音声と文書:ヨハネの黙示録(25) 第五のラッパ 9:1~11

 

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PDF文書:ヨハネの黙示録(25)

ヨハネの黙示録 9:1~11
9:1 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
9:2 その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
9:3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
9:4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
9:5 しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。
9:6 その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。
9:7 そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
9:8 また女の髪のような毛があり、歯は、獅子の歯のようであった。
9:9 また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。
9:10 そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。
9:11 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。【新改訳改訂第3版】

上の絵は、オランダの地図作家、彫刻画家、出版家である Gerard de Jode (1509–1591) により1585年に出版された「Icones Revelationum Ihoannes Evangeliste in Pathmo(パトモスの伝道者ヨハネの黙示録のイコン)」の一枚「Fifth trumpet(第五のラッパ)」。(Wikimedia commons より)

はじめに

1.ここは、非常に恐ろしいことが書いてあるところですね。第五のラッパの幻であります。

この前もお話をしましたが、第一のラッパから第四のラッパの災いの時は、どちらかと言うと自然界、物質界における裁きでありました。
しかし、第五のラッパは天界と人の霊に影響を与える裁きのものです。七つのラッパの話の中で、特に第五のラッパは非常に鮮明にしかも詳しくヨハネが記しているんですね。おそらくそれはヨハネが、他の裁きに比べるとこの災いが非常に重要なものであると、考えたからだと思うんですね。

2.これまで神様は、どんな事をなされたのか、もう一度振り返ってみたいのですが、

・1章1節では、これから起こることのメッセージを人々に伝えた。
・4章では、神様がすべてのものを支配しておられることを語られました。
・5章では、神様が人間の歴史を支配していることを示され、
・8章7節~12節では神様が自然界を支配しておられることを示されました。

今日は9章に入りますが、ここでは神様は、悪の力も支配しておられることを示しています。サタンも神の支配の中でしか働けない、ということなんです。サタンは非常に大きな力を持っていますけれども、もし私達がしっかりと神の恵みの中に留まっていれば、サタンは恐れるに足りない。サタンを恐れる人は、結局、神の枠の外に出てしまっている、ということですね。

1章から8章までのこれらのことはみな、目的があってなさったわけですね。
何の目的で神様はこういうことをなさったのか、と言えば、これは警告的な意味を含んだ裁きなんです。警告を意味している。これはまだ最終的ではない。この前もお話しましたが、三分の一というのがありましたが、警告的意味が含まれている。これらを通して、この幻の中で、神様を信じない人々に精神的霊的災いがもたらされることを、特に9章あたりで示しているんですね。

ですからこういう面が分かりますと、実際にこの幻は、2000年前にヨハネが見て書いたものでありますけれども、今日の現代人に対する大きな警告であると見ることができる。
昨今を見ますと、罪のゆえに精神的に病んでいる人がいっぱいいるわけですね。人格的に崩壊してしまっている人がいっぱいいるわけです。こういう人達に対する警告であります。
ですから人間が早くからこの聖書を深く知っていたなら、いかに人間は安全にいかに幸せに生きることができるかと、私は聖書を学びながら、聖書を知らない人の悲劇と言いますかね、これを感じるんです。なぜ人間は聖書を知ろうとしないんだろうか。自分が求めないで、幸せなんて得られないわけですね。
今日人々は、虚しさに耐えられないで、精神的に悩んで崩壊しているわけなんですね。それはみな罪のため。そして神様に立ち返らないで、サタンの支配のもとで生活しているからに他ならない。聖書はこれを教えているんですね。

Ⅰ.さて1節を見ますとヨハネは「私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。」とあります。

1.この「一つの星」とは何か。流星のことでしょうか。違いますね。

ずうっと後まで読んでいきますと、この星は堕落した天から落ちた悪い霊である。
すなわち、サタン。最後の方に行きますと、アバドンとか、アポリュオンとかこういう名前で出てきますけれども、これはサタンのことですね。この「一つの星」というのは流星のことではなくてね。イエス様もこのことについてお話なさっている。ヨハネがみたのは幻ですから、その時に落ちたわけではありません。ルカの福音書10章18節を見てみましょうか。

ルカ 10:18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。

これもイエス様が見た時に落ちたんじゃなくて、ずっと前に落ちているわけなんですね。でもイエス様はその時にご覧になっていた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
同じことなんですね。

さて、イザヤはサタンが天から落ちた時に、なぜ落ちたのか、を記しているんですね。イザヤ書の14章12節~15節に記されているんですが、さすがにこのあたり、ヨハネはよく聖書を知っている人ですね。

イザ 14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

ヨハネはこういうことが背景になって語っている、ということが分かります。
聖書の中でサタンが落ちたことが書かれているのはここだけです。このあたりをよく覚えておいていただきたい。
「暁の子、明けの明星よ。」
彼はルシファーと呼ばれているんですが、彼は最も輝いた天使の一人だったわけですね。星にたとえられているわけですから、これが、落ちた、ということです。どうして天から落ちたのか。なぜ落ちたのか。叩き落とされたのか。彼は国々を打ち破るほどの力があったのに。

14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』

この「星々」というのは御使いのことですね。「北の果てにある会合の山」というのは神の御座のことですね。つまり、自分を神のようにしようとしたんですね。恐るべきことを考えた。この「明けの明星」と言われている天使は、神のもっとも近いところにいた天使ですね。彼は最も近くいたことで高ぶってしまった。その高ぶりのゆえに自ら神の王座に座ろうとしたんです。それで彼は黄泉(よみ)に落とされ、穴の底に落とされる。

ですからヨハネもですね、底なき穴のことを言っていますが、これはおそらく地獄のことでしょうね。ここに叩き落とされた。そして彼は天使の王座についていた者でありますけれども、彼は地獄の王者になって、人の心に悪を働かせる者と姿を変えたわけですね。恐るべきことです。
創世記のところを見ますと、アダムとエバが誘惑を受けていますね。ですから、その前に彼は天から叩き落とされていたわけですね。
彼は、「心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」と書いてありますからね、いかに高ぶりが恐ろしいか、恐ろしい罪であるか。

日頃私達は、高ぶりをそれほど大きな罪と考えていません。しかし神様にとって高ぶりは放っておけない罪である。で、サタンを叩き落としてしまったんですね。
人間の世界でもそうなんですけれども、高ぶりを抱いているがゆえに仕事に失敗する人もいます。対人関係を悪くする人もいるし、それだけではなくて、数々の悩みをつくりだして、苦しみを引き起こして、自らの人格を破壊している人が大勢いるわけですね。高ぶりの罪なんです。
ですからこの高ぶりの罪が取り除かれない限り、私達は救われない。いくら薬を飲んでも薬では高ぶりを消せないんですね。どこに行っても高ぶりを治す薬なんてないわけですね。これはサタンの支配に陥っていく。
この一つの星が天から落とされた。実はこのことを言っている。人間の心の中の高ぶりっていうのは、サタンの性質を宿しているということなんです。

2.さてもう一度ヨハネの黙示録に戻りますが、この叩き落とされた星には、「底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。」と書かれています。

神様は、暫くの間ですけれども、制限をもってですが、サタンは人間の世界で働く時間を与えられているわけです。
ヨブ記をご覧になったことがあると思いますが、神様はサタンに制限をあたえて、ヨブに働く事を許しておられる。
ですから彼らは暫くの間ですが、働くことができた。それによって、地上で神様に逆らっている者、悪に走りたい者に働いたわけですね。そして、彼らがますますその性質を明らかにしていったわけです。

ここには「底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。」と書いてありますが、イエス様も鍵について教えています。マタイの福音書16章18、19節で、イエス様はペテロにこういうふうに言っています。

マタ 16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

信仰者には天の御国を開ける鍵、サタンには底知れぬ穴の鍵。
どっちを貰いたいか、ということですね。
ようく聖書を見ますと、鍵は二つあるんだなあ、ということが分かりますね。天の御国を開く鍵というのは、信仰のことですからね。地獄の門を開く鍵というのは、罪でありますからね。
そこにハデスの門と書いてありますね。ここではサタンは暫くの間、ハデスの門を開いたわけですね。そして襲いかかってくるわけです。
しかし、それには打ち勝てません。ハデスの門も勝てない。これが信仰なんだ、と、仰っているんですね。怖がる必要はない。
ただ、キリストを信じない者には、ますますはっきりとサタンに支配されるようになってきます。

3.2節で、その穴から出てくるものがあります。その穴の中から何が出てきたのか。

9:2  穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
9:3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。

この言葉通りに見ますと、煙の中からいなごが出てきたようにみえますが、おそらくこれは、いなごの大群が煙のように見えたんでしょうね。
そのいなごの大群が空を埋め尽くして太陽も空も暗くしてしまったと思われます。

実は、この幻はヨエルの預言を反映しているわけなんです。旧約聖書にヨエル書というのがあるんですがそこを読んでみましょうかね。小預言書ですがね。

ヨエ1:4 かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。

① つまり、残らないようにみんな食べちゃったっていうんですね。ヨエルの時代にいなごによる大飢饉が起きた、ということは事実なんですね。
この間テレビをみていたら、教会学校の生徒が、『先生、聖書に書いてある通りのことを、テレビでやってた』といってね、びっくりしていましたが、現代でもいなごによる被害があって、いなごが飛ぶと地中海を超えて飛んでいる、っていうんですね。あんな小さいものって思っちゃいけないんですね。
子供のころ、私も食べる物がなくなっていなごを獲りました。タンパク質があるからって、獲りに行ったことを覚えているんですがね。まさかこんなにいなごがすごいとは思いませんでしたけどね。

② 実はこのいなごはですね、ただのいなごのことをいっているんじゃなくて、ヨエル1章6節、7節、を読んでみましょうか。実際にいなごの被害もあったわけですが、いなごとは何を言っているのか。それに因(ちな)んで言っていることがある。

ヨエ1:6 一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。
1:7 それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。

まさに、このいなごっていうのは木につかまるとね、その木の皮をみんなひん剥いちゃうんですね。それで枯れてしまう。ここでいっているのは、いなごじゃなくて一つの国民、すなわちイスラエルを滅ぼそうとしてきた国民、アッシリヤとかバビロンを表わすわけですね。アッシリヤとかバビロンは彼らを食い尽くすようにやってきた。

③ さらにヨエル書を読んでみますと、このいなごの出来事はかつてのアッシリヤとかバビロンの攻撃だけではなくて、ヨエル書の2章に入りますと、これが「主の日」、「主のさばきの日」の預言に移っていることが分かるんです。
ヨエル書の2章1節~11節を読んでみましょうか。実はここを読まないと、黙示録の9章はわからないんです。

ヨエ2:1 シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。
2:2 やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。
2:3 彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。
2:4 その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。
2:5 さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。
2:6 その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。
2:7 それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。
2:8 互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。
2:9 それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓から入り込む。
2:10 その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
2:11 【主】は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い。【主】の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。

ま、ずうっと続くんですが、イエス様の裁きの日のことの預言、「主の日」ですね。ヨエル書に出てくる大事な言葉は何かと言うと、「主の日」であるわけですね。
さらに、ずうっと終わりの方をみますとね、2章28節当たりから31節をみますと、最後の主の裁きの前には、聖霊が注がれること、「わたしの霊をすべての人に注ごう」と28節にあるんですが、これはペンテコステの日の聖霊降臨の時に始まっているわけですね。
ここでは、いなごはサタンの下で働いているわけなんですけれども、それは神様が許されたことにあるわけですね。そしてサタンに穴を開く鍵を渡されているところから始まっている。このいなごが何を表すかにしても、しばしばいなごは神の裁きのために使われている。エジプトの十の災いの第8番目の裁きとしても、いなごが現れているんです。
出エジプト記の10章12~20節で、

出10:12 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」
10:13 モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。【主】は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。
10:14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。
10:15 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。
10:16 パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。「私は、おまえたちの神、【主】とおまえたちに対して罪を犯した。
10:17 どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、【主】に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」
10:18 彼はパロのところから出て、【主】に祈った。
10:19 すると、【主】はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。
10:20 しかし【主】がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。

いなごの大災害、昔も今日も行われているようでありますが、人を悩ますために使われている。

④ しかし、ヨハネの黙示録のいなごは少し異なった性質を見せているんです。
それは何かといいますと、黙示録の9章の方に戻りますが、彼らには人を苦しめる力は与えられているんですが、人を殺すことは禁じられていることがわかるんです。これは一つの特徴ですね。ですから、このいなごはやはり神の支配のもとにある、ということですね。
ヨハネはこのいなごの形について、非常に詳しく記しているんです。

Ⓐ 7節を見ますと、「出陣の用意の整った馬に似ていた。」と書いてありますね。
先ほどのヨエル書にも出てきた。この馬というのは封印の幻の時でも出てきましたね。白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬、と四頭の馬が出てきました。6章1節~8節に書いてありましたね。こういう軍馬を表す。戦いをあらわすところの印を持っています。

Ⓑ それから「頭に金の冠のようなものを着け」
これは高慢を表しているんですね。高慢が抜けきらないサタンの性質なんです。そして人間というのは愚かですから、金の冠をかぶっている者に集まりやすい。人を惑わす。高慢をもって人を惑わす。自分の側に人々を引きつけようとする。そういうものが金の冠にみられる。

Ⓒ それから「顔は人間の顔のようであった」
これは何でしょうかね。これはサタンが人の人格に接触し、そして人の人格に働きかける要素を持っていることを表していますね。人の心に触れることができる。そういう意味をここで表しているんですね。

Ⓓ 8節には「女の髪のような毛があり」
これは一体何でしょうかね。おそらくこれはですね、女の髪の毛というのは美しさを表す、みどりの黒髪とかね。サタンは自分の悪をカモフラージュするために、その優美さで隠しているわけですね。どんな勇士も女性の美しさの前では力がない、ということをサタンは見抜いているんです。
例えばサムソン。あの力持ちがデリラにコロリとやられちゃったわけですよ。ダビデだって女性の美しさのゆえに心惹かれて罪を犯した。だからサタンはよく知っている。いかなる勇士も女性の美しさの前に力を失う。これを知っているんですね。恐ろしい悪賢さというのを感じますね。
ですから、パウロも第二コリント11章の14節で、サタンさえ光の御使いに変装する、と書いているんです。サタンが黒いマントを着て槍を持って来れば誰でも警戒します。家の中、心の中に入れませんけれども、美しい婦人だったら、コロリと参ってしまいますね。参るかどうか知りませんけれども、どんな強い人でもおそらく参るでしょう。そういうふうにしてやってくるんです。

Ⓔ その「歯は、獅子の歯のようであった」
なんか赤ずきんちゃんの話に似てきた感じがする。彼はその優美さの中に牙を隠している。

Ⓕ 9節で「また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、」
これは人間の正義でいくらサタンに抵抗しても、サタンを倒そうと思ってもこれは困難である、ということです。サムソンのような人のところに行って、小さな子供がドンドン胸を叩いても倒せないのと同じようなものです。サタンは強い。人間の力でどんなに彼に抵抗しても、倒そうと思っても困難である、ということですね。

Ⓖ また、「その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。」
つまり、サタンの行動がいかにすばやいか、ということですね。すばやく彼は行動するということですね。サタンの働きはいかに速いか。
私もね、あっちこっちのお店を批判する気はありませんけれどもね、模様替えの速いこと、速いこと。クリスマスからお正月、バレインタインデーが来て、その後はひな祭りが来て、その次は端午の節句で、あっという間に、なんと速いことだと思うんですよ。変身の速さ。サタンはもっと素早い。

Ⓗ さらに、このいなごには10節を見ますと、「さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。」
これは先の方にも出てまいりましたが、5節で、「五か月の間、苦しめる」とあります。ヨハネはここでまさに彼が見た、生きた悪魔の幻を描いている。悪魔ってこういう形をしている、と思わないでいただきたいんですよ。いろんな挿絵なんかみますとね、サソリのような尾っぽと針がある。サタンはこういう絵が描かれているんですけれども、これはヨハネがみた幻であって、サタンは人格を持っている者ですからね、悪を意味するためにこう言っているわけです。

Ⅱ.さて、このいなごは、「イナゴ」ってあらわされているものですが、人間にどのような害を与えるのか?

A.4節では「地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えない」とあります。

これは第五のラッパの災いが、これまでの災いと全く異なる質のものであることを、示しています。すなわち今回の災いは、物質的、肉体的な苦しみではなく、精神的、人格的、霊的苦しみであることを強調しているのです。飢え死にするとかそういう肉体的な苦痛ではないようですね。

B.ここで、いなごは条件付きで人間を苦しめるように命じられている。

① 4節の終わりで、「額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡され」ています。
額に押される印、というのは7章2~3節でも出てきますので、今日は説明するのを控えたいと思いますが、神様はここでですね、既に神の子供になっている人と、なっていない人を明確に区別して扱っている、ということがわかります。区別しているんですね。
エジプトの十の災いの時も、最初のころはエジプト人とイスラエル人と同じように災いのもとにあったわけですね。しかし終わりの方になりますと、はっきりと区別されているんです。
神の民とエジプト人と区別されている。いくつか見てみましょうかね。
出エジプト記8章22、23節、

出8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは【主】であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。
8:23 わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」

このように区別している。
そのほかにもあるんですが9章4節、10章23節にもありますね。

出9:4 しかし【主】は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」

出 10:23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。

最後の過ぎ越しの時は明らかに区別されていますね。戸口に小羊の血を塗ったその家の中の者は守られるけれども、塗らなかった者は滅びる。明らかに区別されておる。
つまりこれは、神の印を持っている者と、持っていない者をちゃんと区別している、ということなんです。

この間もある方から電話がかかってきて、訳のわからないことを言って、『聖書は救われる者と救われない者と区別していないじゃないか』と。
「区別していなかったら、なんでこんなことが聖書に書いてあるの。ヨハネの黙示録を見ればこう書いてある。恐るべきことが書いてあるのに、なんでそんなことを言うのか。あなたは聖書をよく読んでいないんじゃないですか」って言ったら『読んでる』って言うんです。読んだうちに入らないじゃないか。
明らかに、神の印をもっている者と、印をもっていない者は、はっきりと区別がつけられている。

② さらに5節を見ますと、「殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。」と書いてありますね。
与えられた苦痛は、さそりが人を刺すような苦痛だと書いてありますけれども、ここでは神の民でない者に与えられる苦痛ですね。
神の聖徒であったヨブも似たような苦痛を受けているわけです。ヨブに対しても神様は、サタンが殺すことを禁じていますね。ただ体を病気にするとか、息子、娘をとってしまうとか、友人たちの非難ですとか、こういう苦しみにあったわけですが、それは非常に厳しいものでした。けれどもヨブは聖徒であったわけですねえ。彼はその苦難を通して、より輝く神様を知るように訓練されたわけですけれども。

しかしここではですね、神様は神の印を持たない者にもヨブと同じ苦しみを与えた。いったいなぜだろうか。
この苦しみは5か月と限られているんですね。これはおそらく9章20節を見ますと、「悔い改め」というのが目的だったようですね。「その手の業を悔い改めないで・・」と書いてありますから、神様はこの苦しみをとおして、罪の悔い改めに導こうとしているようです。けれども彼は、悔い改めなかったですけれどもね。神様は悔い改めのチャンスをお与えなさった。5か月の間ですね。これは憐みがあると考えなきゃいけない。

③ 6節は、いなごが与える苦痛について語っているんですが、これは、人が自ら死を求める苦痛である。しかし、死ぬことができない。苦痛というのは、必ずしも痛みだけのことではありませんよ。現代を見るなら、虚しさの故に自殺したいと思う人も少なくないわけですね。物質的に繁栄した社会に生きる者は、虚しさは死よりも苦痛なんですね。これからは、虚しさの苦痛が急速に増えるのではないかと思います。

Ⅲ.最後にヨハネは、いなごたちの首領である王の正体を暴露した。

それが最後の11節。その名前は、ヘブル語でアバドン、ギリシヤ語でアポリュオンと言っていますね。
「アバドン」というのは「破壊」という意味があるんですね。アバドンというのは「シェオル」とか「ハデス」と同じ意味なんです。「アバドン」、彼の名は、といって擬人化しているわけです。
「アポリュオン」は「破壊者」という意味で、この名前はサタンの特質を言い表していると思いますね。

つまりサタンは、キリストを信じない、神の子供となることを拒む者には、精神的に激しい苦痛を与えて、人格を破壊していくアバドン、アポリュオンである。
肉体的に生きつつも、人格を破壊し、霊的に永遠に死せる者とするのです。なんと恐ろしいことであろう。
そして私達は身近にアバドン、アポリュオンの働きを見ているわけですね。
つまり罪をそのままにしていた結果だということです。そのために、妬み、虚しさ、不安、恐れ、憎しみ、実はこれらがさそりのような力を持っていることなんですね。サタンはこういう妬み、高慢、不安をさそりの針のように用いて、人間の心を激しく苦しめて人格を破壊していくのである。

これから回復させる道は一つしかないんです。これは神の武具を持つということです。これしかない。
キリストを信じて、心に神の印を頂くものとなること。
もしこの道に到達できるなら、これまで苦しんできたことも決して無駄ではないわけですね。悔い改めに至らないならば、その人は永遠に滅びる者となる。聖書はこのことをはっきりと教えてくれている。

ですからこの第五番目の御使いのラッパは、現代人にとって非常に重大な警告を意味する災いである。ヨハネはそれで詳しく書かれたのだと思いますが、現代の私達は、実は警告の通りになっているんですね。ですからよく聖書を知って、私達は安易な生活じゃなくて、神の御心に従った生活を送らせていただかなければ、大変な事になっていくなあと思いますね。

お祈り

恵みの深い天の神様、額に神の印を押されていない者に害を加えるようにと、神はサタンに許可を与えていますが、しかしそれも神の深い憐みでありました。
このことを通して、罪を知り、罪を悔い改めることを神は期待しておられました。しかし残念なことに人々は、なおそれを通しても、神様、あなたを知ろうとしない。
それならば永遠の滅亡が待っております。
どうかこれらのみ言葉を通して、現代はまさにあなたの黙示の幻のごとき時代を迎えていることを、悟らせていただきました。今が本当に世の終わりであることを悟らされました。どうか私達がこの地上にあって、さらにあなたの印を押されている期間に、人々がこのことに立ち返ることができるように祈り、労することができるように顧みてください。
また自ら、神の印をいただいて、しっかりと信仰を全うさせてください。
この時を感謝してイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明