音声と文書:ヨハネの黙示録(33) 女を追跡する竜 12:13~18

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PDF文書:ヨハネの黙示録(33)

ヨハネの黙示録 12:13~18
12:13 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。
12:14 しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
12:15 ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
12:16 しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
12:17 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。
12:18 そして、彼は海べの砂の上に立った。
【新改訳改訂第3版】

上の絵は、オランダの地図作家、彫刻画家、出版家である Gerard de Jode (1509–1591) により1585年に描かれた「Icones Revelationum S Ihoannes Evangeliste in Pathmo(パトモスの伝道者ヨハネの黙示録のイコン)」の一枚、Wikimedia commons より


はじめに

この幻は先の幻から続いているわけですけれども、12章から14章の一連の幻の中の、第三番目の幻に当たるわけです。全部で7つ幻があるわけです。

Ⅰ.まず、13節をみますと、

「自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた」

ここで、サタンは神様のように全知の能力を持っていない、ということが分かる。悪魔は悪知恵が働くし、力があるように見えていても愚かである。
サタンの残念なところは、やはり愚かさにある。知恵があっても悪知恵というのは、最後がどうしてもうまくいかないわけです。
このサタンを見ると、愚かな人間と一つも変わらないということがわかります。
どういうところが同じかといいますと、罪の結果をみて、やっと自分が犯した罪の恐ろしさや、その罪の刑罰の厳しさに気づいてくるわけですね。

1.

最近いろいろなニュースで、リクルートとかいうところから、何か貰ったとか、貰った人とかがいっぱいいて、貰った時は大喜びしていたんでしょうが、その時は何も分からなかったわけです。ですけれども今になると、貰わなかったほうがよかったと思っているんじゃないでしょうか。
中には自殺をした人もいらっしゃったようですけれども、やはりここにはサタンの働きがあるなあ、と思いますね。

サタンは、ここで自分が地上に投げ落とされたのを知って、投げ落とされなければ分からなかったわけです。

投げ落とされて初めて、天上の権威が失われたことを知ったわけです。そして激しく怒った。
もしこのサタンが御使いである間に、高ぶりが引き起こす結果がなんであるかを十分に知っていたなら、彼はサタンという堕落した存在にはならなかったはずなんです。
愚かしいのはこのあたりですね。
やってみなければ分からない、というのは人間でも同じように言えることで、罪を犯す前に罪の結果を悟るならば、だれも罪を犯さなくなります。それで神様に従ってみんな聖徒になるわけです。しかし愚かにも、人間もサタンもですね、誘惑にあっている間というのは、あたかも罪の生活がどんなにか素晴らしいかと思うわけですね。そして罪の結果の恐ろしさについては全く考えない、ということです。

この間も酒をいっぱい飲んで、車を運転してぶつかって亡くなった人が何人もいた
そうですけど。酒を飲んでいる時はいい気持ちなのかもしれません。車を運転するのもいいかもしれませんね。風なんかビュンビュン当たると、いい気持ちになるのかもしれません。けれどもそれがどういう結果を起こすかということを彼は考えていないんです。
瞬間には考えるかもしれない。けれども遅すぎる。
これが悪魔と人間の似ているところ、愚かしいということですね。

2.さて、天に居場所を失ったことを知ったサタンは怒り狂って、「男の子を産んだ女」を追いかけた、と書いてあります。

「男の子」というのはキリストのことですが、「産んだ女」というのは、前にもお話しましたが神の民、クリスチャンを表すんですが、神の民を追いかけて堕落させようとしたんです。
なぜ彼はこんなことをやるのかというと、かつての日、人祖のアダムとエバを堕落させたことに成功したサタンは、一回味をしめた彼は、何度も神の民を堕落させようと試みているんです。この試みは今日も続いているわけですね。彼はしつこく試みを続けている。これが13節ですね。愚かな者であります。しかしなかなかしぶとい。

Ⅱ.14節では「しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って」と書いてあります。

12章の6節でもこの女は荒野に逃げたことが記されています。

1.これは、荒野という場所ではなくて、この前もお話しましたが、サタンが働いているところから離れている、そういう霊的な生活のことを言っている。

荒野というのはそんなに便利なところではありません。けれども悪魔の誘惑から離れる、支配から離れたところ、それが荒野という意味ですね。
そりゃ、多少不自由かもしれません。けれども、そこは安全な場所。6節で女が荒野に行って、14節でまた荒野に逃げたから2回だ、と考えちゃいけない。これは2回という意味ではないんです。神様の民は絶えずサタンの支配から離れている、ということなんです。

2.ここで、女は竜から逃げるために大鷲の翼が二つ与えられています。

彼女はこの二つの翼でサタンの支配から逃れ、神様のみもとに上っていったんですね。この言葉は私たちにイザヤ40章31節を思い起こさせますね。有名な箇所ですけれどもね、聖書は何度も開くのがいいと思います。

イザヤ 40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

主を待ち望む者は新しい力を得る。それはどんな力かというと、鷲のように新しく生え変わった翼、これで上っていく。
私たちもこの世にあってはサタンの支配がある、サタンに支配されていると、イエス様がおっしゃっていますけれども、このサタンの支配から逃れるためには、神様から与えられる二つの翼がいる。
それはどうやって与えられるかというと、主を待ち望むことによってなんです。
神様からこの翼が与えられますと、疲れ果てている人も失望している人も、急速にその危険な状態から飛び立つことができる。
これはとても不思議なものです。自分の力で何とか焦っている人は、サタンの餌食になってしまう。30節をみますと、「若者も疲れ、たゆみ」、とありますが若い男は疲れないんですね。しかし「たゆみ、若い男もつまずき倒れる」、と書いてありますね。だから自分で何とかしようとして焦っている人は、サタンの餌食になってしまう。
神の民がサタンの支配から逃れる方法は、一つしかない。それは神の翼をもらうことである。

旧約聖書を二か所開いてみたいんですがね、神様がその翼を与えておられる。翼に乗せた私たちを守る。

出19:4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

実際にイスラエル民族を鷲の上に乗せたわけではありません。神の強い御手によって、エジプトを脱出したことを言っている。つまり神の守りの御手の中に導かれていくことですね。

申32:11 鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。

と書いてありますね。
これは鷲の雛をですね、親鳥が追い出そうとしている。それで雛が落っこちるんですが、この大きな鷲、親の鷲は翼でひなを受け止める。何度も何度も受け止め、自立していくことを教える。
これは丁度、イスラエル民族がエジプトを脱出する雛のようなものなんです。これは罪の生活から脱出して、サタンの支配から抜け出して、神の民として信仰生涯を送っていく上で、イエス様がお守りくださるということを語られているわけですね。

ヨハネの黙示録の方も同じことですが、この女、つまり神の民は鷲の二つの翼を与えられて、そしてサタンの支配から抜け出している。ですからヨハネがここを書いた時に、
確かにイザヤ書であるとか、今お読みしました出エジプト記とか、申命記を言えば、当時の人たちは何のことを言っているか分かったわけですね。翼と言ったら神の保護のことを言うものと知っていた、ということですね。ですから私たちも日々にイエス様を待ち望んで、イエス様から翼を頂いて恵みの高嶺を飛びたいということですね。
翼がなければ飛べない。私たちが努力している時というのは、いつもバタバタと走り回っていることになる。

B.14節をみますと女は、「一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。」と書いてあります。

ここでなかなか難しい問題になるのは、ここに「一時と二時と半時の間」と書いてありますが、これは確かにダニエル書を引用しているんですね。ダニエル書を開いてみましょうか。

ダニ7:25 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。

よく気を付けてお読みいただきたいですね。
聖徒たちは、「ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。」
その時は、「いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。」
こういうようなことをされる時である。ここを読んだだけでも聖徒たちは大きな迫害を受ける、ということが分かる。

ダニ12:7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」

こう言われている。さてこの「ひと時とふた時と半時」とは一体いつのことなのか。
これはみんな同じ日のこと、ヨハネの黙示録もダニエル書の7章25節も12章7節もみな同じ日のことを言っているんですね。
この「ひと時」というのを一年としますと、これは3年半になり、ユダヤ人は一年を360日としていますから、1260日になるわけです。ヨハネの黙示録11章3節、12章6節の1260日と同じであります。黙示録の13章5節の42か月とも一致します。

この期間はみな同じ期間であることが分かります。これは大患難の期間であります。罪悪が絶頂に達し、今、私たちも悪が満ちていますが、こんなものではない。サタンが大暴れし、反キリストがほしいままに振る舞う期間である。この期間は、地上に残っているクリスチャンが反キリストと戦う期間であり、迫害の期間である。
この期間は、海から上ってきた獣が地上で覇権を握る期間でもあります。この地上はあたかも悪に征服されたようになる時期がやがて来るわけです。
ダニエルはその時のことを「聖なる民の勢力を打ち砕く」とまで言っているんですね。だから、神の民の勢力が打ち砕かれてしまう危機がやってくる。

しかしサタンは、実はそれまでであったわけですね。
その時にイエス様が現れて、反キリストは永久に滅ぼされるわけですが、その後30日を経て、聖所が潔められる。ダニエル書を見るとこれが書いてあるわけです。
そしてその後に千年王国のためにいろいろなものが備えられていくわけです。
それから45日経って、完全な祝福が与えられる。これがダニエル書の12章11,12節あたりに書かれている。
これはアンテオコス・エピファネスの迫害の時代のことも兼ねているんですが、それを超えて、実は最後の時のことも預言している。
ですからその間際になる時に、サタンが非常に激しく働き、この世は悪に満ちて、クリスチャンたちがどうにもならないと思えるような時代がやってくる。
ですから、この「一時と二時と半時」というのは、大患難の日は3年半続くとみることが出来るわけですね。
福音的な学者たちはそういう考えで一致しているわけですが、地上にサタンが猛威を振るい、罪悪が絶頂に達する、到来する。

ですからこの世の中、決して良くはなっていかない、ということですね。住みよい世の中にはならないと聖書は言っている。皆さんもそのことを感じられていると思います。
戦後は良い世の中ができると思っていました。テレビもできるし新幹線も走るし、飛行機も飛ぶ。私の子供のころは、自動車だって飛行機だって特別な人しか乗らなかったけれども今はそうじゃない。常に変ってきたわけで、だんだん良くなると思っていましたけれども、現実は一つも良くなっていないですね。むしろ悪くなっている。

聖書を見るならば、3年半ぐらいサタンに支配された人が良心を失って、サタンの手下になって、極悪な行動に出るときがやがて来る。これは非常に怖い時ですね。
少しずつ良心が焼き金で焼かれてしまったような人間が、この地上に出没しているわけです。いかなる戒めやいかなる忠告も聞き入れないで、悪の道に走る人が増えている。
私は、これはやむをえない時代が来たなあと思うんです。サタンによる大患難時代への下準備であるとみることが出来る。
ですから私たちはどうか、このトンネルをくぐって地上に残っていれば、これを通過していくだけの信仰を備えていかなければならないですね。この恐るべき時代が私たちの目の前に押し迫ってきている。
異端の人達はですね、こういう時に備えていろいろな竹やりで練習したり、また昔のですね、飛行機に竹やりで立ち向かおうとするみたいなことをしているそうですが、それは愚かだと思いますね。信仰によって戦わなくてはならない。
ですからそのためにイエス様は、神の翼を与えた、と書いてある。翼、神の守りがある。竹やりで練習したって駄目なわけですよ。サタンの支配から離れていなければならない。そういうことを私たちは心に留めておく必要がある。
これから先、いい時代が来るなんて思っているととんでもないことになる。安閑としていられない。ますますそういう時代である。
いずれにしろ子供達にしても、キチンと神を畏れる生活に進んでいかないとならないわけですね。

Ⅲ.さて、15節をご覧いただきますと、

女が安全な荒野に逃げていったことを知ると、「蛇はその口から水を川のように女の後ろに流しだした」

つまり女を水で押し流そうとしているわけですね。彼女を大水で押し流そうとしているわけですが、注目していただきたいことは何かといいますと、ずうっと竜できたのが14節当たりで蛇に変っていますでしょ。16節ではまた竜になっている。
竜が蛇に変っているということですが、これはね、サタンが見かけの巨大な姿を保ちきれなくなっちゃっているんですね。格好よさを見せつけられなくなった。
人間もそういうところがあるんですね。格好よさを保ちきれなくなって、化けの皮が剥がれる。竜は巨大で人を恐れさせる。こういう見かけの力を見せているんですが、怒り出しますとね、その正体を現している。見かけの竜は影をひそめて、狡猾な蛇の姿が現されている。

なんて言いますかね、日本の中にもありますね。映った影が鬼であるとかなんとかね、そういうのがありますが、なんとなく似ているオリエント的な幻ですね。ここはサタンが、いかに偽りの人格者であるかを表していると思うんです。
この大水というのは、おそらくサタンは、ノアの洪水を思い浮かべたんだと思いますね。ノアの洪水は、神様が悪しき者への審判として用いられたんですね。ところがサタンはその仕返しとして、神の聖徒たちに対して大水で攻めようとしている。
自分がやられたんだからやり返す。こういう考えは、どうも人間に似ていますね。非常に愚かしい。

サタンがやることって言いますのは、この前も出てきましたが、神様のまね事ですね。
エジプトの時も同じですね。モーセがやったことを真似する。でも真似しきれない。あくまでも自分がこの世の神である、ということを誇示している。神もできたけれども俺にもできる、と。
しかしこのことは、大患難期において、神の民には圧倒するような試練や困難が来ることを象徴しているんです。ここをみますと非常に苦しい厳しい困難が来るようですが、ノアの大洪水の日には神様はノア達に箱舟を備えてくださったように、患難期における迫害や試練に対しても、必ず脱出の道を備えてくださるんですね。

Ⅰコリント10章13節をちょっと読んでみたいのですが、

Ⅰコリ10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

神様が脱出の道を備えていてくださるのを知っている人と知らない人とでは、だいぶ違うわけですね。知らない人は慌てふためいて、自分から滅んでいく。
神の脱出の道があるというわけですね。ですからこの大患難期にあって、圧倒的な迫害が起きる。しかし神はちゃんと備えていてくださる。神の民はどういうふうに助けだされているかというと、16節をみますと、「地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。」

この「地」というのは自然界のことを言います。自然界というのは、荒れ狂う時には人を滅ぼすように見えます。しかし神の創造された自然界はいつでも神の側に立っていることを忘れてはならない。
16節はちょっとわかりにくいことであるかもわかりません。大きな川が水をどっと押し寄せてきたのを、地がみな飲み干したと。
実はヨハネは、こういうことが実際にあるということを知っていたんですね。

例えば旧約聖書の中に、シリヤの将軍ナアマンという人が出てきます。ナアマンが預言者のエリシャのところにやってきてですね、「らい病を治してください。」と言った時に、エリシャのしもべは、「ヨルダン川に行って7回体を洗いなさい。」と言ったんですが、ナアマンは怒ったわけですね。ダマスコの川にアマナとパルパルという大きな川があるんですね。そっちの方がよっぽど立派な川だとね。確かにヨルダン川というのは非常に狭いんですね。それに比べるとダマスコのアマナとパルパルの方が広大な水の量がある。ところがその川は、海や湖に行く前に砂漠に全部吸い込まれているんですね。海に流れ着いていないわけなんです。どんなに大きな川であっても、それが砂漠の中に吸い込まれている。ヨハネはそれ知っていたわけです。

ユダの南の方はネゲブ砂漠なんです。ところが雨季になりますと、そこは全面川になるんです。けれども全ての水は地面に吸い込まれていく。吸い込んでもなお砂漠なんです。ヨハネには、これは珍しいことでも不思議なことでもないんです。彼自身が経験していたことなんです。自然界は逆らわなければ、そして人間がそれを崩さない限り、神の側に立って人を保護しているんです。大体地上に起きる災害というのは、人間が起こしているんですね。山を削って、それで土砂崩れが起きたりする。
神様は元々自然界をお造りになった時に、人間を保護するために造られておる。自然界をそのようにお造りになった方がちゃんと守ってくださるということですね。
しかしこの自然を破壊し続けている人類は、破壊したが故に自らが滅びる時がやってくる。自然は怖いですね。自然が破壊する力を、人間がとどめることはできないわけです。
ですから16節の、神が創造された自然は神の民を救う、ということを言っているんですね。ですから、私たちはあまり自然を壊さないようにしたい。

Ⅳ.17節に移りましょう。

サタンは女に対する攻撃で再度失敗しているんですね。「竜は女に対して激しく怒り、」と書いてあります。

今度は何を企んでいるのか。彼はそう簡単には諦めないんです。何千回、何万回でも彼は「やる。」
ある人がこう言いました。『サタンから私たちは学ぶべきものがある。それは何かというと、彼は根気よくやる。あれぐらいやったならば、私たちはものになる。』
あるお母さんが子供に教えたっていうんですね。悪魔からだって学ぶことはできる。あんまり悪魔からばっかりですとおかしくなりますけれどもね、そう言って、教えたっていうんですね。

彼は12節で、激しく怒りました。地上に投げ落とされて、自分の時が短いことを知って激しく怒ったんですが、17節では再度失敗したんですね。
サタンは焦った。もう時間がない。屈辱のためにさらに怒りを激しくした。そして迫害がさらに厳しいものになっていった。
企んでいるわけです。女に対して失敗しましたから、女の子孫に対して、つまり「女の子孫の残りの者」、すなわち「神の戒めを守りイエスの証を保っている者」、イエスの証、言葉のことですね。これは忠実なクリスチャンのことを言っているわけです。
ヨハネはこの17節で、終末における忠実な教会とクリスチャンの上に臨もうしているサタンの激しい攻撃を予見しているわけです。
これからクリスチャンになる人は大変です。脅かすわけじゃありませんが、聖書はそう言っているんですね。クリスチャンになって、これから先、私たちはいい思いをしようなんて思わないで、もう天の御国しか求めるものはない。

ヨハネが感じていたものは、当時始まっていたローマの迫害だったわけですね。約300年間、ローマの迫害はクリスチャンの上に下っているわけです。そしてご存じのようにコンスタンチヌスという皇帝がキリスト教に改宗し、いったんここで迫害がやむわけですが、ここからローマカトリックが起きてくるわけなんですね。つまり信仰を持っていない者がみんなキリスト教に改宗させられたわけですね。皇帝の命令ですから。
それで、ここからだんだんと教会は堕落していった。

最近、スウェーデンで問題になっていることがある。スウェーデンの国教教会がルーテル教会。国教会ですからね、国の宗教でありますから、裁判所がそれを決定するわけなんです。そうすると無神論者の人がですね、国教会ですから幼児洗礼というのがあって、幼児の時に、信仰を持っていなくても神を信じないけれど、親が洗礼を受けさせた。 すると国教会員になるわけです。そしてその人が教会の役員に立候補したわけです。向こうはそういう制度になっているわけです。
神を信じていないのに立候補するのはおかしいといって、教会側の信徒の方が抗議をしたんですけれども、裁判所は彼は国教会員だから立候補する資格があるということになってしまったんですね。
今、スウェーデンの方では論争が起きているんですね。教会は、信仰は国が保護するものではない、ってことが言われているんですけれども、私たちの側から見れば、羨ましいような状況でありますけれどもね。

コンスタンチヌスの改宗もまた同じであります。迫害は止んだんですが、そこから教会の堕落が始まった。そしてまた再び迫害の時代が来るわけです。
サタンが企んでいる迫害は、ヨハネが心配していた迫害だけではなかった。ヨハネ以来2000年間、次々と教会の内外に迫害を起こし、クリスチャンを脅かしてきた。
なぜそんなことをしたかというと、クリスチャンを苦しめることによって、未信者の人々にクリスチャンになることの見せしめにしてきたわけですね。クリスチャンになると、こんなに厳しく苦しいことが起きるんだと。
しかし、その点でもサタンは失敗をしてきました。なぜなら、サタンの巧みな迫害があっても、2000年間忠実なクリスチャンは生まれ続けてきたからですね。
教会の歴史をたどってみますとね、クリスチャンたちは風前の灯と言われるような状態になった時もあったんですね。聖書を保つことが精いっぱいだった時代もある。しかし忠実なクリスチャンは必ず残されて、種は残り続けた。
私たちはこれから迎える終末の世にあっては、サタンがどのような攻撃をしてくるか予想がつかないわけです。

18節をご覧いただきますと「そして、彼は海辺の砂の上に立った。」と書いてありますでしょ。非常に暗示的な言葉だと思うんですね。サタンはここで、これから何を起こしていくか腕を組んで計画を練っているのか、あるいはすでに迫害の火をつけているのか。
「海辺の砂の上に立った」「海」は「人類」という大きな海である。彼はこの「人類」という大きな海の中に嵐を起こし、大きなうねりを起こし、そこに住む神の忠実なしもべたちを呑み尽くそうとしているのです。
やがて彼は人類史上、最大の歴史的出来事を引き起こすようになってくるでしょうね。人類という大きな海の中に、国家や、社会や、学校、職場、家庭、個人という様々な材料を入れてですね、煮えたぎさせる釜のようにして迫害を加えようとしている。このことは、やがて13章の預言の中に少しずつ現れて来るんですね。

私たちはこれから起きることを、ただ社会的な嘆かわしい出来事としてだけ見るのではなくて、人類をひっかき回すサタンの挑戦であると、しっかりと受け止めなけらばならない。
サタンの目的は決して世界を騒がすことではなくて、明らかに世界に住む神に忠実なクリスチャン、そこに書いてある通りです、残されている民、神の戒めを守り、イエスの証を保っている者たちと戦うということですね。次々と忠実なクリスチャンを迫害することにあるんです。

ですから油断することなく、サタンの動きを監視して、信仰を失わないようにしたい。いつも神の翼を頂いて荒野に住み、そして神に養われていたいものである。
やがてまいりますその日が遠いとは限らない。この地上にあるうちに主の再臨が近づいてくれば、こういうようなことが起きてくるわけですね。
信仰を失わないようにさせていただかなければならないと、思うわけです。

お祈り

恵みの深い天の父なる神さま、逃れの道を備えていてくださる約束を頂きありがとうございます。もし神が逃れの道を備えてくださらなければ、私たちは狡猾なサタンに惑わされて滅びに進んでしまうことであります。しかし、いかなる艱難といかなる迫害が世の終末の時に起きたとしても、私たちには、主よ、あなたの翼が与えられることを感謝いたします。いつそれが起きるか、もうすでに起きているのか、分かりませんが、まさに私たちはこの人類という大きな海の中に閉じ込められているようなものであります。
そして、やがて彼らがその覇権を握って、世界を魅惑の中に投げ込むような世界が展開してくることを聖書は預言しています。それらのことは、周囲を見ますと、起きていることでございます。これは、そのはしりとして、私たちはしっかりと認め、そして、あなたにあって力を頂き、また、あなたの翼を握った、日ごとの生活をさせてください。心からお願いいたします。
この時を感謝して、イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明