音声と文書:ヨハネの黙示録(34) 海から上がって来た獣 13:1~10
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PDF文書:ヨハネの黙示録(34)
ヨハネの黙示録 13:1~10
13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
13:4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言った。
13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
13:6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
13:7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
13:9 耳のある者は聞きなさい。
13:10 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。【新改訳改訂第3版】
上の絵は、ドイツの聖職者 マルティン・ルター (1483–1546) が著したThe Luther Bible(1534 edition)の挿絵「Beast from the sea(海から上がってきた獣)」(Wikimedia Commonsより)
はじめに
この前お話しましたが、12章の18節で、「女を追いかけてきた竜が海辺の砂の上に立っている」というところで終わっていたわけです。
13章に入りますと、この幻が先の幻とつながっている、ということが分かります。その海から一匹の獣が上ってきた。これは一体何を表しているんだろうか。ここでもう一度、各々が何を表しているのかはっきりさせていなければならない。
まず、「竜」とは何であったのか。
「竜」とは、エデンの園の事件以来、人々を惑わし続けている悪魔である。このことはすでに12章の9節で、「巨大な竜、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれている全世界を惑わす古い蛇」という言葉が出てまいります。だから、この竜はですね、長い間働いてですねえ、いろんな話の中に出てくるんでしょうけど、悪魔のことなんですね、実は。
そして「海」とは人類であると、この前お話しました。
そして「海から上ってきた獣」とは、人類の中から悪魔の手下となって働く強力な人物、例えばヒットラーであるとか、東条であるとか、獣がヒットラーとか東条ばかりではありませんが、しばしば背後に国家権力というものを引き連れている。
ヨハネは13章1節で「一匹の獣が海から上って来た」と言っていますが、13章の11節では「もう一匹の獣が地から上って来た」と言っています。今度は「地」から上っているんですね。次から次へとどこから上ってくるのか分からなくなっちゃうんですけれども、これはこの獣は一匹だけではないようですね。次々出てくる。
つまりこれは何を言っているかといえば、ヨハネの時代にはヨハネの時代の獣がいた、現代には現代の時代の獣がいる、というように各時代によって、神と神の民を攻撃しようとするサタンの手下が次々と現れてくる預言であったわけです。
こうもひっきりなしに次々と悪い人物が現れるものか、と思わされるほど人間の世界には悪玉が次々と現れてくるんです。教会の2000年の歴史を見ますと、よくもまあ獣のような人物が、神に逆らう人物が現れた。現れなかった時代が100年もないと言われている。ある歴史家は、世界に戦争が起きなかった時代は100年もないと、人類史上にです、と言っていますけれどもね。それどころではないんです。神に逆らわなかった時代は10年もないんです。
Ⅰ.さてこの「海から上ってきた一匹の獣」の幻は、一体どこから始まるのか
というと、ダニエル書の7章のダニエルが夢のうちに見た幻、これをもとにしてさらに多様化したものである、ということが分かります。
1.ちょっとダニエル書を見てみましょう。
皆さんよくご存じでそれほど詳しくお話する必要はないと思いますが、ダニエル書7章の最初の所を見ますと、ダニエルが夢を見ているんです。寝床で一つの夢を見た。4頭の獣が出ているんですが、大きな獣が海から上がってきた。第一のものは獅子のようで、第二の獣は熊のようであり、そして豹のような獣とあるんですが、黙示録13章2節でも「ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。」と書いているんですね。こういうのをみますとダニエル書の第7章の幻と匹敵するようなものであるなあと、しかも、もっと複雑化しているなあと分かるんですが、そしてですね、ダニエルの方は4つの帝国を表していた。
すなわちバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの四大帝国をこの4つの獣で表していたわけですが、ヨハネの幻はそれとよく似てはいますけれども、四大帝国ではないんです。その後の悪の巨大帝国というべき人物の預言。すでにバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマはすでに過去形になっていたわけですがね。しかしヨハネの幻はこれから後に来る帝国のことであります。こういうことが分かります。このヨハネの海から上ってきた獣の幻は、ダニエル書の幻の上に立ってさらに複雑になっている、といことが分かる。ですからこういう幻というのは、根拠がなくてここに書かれているわけではない。
2.もう一つ、私たちはこの幻について注意を払うべき点があります。
それは何かというと、みなさんお気づきになったかどうかわかりませんが、注意して読んでいないとわかんないんです、これは。ヨハネの黙示録の12章3節のところですね、大きな赤い竜が出てきているんです。七つの頭と十本の角を持っているんですが、ここではこの七つの頭に冠をかぶっていますね。冠が頭にある。
ところが、13章1節の獣には冠はどこにあるか。それは角にある。つまり冠のある場所が移っているんですね。ちょっと読んでいたんでは気づかないんですけれども、冠が違うところに移っているな、ということが分かるんです。
竜の方は頭に冠をかぶっていましたが、獣の方は角に乗せているわけです。つまり、冠が頭から角に移っているということは、この獣に何か新しい権威が与えられていることを表している。そしてこの獣の頭には何があったか。
頭には権威の象徴である冠ではなくて、「神をけがす名があった」と書いてあります。
やっぱり手下は手下ですね。今でも最近のニュースを聞きますと、政治家の親玉みたいのがね、自分の手を汚さないで、みんな秘書がやったとか、弟がやったとか、家内がやったとか、あれ、気の毒ですね。なんか秘書の人で自殺した人もいるんでしょ?
悪の親玉というのはですね、サタンもそうですけれども、自分は権威だけ強調しているんです。自分が悪であるなんてことはね、おくびにも出さない。表面には全然出していない。
しかしサタンの手下は、神を汚すという性質をはっきりと頭に示しているんです。いつの時代でも同じです。悪の親玉は手を汚さず、家来が手を汚す。こういう法則をここに見ます。ですからそういうやり口というのは、非常にサタン的というか、悪魔的だなあ、と思うんですよ。彼は権威を角の方に移してある。なんか違ったことをやるんです。
3.第2節は、「その獣は見たところ、ひょうに似ており、足は熊のようで、口は獅子のようであった。」
これは、獰猛(どうもう)な獣に例えられているんですが、この人物は、獣というのは人物ですからね、いかに極悪非道なことを平気で行うことが出来るか、ということを表している。昨今まさにこういう人物に似たような人が増えてきていますね。
倫理性を欠いた人間というのは、良心が焼き金で焼かれたと言いますかね、神に逆らい、罪を犯しても少しも良心が痛まない、こういう人物が増えている。
要するに良心がない人間と言いますかねえ、これ、人とは言えないんですけれども、良心に呵責を覚えない人が増え続けている。こういうのは非常に危険ですね。こういう人はやがてサタンの号令の下に集まって獣の部下となり、神との戦いをする人物になっていく。恐ろしいことだと思うんですよ。現代人の良心の呵責を覚えない人格的に欠陥のある人間が増えてきている。
サタンである竜は、この獣に自分の力と地位と大きな特権を与えた。ですから非常によく似ている。実質的には竜と獣は同じ特色を持っているんですね。自分はやらないで、地上の悪の塊であるような人間にこういう力を与える。しかしね、実はここに獣の弱さがあるんです。何が弱いかと言いますと、結局この獣というのは自分ではほとんど何の力もないってことなんですよね。竜から力をもらわなければ何の力もない。
悪の帝国を背負う人物というのは、自分が世界に君臨しているかのように豪語しますけれども、彼は本当は月と同じでですね、太陽が照らなければ熱も光も何も出す力を持っていない。ですからクリスチャンはそれを恐れる必要はない。ライオンが吠えていましてもね、檻の向こうにいるのと同じなんです。獣の弱さはそこにある。強そうに見せれば見せるほど、自らの力のなさを表す。ですから私たちは表面に見るこの悪の勢力に驚いてはならない。しかし「全地は驚いて」と書いてありますねえ。
みなさん浄瑠璃の人形ってご存じですか。後ろで黒子が手足を動かしていますね。いくら人形と戦っても人形を倒すことはできないわけですよ。後ろの人間が動かしているわけですから。人形を倒そうと思って人形を倒してもダメなわけで、後ろの黒子の人間が倒れれば人形も倒れるわけです。ところが私たちはしばしば相手の人間を憎んで、その背後で動かしていることに全然気が付かないから、何度やってもダメなんですね。同じことを繰り返しているっていうことが良くわかるんですよ。
この背後に竜がいるんです。獣は何の力もない、人形と同じでね。影なんです。影と戦ったらこちらは勝ち目がない。人形や影を動かしているサタンである竜と戦わなければならない。だから、パウロはエペソの6章12節で、もうすでに彼は見抜いているんです。パウロは本当に物事を見抜いた人間だなあと思うんですが、ちょっと聖書を読んでみましょうかね。
エペソ 6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
血肉というのは血肉を持っている人間のことですね。つまり、「人間と戦っているんじゃなくて、その背後にあって、主権、力、暗闇の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊、悪魔とその子分たちだ」って言っているんです。要するに人間の心を支配し、悪の力を動かしているもの。これと戦っているんだ。これ、今の私たちも同じなんですよ。
人を見て失望したり腹を立てたりするっていうのはこれ人形浄瑠璃を見てね、腹を立てたり喜んだりしている人と同じです。人形が上手なのではなくて、本当は後ろでやっている人が上手なんでしょうね。ですから私たちもそうなんです。人に対して腹を立てたりどんなに怒ったりしても、結局は勝利を得られないと。
サタンはいくらでも人間を取り換え引き替えして私たちを攻撃することが出来るでしょ。向こうは、人形ですからいくらでも疲れないんです。こちらはついに疲れ果ててしまう。サタンは私たちが疲れ果てるのを待っているんです。ついにサタンの前に敗北するようになる。実際には獣の弱さがあるんですが、これが人形であり影であるということを見抜けないと私たちは勝利を得られないんです。
サタンを倒せばこの世の神に逆らう悪というのはすべてが一掃されてしまうんですよ。政治家を取り替えたりね、権利を取り替えたり、何かを取り替えてもダメなんです。サタンを倒さない限り、世界に平和は来ないんです。ですから私たちの戦いというのは、人間の戦いとは、悪魔との戦いであるということ、特にクリスチャンは忘れないようにしたいんですねえ。
まあ、このヨハネの黙示録を見ますとね、サタンだの、竜だのいっぱい出てきますでしょ。だからこの話をするのは一番疲れるんです。ヨハネの黙示録をやるようになってから、体の調子がうんと悪くなったんです。いやあ、まあこれは相手を心得ておりますので、やっぱりこれは気を付けなくてはいけない。
私たちは最後の勝利を目指して、この戦いを続けなければならない。目に見えるものとの戦いではなくて、目に見える人間を支配している者との戦いである。ですからこれはですね、武器といってもこの世のミサイルとかそういった武器では戦えない。
どうかこれらのことを見抜いて私たちは毎日の生活をさせていただきたい。何との戦いをやっているのか、ということですね。
神様はこのサタンを今日にでも倒すことはおできになるわけなんですが、なぜそれをやらないのか。早々とサタンを倒せばいいんじゃないのか、解決するではないか、いつまでもいつまでも教会で伝道なんてしなくていい、サタンを倒したら終わりですから。
なぜ倒さないかというと、そりゃ、神様がサタンを滅ぼすのは簡単ですけれども、サタンに従っている者もついている者もみんな滅んでしまうわけです。
だから、神様はサタンを滅ぼすのを決めてはおられますけれども、待っておられるわけですね。このあたりはペテロが語っている通りです。ペテロがこんなことを言っていますね。ちょっと読んでみましょうか。
Ⅱペテロ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
なぜ神様はサタンを滅ぼすのを伸ばしておられるのか。サタンの餌食になっている人を、一人でも多く取り返すことを願っておられるからだ、ということですね。
まあ、狼が羊をくわえているとしましょう。どうして狩人はこの狼をズドンとやってしまわないのか。狼をズドンとやれば羊もズドンとやられてしまいますのでね。生きている羊を何とか取り返したいために、追いかけてはいるけれども、狼の口を開いて取り出すことを考えているわけですね。狼に向けてズドンズドンやれば、その周りに群がっている羊もみんな死んでしまうわけですね。
神は非常に注意深い。福音書の中を見ましても、良い麦と毒麦とが一緒にある。この毒麦を抜いてはいけないと。こう書いてあるでしょ。イエス様がおっしゃった。最後の時に御使いが来てそれをより分けるから。私たちよく分からない者がきたら、良い麦もみんな抜いちゃう。これも毒麦、これも毒麦と言って、みんな抜いちゃう。これをイエス様が心配しておられる。ですから、13章10節の終わりでは「ここに聖徒の忍耐と信仰がある。」と言われているんですが。
ですからクリスチャンもこの戦いに加わって、サタンに囚われている人をキリストに招き、天の御国に入れられるものとされることが出来る様に、キリストを信じる様に勧めていかなければならないと。
4.さて、このヨハネが幻を見たときに彼が意味していた獣は何かというと、これは明らかに当時のローマ皇帝ですね。
ヨハネの時代はローマ皇帝ですね。この皇帝はローマ皇帝ではありますけれども、いつの時代にも現れていますので、本質的には悪の権威を受け継いだ支配者たちであると言うことが出来ます。
この獣は17章に行きますと、もっとはっきりと反キリストであるということが分かりますね。その姿をもっとはっきりと現してくる。パウロはこの獣を「不法の人」と呼んでいますね。これは第二テサロニケ2章7節~10節、世の終わりの時に現れる「不法の人」のことを言っている。
Ⅱテサ 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
2:8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
2:9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
この「不法の人」とは、各時代において神に逆らう悪の頂点に至った人々のことなんです。しかし、ヨハネの時代ではこの獣の七つの頭と十本の角はローマ皇帝を指していたわけですね。
Ⅱ.4節をご覧になりますと、竜も獣も礼拝をされています。
1.ローマ皇帝のすべてが皇帝礼拝を強要したわけではありませんけれども、ほとんどすべてのローマ皇帝の時代には、七つの教会のあたりでもお話をしましたけれども、小アジアの各都市で、とにかくこの皇帝礼拝をするために、次々と神殿を建てているんです。
なぜかといったら、皇帝礼拝をしなかったらつぶされてしまうからですね。すぐにローマの軍隊がやってきて、廃墟にされてしまう。皇帝へのローマへの忠誠を表すためにね、大きな神殿を率先して競って彼らは造ったんですね。それがその国の国家礼拝、国家宗教になっていったわけなんですね。ですからこれは当時のキリスト教会にとっては非常に重く苦しくのしかかってきた脅威であったわけです。
2.こういうものであったと、当時の人は言えるわけですね。彼らは本当に忠誠心があったわけではありません。
これは今も同じですけれども、この世のあらゆる社会や宗教の中にも、自分の支配者たちに対してね、あたかも忠誠心を示してているかのようにみせていますけれども、それは自分の身の安全のためであるとか、恐怖のためであるとか、ここを見ますと、驚きや一時の関心からそうしているんですね。
頭のうちの一つが殺されたかと思うと、致命的な傷が治った。これもあとでお話しますが、そういうことのためにしているだけですね。サタンは人民に恐怖とか驚きを与えるために、圧倒的な影響力のあるように見せますね。
悪の力も非常に不思議ですけれども、悪っていうのは魅力的なものなんですね。魅力的な要素があるんです。心惹かれる人間が少なからずいるんですね。
悪ってね、非常に面白いものなんです。正義とか善なんて面白くないんです、肉の欲にはですね。そういうものなんです。だから悪の力というのは非常に面白い興味というものをもたらすんです。
大体、誘惑っていうのは面白くないものなんて、どこにもないんですよ。面白いですよ、美味しいですよってね、誘惑ってみんなそうでしょ。これは楽しくありませんよ、面白くありませんよ、美味しくありませんよ、なんていう誘惑なんてどこにもないんです。
この点は終生キリストを愛して、信頼してキリストのために生涯を捧げてきたクリスチャンの姿とは全く異なるわけですね。教会の中にも、サタンとか獣を拝む人達と同じ動機で、地獄に行くのが恐ろしいからキリストを信じるっていう人が出てくるかもしれませんが、恐怖だけで一生涯イエス様を信じるわけにはいかないんです。本当にイエス様を愛する人は、イエス様を信頼しなければ一生涯続かないんです。このあたりはやはり違いがあるということが分かります。
先ほどお話しましたが、3節の「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。」という文がありますね。
これはなんのことを言っているのか様々な憶測がなされてきた。ネロの復活説っていうのまで飛び出して来たんですね。ネロという人は紀元68年に死んでいるわけなんです。でも実際はネロは死ななかった、という話が出てきたわけなんです。
ネロの迫害というのは、どういうことから起きてきたことかをご存じの方もいると思いますが、ネロという人は非常に気まぐれな人で、ローマに火を放ったんですね。大火を起こした。その大火の罪を、自分が火をつけているんですけれどもね、クリスチャンにかぶせるわけですね。クリスチャンたちがやったんだと、ね。クリスチャンたちは恐ろしい人種だ、血を飲み、ローマを火で焼く、とね。クリスチャンが極悪非道な人間であるかのようにローマ市民に印象づけたんです。そして市民は次々とクリスチャンたちを迫害するようになっていったわけですね。
最大の迫害者であるネロは、紀元68年に死んだのではなくて、一世紀の終わりまで生きていた、とかね、一度死んだけれども甦ったんだとか、ネロ復活説を言い出す人もいたわけです。そんなことはあり得ないわけですけれどもね。この、頭の内の一つとはネロのことを言っている。ま、そんな話も出たわけですが、ここで言っていることはそういうことではなくて、実際は何のことか。
ヨハネの時代ことでありますが、ネロの時代にローマはほとんど焼けて灰になってしまったわけです。ですから、ローマは打ち殺されてしまったかのような廃墟になったわけですね。ネロの時に再建不能になったかのように見えたんですね。ところが、これでローマの迫害も一段落するように見えたんですが、ローマの迫害がそれから22年過ぎた時にね、紀元90年に今度は独裁者ドミチアヌス帝が、ネロと同じような迫害をする。
つまりネロは死んだけれどもネロの迫害心はドミチアヌスによって復活したということなんです。致命的な傷が治って喜んだんじゃなくて、この治った、というのはどういうことかというと、また迫害が始まったと言うことですね。ネロの凶暴な迫害はドミチアヌスの心の中によみがえったことを言っているわけなんですね。それで全地は驚いて、獣に従った。従ったのは喜んで従ったのではなくて、怖いぞ、というので従ったわけなんですね。このことをこの3節が言っているんです。
4.ヨハネは5節で、再びこの世の終末について言及しています。
この獣が傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられている。42カ月間行動する権威を与えられている。また、ここにも42カ月という言葉が出てきました。立て続けに1260日とか、ひと時とふた時と半時とか出てまいりますが、3年半ですね、活動する期間が与えられた。
これは明らかにローマの時代のことではない。ローマの迫害は3年半で終わっていない。約300年ぐらい続いております。これは世の終わりの時のことであります。この期間は何度も出てきましたが、女が荒野で過ごしている期間であると、二人の証人が荒布を着て証している期間と、みな同じ時期のことが言われているわけですね。
11章、12章、13章で書かれていることは、別々の時に起こることではなくて、重なって起きているということがお分かりいただけるんですね。この期間、つまり患難の期間ですね。この獣は地上の聖徒たちと戦うばかりではなくて、神の御名と、天上の聖徒たちもののしっている、ということが6節に書いてある。これは分かりますね、かつてこの竜は天上で神の地位に就こうとした。就こうとしたけれども叩き落とされたので、その腹いせなんでしょうね。でも、ののしるだけで何もできなかった。この時に最も大きな害を受けるのは、地上にまだ残っている聖徒たちなんですね。
獣は人類史上最大の権力をもって、聖徒たちに戦いを挑む。
ここを見ると、「あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」と書かれている。要するにやがて世界をですね、悪しき権力者が現れて権威を握ろうとする人物が現れる。今はなんとなくアメリカやソ連が仲良くなるような気配を示していますが、決して油断はならない。やがて地球を一握りにしようとする人物が現れる。
ですから聖書を見ると、決して安閑としていられない時代が来る。それで彼はどうするかというと、地上の多くの聖徒を殺す。つまりこの時多くのクリスチャンが殉教する。これは本当に恐ろしい時代がやってくる。これを見て、不信仰な者たちは、みな、彼を拝むようになる。獣の側について獣を拝むようになる。8節にそれが記してありますね。
しかし、獣は聖徒たちから命を奪うことが出来ないんです。殺すことはできても奪うことはできない。ですから悪の力というのは限界がある。
イエス様を十字架にかけて殺す、そこまでだったんですね、悪の力は。どんなに迫害しても、聖徒たちの体を殺すことはできても死を追いやること以上のことはできない。聖徒たちは死から甦ってくる。
悪は独特の権威をもって支配するけれども、最終的な勝利を得ることができないんですね。私たちはそういうことをよく知って生涯を送らなければいけない。
5.ここで注意しなければならないことがあります。
それは何かというと8節に「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」と書いてあります。
これだけを見ますとね、イエス様を信じて救われる者というのは、初めから神様に決められているように、まあ、読めないわけでもないんですけれども、ここはそういうことではないんです。もしそうならば、イエス様が、すべての造られた者に救いを宣べ伝えよ、とおっしゃられたのは無意味になってしまいます。最初から天国に行く人と、地獄に行く人が決まっていれば、もう福音を伝える必要がなくなってしまうわけですから。
この、世の初めから、というのは、キリストの十字架の救いの招きのことを言っているわけですよ。キリストの十字架の預言というのは、創世記3章の15節ですでになされているわけですね。
ご存じかと思いますけれども、そこを読んでおきましょうか。創世記の3章、ちょうどアダムとエバが罪を犯した直後ですね。これがキリストの十字架の預言であります。このことを、この、「世の初めから」という言葉で表している。
創3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
「おまえ」とはサタン、「女」とは女の末、ということですね。マリヤとその子孫。「彼」は「おまえ」の頭を踏み砕く。しかし「おまえ」は「彼」のかかとにかみつく。
これ、キリストの十字架のことですね。ですからね、このことを言っているんです。
はじめから天国に行く人、地獄に行く人と決められている、と考えないでいただきたい。そのこと注意していただきたい。
8節で獣を拝む人というのは、キリストを拒む人のことであります。
Ⅲ.さて、9節に移りますと、「耳のある者は聞きなさい。」
これは久し振りに聞く言葉です。
黙示録の2章から3章にかけての七つの教会への手紙の最後の部分、各々の手紙の最後の部分を見ますと、「耳のある者は聞きなさい」と繰り返し繰り返し話されていたんですね。これが久し振りに出てきたわけですが、これは迫害を受ける聖徒たちのための言葉なんです。この言葉を聞けば、ヨハネの黙示録の2章から3章にかけて書いてある、七つの教会に書かれた勝利を得る者に対するご褒美を思い起こされますね。慰めです。
しかし獣の側につく者には警告を表しているんです。
10節、聖徒たちを捕らえて剣で殺す者は、必ず神に捕らえられて、滅ぼされることになりますよ、ということですね。虜になる者は虜にされていく。剣で殺す者は自分も剣で殺されなければならない。この獣と一緒になって聖徒を殺すことになるならば、彼もまた捕らえれて殺されることになります。
ここに「聖徒の忍耐と信仰がある。」
これは、世の終末を生きるクリスチャンは多くの患難を経験しなければならなくなってくるからですね。そして多くのクリスチャンは殉教の死を通して天国に行くことになります。天の御国に入ったクリスチャンは、ほとんど殉教を経験した者が多いんです。
そういうことを私たちは心に留めておかなければならない。特に行くのに楽して行こうなんてね、思っちゃいけないわけですね。
でも、わざわざ迫害にあっていかなくてもいいわけですけれどもね。あったならば私たちは忍耐と信仰が必要です。患難に耐えるための忍耐と、そして目先の殉教などを恐れないで、信仰を全うするための信仰が必要です。殉教を見て怖くなって信仰を捨てるようにならないようにね、というのがここに警告されているわけです。
それゆえこの獣が猛威を振るうところの三年半の期間というのは、ある意味クリスチャンの信仰が根底から振るわれる試練のときであると、こういうふうに思うんですね。
こういう時に果たして、日本のクリスチャンたち大丈夫かなあと、思うんですね。すぐに獣の側についてしまうのではないかなあ、さきの戦争の時にもね、指導者に当たるような人達も戦争に賛成したりね、神社参拝に行ったり、行かないと拷問されたり殺されたりするわけです。そんなことも行われたようであります。非常に残念なことですけれども、半世紀もたたないうちにこんなことが起きていたわけです。
しかしこれから先またこういう事が起こる可能性がないとは言えない。
「しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とイエス様はマタイの福音書24章13節でお話になっているんです。イエス様の預言は当たる。
最後まで耐えるところの信仰を、勝利を得る信仰を私たちは持たせていただかないといけないと思うんです。私たちの信仰も大なり小なり、忍耐と信仰が試される試練の生涯であることを忘れないで、それゆえパウロのように最後の勝利を目指して、ひたすら走り、信仰のコースを走り終えて、義の冠を獲得しなくちゃいけない。信仰生活は最後はゴールインしなくちゃダメなんだ、ということなんですよ。
最後にテモテの第二の手紙4章6節~8節を読んで、お祈りして、閉じたいと思います。これはパウロの生涯最後の言葉であります。
Ⅱテモ 4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
彼はまもなく殉教しようとしていたんですね、彼はそのことをよく分かっていた。もう去る時が近づいている。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り、信仰を守り通した。
あとは義の栄冠が用意されているだけだ。これは私だけではなくて、主の再臨を慕っている者には誰にでも与えられる。ですから最後までその信仰を全うしてください。こう、勧めているんですね。
これからだんだん世の中良くなっていくんじゃなくて、だんだん悪くなっていく。皆さんどうですか、だんだん良くなっていくなんて思っていると、どんどん悪くなって、もう手の付けようがなくなるところまで行って、まだこれでも悪くなっていく。
どうか私たちは、この地上の生涯、どうやって閉じるのか知りません。あるいは私たちが生きている時代に恐るべき迫害が起こるかもわかりませんしね、もう少し先になって起こるのかもしれません。
とにかく何が起きても、私たちは信仰の道のりを走り終えて、義の栄冠を獲得できる信仰を全うさせていただかなければならないと思うんですね。そうでなければこれまで忍耐してきた信仰が無駄になってしまう。獣の側については決して勝利がないということを心に覚えさせていただきたい。
目の前に起きるところの様々な苦難迫害に恐れないで進ませていただかなければならないと思うんです。
お祈り
「今からは義の栄冠が私のために用意されているだけです。」
恵みの深い天の父なる神さま、私たちが住む時代は終末の時代であります。私たちは心して歩まなければなりません。そして獣はいつの時代にも現れて、この世を支配し、多くの困難を与える者であります。
しかしもう一度この最後の時には本当に酷い状況がやってくると聖書は教えております。そしてすべては聖書の通りになっていくことを、今までの時代と少しも違ったことはありません。これから先も同じであります。
どうか御霊が働いてくださり、私たちの信仰を強めてくださり、いかなることが起きても信仰をもって歩む、力強い信仰を私たちに与えてください。迫害が起きても主の信仰を捨てないで、あなたの道を歩むだけの忍耐と信仰が必要であると聖書は教えています。ヨハネのようにそういう恵みに満たされますように。
イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明