音声と文書:ヨハネの黙示録(15) 封印を解く者 5:1~7

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PDF文書:ヨハネの黙示録(15)

ヨハネの黙示録 5:1~7
5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
5:2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。
5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
5:4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
5:6 さらに私は、御座──そこには、四つの生き物がいる──と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。【新改訳改訂第3版】

上の写真は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532頃に描かれた「John’s Vision of Heaven, Revelation 4:1-11, 5:1-14(ヨハネの見た天国の幻)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)

はじめに

ヨハネ黙示録の5章からは、黙示録の本舞台といいますか、本論が始まるわけです。
ここから現れてくるキリストというお方は、もはや生け贄になるキリストじゃないんです。
征服者としてのキリスト、しかもここからは神と教会のために、サタンの軍勢と戦うため
に立ち上がっておられるキリストの姿がみられます。

私達はですね、日本人というのは、終末の事についてあまり深く考えていないわけですけれども、世界の人達はですね、中東の出来事を非常に深い関心を持ってみているわけなんです。
それはなぜかというと、世界の終末は必ずそこに集結していくことを、聖書が言っているからなんですね。
日本人が考えますとね、なぜアメリカはいちいち中東に干渉するのかって思いますけれどもね、その背後にはやはり、世の終末を意識しているわけなんですね。
日本人は聖書を読むときにですね、ただのお話を読むかのように考えやすいわけですけれども、世界の人はそうじゃないんですね。特にユダヤ系の人達は、非常に厳しい目をもって見ている。人類最後の戦いは、やはりユダヤの地あたりにですね、集結してくるわけなんですね。
ですから今も千変万化といいますか、いろんなことが次々と問題が起きて、この間も、パレスチナ解放戦線とかで、アメリカがそれを認めるか認めないかということが言われていたようですが、あういうのを見ますとね、いちいちアメリカが認めようが認めないがどっちでもいいように思うんですがね、決してそうじゃないわけですね。関わりがある。

そういうようなことを見ます時に、終末におけるところの論争はどういう様子を呈してくるか、世界の人達は見ているということを忘れないようにしたいと思うんですね。

さて、このヨハネの黙示録を読むたびに感じます事は、イエス様はこの地上の生涯を送っておられた時は、自己犠牲の生涯をおくられたわけです。そしてこの自己犠牲の生涯が、人知を遥かに超えた大きな勝利をもたらす、ということを感じるわけなんです。
自己犠牲の上にキリストの勝利が成り立っているということです。キリストの十字架の上にこの勝利があるということなんです。
私達の生涯を考えてみましても、イエス様と比較することは到底できませんが、自己犠牲の生涯がいかに大きな勝利をもたらすか、ということを教えられるんです。
この地上では、十字架の道とか、自己犠牲の道を歩くことは人々に嫌われることで、あまり人気がないわけですね。見向きもされないんです。しかし、その道しか偉大な勝利はないということですね。
黙示録はキリストによってそれを証明し、また、保証しているわけなんです。この世の人達はみんな面白可笑しい道を歩んでいますね。十字架の道を歩もうなんて思っている人なんか、いやしないんです。しかし、その結果どういう生涯が送られていくかということを、ようく考えていかないといけない。勝利の道はただ一つしかないんです。

Ⅰ.さて5章から私達は、七つの封印に封じられているところの巻物の幻を見るわけですが、第1節を見ますと、御座に座っておられるお方の右の手に、巻物が握られているのが見えます。

A.第1世紀の終わりごろは、パピルスが使用されていた時代ですね。

パピルスから、ペーパーという言葉ができたんですが、これは巻物である。
ですから当時はまだ今のような書物にはなっていなかった。巻物であった事が分かる。

この巻物は、「内側にも外側にも文字が記されている」と書かれている。
皆さんこれを不思議に思われないでしょうかね。

1.七つの封印がされているのに、なぜ内側と外側に字が書かれているのが分かるのか?
ということですね。そうでしょ?

閉じられているんだから、片側だけ書いてあるのか、内側にも書いてあるのかわからない。
ふつうの巻物の場合は、両側に書いてあるのは少ないわけです。
当時はパピルスは高価なものでした。ある学者によると、パピルスは高価だったから、もったいないから両側に書いたんじゃないか、っていうことですが、神様がお書きになったんだから、もったいないという言い方はどうかなって思うんですが、今、私が考えると、もったいないと思うような本もずいぶんありますね。紙がもったいないと思うんですけどね。
三浦綾子さんが、ご主人から、紙は大切なんだから、くだらないことを書くんじゃないと言われた、という話をどこかで読みましたけどね。

「内側にも外側にも文字が書きしるされている」というのは、これは、神の啓示である、ということですね。神様が御心を知らせようとしている、ということなんです。
つまりその中には、この世がどうなっていくのか、あるいは神様がこの世をどのようにお裁きになるのか、そのすべてがこの巻物に書き記されているという神の啓示である、ということですね。

ところがこの巻物はですね、七つの封印で閉じられていた。
ふつう巻物というのは、ひもで縛られていたのか、印紙みたいのが押してあったのかよくわかりませんが、少なくてもこれは幻でありますから、物質的なことではないわけですね。
七つの封印っていうのは、完全な密閉と言いますか、内密性と言いますかね、完全に封じこまれているということを表しているわけなんですね。
巻物の中身は完全に外側からは見えない。
それなのに、内側にも外側にも書かれているというのが分かるっていうんですからね、ここがやはり不思議なことだなあと思うんですね。
これは物理的なことではなくて真理を表している、ということが感じられるといいかと思うんですね。
そして巻物に書かれている内容は神様だけにしかわからない。
人間はいくら考えても、この巻物を読むまではその内容を知ることができない。

2、なぜこの巻物が完全封印されているのか?

それは意味があるんです。完全に封印されて神の御手に握られているということは、その内容が、神から出たものだ、ということですね。
神の直接の啓示であると、人間の考えによるものではないと、人間の考えは混ざっていませんよ、ということを明らかにするためなんですね、封印というのは。

これからクリスマスに向かいますとね、外国からのクリスマスカードは開封してあると安いわけですね。カードしか入れられないんですけれども、うっかりすると中身がなくて封筒だけ届いたりするんですけれどもね。

B.しかしこの巻物は、封印が解かれなければならない。解かれないとその内容は人が知る事ができません。

1.そこで2節では、ヨハネは、一人の強い御使いが大声で叫んでいる声を聞いていますね。
「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」、こう言っているのを聞いた、というんですね。
巻物を解くには、単なる力があればいいいってものじゃないんです。力強い御使いですから、力さえあれば解いてもいいんですがね。あるいはお金や知識があっても解けない。ですから、この封印ていうのはただハサミで切ればいいってもんじゃないんですね。

ここで大事なことはなにかと言いますと、「ふさわしい者」という言葉ですね。
4節にも出てまいります。「ふさわしい者」
これは、封印を解くのに必要な事は、ふさわしさということです。
いくら人間が科学を研究しても、宇宙を探求しても、あるいは宗教や哲学を探求しても、人間の努力では神の御心を明らかにすることはできない。ふさわしくないからなんです。
人間がいかに努力して学んでみて、研究して人生を探求しても、自分自身の運命を探しあてることができない、ということなんですね。
これは人間が巻物を解くのにふさわしくない、ということなんです。

2.第3節を見ますと、「天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。」と書いてありますが、つまりこれは、御使いは、御座以外の宇宙の被造物のあらゆるところに、封印を解くのにふさわしい者を探し求めているんですね。
けれども一人も見出すことができなかった。
考えてみますと、この地上でも優れた人物は大勢いたはずなんです。
旧約聖書をみましても、アブラハムもいる、モーセもいる、サムエルもいる、エリヤモいる、ダニエルもいる、ペテロやパウロもいた。けれども誰一人見つけることができなかった。
この封印を解くのにふさわしくなかった、ということなんですね。

3.ですから、この封印を解くふさわしさというのは、どういうふさわしさなのか。
少なくとも、このヨハネの時代から最後のこの世の終わりに至るまでの、歴史の神のご計画を、明らかにすることのできる人でなければならないでしょうね。
そこには神様と同じふさわしさを持つ権威のお方が必要であった。
4節をみると、「ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。」と書いてありますね。
この時ヨハネは、イエス様しか封印を解くことのできるお方はいないんだ、ということを悟っていなかったようですね。
どうしてそこに気づかなかったのかな、と思いますけれども。

それはある学者によりますとね、「この時ヨハネは、霊的な状況よりもむしろ自然的な状況の中、人間的な状況の中にいたんではないだろうか」と、だからそのことが分からなかったんじゃないかというんですけどね。
激しく泣いているところは、感情的なところが見えますね。
ですから、それで分からなかったんじゃないかなと言われていますが、そうであったかどうかは分かりませんがね。

それから、さらに泣いていた理由は、これから終末に向かって、教会が大きな迫害と危機の中を通過していくのに必要な、解決の方法を記されているところの、あるいは、その様子を書いてあるところの、この神の巻物がですね、読むことができない。
人に知らされないのは、非常に残念なことである、と。

C.ところがそのことを悟っている人もあったわけです。

5節を見ますと、ひとりの長老がやって来て、
「泣いてはいけない。見なさい。」と、こう言って、巻物を解くのにふさわしい者がいるよ、と教えているわけですね。
さきの強い御使いはですね、全宇宙をさがしてもこの巻物を解くのにふさわしい者を、一人も見つけられなかった。
御座の方を探さなかったんですね。
おそらく御座をさがすなんて畏れ多いことだったんでしょうね。
御使いは一人も見つけることができなかったのに、自分の罪を贖(あがな)われた一人の長老は、すぐに見つけることができた。これは非常に素晴らしいと思います。
天使ができないことを、救われた罪人ができる、ということなんですね。
天使にもできないことがある。しかし罪人ができた。
彼は最もふさわしいお方を見つけることができた。
ここで私達は一つの事を発見しますね。
確かに御使いは、私達のためにも神のためにも、重要な役割を限りなく果たしていることは事実です。本当によく働いてくださる。私達の微力な働き、微力な証に比べますと、御使いの働きというのは無数である思います。
けれども、御使いはやっぱりキリストのしもべではないんですね。御使いはキリストの使者にはなりえなかったということです。
一生懸命働いたんでしょう。全宇宙を探してごらんなさい。これは大変なことなんです。
これをみますと、御使いというのは、罪からの救いの喜びを経験をしていないんですね。恵みのメッセージを伝えることも、証をすることもできないし、救いの賛美を捧げることもできない。こういう点で、一人の長老、これは救われた民の代表者でありますが、あがなわれた罪人の私達は、御使いにできない奉仕をすることができるということを、考えさせられますね。御使いも素晴らしい。私達はみ使いの素晴らしさばっかりを考えていないで、私達も、御使いより素晴らしい働きができるということに気づいていただきたいことですね。

2.この長老は、巻物を開くところのお方に、二つの資格を指摘しています。

一つは「ユダ族からでた獅子」
獅子というのは、この前、四つの生き物のところでお話ししていますが、これは旧約的な言い方ですね。王として、力と権威を示すところの救い主、メシヤ、キリストを表しています。ユダ族というのは、イエス様は、血筋の上ではヤコブの12人の息子のユダから出た、ユダ族の子孫としてこの世においでなさいましたから、「ユダ族からでた獅子」といえば、
キリストを表しているということがお分かりいただけますね。

もう一つの資格は「ダビデの根」
「根」というのは王位継承権を持つ子孫、という意味ですね。
ダビデというのは王様であります。だから、王位を受け継ぐことのできる権威を持っている子孫である。もちろんここでいう王というのは、この世の王のことではない。
旧約聖書をみますと、メシヤ、救い主はダビデの子孫として来られると預言されている。
これも旧約的な表現ですが、明らかにイエス・キリストを表している。
ですからそのふさわしさというのは、救い主であるということですね。
そしてこのお方は先ほどお話しましたが、ヨハネの時代から世の終わりにいたるまで、神のご計画の中で生きて働いておられる、そして神と同じふさわしさを持っているお方だってことですね。

キリストによって罪赦され潔められ、御国に入れられる資格を持っている人ならば、誰でもですね、この封印をとくにふさわしい者は誰か、という質問を受けたならば、はい、イエス様です、とすぐに出てくると思うんですよね。
ところが御使いは自ら救われているわけではありません。潔められているわけでもない。罪人から天の御国に入れられたというわけでもありません。
ですから、ここに気づくことができなかったんでしょうね。
私達が問われたならばすぐに、これにふさわしいお方はキリストである、と答えることができると思うんですね。このあたり、御使いと贖われた民の大きな違いをですね、恵みの感じ方の違いをみせられるように思います。

Ⅱ.さて、ここでユダ族からでた獅子とかダビデの根とか出てまいりましたので、そういう幻が出てくるのかと思いますと、次にヨハネがみた幻は、獅子の姿でもないんです。王の冠をかぶったキリストでもなかった。

私は非常に不思議に思いますね。

1.6節をみると、「ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」とあります。
この幻は、ずいぶん長老から聞いた話とは違った形ですね。
そこには、力に満ちた獅子の姿ではない、権威に満ちた王でもない。
血潮したたる小羊の姿であるということですね。
ヨハネの黙示録では、この小羊という言葉は28回もでてくるんです。
ですから、ヨハネの黙示録では、小羊というのは重要な言葉なですね。
小羊という言葉は、ヨハネの黙示録では中心をなす言葉であると言ってもよろしいと思います。

小羊というのは、私達の罪を背負う旧約の生け贄を表している。
バプテスマのヨハネがキリストをさしてですね、「見よ、これぞ世の罪をのぞく神の小羊」、と言っていますが、ここをみますとね、イエス様はいったん十字架にお架かりになったあとはですね、贖い主、救い主としての御姿を保たれていることがわかります。
キリストは、一面、力と権威に満ちた支配者であるのに、もう一方では殺されるために引き出された小羊である、ということですね。
普通はこの二つの間には、支配者と小羊の間にはですね、人間の世界では相容れない矛盾がありますね。片一方は非常に力と権威に満ちており、片一方は非常に力がなさそうにみえます。ところがキリストにおいては、これはまったく矛盾していないということなんです。
この世ではありえないんですね。小羊のような獅子、小羊のようなライオンなんてのはない。ライオンと小羊はね、食べるものと、食べられるものの関係であります。ところがキリストにおいては全く一致しているということですね。
王として支配者としてのキリストに力と権威が満ちているように、屠られた小羊としてのキリストにも力と権威が満ちているわけなんです。これがここに見えてきますね。
ですから、私達がこのみ言葉を読む時にですね、この世における感覚を持って読むと、大きな読み違いをしてしまいやすい。
支配者としてのキリストと、苦難の僕としてのメシヤは、キリストにおいて全く一つになっているということですね。
非常に力強いところのキリストの話を聞いた後で、屠られたところの小羊が見えている。

2.さてこの小羊には、「これに七つの角と七つの目があった。」と書いてありますね。
「目」の方は何度も出てまいりましたから、お分かりいただいていると思いますが、ある時は、これは完全なキリストの知性を表していました。
ここでは、「全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」と書いてありますね。
もちろん御霊は神の知恵に満ちたお方ですから、知恵であっても全く矛盾しないわけですが、ここで大事なことは何かといいますとね、神の啓示を秘めたこの封印を解くことと、罪深い全世界に遣わされていくところの神の七つの御霊とが、関連して述べられているところに、意味深いところがあるわけですね。
神の啓示が全世界に伝えられなければならない。
ですからこの小羊はですね、封印を解くとともに、これを伝えるところの役目を帯びているというわけですね。
このあたり、やはり幻の素晴らしさというのがありますね。
キリストこそこの封印を開き、そしてそこに示されている神様の御心を、罪深い全世界にこれを示す。そしてさらにはですね、ここで記されていませんけれども、神の御心を最後の裁きの時の執行権を、キリストはお持ちだということです。
イエス様はそういうお方だということです。
この「目」はそういう意味がありますね。

それから、小羊にもう一つあったものは「七つの角」です。
角というのは、旧約聖書をみますと救いを表しているんですね。祭壇にも角があったわけですが、小羊に七つの角があるということは、七つというのは数のことではなくて、キリストの完全な救い、全き救いを表しているわけです。

ヘブルの7章25節をご覧いただきましょうか。

ヘブル7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

ここに「完全に救うことがおできになります」というのは全き救い、「七つの角」を表している。このお方が幻にみえた。
これは実は、ユダ族の獅子、ダビデの根から勝利をえた方と少しも変わっていないんですね。矛盾するところがない。
しかも5章6節をみますとね、御座と長老たちの間に小羊がいらっしゃった。
つまり御座というのは一つの座席があるだけではなくて、御座全体を形成しているんですね。その中央に、この小羊が立っておられたわけですね。
ですから、いくら強い御使いが宇宙をさがしまわっても、御座を探さなければみつからない。
御使いというのは外側に遣わされているんですね。
罪人というのは、いつも御座を見つめている。見ている方向が違うのではないかと思うんですね。
私達も見ている方向を間違えると、すぐ目の前にあっても気づかないことがある。
ヨハネの幻は、ここで一挙に頂点に到達しているといってもいいですね。素晴らしい小羊を見出しているわけですから。

Ⅲ.7節をご覧いただきますと、「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。」ことが記されている。

1.これらはすべて、キリストの象徴的な表現でありますね。
物質的にこれらのことが行われた、というのではありませんが、ここで行われていることはただ一つだけです。
何が行われたのかというと、この世の終末、この世の終わりに関する一切の権威が、キリストに委ねられたということの意味を持っているんですね。
だからイエス様が、巻物を受け取ったということではないんですね。
イエス様はマタイの福音書28章18節で、すでにこのことをいわれているんです。

マタ28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

ヨハネはこのことを、幻において悟らせていただいたわけですね。

2.イエス様がこの権威を預かっているわけですけれども、まだ権威は行使されていないんです。
巻物を解いてですね、御父の御心を実現するために、再びこの地上に来られる。そして全宇宙を支配し始めるわけですね。その時に神様のご計画によるところの新時代が突然に始まるわけです。
7節をみると、キリストはその巻物を受け取っているわけですね。いつ開いて、その中に書かれていることを執行してもいいわけなんです。
黙示録の6章からは、その封印の一つ一つが開かれていくわけですね。
そういう幻が出てきますが、やがてキリストは幻でなくて現実に解かれていくんです。
そして、この世に前代未聞の恐るべき現実が、展開されていくことになっていくわけですね。イエス様は今、この巻物の上に、封印の上に手をおいておられるということです。
封印を剥がして、その中にあることを伝える。それで御業を成す。

3.イエス様は二千年前に天から下って、人となってこの地に来てくださいました。三十三年半地上の生涯を過ごされて、十字架の死と復活を通って昇天されました。
このお方は、今、もっと偉大な、全人類に決定的な審判を下すところの、この巻物を解くために御手をかけておられる。
キリストの生涯はですね、私達はこの地上生涯だけをみていますけれども、神様のご計画はまさにここまで来ているということなんですね。
後は封印を解いて、その中に書かれていることをイエス様が行われたら、もう終わりになってしまいます。

ですから私達はですね、新時代が起きるということですね。
これを待ち望んでいるといってもよろしい。封印を解かれて、その中に書かれていることをキリストがなされば、私達は突然に新しい時代を迎えなければならない。
キリスト教というのは、これから廃れていく宗教でもなければ、さらに盛んになる宗教でもないんですよ。それは、この世の人が見ているキリスト教であって、私達は、キリスト教がどうなっていくかということよりも、もっと大事な事は何かというと、御座の屠られた小羊に注目しなければならない。彼の手がどのように動くかということですね。
なぜならば、神様のご計画は、この小羊の行動によって展開していくからなんですね。
先ほどお話したように、世界の人達が中近東のいろいろな問題をじっと見ているのは、そこにキリストの御業が、キリストの働きがどのようにされてくるかということを、何とかしてですね、読み取ろうとする気持ちが働いているからなんですね。
それを誤ってとってしまうと大変なことになってしまいますけれども、今やキリストは
全世界を御手の中に握っているといってもよろしいんです。
イエス様は、しばしの間、七つの角と七つの目を持って全世界に出て行って、救いの御業に携わっておられます。
私達クリスチャンは、仕事をしたり、伝道の業をしながらも、小羊の御手の動きに注目する必要があると思うんですね。小羊が封印を開き始めたなら、新しい時代に進んでいくんです。私達はこの黙示録の中に象徴的な幻をみていますけれども、今すぐにでも象徴が現実に変る可能性があるということです。そういう様相を呈しているところに住んでいるということです。

この間も子供たちと話をしたんです。
「先生は死なないで天国に行く可能性があるんだ。」
「そんなこと、できるの?」
「イエス様がおいでになればね。」
と、いうことですね。そういう時代です。
この世の人達は、核兵器が一触即発の時代であると言われますけれどもね、それ以上に私達は恐るべきキリストによるんですね。

イエス様がいつこの巻物を開かれるか、ということは関心深いことですね。
私達にとって、来たるべき新しい時代は恐怖の時代になるのか、それとも喜びの時代として到来するのか、混乱と滅亡の時代なのか、それとも神とともにある幸いな時代になるのかは、私達がこのあがないの中にあるのか、あがないの外にあるのかによるということですね。
どうか私達はこのことをよく心して、お互いの生涯を送らせていただきたいと思います。
今はなおしばしの間、キリストは七つの角を持ってですね、御霊を全世界に派遣されて、この救いの業をしておられる。
しかし小羊の手は既に巻物の上に置かれているということですね。
ローマ人への手紙でも書いてありますね。目を覚ましていなさいとね。
小羊は既にこの巻物を受け取ったということですね。
このことを私達は心に留めながら、日ごとの生活を営ませていただきたい。
私達は新時代が到来した時、幸いな神の恵みに立つところの者とさせて頂きたい。
御使いよりも素晴らしい働きが一人の長老になされたように、私達は天使を羨んでばっかりいないでね、天使にできないことを、あがなわれたクリスチャンはできるんですね。
私達は御座を見つめているならば、それができるということを心に留めさせていただきたいと思います。
これが分からないと、ヨハネのように激しく泣いてばかりいなくてはならなくなりますよ。悔やんでばっかりいなくてはならない。
希望に満ちているのが、あがなわれたクリスチャンの姿である。

お祈り

「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
恵みの深い天の神さま、驚くべき業が今までもイエス様によってなされてきましたが、その最終の御業を、イエス様はまさに手をかけてなさろうとしています。
しばしの間、主はなお救いの業を成されていること感謝いたします。
しかしこれも期間が制限されております。
やがて主はその巻物の封印を解き、その御業を成し遂げられます。
私達はヨハネの黙示録の中に、その幻を象徴としてあなたの御心を知らんとしておりますが、やがて現実の事となって、人々が思うこともできない、知ることもできない、悟ることもできなかったような新しい時代が到来してくることを、私達はみ言葉を通して教えられていることを感謝いたします。
かつての日、人間が考えなかったような多くの出来事がまいります。そして、イスラエルは盛んに栄えた国でありましたが、神の刑罰のゆえに、審判のゆえに、彼らは見る影もない捕囚の民となりました。
これと同じことが、やがて神の御手によって起きる時がやってまいります。実にイスラエルの捕囚以上の事が起きてくることであります。
私達はこの神の封印が解かれるまでは、何であるかを知ることができません。
しかしどうか、心に書かれたあなたのみ言葉をしっかりと読み取って、神の道を歩む者とならしていただけるよう、ひたすらお願いいたします。
この時を感謝して尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明