音声と文書:ヨハネの黙示録(32) 天から投げ落とされた竜 12:7~12

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PDF文書:ヨハネの黙示録(32)

ヨハネの黙示録 12:7~12
12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
12:8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
12:12 それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」【新改訳改訂第3版】

上の写真は、Douce Apocalypse(Douceによる絵解き黙示録の写本)の挿絵「War in heaven(天の戦い)」1265-70年頃のもの。(イギリス、作者不明、Wikimedia Commonsより)


はじめに

いよいよ半ばを過ぎようとしているわけですね。
私もこうしてヨハネの黙示録を何回か学んでいるわけですが、まあ、読むだけじゃ分からないと言っていいと思います。もちろん読んでちんぷんかんぷんのところが出てきます。ですから、教会にはこうして聖書をじっくり学ぶ時というのが必要だと思います。

Ⅰ.天から投げ落とされた竜のことがここに書かれているわけです。

この幻は七つの連続した幻の二番目の幻に当たるわけですね。

1.1節と3節でもヨハネは幻を見ているわけです。天に一人の女と大きな赤い竜の幻を見た。

この「天」は空であったことは前に学びました。しかし7節で戦いが起こった「天」「神の御座のある天」のことである。この第二の幻を通してヨハネは何を話したいのかと言えば、この幻によってサタンと教会との戦いが、天界、天の世界における次元に及んでいることを示そうとしている。

この地上で戦いがある。困難がある。先ほどお話したように霊的戦いがある。心の中に私たちは戦いを覚える、苦しみを覚える、いろいろな悲哀を覚える、忍耐しなければならない、こういう生活をしているわけなんですね。それは地上でありますけれども、同じことが天の次元にまで通じているということです。

かつて、出エジプト記の17章を見ますと、ヨシュアがアマレク人と戦っていて、地上で見るとイスラエル民族とアマレクの戦いに見えるんですが、モーセが祈っているわけですね。といいますと、これは天の戦いでもあったわけです。

聖書を見ますといろんなところで、地上における戦いが天に通じているということが分かるでしょ。例えばパウロが、元の名前がサウロですが、サウロが迫害していた時にですね、イエス様がサウロに現れて「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とおっしゃったとき、サウロは地上の戦いにしか目が開かれていなかったんですが、イエス様は天で「痛い」と言っておられたわけですね。天に通じている。地上におけるサタンと教会の戦いは天界における次元にまで及んでいる、ということを示そうとしている。

ですから私たちもこの地上において、苦しいこととか、いやなこととか、があるかもしれないけれども、それは地上だけ、私たちだけ苦しいのではなくて、イエス様、神様もお苦しみになっている、ということです。
神の戦いである。これを表しているということですね。

2.さて4節において、サタンである竜は女が産んだ男の子を、キリストをですね、滅ぼそうとしましたが、失敗しているわけなんです。

失敗しただけでなくて、7節でミカエル、天使の長ですがね、ミカエルとその使いたちによって地上に投げ落とされてしまったんですね。
ミカエルというのはユダ書の9節、ちょっとそこ読んでみましょうか、聖書はなるべく開いた方がいいと思います。ユダ書は1章しかありませんので、ユダ書の9節をご一緒に読んでみましょう。

ユダ1:9 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。

これはモーセが死んだときのことを言っているんですね。申命記の最後のところを見ると、モーセの死のことが書いてありますが、モーセが死んだときどうもこのミカエルとサタンとがですね、取り合いっこをしたようです。取り合いっこをしたというのはおかしいんですが、おそらく悪魔はモーセの体を使って、モーセは偉大な人物でしたからこれを偶像にしようとしたんでしょうね。モーセの時代に挙げた銅の蛇がありますが、あれはあとで偶像に使っているんですね。モーセの体をミイラにしておけば、みんな礼拝に来るだろうと思ったんですね。それでミカエルと争ったんでしょうね。だから、神様はモーセの体を隠してしまった。モーセの体がツタンカーメンみたいに金の箱に入っていてごらんなさい、イスラエル民族はみんな礼拝に行ってしまうでしょう。
だからね、悪魔はそういうふうに考えたわけであります。ここではミカエルは戦う使いとしてここに書いてあるわけですね。

またダニエル書の10章13節を見てみましょうかね。ダニエル書には2回出てきます。

ダニ10:13 ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき

ここに「助ける」とありますね。「助ける」者としてのミカエルが書いてあるわけです。
また守るためのミカエルが出てきます。ミカエルは天使の長ですね。

ダニ12:1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。

なんと、苦しい艱難の時のミカエルが出てきます。ミカエルが「守る」ために立ち上がる。ミカエルは大軍勢を率いて立ち上がるわけです。

後でもお話しますがね、こういうのを見ますと、クリスチャンはなんといいますかね、目に見えているところだけの生活をしているんじゃなくて、聖書を見るともう肉眼では見えないところにおいて、ミカエルとかそういう使いたちが、神様のご命令に従って必死になって働いて守る、ということですね。お分かりになるでしょうかね。私たちは自分では気が付かない。

この間もハイキングに行きました。大きい子供たちと行くとそんなに疲れないんです。小さい子と行くと疲れるのは、神経が疲れる。ひっくり返って怪我をしないだろうか、いろいろ気を使うわけです。とにかく、「守る」ということはどんなに大変か、ということです。守られている方は気が付かないんですよ、自分の足でしっかり歩いていると思う。放っておくとあっち行ったりこっち行ったりしていますからね。「守る」ためには、どんなに周りが苦労をしているかっていうことです。本人は全然知らないわけです。自分は立派に歩けるなあと思っているわけですがね、実際は半分以上抱っこされていることがあるわけなんです。

私たちも同じことで、毎日何気なく過ごしているわけですが、実は気づいていないだけで、多くの危険に遭遇しているというわけです。小さい子供が階段一つ踏み外して頭を割るほどの怪我をするのと同じで、気づかないだけ。手をもってちょっと引っ張ってくれただけだけれども、大怪我しないで済んだということに全然気が付かないでいる。私たちは何気なく毎日を過ごしていますけれども、ミカエルの守りの故に安全に守られている。私たちはいかに多くの守りに囲まれているかということですね。

ですから、もし私たちがこのヨハネのように天界を見る目が与えられているならば、今日も私たちの周囲には、イエス様のご命令によって多くの守護者としての御使いが遣わされているわけですよ。私たちは一歩二歩あるくのにね、神様がいかに守りの手を加えているかということを知らなくちゃいけない。そういうことを全然考えませんからね、今日一日過ごしたことが当たり前になっちゃうんです。だから私たちはやっぱりお祈りしなくちゃいけないと思うんですよね。詩篇34篇7節を見てみたいと思うんです。

詩34:7 【主】の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

つまり、神様を信じている者に陣営を張る、っていうんですから、御使いの一人や二人ではなくて、軍勢をもって取り囲んで、そして助けだされる。私たちは一人で歩いているようでも大勢の御使いに取り囲まれているということですね。本当にこれは素晴らしいと思いますね。

ペテロが牢屋に入れられて出てくるところで、御使いに連れ出されていくようなところがありますけれどもね、ペテロは夢心地で何もわからなかった、と書いてありますね。私たちもしばしばそういうことがある。寝ボケて歩いていても不思議とぶつからないですね。子供がよちよちとひっくり返りそうでなかなかひっくり返らないですね。
本当に神の守りっていうのがあるわけなんですね。子供のように不安定であればあるほど、御使いの守りっていうのが激しく行われているんでしょうね。

大人になると自分勝手なやり方をしますからね、御使いを振り切っちゃうんでしょう。だから事故を起こしたりしますが、ここを見ますと陣営をもって私たちをと言っていますが、一体どのくらいの陣営を張って何人ぐらいのって思いますがね。ま、御使いはご飯を食べなくてもいいんでしょうけどね。本当に大変なことなんだ、ということですね。
私たちが安全に守られて一日を暮らすということは、そりゃもう尋常なことではないわけなんです。私たちはそれほどのことを感じていないかもしれませんが、実際は大変なことだ、ということです。

こういうことはミカエルを見てもお分かりいただけると思うんですね。どうかこういうことを知ってですね、目には見えない世界で自分を守るために、いかに神様がご苦労なさっておられるかということを、是非ここで心に留めておいていただきたいんです。何気なく一日を過ごすなんて有りえない、ってことですね。神の守りなしに私たちが安全に過ごすということは、一日もない、ってことです。だから有り難いんです。感謝しなければならないと思います。

3.本題の方に帰りますけれども、しかし、この天における戦いは、先の男の子、キリストを滅ぼすための企てではないわけです。

この戦いはそういう戦いではなくて、確かにゲッセマネの園で、イエス様が十字架にかかる前に力づけられていますけれども、しかし、ミカエルがキリストを助けたんじゃない、ということですよ。
あるいはミカエルが私たちを守りますけれども、私たちを救うのではない。もう一つ聖書を読んでおきたいんですが、マタイの26章53節、これちょっと大事なことなので読んでおきたいんですが、

マタ26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。

これはイエス様が十字架にかかる前にゲッセマネのところで、祭司長や長老たちから差し向けられた群衆に取り囲まれたんでしょう、その時に、父にお願いすれば十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐご自分の配下に置くことができる、とおっしゃったんですね。
それなのに、しなかったわけです。これは、イエス様は、十字架に架からないでおこうと思えば、架からないでもおけた、ということなんです。
つまり、御使いによる勝利というのは、ここで蹴散らしていても一時的には安全であるかもしれません。けれども、御使いによる勝利というのは完全ではない。サタンに対して完全に勝利するものではない。御使いでは、サタンに永遠に勝つ、ということはできないわけです。

ですからイエス様は、十二軍団の御使いを呼び寄せることはできても、求めなかった、ということです。ですからこのミカエルの戦いは、キリストを救うわけでもなく、また私たちを救うわけでもない。非常に不随意的な守りであるということです。
ですから、確かに御使いは私たちを守ってくれますけれども、最後はキリストによらなければならない。イエス様は一時的な守りのために十二軍団を使わなかったというわけです。ご自分が救い主になられている。完全な救いを与えるために。

ですからサタンを滅ぼすのはキリストの御業です。人を救われるのもキリストの御業です。イエス様を信じるってことが、だから大事なわけで、イエス様は十字架によって、サタンに致命的な打撃を与えました。そして復活と昇天と聖霊の降臨によってそれを決定的なものにしたわけですね。
罪人を救い、この世にあっても人に霊的な力をお与えになることができる様になった。それはミカエルの力ではない。ですからイエス様を信じる者に、すべての悪の力に対して勝利を与えられるのはミカエルではなくてキリストである、ということを忘れてはなりません。ミカエルは戦っています。私たちを守ってくれていますけれども、本当の勝利、永遠の勝利、完全な勝利を与えるのはミカエルではない。ここのところを間違えないでいただきたい。

ですから、この天の戦いというのは、キリストによって敗北させられたサタンを天界から投げ落とすための戦いであると思われます。要するに天の世界からですね、御座の近くから悪魔を追い払うための戦いである、こういうふうに考えることができる。
サタンはキリストの戦いに敗北したにも拘わらず、天上、天界に留まって霊界を支配するチャンスを狙っていたんでしょうね。返り咲きっていうんでしょうかね。そういうのが日本でも総理大臣なんていうのが、前にやっていたからまたやってみようかな、という人がいるやもわからない。返り咲きっていうんですかね。狂い咲きっていうのもあるかもしれない。そういうふうにサタンは考えていたんじゃないかと思うんですね。

しかし、サタンには再び天界でその権力を回復するチャンスは与えられなかった。そこでせいぜい地上で頑な者を惑わして、ともに地獄に陥れることぐらいの仕事しか彼は残っていなかった。ですからヨハネの黙示録の12章8節で「勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。」と書いてあります。
サタンは、かつては、地上の人間を惑わし、地上の王になろうなんて考えていなかった。サタンからいえばそれは希望が小さすぎた。子供流にいえば、せこい、そういうせこい考えはなかった。
彼の最初の目的は、自分が天の御座につくことだったんです。神様を突き落としてですね、自分が神様になることがサタンの、まあ、目的であったわけですね。ところがそれは不可能であります。

そして天上を追われたサタンは、仕方なしに地上の堕落した人間の間で王になろうと考えた。第二希望ですね。大学受験に第一志望校、第二志望校がありますけれども、しかしその道もキリストの十字架によって閉ざされてしまったわけです。全人類の王になることができなくなってしまった。
ただ彼は、キリストに逆らう者だけを自分の味方につけることができた。こうして彼は、天上の王になることもできず、地上の王になることもできない。ただ、地獄で永遠に最も苦しい裁きを受ける王となることだけができたわけです。
サタンは彼の使いたちと、堕落した人間の頭になって、ともに裁きを受ける王になってしまった。こんなことになってしまったわけですね。だんだんと追い込まれてしまったサタン。追い込まれてしまったから、激しく怒るようになってくる。

B.さて9節を見ますと、ヨハネはこの竜について特別な三つの名前を用いています。

① 巨大な竜

見かけは巨大で強そうなんです。しかし、これはいかにも見掛け倒し。彼は滅びの運命にある。
同じサタンは天で失敗したことを、地上で再び行っているわけですよ。サタンは天界で王になろうとした。巨大な竜に見えたんですね。見せかけた。あの、影絵っていうのがありますね。小さいんですけれども、大きく見えるあれですよ。正体は非常に小さいんですけれども、大きく見える。この地上でもやっているわけです。

たとえば、巨大な企業、巨大な経済、これらはみな膨らんだ風船みたいなものです。ご存じと思いますが、ベトナム戦争以前のアメリカは巨大な国でした。非常に強い国だったのに今は非常に弱い国になって、最も大きな負債を抱える国になっているんですね。これは巨大な竜ですね。こう思います。
最も大きな企業、大きな経済こそが最も強い者であるかのように見せかけている。そうするとみんなそこに寄りかかろうとするんですね。それは風船みたいですから、針が一本刺されば、パーンと割れてしまってみんなひっくり返ってしまう。日本も経済という風船に乗っかっているわけですから、針がとんできてパーンと割れたら日本の国民みんなひっくり返ってしまうわけでしょ。ご存じだと思いますけれども、大きな会社が倒産するとその炭鉱が閉鎖になる、何とか海運会社が倒産する、とみんなひっくり返るではありませんか。あれは巨大な竜、空気で膨らませた風船のようなもの。

この間ビデオで見ましたね。モグラみたいのが出てきてワニの上を飛んだり跳ねたりしていたら、シューっとしぼんでしまった。とても怖そうにびっくりしているんですけれども、なんだこれは、張りこみたいなワニだなってね。
巨大な竜っていうのはこういうもの。見かけは非常に強そうだけれども、いかにもそれは見掛け倒しである。私たちはそういうものに惑わされてはいけない。影絵に驚いてはいけない。

②第二番目は全世界を惑わす者。

サタンが引き起こす騒ぎはいつも世界にこだまするんです。例えば、チェルノブイリ。あれも世界で迷惑でしたね。この間もどこかで石油基地が爆発しましたね。世界的に騒ぎをたてる。
しかしサタンがたてる騒ぎというのは、歴史的に一度も建設的で、有益なものではなかったんです。みんなが喜ぶようなものは一つもない。惑わす者は惑わされる者だけ虜にするんです。サタンは今も世界の政治家とか、経済界の人達の間に騒ぎを起こさせようとしているわけですね。サタンが起こす騒ぎはみんな惑わしであって、真実なものは一つもない、ということを私たちは知っておかなければならない。
テモテ第二の手紙、2章26節を読んでみましょうかね。パウロが書いていますがね、罠が仕掛けられている。

Ⅱテモ2:26 それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。

ですから一時は、神さまを知らなければその騒ぎに乗っかっちゃって、悪魔に捕らえられて振り回されている人でも、目覚めれば、その罠から逃れることができる。目覚める、っていうのが大事ですね、自分がこの悪魔にひっかかっているなあ、と目覚めなくてはならない。目覚めた人は絶対にその騒ぎに巻きこまれて行かない、ということですね。
クリスチャンというのは目覚めている人でなくてはならない、ということです。

③ 第三番目の名前は「あの古い蛇」。

「古い蛇」といったら、創世記3章1節のことをいっています。蛇のなかで一番古い蛇。
この間もですね、ハイキングに行きましたら、子供たちが青大将を持っている人に「おじさん」なんて言ったら、「おじさんじゃないでしょ、お兄さんでしょ」ていわれて、首に襟巻にしてもらって「重かったあ」なんていっていましたけどね。でも、あれはまだ新しい蛇ですよ。

「古い蛇」、ずうっと人を騙し、何千年も人を惑わし、罪に陥れてきたサタンのことですね。時代が変わり、人が変わっても、サタンは変わらない、悪の働きはずうっと続けてきたわけですね。しかしサタンは永遠に働くことが許されているわけではない。彼の運命は定まっている。そしてこの古い蛇もだんだんと、地上で働く最後の時が近づいていることを知って激しく抵抗している。人々の心を閉ざし、眩ますことに必死になっている。
彼は残された時が束の間で、その間に、私たちもキリストの救いに導くことに熱心に努めなくてはならない。サタンも必死ですからね。クリスチャンも必死になってやらなくてはならない。
しかも現代は、このサタンがどんどん教会の中に入りこんでいるんですね。異端もあるし、いろいろなことが起きてきている。彼は古い蛇ですから知恵もいっぱいあるわけです。どうすりゃ人間がどう迷うか分かっているわけですね。

Ⅱ.10節にいきますと、ヨハネは、天から竜が投げ落とされた時、天で大きな声が語るのを聞いています。

実はこの天で語られた大きな声というのは、11章の15節にも出てくるんですね。第七の御使いがラッパを吹いた時、天に大きな声が起こっていた、と書いてあります。これは天の御使いたちの声なんでしょうね。ミカエルとその軍勢であったかもしれません。

この声には三つのことが語られています。

A.第一は、この10節のカギかっこのなかですね、「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威」

この四つが現れされたことに対する賛美である。

1.サタンとその使いたちは強力な力を誇っていたかのように見えた。

しかし彼らは完全に敗北したわけですね。サタンの力は強そうに見えたけれども、それほど強いものではなかった。

私も九州にいましたころね、こうたくん、という男の子がいたんです。小学生で体がすごく大きいんです。強そうに見えるんですが、気が弱いんです。怒られると思うと泣いて待っているんです。ですから叱れないんです。小学一年生なのに体は3年生ぐらいあるんです。非常に気持ちが優しいと言うか、気が弱いというか。ですから、うっかり叱れないわけですよ。泣いて待っているわけですからね。なんとも気の毒な気がしたんですけれども。

私たちはね、あまりサタンをね、おどおどしてはいけないと思うんですよね。サタンの力は信仰生活の中で打ち破れないものではない、ということですね。サタンは敗北しているんです。行き詰っているんです。

2.「私たちの兄弟」、すなわち、クリスチャンたちの告発者、日夜、神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

サタンというのは神さまに言いつける者。子供がよくね、学校の先生に言いつける、とかいうのがありますけれどもね、サタンはクリスチャンたちを日夜神様の前で告発しているんです。「神様聞いてください」、ヨブ記なんかにも出てきますね、サタンがヨブを告発している。

クリスチャンの欠点とか弱さとか、罪深さとかをね、訴えている。そして、クリスチャンを失望させようとするわけです。信仰を失わせるために訴えている。おまえ昨日こんなことをやっていたじゃないか、かつてこんなことをやっていたじゃないか、大した人間じゃないじゃないか、って、失望させようとする。
しかし、この兄弟たちはついに勝ったと、書いてあるんです。この告発者、サタンはいろんな人からいろいろ言われます。お前、教会に行っていても大したことないじゃないか、教会に行っていて信じていてそんなことができないのか、とかいろんなことが言われます。しかし、兄弟たちはついに勝った。

それは、どのようにして勝ったのか。

・神の救い。神の救いをしっかり持っていたということですね。
・神の力によって戦った。
・神の国に生きた。ということですね。イエス様もおっしゃいましたね。まず第一に神の国とその義を求めなさい、とおっしゃった。
・キリストの権威を信じていた。最後にはイエス様が勝つんだ、ということですね。

ここにサタンに勝つ秘訣が示されていますよ。これで勝った。救いと力と国と権威です。

10節に「現れた」と書いてありますね。これは自然に現れたんじゃなくて、この兄弟たちが勝利を得ることによって現れたんです。たとえサタンが敗北しても、私たちがサタンの餌食になっていたら、キリストの勝利は虚しくなってしまう。現れないんですね。
クリスチャンが勝つことによって、救いは現れるし、神の力は現れるし、神の国は現れる。そうでしょ、王様がいて国民がいない国なんてありえないわけですからね。
クリスチャンが勝利を得てこそ。救いと力と国と権威が現れるわけなんです。これが第一番目の声が示しているものですね。

B.第二は、兄弟たちのサタンとの戦いぶりを示しているのが11節。

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

10節ではサタンに勝つための力の源、その動力が記されていました。
しかし11節ではその戦いぶりが記されています。

1.兄弟たちは自分の力、自分の出来不出来によって戦わなかった。サタンは激しい告発をしたわけですね。訴えたわけです。その訴えに対して兄弟たちはどうしたかというと、小羊の血を示した、ということです。

マルチン・ルターという人が、ある時サタンがやってきて、ルターが犯した罪を並べた。その時にルターは「もうそれだけか、お前が挙げられるのは」と言ったというんですね。
「そうか、それはみんな真実だ。しかし、イエスの血がすべての罪を解決してくださった。」と言って赤インクでバツを書いた、っていう話を彼は書いています。

これは非常に大事なことだと思うんです。
しばしばクリスチャンでも愚かなことをしてしまう。人の批判とか、人の非難を受けるときに、自分の出来具合で自己弁護します。だけど私はこんなことをしたじゃないか、あんなことをしたじゃないか、って自分の功績によって反論しようとする。だから敗北する。これはサタンの思うツボ、罠なんです。
人間は自分を弁護するために出来具合とか功績を並べ立てようとする。これはサタンの罠ですね。サタンは神様を信頼していないすべての人の心の中に、自分に信頼する思いを与えるんです。自分に信頼する。キリストじゃないんです。ですからクリスチャンですら、しばしばこういう思いをもって生きて、失敗するわけです。

私たちは他人の批判とか非難に対して、差し出すものはキリストの血だけだ、ということです。自分の出来具合ではないということです。自分の出来具合を言えば、いくらでも非難を与える隙を与えるでしょ。どんなにできているといっても、そういうものですよ。
味噌汁を作って、ちょっと味をこくすれば、辛い、薄くすれば薄すぎるってね、もう勝手に作れ、ってなっちゃうんですけどね。
そういう時、私たちは出来具合ではなくて、キリストの血潮をいつも示す、ということです。確かに私たちは至りません。でもキリストの血がある、ということですね。これでサタンは逃げる。負ける。勝利を得たければ、このことを決して忘れてはならない、ということです。
私たちは、自分がやったことで自己弁護すれば必ず敗北する、っていうことです。キリストの血です。これは大事なことですね。人の批判の背後には、サタンがいるということですね。
サタンは何に弱いのか。自分はどれくらいできるのか、と言ったらサタンは引き下がらない。サタンはキリストの血に弱いということです。
これは現実の生活の中で、私たちはイエス様の血潮によって、十字架によって救われているんです。これしかないということですよ。サタンは口を塞ぐしかない。

2.戦いぶりの第二番目は、兄弟たちは自分の信仰の証を主張し続けた、ということですね。

つまり、決して証の言葉をひるがえさなかったということです。イエス様を信じている、という証の言葉をひるがえさなかった。
もっと言えば、この世と妥協するような発言をしたり、不信仰な発言をしなかった、ということです。最終的な勝利を得るまで、彼は信仰の証をとり続けた、ということです。ハンドルを握り続けた。
私たちはしばしば議論をする時に、このあたりで迷っちゃうんですね。「そうかもしれませんけど、、」とか言って、乗り換えてしまうといったようなことがあります。ですから、信仰の立場、信仰の証を絶対にひっくり返さないようにしたいですね。
そうしないと勝利を得られない。それが「あかしのことばのゆえに」の意味ですね。

3.さてそれから第三番目は、彼らは「死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

つまり彼は、献身、己を惜しまない献身、これがあった。これは、イエス様のご命令どおりに歩んでいるなあ、と思います。
2つほど聖書の言葉を読んでみたいと思います。

マタ16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

こう書いてあります。この兄弟たちは命を失うほど、死に至るほど、どこまでも死を惜しまない。命を惜しむと、失うまいとしてこれを惜しむわけですけれども、惜しめば失う。
イエス様は「命を失う者はそれを見いだす」と言ったんですね。本当の勝利というものは、死に至るまで命を惜しまない者。献身というのはそういうものである。

もう一つみ言葉を読んでみましょう。後半のところを読んでみましょう。

黙2:10・・・・・死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

こういうふうに約束されている。
ですから一番初めにもお話しましたが、本当に神様の約束というのは真実でありますね。ここを見ますと、神のために自分を惜しむ者は決して勝利を得ない。己を惜しむ者は必ず敗北するということです。このことを心に留めたい。

兄弟たちは勝利のためにどういう戦いぶりをしたか。

・キリストの血潮の旗印を鮮明にした、ということですね。自分の手柄ではない、ということです。
・果敢な宣教。言葉による証。ひっくり返さなかった、ということです。
・全き献身です。死に至るまで、命を惜しまない、ということです。

私たちの勝利もこういうものでなくてはならない。

C.さて、この賛美の第三番目のテーマは何か。
1.12節。すでに「天とその中に住む者たち。喜びなさい。」

すでに天に帰っている人は地上の戦いから解放されている。だから、地上に竜が叩き落とされても、もはやその戦いからは解放されている。主にあって地上を去った者の喜びを歌っているわけです。
彼らはサタンの戦いから永遠に解放されているから、喜びなさいと、こう言っている。
ああ、ですから私たちはこの地上を去るときはですね、是非、キリストを信じて地上を去りたいですね。イエス様なしで去ると大変なことになりますよ。ですから私たちは、天に帰るときは、イエス様の恵みをもって、イエス様によってこの地上を去る者とさせていただきたい。

2.しかし、なお地上に残っている者には、「地と海とにはわざわいがくる」というのですから、信仰と忍耐の戦いが必要だということですね。

この「わざわい」は艱難時代のものかどうかはわかりませんけれども、少なくても、サタンが最後に滅ぼされるまでの間のわざわいについて書いてあります。
その間に、以下に多く人が惑わされ、また多くのクリスチャンが再び滅びの生活に帰ってしまう危険があるわけですね。このことは私たちクリスチャンは十分に気を付けなくてはいけない。どうかこの地上の生涯をたどるときにですね、もうあまり金儲けのことばかり考えないで、お金をいっぱい積んで、いくら札束を積んでもなんの意味があるんでしょうかね。私はそう思います。

私たちはまもなくこの地上を去るときに、人生のごく僅かしか神のために使わないで、何も知らないで天国に行ったらどういうことになるんでしょうか。どうか私たちは悪魔のわざわいに引っかからないようにしたいと思います。惑わされている人が大勢いる。あたかも私たちはこの地上が永遠の天国になるかのような錯覚に陥りやすいんです。
しかし、こういう現象はこれからもっともっと酷くなっていく。なぜならば、「悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って」いるからなんです。悪魔は腹が立ってしょうがないわけです。もう自分の思い通りにならない。地上も自分の物にならない。できないわけですからね。ですから悪魔は、もはやこの後滅びる、ということを感づいて必死になっている。
天の王を望むことができなくなってしまったサタンは、地の王にもなれないことを感づいて必死になっているんですね。ですから彼の惑わしはさらに巧みになる。激しくなる。クリスチャンも惑わされやすくなってしまいます。これからどんどん偽のキリスト者が、人を惑わすものが、大勢起きてくる。
私たちは、こういうある意味では最悪な時代に生きているんです。
しかし、それでも、サタンに勝つ秘訣を与えられていますね。

⓵ 第一に、その力の源をしっかり握っておく、ということです。
すなわち、キリストの救いと力と国と権威です。
これなしにサタンに勝とうとすると、努力すればするほど、サタンの罠に引き込まれて行きます。
明確な救いの経験、
明確な神経験、
霊的な力、
神の国を第一とする生活、
キリストのみ言葉の権威、
こういうものを必要としていますね。

② しかしそれを持っているだけでは、サタンに勝てません。
それを働かせなければいけません。

そのためには全き献身ですね。自分の命を惜しまない。
そしてイエス様の救いをはっきりと語る。
これなしに終末の時代に生きるクリスチャンの勝利はない。

今日もサタンは私たちを吞み込もうとして、口を開けて待っているんです。
それに勝つためには、私たちは生まれながらに持っている才能ではだめです。
私たちが勝利するにはこれらのものが必要だと、ここで教えているんです。サタンは今も獅子のごとく大きな口を開けて私たちを吞み込もうとしています。
今の世に生きる私たちに、サタンに勝つ秘訣を聖書は教えています.是非これを私たちは毎日の生活の中で活用させていただきたい。

お祈り

恵み深い天の父なる神様、兄弟たちは小羊の血と自分たちの証の言葉の故に、彼に打ち勝った。死に至るまで命を惜しまなかった。天の神様の豊な恵みを感謝いたします。
私たちの時代にはサタンは激しく働いております。私たちはこの地上における出来事ばかりを見ていないで、その背後における戦いをしっかり知りながら、この地上の戦いを戦い抜くことができますように、そしてどうすればその勝利を得られるか。サタンは強そうですが、勝てないものでないことを教えていただきました。心から感謝いたします。
どうかクリスチャンとしてこの地上で勝利を与えてください。
小さなクリスチャンでありますが、一人ひとりが勝ち抜く以外に神の国の建設にはなっていきません。神の国の王がいてもその国民がいなかったら、王国の建設にはなりません。
一人ひとりが勝利を得て、初めて、神の救い、力、国、権威が現れるんだということでございます。どうか私たちをそういうものとしてください。どうか主が導きを与えてください。尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明