音声と文書:ヨハネの黙示録(26) 第六のラッパ 9:12~21

 

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PDF文書:ヨハネの黙示録(26)

ヨハネの黙示録 9:12~21
9:12 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。
9:13 第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。
9:16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
9:17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。
9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
9:21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。【新改訳改訂第3版】


上の写真は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532頃に描かれた「The Fifth and Sixth Trumpets(第五のラッパと第六のラッパ)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)

はじめに

1.「第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。」

ヨハネはこの12節で「第一のわざわいは過ぎ去った」と言っていますが、本当に過ぎ去ったのではなくて、幻が過ぎ去った、ということなんですね。
ご存知の通り、実際は第一から第五の災いは今でも起きているんですね。特に第五の災いに見られたように、人格的破壊は今も今後もますます人類の破滅の方向に向かって、まっしぐらに進んでいくように見えております。

2.ヨハネは、「この後なお二つのわざわいが来る」ことを予告している。

これらの災いは、最終的な審判に向かってその鮮烈さを現わしてくるんですね。お気づきになると思いますけれども、ずーっと学んできますと、最初のころに比べると、ずいぶん深刻な問題が出てきているということがお分かりいただける。そうしてだんだんと人間は耐えられなくなってくる。

Ⅰ.第13節、第六の御使いがラッパを吹き鳴らすと、ヨハネは「神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。」

1.この「声」というのは明らかに神の御声なんです。

この御声によって、ヨハネは、これからの災いのすべてを神様がご支配していることを悟ったんです。声の主が災いを支配していることを、ヨハネは知ったんですね。
人間は残念なことにですね、自分が災いに会う時に神様を知らないと、それは自然に起きた事だとか、もう少し気を付ければよかったとか、その程度にしか受け止めない。その背後にある大事な神の警告を聞こうとしない。
だから私達はそこから、大きな敗北へと進んでしまう。種々な災いにあって、それが神様から出ているんだ、神の警告なんだ、ということが分かれば、そこから引き返すはずなんですね。
バラムという預言者がいましてね、神様から警告を受けたわけですけれども、神であると知りながらどんどん先に行ってしまって、最後に彼も滅びてしまう。

2.さて、神様の御声が御座からではなくて、「金の祭壇の四隅から出」た、と書いてあります。

これまでも御声はあったんですがそれは御座から出ていたんですね。ところがこの場所を見ますと、御座ではなくて、祭壇の四隅から出ている。もちろん御声は御座に座っておられる方から出てきるわけですけれども、ヨハネには祭壇の四隅から聞こえてきたように思えたんですね。

なぜヨハネはそのように思ったのか。
これはやはりヨハネという人が、ユダヤ人であるということなんでしょうね。ユダヤ人ならなぜそう聞こえるのかというのが問題なんですけれども、ヨハネは旧約の「金の祭壇」の意味をよく知っていたからなんですね。この祭壇の四隅には角があるんですね。それは救いを意味することもありますけれども、神の力を表しているんです。
ですから彼の耳には、力強い神の御声が聞こえてきた、という意味なんですね。祭壇の四隅から御声が聞こえてきた、という言い方をしていますが、ヨハネには神の力強い御声が聞こえた印象なんですね。ヨハネはそういう表現で表した。さすがにヨハネという人はユダヤ人で、よく知っている方だなあ、ということが分かりますね。実はその力強さを表している。
こういうふうにしてみ言葉がだんだん分かってきますと、私達の耳にも力強い神の御声が聞こえてくるような気がするわけです。場所のことを言っているんじゃなくて、実はその御声の力強さを表している。

Ⅱ.さて、その御声はなんと言ったか。14節の鍵かっこの中に書いてある。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」

1.実はこの御使いは、7章の1~2節に記されている四人の御使いと同じでありますね。

ちょっと7章の方に帰ってみますか。

黙7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

ある学者はですね、『ここでは地の四隅にたっており、黙示録9章ではユーフラテスに立っているではないか、だから違うのではないか』という人がありますけれどもね、それに、『封印とラッパが違うのではないかと、だから別の御使いではないか』という人が中にはいるわけですけれども、幻は別であっても、この御使いたちの災いの内容を見ますとね、同じです。
ですから同じ御使いであると考えるのが正しい。そういうふうに思われるわけです。この四人の御使いは、聖徒たちに神様の印が押されるまでは災いをとどめられていたわけですね。ところがこの14節で、「解き放せ」と命令を受けている。ここでやっと待ちに待った出番が来た。

2.15節には、「定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが」と書いてありますから、要するに時が満ちた、ということですね。

それでこの四人の御使いは、人類の三分の一を殺すために解き放たれている。ここにも「人類の三分の一」と出てきましたが、これもいつもと同じような扱い方ですが、これは最終的な審判ではない、ということですね。悔い改めるチャンスを与えるための、警告的なものであるということが分かります。しかしだんだんとですね、草が枯れる、木が枯れるようなたぐいの審判じゃなくて、食べ物がなくなるというような審判じゃなくて、もっと深刻なものに変っている。

3.ここで一つ気になる言葉は何かというと「大川ユーフラテス」という言葉ですね。

これは黙示録の16章12節にも出てくるので、ちょっとそっちの方を見てみたいと思います。実はこちらを読むほうがもう少し意味が分かると思います。

黙16:12 第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。

と書いてあるんですね。
この言葉はですね、大ユーフラテス川が、この川を越えてくる王たちを防いでいる。ところがそこに鉢をぶちまけると、その水が枯れて、大ユーフラテス川を超えて、こちら側にやって来ると、こういうことなんですね。
ということは、この大ユーフラテス川はある境界線を意味しているということです。このユーフラテス川が実際のユーフラテス川なのか、あるいは象徴的に使われているのかは分かりませんが、少なくてもヨハネの黙示録の中では、幻の中では、実際のユーフラテス川をさしていたんでしょうね。

このことについては、私達は当時の人々の思いを知っておく必要がある。
実際のユーフラテス川か、象徴的なのかは別として、なぜヨハネがここで大ユーフラテス川を用いたかというと、当時のローマ帝国の東の境界線はユーフラテス川であったわけです。そのユーフラテス川の向こうにはパルテヤ人が住んでいたわけです。
当時のローマ皇帝は、非常に権力はありましたけれども、ユーフラテスの向こうにいるパルテヤ人が、ユーフラテス川を越えて侵略してくることを非常に恐れていたわけです。
当時の人としては、1世紀の終わりから2世紀の始め、「大ユーフラテス川」、というのが何を意味していたか分かっていたわけですね。そこを超えるか超えないかはですね、まあ、38度線みたいなものですね。そういう意味なんです。当時の人はこれを読めば、ユーフラテス川が何を意味しているかが分かっていたわけですね。

ヨハネもおそらく、当時のローマ帝国はキリスト者たちを迫害していたわけですから、その結果、ヨハネもパトモス島に島流しにあっていたわけですが、このパルテヤ人が侵略してきてローマ帝国を崩壊する怖れと、あるいは、ローマ帝国が崩壊し、神の王国建設への舞台づくりができるんじゃないかという期待も彼にはあったのではないかと思われるわけですね。

ですから、先ほど16章でも読みましたが、ユーフラテスを超えてくる大群、16章に入ったらその時また詳しくお話しますが、これは神の民に反抗する悪霊による、ということが16章で書かれているんですね。
9章ではこの大群は大変恐ろしいものでありますけれども、神のみ許しによって来ている、ということが分かります。しかし、当時のローマの人達がどんなにパルテヤ人の侵略を恐れていたかが分かります。
ですから、当時のそういう背景のもとに、「大川ユーフラテス」が語られているわけですね。これが実際のユーフラテスなのか、象徴的な意味なのかはまだ分からないんです。
このことは少なくても四人の御使いによって留められていた軍隊が、これがパルテヤ人かどうかは別として、解放されることをさしている。

4.9章16節にかえりますが「騎兵の軍勢の数は二億であった。」

実際は「二億」とはなっていなくて、「一万の二万倍」、となっているんです。
聖書というのは7を70倍とか、イエス様はそういう言い方をなさるんですけれども、一万の二万倍を計算すると二億になってしまうんですけれども、これは二億という数よりも、おびただしい数、ということを表しているようですね。
私はこう思うんですけれどもね、現在、人類の三分の一を殺すのに、核兵器を使えば、二億の軍隊を使う必要はないと思うんですよね。ですからおそらくこれは、その勢力の巨大さを示しているんじゃないだろうか。その二億という数は。そういうふうに思えるわけなんです。

Ⅲ.

A.次にヨハネは、幻の中で見た馬と、その騎士の様子を鮮明に書いている。

これを見ますと、本当に恐ろしい。

1.まず彼が書いているのは、「騎兵」
馬に乗る者ですが、胸当てをつけているんです。その色が奇妙ですね。3種類の色をしている。
一つは「火のような赤」。この、「火のような」、というのはギリシャ語で言うと、ピュリノス。「赤」はピュロスです。どちらも炎の色を表しています。ちょっと前に帰りますと、6章4節でも同じ言葉が出てまいります。「火のように赤い馬」が出てきた。これは第二の封印のところですね。ですからこの胸当ての色は、火の炎を表しているということですね。

2.それから第二番目の「くすぶった青」
これはどんな色なんでしょうかね。
くすぶった青というのは、硫黄の炎の青い煙の色をさしていると言われていますね。
セイヤーという人がいるんですがね、ギルシャ語辞典レキシコンというのを書いた人ですがね、この人はね、この色は『黒に近い赤い色だ』というふうで、これを意味しているんだ、と言っています。
ですからこの色は、硫黄が燻りながら燃えているところの色であるということのようですね。絵具でこの色を出してみろといわれてもなかなか難しいですね。

3.それからもっとはっきりしているのは「燃える硫黄の色」であると書いてあります。
この三つは第六のラッパの災いであったわけですね。18節にこれらの「三つの災害」と書いてあります。つまりこれは「火」と「煙」と「硫黄」の三つの災害である。そしてこれは実に地獄の火を意味しているんですね。
黙示録20章の10節を見てみましょう。だんだんと災いがね、深刻なものになっているというのがお分かりいただけると思うんですよ。

黙20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

こう書いてありますね。続いて14節も読んでみましょう。

黙 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

こう書いてありますね。10節では「火と硫黄」、14節では「火の池」とありますね。
次の21章8節では、どういう人が火の池に投げ込まれるのかが書いてありますね。

黙21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

地獄のことを言っている、というのが分かりますね。福音書の中でも似たようなところが出てくるので見てみましょうかね。これはラザロと金持ちのところの話ですが、

ルカ16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

この「炎の中で、苦しくてたまりません」。これらはみな地獄の炎を意味しているんですね。この幻は、この大群は人類を地獄に投げ込むために遣わされている、ということが分かるんです。だから、これは非常に怖い。

B.

1.次に馬について描かれていますが、これを読むとただの馬じゃない。本当に気持ちが悪くなる。「馬の頭は、獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。」
まず、馬の頭は馬かと思うと、ライオン、獅子のようである。そして彼には、人を殺す力がある。口からは火と煙と硫黄が出ていて、それらが人を殺していくわけです。

2.口も恐ろしいんですが、19節を見ますと、「馬の力はその口とその尾とにあって」と書いてある。馬ですからね、尾は毛がふさふさしていて垂れているのかと思うとそうじゃなくて、蛇のようであったと書いてありますから、尾は毛じゃなくて、太い蛇なんです。そしてそのしっぽの先にまた頭があると書いてあるんです。気持ち悪いですねえ。
それでその頭で、人に害を与える。要するにこの馬には、頭が二つある。ですから、この馬は前後自由に動けるということですね。振り向かないで動けるということです。
両方の頭で人に害を与える。
ですから、先ほどの数を数えてみますと、彼らは二億頭いたわけですから、頭と尾っぽの方で、その力は四億の力をもっていることになる。

ああ。恐ろしいですね。この恐るべき力が人類の上に襲い掛かってくる。
今はいろいろと核兵器を少なくしようとか、言っていますがね、そんなことをしたからって、人間に神の裁きが下らない、ということはない。必ず人間は恐るべき刑罰にかからなくてはならなくなる。
これだけは間違いがないことだ、ということを私達は心に留めておく必要がある。しっかりと留めておかなければなりません。人間の努力によってこれを変えることはできない。キリストによってだけ、それを変えることができる。

Ⅳ.さて、このような恐るべき災いも、20節を見ますと、未だ神様の印を持っていない人々には、悔い改めの機会を与える目的で行われていた、ということが分かります。

このような災いを目の前にみるならば、人々は自分の罪を悔い改めるかもしれない。ところが残念なことに聖書は、これらの災害によって滅びずに残された人々は、「その手のわざを悔い改めな.かった」と書いてありますね。

ここでは人類が三つに分けられてしまっていますね。
一つの種類の人、これは神の印を持っている人ですね。これはこの災いにあっていない。
それから第二番目のグループの人は、この災いの時に殺されてしまった人で、人類の三分の一と言われています。この人は永遠に滅亡ですね。
三番目の、それから残されている者。これは悔い改めのチャンスを与えられていたわけですけれども、彼らは悔い改めなかった人達。

最近のリクルート事件とかを聞いていますと、辞めた人でも、『私が罪を犯しました』、なんていう人は一人もいませんね。なんだとか、かんだとか言っていますけれども、あれ、ぜんぶ悔い改めていませんね。辞めただけの話でね。聖書の言う通り、悔い改めないんだなあ、と思います。

A.

1.悔い改めないだけではなくて、彼らはもっと恐ろしい。
悪霊どもに従う。
つまり、彼らの人格は悪に染まったままだということですねえ。人間は、人格が悪に染まるとなかなかそこから抜けられない。たくあんから塩気を抜くより難しいです。
彼らは神様に立ち返るまで悪しき行為は止まらない、ということですねえ。

2.それからさらに、自分達の手で造った物を拝むようになる。偶像礼拝を続ける。
 「金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け」と書いてありますね。
何も、金、銀で造られた像だけではなく、金で造られたお金とかね、銀で造られたお金とかも偶像なんでしょうがね。
しかし私達は、最後の警告の中にでてくる中心的罪が、この偶像礼拝であることに注目したいんですね。
イスラエルは偶像礼拝によって、国を失いましたね。そして多くの滅びる者を出したし、捕囚の裁きにもあい、そして、彼らは今なお、さまよう民族なんです。
そして、人類最後の裁きにも、偶像礼拝が深く関わっているということなんです。人類は十戒で偶像礼拝を禁じられて以来、ずうっと偶像礼拝してきたということですね。人類の歴史は、偶像礼拝の歴史だと言ってもよろしいかもしれません。

B.さて、私達がもう一つ注目したいことは何かというと、人類の悪はすべて偶像礼拝から発しているということですね。

21節、「その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」
これは偶像礼拝が悪の温床である、ということなんです。偶像礼拝を行なっているところは必ず、悪の行いがある。

最初に、「殺人」
実際の殺人もありますね。最近だんだんとあくどくなっている。憎しみとか怒りとかですねえ。関係のない人にも憎しみを抱くようになるんですねえ。いくら取り締まってもダメだということです。戦争は偶像礼拝からはじまっていますね。
最近のニュースでは、小説を書いた人を殺せとかね、これも偶像礼拝から始まっている。
個人的な犯罪も戦争犯罪も、みんな、真の神が正しく教えられなかったことに端を発しているということです。
ですから宗教がいかに恐ろしいことであるか、ということが分かりますね。日本人は宗教を正しく理解していません。これからは特にクリスチャン、教会はですね、宗教というのは命に関わる、永遠の命に関わる、生活全般に関わる非常に重要なものであるとね、これを失ったならば、家を持とうと、富を持とうと、地位を持とうと、全部失うということですね。

それから、「魔術」
最近オカルト的なものに興味を持つ者が多いですね。子供たちの間でもコックリさんがはやったり、いろいろなことが行われている。現代はコンピューターの時代だといわれているのに、魔術的なオカルトブームというのが冷めないんです。これはどうしてか。結局これは人々の間の中に偶像礼拝の心があるからですね。これがある限りそういうものに興味を持つんです。これは気を付けなくてはいけませんね。
はっきりと神というものが分かっていない。人間が分かっていなければ、オカルト的なものがはやる。これは世界的な恐ろしいブームになっている。

それから「不品行」
性的な罪というのがだんだんと広がっている。これも偶像礼拝の心を持つ者は、性的な罪をゲーム化しようとしている。それを現代の自由な遊びにしてしまおうとする。神様を正しく教えられなかった社会はいつでも、性というものを優雅な遊びに考えるようになる。これも恐ろしいですね。

そして最後の「盗み」
盗みって何かというと、これは制御できない貪欲なんですね。これが「盗み」なんです。つまり偶像礼拝は自分の欲をコントロールできない。

ですから20、21節で、偶像礼拝と社会的な犯罪とはつながっている、ということなんですね。いくら取り締まっても、いくら教育をしても、信仰がキチンとしていなければ、これらのことは少しもよくなっていかない。
偶像社会では、善と悪が正しく理解されていない。理解というよりも、偶像社会にいる人の意識にないということですね。正と邪がはっきりと意識されていないわけですね。特に日本人にはそういうところがある。ですから甚だ物質的です。盗んだものが見つかれば返せばいい。それで済むと思っていますね。

たとえば、罪を犯しても、刑期を終えれば罪の責めから解放されると考えるんです。偶像社会では、罪を金銭や時間で解決できると考える。これは恐ろしい。
罪というのを人格的な神との関係には理解されていないわけなんです。
殺人にしろ、姦淫にしろ、盗みにしろ、それは人格的な罪であり、霊的な罪であり、神様に対する罪だということが理解されていない。全部それはお金で解決できるということなんですね。偶像社会ではこれが必ず起きる。偶像礼拝は非常に唯物的で、物質中心である。
マルクス主義というのは、結局は偶像礼拝だということですね。日本は共産主義でないといっていますけれどもね、ソ連の共産主義者よりももっとマルクス的かもわからない。これは悪魔のやる事ですね。悪魔がね、マタイの福音書の4章で、イエス様を誘惑した時も物質的でありましたね。

第一に、「パンにしてみろ」。これ、食べ物ですね。イエス様は神のみ言葉、霊的なものが必要だと仰いました。
第二に、高いところから飛び降りて、肉体的に守られるならあなたは救い主になれるんじゃないか、と誘惑をしました。これも物質的。
第三に、私を礼拝したら、この世の富を与える。物質的ですね。

だから、悪魔のいうことははっきりしている。霊的なものを捨てて、物質的なものを求めなさい、ということなんです。これが全部偶像礼拝の中に行われている。これは偶像礼拝の中心です。神の言葉よりも、神を礼拝することよりも、パンを求めよ、健康を求めよ、この世の地位、名誉、栄華を求めよ。
これが偶像礼拝者の姿である。悪魔のささやきである。

人類はこの手によって、悪魔にひどく騙され続けてきたんですね。今も騙されて、地獄への道を歩んでいる人が大勢います。聖書は、人の心から偶像礼拝がなくなり神に立ち帰らない限り、こういう物質中心の生き方は終らないし、罪を悔い改めない。
そして殺人は起こり続け、オカルトブームは続き、不品行な性的不道徳は続き、盗みは続くというんです。

私達はこのことを十分に悟って、神の道を歩んでいかないといけないと思いますね。よく言われますけれども、苦しみに会ったら神様を信じるんじゃないか、という人もありますけれども、聖書を見ると、ま、そういう方もいらっしゃるでしょうけど、苦しみに会ってますます神を呪って、悪霊どもに従って、偶像礼拝を行なって、罪を犯し続ける人もあるわけです。
ですから問題は、苦しみに会うかどうかではないと思うんですね。その人が神を見出す真実な心を持ち合わせないといけないでしょうね。そうでないと、残された者もみな滅びに行ってしまうことになる。非常に恐ろしい第六の御使いのラッパ、これは地獄がチラチラと見え始めてきたということですね。
私達が住んでいる今の時代は決して容易ではない。地獄への一丁目当たりに来ているかもわからないです。こういう時代に生きていることをよく悟って、この地上における物質的なことだけに終始しないようにさせて頂きたいと思います。

お祈り

恵みの深い天の神様、今日もみ言葉を通し、地獄が近づいている時代、神の審判はますます深刻になっております。
しかし、人間は目が覚めません。あくまでも貪欲であり、偶像礼拝をし続けており、そういう社会に悪は満ちております。しかしそのことに人々は全く気付かず、苦しみに会っても神を呼び求める者もいません。こういう時代がやって来ております。まさに世の終末であることを覚えました。
主よ、どうか願わくはこの時代に悔い改める者を起こして、主に立ち返る者を起こしてくださるように、心からお願いをいたします。
今日のこの時を感謝して、さらに私達があなたのみ言葉を深く悟る、力と恵みを与えてくださるよう心からお願いし、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明