じを持っていましたか? なんか、古文書のような感じを、京都か奈良のあたりから発掘された感じでね。塵でも払って顕微鏡でも見るような感じでねえ、思っていたわけですね。
そうじゃないんです。やはり幼いころから聖書を読むというのは、大事だと思います。

フィラデルフィヤというのは、「兄弟愛」という名前ですからね、聖書の中に出てくる「兄弟愛」からつけたれたんじゃないかなあと、私は思うんです。ですからこの町は、もともとはよく聖書を伝えられる町であった、と思うんですね。幼いころからね。他に、「兄弟愛」、なんてつけられているところはおそらく考えられない。やはり、こういうものというのは、幼いころから親しんでいる、というのは大事だと思います。
最近、私達も子どもたちに、とにかく、聖書を持ってきたとか持ってこなかった、というだけでなくてね、実際に聖書を開いて読んでいるわけです。読んでいるというのは、とても大事だと思うんですね。
パウロもテモテにこう言っていますね。
Ⅱテモ3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
私は、これは非常に大事なことだなあ、と思うんです。
フィラデルフィヤの人は、比較的聖書に親しんでいた町であった。み言葉に親しんでいる人達であった、というのが、町の名前からも分かる。

Ⅰ.さて、既にお気づきになったかと思いますけれども、フィラデルフィヤへの手紙は、2番目のスミルナの手紙と非常によく似ている、ということですね。

いくつかの点を拾い出したいと思います。

① 第一は、9節を見ますとね、「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうではなくて、嘘を言っている者がある。」
スミルナにも、そういう人がいたわけです。
ですから、スミルナの教会とフィラデルフィヤの教会は、よく似た点がある、ということです。ここでユダヤ人といわれているのは、スミルナのところでもお話しましたが、民族的なことではないんですね。当時は、ユダヤ人がクリスチャンになっているんですね。
パウロなんかもそうですけれども、ペテロもそう、ヨハネもそう。ユダヤ人が聖書を教えていたんですね。教会の指導者であったわけです。ですから、ユダヤ人というと、教会の指導者という意味があったわけです。
ちょうど私たちは宣教師といいますと、外国の方で、アメリカ人であるとか、イギリス人とか、スウエーデン人とかノルウエー人であるとか、を意識しますね。同じなんです。ここでは指導的立場にある人の事を呼ぶときに、「ユダヤ人」と、こう呼ばれていたわけですね。

ところがこのフィラデルフィヤでも、富と権力を求めるためにね、教会の地位に就こうとする者が現れた。日本では教会の指導的立場にあっても、それほど富と地位は得られないかもしれない。大したことはないかもしれません。
しかしみなさん、歴史を学ぶと、ご存じかと思いますが、教会員でないということは、大変なことを意味するんですね。教会から破門された王様って、いるでしょ。雪の日にね、門の前で破門の取り消しを願った、というんですね。王様が、ですからね。
ですから、教会の指導的立場に立つということはね、普通の名誉以上のものであったんですね。だから、中にはこういう者が出てくるわけですね。
どうもこういうあたりをみますと、教会ができて半世紀ぐらいたちますとね、なんとなく教会が、富と権威に利用されつつあるなあと、その気配を見せているなあ、ということが、お分かりいただけると思うんですね。ですからイエス様は、「彼らはサタンの会衆に属する者である」と、厳しく譴責したんだろうと思います。
それほどの大きな問題でなくとも、誰でも見栄とか高慢とかで、こういう指導的立場につこう、という人が中にはいるわけですね。

② フィラデルフィヤの教会の特徴の二番目は、8節の「わたしの名を否まなかったからである」と書いてありますが、これはローマ帝国の迫害に対して、キリストに対する忠誠を試された教会である、ということができます。
当時は、ローマの迫害の始まりなんです。始まったところです。これから300年くらい、約2世紀、ローマの迫害が続くんです。迫害時代の教会を見ますと、いつも胸が熱くなるような出来事が続くわけなんです。

ニカヤ会議っていうのがある。300年ごろ、その頃にですね、ニカヤ会議に集まってきた人がですね、どこか体の一部分がなくなっていたんですね、満足な体をして来るととても恥ずかしかった、といわれているんですね。それぐらい激しい迫害が、キリスト教界を200年くらい襲うわけですね。大変な状況であったわけですね。そういう波が既にフィラデルフィヤまで伝わっていたということですね。これが一つの特徴ですね。

③ 三番目はですね、どちらの教会にも勝利の冠が約束されている。2章10節で、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」とスミルナに言われました。
フィラデルフィヤでも、「あなたの冠を、誰にも奪われないようにしなさい。」と言っておられるんですね。勝利の冠が約束されている。これも共通した特徴ですね。

④ 第四番目は、スミルナの教会というのは、非常に貧しい教会であったわけですね。
フィラデルフィヤの教会は非常に弱かったんです。力がなかったんです。8節の中ほどをみますと、「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守った」と、こう言われている。力が非常になかった。

スミルナの教会とフィラデルフィヤの教会はよく似ていた。よく似ている状況に置かれたんです。この困難な状況がかえって、彼らの信仰の働きを価値あるものにしていったわけですね。こういう状況に置かれて、苦しい状況に置かれるのが、決して悪いばかりではない、ということですね。

Ⅱ.ま、今、スミルナの教会とフィラデルフィヤの教会の、共通点を学んだわけですが、さてここで、こういうような教会にイエス様はどういうお方として現れたか、というのがこの7節のかぎかっこですね。

『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じ者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
と、四重ぐらいに言われているんです。

① 一つは「聖なる方」
聖い、これは、キリストが絶対的に聖なるお方であること。
これは、イエス様が約束されたことは全部、この聖さによって保障されている、ということです。だから、いかなる困難、患難にあっても、フィラデルフィヤのようにローマの激しい迫害が押し寄せてきても、キリストの約束は帳消しにならない、ということですね。
忘れられたりしない、変更されたりしない、確実に成就されるから、キリストの約束を守るのが良いということを、ここでは語っているんですね。
イエス様は御自分の聖さによって約束されている。この「聖なる方」
「聖なる方」が守らなかったら、それは聖くないわけですね。

② 「真実な方」
真実というのは、嘘をつかないという意味ではありません。
人間の真実というのは、嘘をつかない程度ですがね、この「真実な方」というのは、真理そのもの、という意味なんです。真理のお方、という意味です。イエス様は御自分が「真理である、真である」と仰いましたがね、そのとおりの方、イエス様がご自分で仰った通りの方、という意味ですね。
この「聖なる方」、「真実な方」という二つの事は、キリストが神であることを強調しています。

③ 第三番目の「ダビデのかぎを持っている方」
ダビデはなにか変なかぎをもっていたのかなあ、と思いますけれども、「かぎ」というのは権威の事を言っているんです。
つまり、ダビデの子としての権威を示している。ダビデの子というのは、王としての意味を持っているんです。ダビデはイスラエルの王様でありましたから、支配者としての権威、ダビデの子はメシヤの預言でありますから、キリストがメシヤであるということの宣言だということです。

④ しかもこの、神の王国のかぎが、この方の手に握られている。
イエス様はある時、ペテロにかぎを与えています。
マタイの福音書16章19節ですね。
マタ16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
いっとき、イエス様は、かぎをペテロに与えている。このペテロは、ペテロ個人のことではないんですね。ローマカトリックの人はね、ペテロは第一の王だとお考えのようですがね。ここで言ったペテロっていうのはね、「わたしは、あなたに」とは言っていますけど、ペテロというのは「岩」という意味ですね。
つまりここでぺテロというのは、ペテロの信仰告白を意味している。つまりペテロと同じ信仰を持つ者に与える、ペテロの信仰に与える、という意味なんですね。これは福音宣教の時代に、神さまが、真の福音を伝える者に委ねられた権威であります。
ですから、今日もなおその時代にあるわけですが、私達が伝える福音が真実であるならば、それを信じる人は、天の御国に招き入れることができるわけです。そういう権威がこの信仰に与えられている、ということです。

ところがヨハネの黙示録になりますとね、そのかぎが、もう一度イエス様の手に握られている、ということですね。
「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」
最終的な絶対権威をお持ちの方である。で、彼は、誰を神の王国にいれるのか、誰を神の国から締め出すのか、この決定権をお持ちの方、だというんですね。
この方が、かつての箱舟の戸を閉じておられる。箱舟は救いを表しているんですけれども、創世記7章16節の終わりところに、
創7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
天のみ国を閉じられる、予表ですね。箱舟の戸を閉められて、入れなくなってしまったんです。ですから、天のみ国に、誰を入れて誰を拒否するのか、という決定権をイエス様はお持ちである。

実はこのことは、福音書の中で何度も預言されているんです。
例えば、マタイの福音書の25章10節から13節当たり、イエス様は戸を閉じるということを言っていますね。10人の娘の話が出てきますが、
マタ25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
戸を閉じられた後は、もう入れないということですね。

ルカの福音書13章24節から29節当たりにもこのこと、戸が閉じられること、が書いてありますね。全部読むことはできませんが、途中を読んでみましょうかね。狭い門から入りなさい、ということが書かれているんですけれども、
ルカ13:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
こういうふうに言われているんですね。
この扉を閉じる権威は、かぎはキリストがお持ちである、ということですね。

フィラデルフィヤの弱いクリスチャンにとっては、最高の権威をお持ちの方の顕現が必要であったわけですね。強く励まされたのに違いないんです。
私達にとっても、こういう権威の強いイエス様が必要なんですね。私もこうしてイエス様の御用をさせて頂いていますが、決して強いわけではないんです。弱い自分をいつも強くしておくためには、強いイエス様が必要だということです。
フィラデルフィヤのクリスチャン達が、なぜローマの迫害に耐えられたのか。彼らが強かったからではないんです。力があったからだと書いていない。少しばかりの力しかなかった。しかし、彼らはこの強いイエス様を持っていた。これがかぎであります。

Ⅲ.

A.8節をみますと、この恐るべき権威をお持ちの方が、フィラデルフィヤのクリスチャンを前に、こんなことを仰ったんですね。

「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」
素晴らしいことだと思います。
誰も閉じることができない。
つまり誰が妨害しても、当時といえばどんなにローマの迫害が加わっても、天の門は開いているんだ、ということですね。ローマの迫害はキリスト教の撲滅を図ったわけです。しかしキリスト教は撲滅しなかった。

どうしてキリストはこの門を、フィラデルフィヤのクリスチャンの前に開かれたのか。
なぜこのフィラデルフィヤのクリスチャンは、あらゆる迫害の中で、天の門の扉を開かれているのを持ち続けたのか、ということですね。
それは、イエス様はこう言っておられるんです。開かれた門が、なぜ与えられたのかというと、「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」
これがその理由ですね。

フィラデルフィヤのクリスチャンがしたことは二つだけです。

① 一つは「わたしの言葉を守った」ということです。
キリストの言葉を忠実に守り行った、ということです。大きな事業を成し遂げたということではないんです。キリストの言葉を守り続けた。
私達は、キリストの言葉をコツコツと守ることが、いかに重要であるかということですね。イエス様の言葉を守る、というのがフィラデルフィヤのクリスチャンの特徴ですね。
10節にも出てきます。「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから。」だから試練の時に守ってあげよう、と仰ったわけですね。
キリストのみ言葉に全く信頼して、それを忠実に守り行うことが、どんなに大きな祝福をもたらすか、ということですね。
私達は、まだまだ気づいていない面があるのではないかなあと、思います。神様のみ言葉の大いなる権威をですね、フィラデルフィヤのクリスチャンはきっと教えられていたんでしょう。
だからどうか、キリスト教らしい者にならないでね、私達は粗削りでも結構です。ただ、み言葉にしっかりとつながっていることが、大事なんです。

② もう一つは、キリストの「御名を否まなかった」からだと言っていますね。この世の権力、ローマの迫害の権力がやってきた時も、彼らは恐れずにキリスト証したということですね。
私達は、強い信仰がないとできない、と思いがちなんですね。強いクリスチャンならできるだろうけど、弱い自分ならできないと思うんです。しかしここでは、先ほどもお話ししたように、フィラデルフィヤのクリスチャンは決して強くなかった。少しばかり力があったと言われていますね。
マルコの福音書の11章23節をご覧いただきますとね、イエス様はこういっています。信仰の話をイエス様がなさった時です。
マル11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
イエス様が仰ったことは、心に信じて疑わない、ということですね。そうすれば、山のような困難も乗り越えることができる。
これはね、少しばかりの信仰でいいの。だから私達は、信じるときに気をつけなきゃいけないことは、疑いを挟まないで、信じ続ける、ということです。不信仰な思いが潜んでいるから、何もできなくなってしまうわけですね。彼らは少しばかりの力だった。
「力がない、と言わないように」という賛美歌がありますが、これ、気を付けたいですね。

イエス様が絶対的権威をもって、道を開いてくださるのに必要なことは何か。
御言葉に対する、全き信頼と服従。もう一つは、誰をも恐れない証。
これは、少しばかりの力で出来ます、っていうんです。私達は、もっと力があったらできる、と思ってはいけないですね。そうしたら、いつもできない、ことになってしまいますから。自分に与えられている信仰を用いる、ということですね。少しばかりで出来る。いつでもそうですね。
私たちは、信仰をどのように用いるか、ということです。どのように信じるか。私はだめだ。こういう考えの奥底には、謙遜じゃないんです、不信仰なんです。疑いが入る。イエス様のみ名のために、自分に与えられている信仰の力を用いて、わずかの力で働くときに、紅海は別れるし、ヨルダン川に道はできたわけです。

日本人ていうのはね、日本から宣教師になって行った人がいたんですね。半年くらいたって、帰ってきたというんです。どうしてかというと、「私はね、英語が話せないからダメだ」、とこういうんです。帰ってきて、先生がバカヤロー、といわれたかどうか知りませんがね、「アメリカに行ってごらん、乞食だって英語をしゃべっているんだから」と言って、
教えられたっていうんですね。そう言われてみれば、そうかもしれません。

日本の教育が良くないんだなあ。動詞のあとには、atが来るかonが来るか,そういうことばっかりいっているからね。日本語だって、「てにをは」を考えて話している人はいない。完璧でないとダメなんだ、というのが日本人にはあるんですね。上手にできないと恥ずかしいとかね、こういう考えがある。どうですかね。

インドネシアとかどこかに行って、満足に英語を話す人は一人もいない、っていうんですよ。それでも、ちゃんと生活をやっているというんですよ。それなのに、あなたは彼らよりも学問を身に着けて、どうしてそれができないの、って言われたって話ですけどね。

私は、クリスチャンもこうじゃないのかなあと思うんですよ。もっと力があれば、もっと霊的な力があれば、もっと成長すれば、できるんじゃないかなあ、と思いやすいんです。そうじゃないって、イエス様は言うんですよね。少しの力、与えられている力で、私たちは勝利を得ることができる。私達もね、困難にみえる福音宣教で、イエス様を伝えることだって、クリスチャンみんなできるわけですよ。

この間も私は、子供たちといろんな話をしたんですね。
「今週はどうだった?」
「給食の時、カレーライスをポタポタ落として、給食当番がヘタクソなんです。でも、みんな、拭かない。雑巾が汚れるから誰も拭かない」っていうんですね。
雑巾てね、汚れたのを拭くためにあるんじゃないんですか。
みんな自分の雑巾が汚れるから拭かないと。「しょうがないから僕が全部拭いた」というんですね。
反省会の時に、誰かが、ぼくが拭いているのをみて、「自分もそうすればよかった」、と言われて、「だからやっぱり、いいことってするもんだなあと思った」っていうのね。
それで、「ただ、いいことをするだけではなくて、君がそういうことをすることによって、その子も、あういうふうにやったらいいんだな、と思うだろう。」と。
「でもね、勇気がいった。誰もしないのに自分がやるっていうのは勇気がいる」ってね。ま、そんなものかもしれませんね。だからやっぱり、「勇気って、あった方がいいんだなあ」と、ゆっくり話しましてね。

やっぱりね、自分にもちょっとの力があればできるわけです。もっと力があったらいいのになあ、と思っている間に、何もできなくなっちゃうんですよ。
そうかと思うと、自分より体の大きい子がね、廊下を走っていてね、ビビりながら、
「やめろ」、と言ったというんですね。「けんかをしかけてきたら、負けちまうから」って言っていましたね。

できないと思うと、何もできなくなってしまうんです。私達もそうだと思うんですね。自分の力のなさと、課題の大きさを比べるとね、できないんじゃないかな、という不信仰にとらわれやすい。しかし神様は、少しの力があればできる、と仰った。私は、日本だって変わることができると思います。それはね、少しの力を用いなければダメだと思いますよ。自分は少しの力しかないから、ダメだ。こう思ったら、もうダメだと思いますよ。

なんていったって、キリスト教はね、わずか12人の弟子がね、そのうち一人落っこっちゃってね、そこから世界に広がっていったわけですから。私達の教会も、そう見捨てたもんじゃないですよ。少しだけ用いることによってね、偉大な働きができる。どんな課題もそうです。病もそうです。私は病が癒されることを、あまり話をしませんがね、何度も癒されている。
少しの信仰を用いることです。そうすれば、この二つの道は、開かれていくんです。絶対に閉じられない扉が、そこに開かれている。ああ、素晴らしいなあ。

これから、神様から与えられた幻に突き進もう、とする時に、幻が大きいのは結構だけれども、いざやるとなると、大変なんです。そういう時に、行き詰ってしまうんです。
しかし、開かれた門、閉じることのできない門を、あなたの前に開いておられる。
なぜ開いたのか。
それは、「み言葉を守り、わたしの名を否まなかったから。」
ああ、この二つだと思いますね。み言葉に忠実であるということ、イエス様の御名を証つづけるならば、門はいつも開かれているということですよ。
私達が、どういうところにぶつかっていっても、門が開かれている。これは私達にとって励ましですね。素晴らしいじゃありませんか。
開かれた門を通る事は難しいことですか? 閉じられた門をよじ登るのは大変です。神様は、門を開いているというんですね。だから進む。本当に、少しの力があればいいんじゃないでしょうかね。

B.さらにこの方は、9節で「見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる」と仰っていますが、

これを見ますと、このサタンの会衆、自称ユダヤ人といわれている人、フィラデルフィヤの教会をかき回していたところの人たちが、やがて、真実な信仰がなんであるか、ということを悟らせると書いてあるんです。
そして彼らを足元にひれ伏させて、神様がこのフィラデルフィヤのクリスチャンたちを、いかに愛しているか、ということを悟らせる。非常にへりくだらせると、教えていますね。
ですから、真実な信仰ですね。
み言葉と証による真実な信仰、いかに反対の立場に立っている人にすら、どんなに大きな影響力を持っているか。
私達は自分の力だけを見ていると、ああ、とてもダメだ、と思いやすいことですけれどもね、決してそういうものじゃないなあ、ということを教えられますね。少しの力を私達は用いる、というのは大事なことではないでしょうか。

C.もう一つは第10節、「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」

これは、キリストの再臨の時の終末に臨もうとする、大迫害の事ですね。その時に、「守られる」、と約束されているんですね。
クリスチャンは常に守られているんですね。だから私達は、とにかくね、み言葉を守る。逃げることばかり考えているんじゃなくてね。

あのう、ロトの記事をご存じでしょ?
ソドムとゴモラのころ、ソドムにいたロトは、ソドムの町が焼き払われるという時に、彼はすぐに逃げることを考えたんですがね。しかし、その逃げる時に、もはや彼は遠くには逃げられないと分かって、「あの町にしてください。この町にしてください」と言っているんですね。気の毒だなあと思いますよ。神に守られるという信仰が薄いんです。
どうか私達は、どういう困難に出会った時でも、神は私達を守ってくださる、こういう信仰にね、どうぞ、立たせていただきたい。そのために私達は、み言葉を守っている。10節は、かぎ、ですねえ。
フィラデルフィヤの教会の信仰の特徴は、そこにあるなあ、と思いますね。彼らの信仰の中心が、キリストのみ言葉に忠実であった、ということですね。ですから、イエス様がこの教会を、キリストの福音を広く伝えるところの宣教の教会にしたい、と願ったわけです。これは、意味があると思うんですね。み言葉中心の教会は必ず、福音を伝える教会になっていく、ということですね。

Ⅳ.この教会には、ご存じのように非難とか警告がないんですね。

また「悔い改めなさい」という言葉もないわけです。ただ、お勧めがあるんですね。11節のこの勧めがあります。
「わたしは、すぐに来る。」と仰った。イエス様の再臨は、近いということですね。
イエス様が「すぐに来る」と仰ってから、約1900年たっているんですね。
「千年は一日のごとく、一日は千年のごとし」という言葉がありますから、ま、二日目の夕方、って感じですかね。イエス様の「すぐ」ってこれなんだなあ、と思います。
イエス様にとって、これが「すぐ」なんです。

もう一つは、
「あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」
私はこれを読んだ時にね、ゾクっとしましたね。
せっかく冠を頂いたのに、途中で失くしてしまう人が大勢いらっしゃるからです。
キリストの再臨の時には、試練があるし、迫害があるし、裁きがある。それから、数々の惑わす者が現れてくるんです。そのために、せっかく約束された冠を、奪われないようにしなさいと。ねぇ!

聖書中には、いろいろな冠が、約束されているんですね。
いくつか紹介してみたいと思いますがね、

ヨハネの黙示録2章10節の「いのちの冠」、これはよくご存じですね。

もう一つの「いのちの冠」はヤコブの1章12節にありますね。
これは試練に耐え抜いた者、あるいはヤコブの方を見ますと、神を愛する者に約束されているんですね。
ヤコブ1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
これは非常に大事です。「良し」とされるまで、ですからね。この「良し」とされるのはいつなんだ、いつ「良し」と言ってくれるんだと、痺れを切らしますね。「良し」と、言う寸前に、立ち上がっちゃいけないわけですね。どうかね、「良し」と言われるときがある、ってことです。

それから第二テモテの4章8節に「義の冠」について書かれています。私も、頭をいくつぐらい持って天国に行けばいいのかなあ、と思いますね。素晴らしいですよォ。
パウロは、「義の冠が用意されている。」と、言っていますね。これは信仰を走り通した者に、約束されているんですね。
Ⅱテモ4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

Ⅱテモテ4章7節を見ますと
Ⅱテモ4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
これはね、「1着になった人」って書いてないでしょ。「走るべき道のりを走り終えた人」。この世の中では、一着を取らないと金メダルをもらえませんが、信仰の世界ではね、冠は、「走るべき道のりを走り、守るべき信仰を守った人」に与えられる。これは素晴らしいことですね。みんな冠をもらえますよ。まだ走り通していないだけでね。

それからもうひとつの冠は、第一ペテロ5章4節 、ここには「しぼむことのない栄光の冠」が書いてあるでしょ、
Ⅰペテ5:4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。
これはね、群れの模範の人ですね。模範的なクリスチャンに与えられると言っているんですね。群れの模範になる人、っていうのはどういう人なのかというと、「朽ちない冠」と、同じような意味合いですが、第一コリント9章25節に書いてありますね。
Ⅰコリ9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
「朽ちない冠」はどういう人に与えられるのかと言うと、あらゆることを自制して、セルフコントロールですね、そして、信仰の馳場(はせば)を走りぬく人に与えられる。
なんでもそうですけれども、走りぬく、というのは自制しなくてはいけませんね。食べるものとか、寝ることとかね、自制する。こういう冠というのは、すべてのクリスチャンに約束されている。クリスチャンというのは、一着でゴールインしなくていいんですね。走りとおす、ということが非常に大事だということです。

黙示録にかえりますが、イエス様は、「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と言っていますからね。
この冠、全ての人に約束されているんですけれども、実際に受けている人は、どのくらいいるんでしょうかね。信仰生涯の途中で奪われてしまうという人が、決して少なくないでしょうね、非常に残念に思いますけどね。
是非、私達は、最後まで走り続けてですね、この冠を手にして、といいますか、頭にしていただきたいですね。
イエス様が仰った、「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」「持っているもの」とは何かというと、これは何度も出てきていますが、み言葉と証なんですね。
この二つをしっかり持っていれば、これは奪われませんよ、と約束されているんですね。

Ⅴ.さて最後に、勝利を得る者が受ける報酬ですが

1.これは12節に書いてありますね、
「わたしの聖所の柱としよう。」
柱にするというのは、永遠に神の都で住むといっているわけです。柱なんてイヤだなあなんて思わないで、これは神の神殿、神の宮殿、神の宮に永遠に住む、ということですね。詩篇23篇にも「永遠に神の宮に住みます」と言っていますね。そういうことを言っているんですね。

2.もう一つは、「彼はもはや決して外に出て行くことはない」と書いてありますね。
決して、これは迷い出ることはないということです。イザヤ書の35章にも書いてありますね。この道を迷う者なし、決して迷いでることがないと書いてありますね。
だから私達は、一度天の御国に入るとね、もう迷っちゃうということはありませんから。そこまではいろいろな誘惑があり、試練もありますからね。ああ、これでいいんだろうかなと、迷ったりすることもあるかもしれないけど、もう迷うことがない。

3.それから、この人には、3つの名前が与えられますね。
① 一つは、神のみ名
② 天から下ってくる、新しいエルサレムの名
③ わたしの新しい名
この3つの「名」を、ここでいただくわけですね。
実は、この名前が天の扉を開ける鍵なんです。つまり、特権なんですね。

ずいぶん前ですがね、私がまだ学校にいた頃、ある先生の名刺をもらって出かけて行った。名刺の裏になにか一筆書いてくれた。その名刺をもって行くと、すごいですね。どこの会社の重役の前も、ツーツー通っていけるんですね。こっちは学生服来ているのに、ツーツー通れるんですね。この一枚の名刺だけでツーツー通れるわけですから、えらいものですね。
ああ。名前って偉いものだなあと思いました。丁寧にあいさつもしてくれるんですよ。普段だったら、こんなところに来るんじゃない、っていわれる。名前っていうのは、偉大なものだなあと思ったことがあります。
つまり私達は、このみ名を持っていく時に、天の扉が開く。最近は、扉の前に立つと、扉がスーっと開くのがありますね。こういうようにね、名前が3つあると、天の扉を開けてくださる。地上の富と特権、特に自称ユダヤ人といわれている人は、この地上の富と特権を得ようとしていたんですね。
彼らが得ようといている栄光と、フィラデルフィヤの真実なクリスチャンに与えられようとしている栄光とは比べものにならない、ということですね。
ですから、地上の激しい迫害にも耐え抜いて、彼らはこの栄光を求めて進んでいった、ということですね。そしてまた、み言葉を伝えてきたわけでありますね。

私達にも同じものが約束されています。フィラデルフィヤではこの条件として、「み言葉を守る、キリストの御名を証する」ということが、この二つが、これを得るための条件でありましたね。是非、私達もそうさせて頂きたいですね。そうすることによって、閉じることができない門が、私の前に開かれている。素晴らしいと思います。
私達は、行き詰らない、ということですね。行き詰まらない。開いた門ですから、本当に、少しの力でそこを通過することができる。どうか願わくは、ここに私達の信仰を到達させていただきたい。

〔お祈り〕

「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしの言葉を守り、私の名を否まなかったからである。」
恵みの深い天の父なる神様、私達には、それ程強い信仰があるわけではありません。また、うんと成長しているわけでもありません。しかし少しの力で、神様は開いた門を私達の前に置いてくださり、心から感謝いたします。
いよいよ、み言葉と、あなたの御名を証することに専念し、イエス様、あなたの栄を表わし、私達に備えられた冠を得ることができるように、どうか導いてください。
途中の障害でこれを奪われる事のないようにと、イエス様は警告を与えてくださいました。どうか、これらの事が、私達の生涯を通して証することができるように、顧みてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によって祈ります。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

古代のフィラデルフィアの場所は、下記の地図を参照(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。