音声と文書:ヨハネの黙示録(52) サタンの捕縛と千年王国 20:1~6

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PDF文書:ヨハネの黙示録(52)

ヨハネの黙示録 20:1~6
20:1 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
20:2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、
20:3 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。【新改訳改訂第3版】


上の絵は、Douce Apocalypse(Douceによる絵解き黙示録の写本)の挿絵「Dragon enchained(竜は鎖で縛られた)」1265-70年頃のもの。(イギリス、作者不明、Wikimedia Commonsより)

はじめに

このあたりになりますと、もう未来のことでありますから、みなさん各々が行って、確かめてもらうということなりますね。
地上で私たちが知ることができるのは、限りがあるんですね。限りがある範囲内で、この聖書のことばを学びたいと思います。

20章からはいよいよ世の終わりの出来事が始まります。
アダムとエバがエデンの園で神に反逆してから、長い間、神と悪の勢力との対立抗争が続いてきました。それが間もなく終わろうとしている。
何千年にわたる対立抗争がいよいよ終わろうとしている。
何かホットするような章に入ったという感じがしますね。

Ⅰ.1節をご覧いただきますと、「底知れぬ所」という言葉が出てまいります。

黙 20:1 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。

A.実はこの「底知れぬ穴」というのが、9章にありましたことを思い出します。

20章1節では、御使いが、「底知れぬところのかぎと大きな鎖」を持っていますね。この「かぎと鎖」は、あることを象徴しているわけですが、、、。

9章1節を見ますと、

黙9:1 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。

「星が天から地上に落ちる」と言っています。
20章1節では「かぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来る」と言っています。

「落ちる」というのと「下ってくる」というのとでは違いがあります。
ですので、9章の御使いと20章の御使いが同じであるのか、別なのか、なかなか難しいんですね。
ある学者は同じである、ある学者は違うと言っているんですね。
「同じ」というのと「別」というのでは、ずいぶん違いが出て来てしまうんですね。

20章の御使いの方を見ますと、明らかにサタンを穴の中に閉じ込めるために、天から下ってきたということが分かります。
9章1節では「天から地上に落ちた」と表現されていますから、ある人は、この星は悪の霊だと言います。
そうしますと、この星は9章11節のヘブル語でアバドン、あるいはアポリュオンと呼ばれている、破壊者という意味でありますが、底知れぬところの御使いであり、いなごの王である。
この星は閉じ込めるためではなくて、底知れぬ穴を開くために来ている。いなごがどんどん出てきて人間を破壊する。

9章の方と20章の方とでは、全く反対のことをしようとしていることが分かります。
ですから、どちらにとっても、決定的な要因を見出すことができませんけれども、9章4節を見ますと、出てきたいなごが害を加えるのは、額に神の印を押されていない人だけとなっていますから、あるいは神の御使いかもわかりませんし、あるいは神様はですね、アッシリアとかバビロンの時のように、敵を用いて神の民イスラエルを罰することもありますので、神のみ許しのもとに、人間を破壊することを許された堕落した御使いなのかもしれません。

黙 9:4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。

これをはっきりと知ることは不可能ですね。
ですから9章1節の天から落ちた星と、20章1節の天から下った御使いが同一なのかどうかをはっきりさせるのは、困難な問題であります。
困難な問題というのはそのままそっと置いておかなくてはいけませんね。これをどちらかにしてしまいますと、問題が起きてきてしまいます。

B.それはともかくとして、開かれた底知れぬ穴は閉じられようとしている。
1.開かれたのが閉じられようとしている。

ある人は、この底しれぬ穴というのはどこなのかと聞きますが、これは天にも属さないし、地にも属さないところであるということしか言えないんです。
ここではサタンも自由が奪われて監禁される場所である。あとでまた解放されますからね。一時監禁される場所である。

御使いはサタンをそこに閉じ込めるために、かぎと鎖を手に持ってきたのである。 このかぎと大きな鎖が何を意味しているか。
サタンとそれに従う人は、それが何であるかということに非常に関心があると思うんですが、私たちはそれに深い関心があるような生き方をしている人間ではまずいわけですね。
イエス様はペテロに「天の御国のかぎ」を与えると約束されましたので、私たちが心配するのは「底しれぬ穴のかぎ」ではなくて、「天の御国を開くかぎ」を心配していただきたい。地獄の方に行く人は、「底しれぬ穴」のかぎの方の心配をするかもしれませんが、あんまりこちらの心配をしない方が良い。
「天の御国を開くかぎ」は、キリストの福音である、というのはお分かりいただいていると思います。

さてここは、神の権威においてだけサタンを縛ることができ、サタンを閉じ込めることができる。
「かぎ」とか「大きな鎖」は何を意味しているかというと、間違いのない言い方をすれば、神の権威である、と考えておいていただければ間違いがないと思います。

人間にはサタンに勝つ力はありません。
私たちは、イエス様の十字架の中に留り続けるか、聖霊の力を頂いている時だけ、サタンの攻撃に勝つことができる。
私たちはこの条件付きの時だけ、サタンに勝つことができるということですね。
ですから、不用意にサタンの誘惑に近づかないということは非常に大事です。

不屈の闘将、山中鹿之助が「我に七難八苦を与えたまえ」と月に向かって祈ったそうですが、そういうことは良くないと思いますね。サタンと戦おうとしてはいけない。
イエス様も「主の祈り」の中で「試みに合わせたもうな」と祈りなさい、と教えていますから。神様の権威なくしてサタンに勝つことはできない、ということを私たちは十分に心に留めておきたい。そうしないと非常に大きな問題を引き起こしてしまう。

ある人がデパートに就職したんです。
私は、あんまりデパートなんかに就職しない方がいいと思いますね。
昼休みにね、上から下までどんなものが売っているか見るんですって。見るとね、全部買いたくなるっていうんです。君が定年まで働いたって、全部を買うことはできないよ、昼休みに見に行くんじゃないよ、っていう話をしましたけれども。
しかし話を聞きますとね、現実にはデパートで働いている多くの人は、買い込んでいるようですよ。給料から前借りして買うものだから、給料日に支払わなくてはならないことがあるんだそうです。

サタンの誘惑は大変なことなんですね。ですから私たちも気を付けなくてはいけない。
神様はサタンを縛り付ける唯一の力をここで発揮された。

2.なぜ神様はこの日までサタンを監禁しなかったのだろうか。

もうちょっと早く、サタンを縛っていてくれたら、誘惑に会わずに済んだのにと思うわけですけれども、今までもサタンは完全に自由にされていたわけではありません。
ヨブ記の1章と2章を読みますと、サタンは許された時だけヨブに試練を与えていますね。神様のみ許しのもと、神様の制限のもとにしか、今でもサタンの行動はできていないわけです。
それにしてもこれまでの間、サタンは人類に最大の悪を働いてきました。
なぜ神様は、それを許されたのか。

この答えを出すのは非常に難しいわけです。
その一つの答えは何かというと、人間が神に反逆して罪を犯したからだと言っていいと思います。
神様はサタンを解き放っておくことによって、人間が各々神の道を選ぶか、サタンの道を選ぶか、自由意思で決定することを求めておられる。サタンを縛ったら、信仰がいらなくなってしまいますからね。

世の中を見ましても、潔い道を歩む者はますます潔くなるし、サタンに従う者はますます汚れた者になっていく。
ヨハネの黙示録22章11節でもそう書いてありますね。

黙22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

これがその答えであろうと言うことができますね。

神様はサタンを今も制限のもとに置かれている。サタンは完全な自由を得ていないということです。
ですから私たちはキリストのもとを離れなければ、守られるということですね。

3.2節を見ますと、神様は千年の間サタンを縛っておられる。

黙 20:2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、

これもまた、なぜ千年なのか。これはおそらく、神様は千年を一つの単位とお考えになったからではないかなと思うのです。

ペテロはペテロの第二の手紙3章8節で

Ⅱペテ3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

と言っていますから、千年を一つの単位に区切っている。

モーセも詩篇90篇で同じように言っていますね。モーセの祈りの言葉ですね。

詩90:4 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

昔は、ひと時というのは2時間ぐらいのことを言っていたんですが、夜回りのひと時というのは結構長いですよ。昔は冬になると「火の用心」なんて言って回ったことがありましたが、長く感じられる時間でしたね。寒くてね。2時間というのは長い。

これは、時間という制限のなかで生きている私たちには理解しがたいことで、千年というのはずうっと長いように思いますが、神様には時間という制限がないわけですね。
時間の制限がないということは、人間にはほとんど理解できないことです。神様はお年をとられないんですね。

ですから、やがて私たちが天の御国に行けば、時間に制限されないようになるわけですね。そこでは永遠を経験しますから、千年が一日のようであり、一日が千年のように実感できるだろうと思いますね。
今の私たちは時間の中に生きていますから、実感できないでしょう。そうは言っても、やはり千年は長いと思いますね。
やはりこれは時間制限のない永遠の世界に行ったときだけ、実感として理解できることですね。

4. 3節を見ますとサタンは千年の間、底知れぬところに投げ込まれ、閉じ込められ、さらに封印される、と書いてあります。

黙 20:3 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。

この封印という言葉も懐かしいですが、6章で七つの封印が次々と解かれていった記事を読んでまいりました。
その時は封印が開かれたわけです。開かれるたびにわざわいが続出した。
しかし、ここでは封印が貼られて閉じられようとしている。全ての悪が閉じ込められようとしている。

サタンはもはや、聖徒たちを惑わすことができなくなってしまった。

千年王国の間はね、誘惑っていうのがなくなってくる。
みなさん私たちは今、誘惑にあっているんですよ。誘惑がなかったら、どんなにか気が楽に過ごせるかと感じますね。

誘惑がない世界、これ、千年王国の一つの特徴です。
おなかがすいてラーメン屋さんの前を通っても誘惑を感じない。
何故かラーメン屋さんというのは、ぶわーっと湯気をこちらに出して来ますね。焼き鳥屋さんの前を通っても、バタバタと臭いをこちらに向けてきますね。
客を引き付けようとしているのかもしれませんが、千年王国では誘惑を受けない。そういうのに誘惑されたいという人がいるかも知れませんが。千年王国では、聖徒たちは不信仰に誘惑されることがないということです。

そのあとでサタンはしばらくの間、解き放たれる。このあたり複雑ですね。
縛ったままずうっと永遠に閉じ込めておけば良さそうに思うのですが、ちょっとだけ、しばらくの間、解き放つ。
神様もこんなことをなさる、これ、非常にきわどいですね。このしばらくの間、サタンはどんな悪さをするのか。
人間の世界でいえば仮釈放みたいな感じでしょうか。仮釈放の時にまた犯罪を犯すともっとひどく罰せられるわけでしょ。

サタンというのは、完全に滅亡するまで神に対立し戦おうとする。千年の後、解き放たれたサタンはまた戦おうとする。
サタンというのは、天から叩き落されて以来、今もなお自分を神の座につけようとする、諦めていないんです。

あるお母さんが子供にね、私たちは何からでも教えられるんだよ、と言ったら、じゃあ悪魔からも教えられるものがあるのか、って子供が聞いたっていうんですよね。
そしたらお母さんがね、悪魔からは諦めない忍耐強さを学ぶことができる、って言ったんだそうです。
絶対に悪魔は諦めない。悪魔はどこまでも神様の座を狙っていた。だからお前も悪魔に倣って勉強したらどうです、って言ったって。
こういう教え方がいいかどうかは別として、確かに悪魔のしぶとさのすごさは分かりますね。

悪魔というのはその高慢においては少しも変っていない。悪魔から高慢がなくなると、また天使の長に変わってしまいますね。
それと同様に人間の高慢も、なかなか変えられないということですね。神に逆らい続けている間は、決して変わらない。
ですから少しの間解き放たれても、また、サタンは神と戦おうとする。

Ⅱ.サタンの捕縛の後に、ヨハネはもう一つの幻を見ている。

これは実に素晴らしい幻ですね。
その素晴らしい幻の一つ一つが、だれがそれを受けるのかは、理解しがたいです。いろいろな議論がありますが、はっきりと特定できません。

A.4節を見ますとヨハネは、多くの座にすわっている人々を見た、と言っていますね。

黙 20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。 ・・・・・

「彼らはその上にすわった」
ヨハネはその人々がどういう人々かを言わないで、すぐ「彼ら」と言ったので誰だか分からないわけです。
ある人は、ヨハネが「彼ら」と言ったのはヨハネがよく知っている人だった、と言うんですね。
ヨハネがよく知っている人というのは、ヨハネの時代にイエス様を信じた信仰のゆえに殺された人々だった、と言うんです。
だからヨハネはよく知っていたので、すぐに「彼ら」と言ったんだという。
「あ、だれだれさんだ」というような人であったと言うんです。
そうであるかもしれないし、そうでないかも分かりません。何とも言えない。こういう意見というのは、どう考えても推測以上のものではありえません。このあたりは自分が行って、誰なのか確かめるしか方法がありません。

「彼ら」には「さばきを行う権威」が与えられていた。特別な権威ですね。
イエス様はかつて、ペテロにこんなふうに言っておられますね。

マタ16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

つまり、地上における福音宣教には、天においても効果をもたらす権威が与えられているということを示しておられるわけですね。
20章4節では「さばきを行う権威」と書いてありますが、これは結局、福音宣教の権威と関係があるものと思われます。
そして、それが完結する時の事ですね。
つまり、「さばく」というのは福音宣教に対して彼らがどう反応したか、私たちはどう反応してきたか、ということによってさばきが決まる。
この前もお話しましたが、イエス様のみことばがさばくんだ、ということを学びました。
20章の方は、今の時代、教会の時代の福音宣教が完結する、そういう意味のさばきであろう。こう思われます。ですからここに座るのはクリスチャンたちでしょうね。

B.ヨハネは4節の後半で、もう一つの幻を見ています。

黙 20:4 ・・・・・  また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

ここには、「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましい」と記されていますが、この人々はおそらく6章9節の祭壇の下にいた殉教者した方々と思われます。

黙 6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」
彼らにも特権が与えられている。
これらの人がさばきを与える特権があったかどうかは、分からない。
とにかく彼らは生き返って千年の間、キリストとともに王となった、と書いてあります。幻を過去形で書いてある。そして5節では、これが「第一の復活」である、と言っていますね。

黙 20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

この「第一の復活」がどういう意味を持っているか。これは非常に大事なわけです。
「第一の復活」がどういう意味を持っているかで、千年王国の考え方が変わってくるんですね。

一つの考え方をご紹介しておきますと、ある学者は、「第一の復活」はパウロがエペソ人への手紙2章1節で、罪過と罪との死からの復活であるといったことが「第一の復活」なんだ、と言いました。
となると、これは死者の中からの復活ではない、ということになってしまいますね。つまり、救われている、というだけの話になってしまう。
確かに罪と咎(とが)との死から生き返った者は、第二の死は何の力も示さない。確かにそうです、キリストのいのちを持っていますからね。
もし「第一の復活」が罪からの救いを意味しているとすれば、千年王国というのはすでに始まっていることになってしまうわけですね。

私が危険だと思うのは、なんでも活字にしてしまうと、みんな信用してしまうということです。今までもいろんな学者がこう言った、ああ言ったというのはありますけれどもね、必ずしもそうとは言えない。

それではクリスチャンはまだ世界を支配していないじゃないか、ということになりますね、王国ですから支配しなくちゃならない。
そうすると、これらの学者はこう言うわけです。
クリスチャンは、今はキリストとともに王として君臨しているけれどもまだ支配はしてないんだと。わけがよく分からない。
その説明は、例えばイギリスの女王は君臨しているけれども、象徴だけだ。実際に法律を作ったり、政治を支配したりはしない。日本の天皇陛下も象徴だけだ、とこう言うんです。
しかし、そんな説明で納得するクリスチャンは一人もいない。
千年王国でクリスチャンはなんの実力もない。ただの象徴の冠みたいのをね、帽子みたいのをかぶせられて何もできない。そんな王様に誰もなりたいとは思わない。

確かにここでは、神様がサタンを閉じ込めたのも、ある人にさばきを行なう権威を与えたのも、殉教者を含む聖徒たちをキリストとともに王としたのも、ただの象徴的な君臨だけではなかった、と言うことができます。これは、世界を支配するためです。
さばきを行なう権威を持って、ただ象徴で座っているなんて有りえないわけです。

ですから私たちは、神学というものにだまされないようにしなければならない。
学問というのは教会の歴史の中で形成されてきたものです。
重要で価値あるものですけれども、神学以上に重要なものは何かというと、それは、神のことばですね。
うっかりすると、異端はどうもそっちの方に走りやすいようですけれども、学問にそって、神学にそって、神のことばを理解しようとする危険性がありますね。
もし私たちが神学にそって神のことばを解釈しようとするなら、過ちを犯す危険があります。レールを敷いておいて、その上に聖書をのせようとするのは危険である。

神学は、いつも神のことばによって考えられなくてはならない。
神学というのは、人間の知恵によって整理整頓されたものである。人間の知恵の上に、神のことばをのせちゃダメなんです。
ほとんど全部の異端はそうなっているんです。人間の思想、哲学の上に神のことばをのせている。
その象徴的なのはローマカトリックの神学ですね。
これはギリシャ哲学の上に聖書をのせてしまった。トマス・アクィナスの神学ですね。その上にローマカトリックの神学ができてしまったんですね。こうなるともはや信仰ではなくなってしまう。

「第一の復活」は明らかに死者の復活です。
5節でも「そのほかの死者は、千年の終わるまでは生き返らなかった。」と書いてあるわけですからね、

そうすると、その他の死者は救われていなかったということになりますね、
そんなことではないわけです。後程に彼らも甦(よみがえ)る第二の復活があるわけですから。
そうすると、「第一の復活」は確かに罪からの救いにあずかっているわけですよ。霊的な復活がなければ完全な復活はありませんのでね。それだけではなくて、死者からの復活であることは明らかであります。
ですからこの千年王国は、キリストの再臨のあとに始まるということになってしまう。
霊的復活だけでしたらね、ものみの塔と同じようになってしまいます。

こういうような考え方というのは、ずいぶん前からある学派の人達が言い出した。聖書の解釈に多大な害を与えてきていると思います。

千年王国の前の今においては、霊的に神の王国は地上に建設され続けています。
霊的な意味でです。
しかしそれは、千年王国とは別なことだとはっきりとしておく必要があると思います。

C.ヨハネは、この「第一の復活」に与(あずか)る者の特権をうたったわけです。

彼らは激しい迫害を通り抜けた人達ですね。大いなる信仰の戦いをしてきた者たちですので、
・幸いな者
・聖なる者
・神とキリストとの祭司となり、
・千年の間、王となる
と、これらが信仰に対する報い、報酬であるわけです。
ヨハネの時代は迫害がボツボツ始まりかかった時代であります。

Ⅲ.この千年王国は私たちに何を示しているのだろうか。

神様はなぜ、永遠の御国の完成の前に千年王国を置かれたのだろうか。
千年王国なんて置かずに、一挙に天の御国、新しい天、新しい地をお造りになってしまったらよいのに、その前にワンステップ置くような、千年王国のようなものをお造りになったのだろうか。
これは注意深く聖書を学ぶと、神様の御心を知ることができるんです。
19章の初めに、小羊の婚宴がありましたね。そのあとで、獣たちに従った王たちの肉を鳥たちに食べさせる神の大宴会がありましたね。
このように神は対比しておられる。小羊の婚宴があるとともに、神に敵対した者の肉を鳥が食べる大宴会ですね。

そこで、考えてみますと、サタンと彼に従う従者たちは長い間、彼らの王国を地上に築いてきたんです。しかし、それは完全に失敗に終わった。
そこでもう一つの王国、神の王国としての千年王国を最終の滅亡の前に築いて見せているわけですね。
こうしてサタンの王国と千年王国を、対比して見せていることが分かる。
神様はそういうやり方をなさっておられるんですね。

ヨハネはこの千年王国の幻を見たときに、隆盛していくローマ帝国も必ず滅亡する時が来ることを確信した。
このメッセージは、これからさき200年も迫害を受けていくクリスチャンたちに非常に大きな希望を与えたんです。
どんどん悪の勢力が強くなっていくときに、それは必ず滅亡するんだということを彼は見抜いた。そしてその通りになってしまったわけです。

ですからここには、王国と王国の対立を示していることがお分かりいただけたと思います。
悪はどんなに繁栄していても、永遠に支配し続けることができないということを、千年王国を通して、神様は教えようとしているんですね。
やがて神の王国が出現して、神様がすべてを永遠に支配される時が来るということ。
ですからもはや千年王国では、サタンや悪者が支配することができなくなる。

ヨハネは、千年王国がいつ来るかということを語らなかった。
しかし、悪が滅ぼされ、神の聖徒たちが支配する時を、神様が来させてくださることをはっきりと語った。これが千年王国がはっきりと示しているところです。
千年王国というのは最終段階ではありません。しかし、悪の支配力が全くなくなって神の王国が出現するということです。
その時が一刻一刻と近づいている。
今、神の王国というのは表面に現れてきていない。それは、クリスチャンの魂の内側に建設されているんです。しかし、実はこのまだ見えない霊的神の王国が千年王国の基礎であります。だから神の国の建設、といっているわけですね。

今、神の国は見える部分ではどこにもない。しかしやがて、ある日突然現れる。
今は、霊的千年王国が築かれている。この世の人達は、王国が目に見えていないんです。しかし、ある日突然、世界は神の王国に変えられてしまう。
徐々に積み木のように積み上げていくんじゃないんです。見えない王国を世界中に網羅しておいて、ある日突然、現実的に見えるように変えられるんです。その時はあっという間に変えられるんですね。

神様はその霊的王国をどのように造られているかというと、神のことばがクリスチャンの心の中に深く植え付けられることですね。
クリスチャンの魂が良く実って穀物のようになるには、一人ひとりが神のことばを心に蓄えておくということ、これが霊的な神の王国である。
これがやがて、千年王国をパッと造り出す、ということになります。

神様がさばきを行う基準は何かというと、この世の人が取り決めた道徳的悪の量や範囲によってではない。
この世のさばきの基準というのは、どんな悪いことをしたか、どのくらい人を殺めたかというのが課題になりますが、神様の基準は人間が決めた道徳基準ではなくて、信仰の基準です。クリスチャンの信仰の基準が神のさばきの基準です。
神様の基準は、神を信じない人の権力とか、活動とか、勢力によってでは変えられないということです。どれだけ長い間世界を支配してきたかによらないんですね。

サタンやその仲間たちは、世界の王たちとその軍勢、商人たち、いろいろな国の国民を使って、神様を王座から引き下ろそうとしたわけですね。そしてさばきの基準を自分たちの基準に取り替えようとしたわけです。けれどもそれは結局失敗に終わってしまう。

この地上では、暗闇の王国、お金の王国が最高の権力をもつように思われていますが、依然としてキリストの権力は変わっていない。
闇は決してキリストの光を消すことはできないわけです。
この抗争の決着が千年王国ではっきりするということですね。

ですから、悪魔でありサタンである竜は、すでに底知れぬところに閉じ込められる運命にある。今も彼は完全な自由は持っていない。
私たちがキリストに留まり続けているなら、彼は私たちに触れることができない。彼は完全な敗北の運命を背負っています。王の王、主の主であるイエス様に捕らえられて底知れぬところに投げ込まれる。

サタンはこれまで、各々の時代に様々な悪の人格者を用いて、神様に逆らって、神の聖徒たちを迫害してきた。
古くはエジプトのパロから、ローマのネロ、ドミチアヌス、最近では、ヒットラー、ムッソリーニ、スターリンとか、日本では東条英樹とかですね。この人たちが大きな迫害をしてきたわけです。
今も世界で、サタンは悪の人格者を用いて聖徒に迫害を加えようとしています。しかし、それらはもはや時間の問題になってきました。全く彼らには勝ち目がないということが、今の世界は現わしていますね。

昨今、ソ連や共産国の国々の変貌ぶりがそれを示していると思います。
この70~80年間、サタンは共産主義を用いて、キリスト教を締め出し迫害してきました。その前にファシズムというのもありましたけれどもね。
しかしそういう国々においても、人々は分かってきたんです。サタンに従うことは、敗北の運命にあるということを気づき始めているわけです。そして信仰を認めざるを得なくなっている。変わらざるを得なくなる。

現代の一番の問題は何かというと、もはや共産主義ではない。共産主義は崩れかかっています。
現代の最大の問題はイスラムですね。これは非常に大きな問題ですね。共産主義よりイスラムの方が恐ろしいですよ。イスラムはコーランと剣ですからね。コーランに背く者はみんな滅多打ちにして殺してしまう。
ホメイニさん、このあいだ死にましたけれどもね。暗殺だって平気なわけですね。今の時代にサタンは共産主義を捨てたわけですね。イスラムの勢力は非常に大きく伸びていますね。彼は方向転換したなあ、ということが分かるわけですね。

いったいこれは何を意味しているのだろうか。
あるいはキリストの再臨の前の、世界最大のリバイバルの到来を意味しているのかも分からない。世界は、キリストのいのちの渦の中に巻き込まれていくところの兆しを示すものかはわからない。

ですから、千年王国はいよいよ近づいている、ということを心に留めて生活をしたいですね。
キリストとともに千年の間、王となる。その後に神様の新しい天と新しい地が備えられているわけです。まだ終わりではありません。

ですから私たちは、まずキリストとともに王となれる、そこに到達させていただきたい。すでに殉教してこの日を切実に待っている方たちもいるわけですね。私たちは、まだこの地上で戦うところの仕事が残されているわけです。
戦いを戦い抜いて、キリストとともに王とならせていただきたい。

お祈り

「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに千年の間、王となる。」
恵みの深い天の神様、やがて私たちは、主よ、あなたと共に、王としてこの世界を支配し、やがて新しい天と新しい地に向かうことであります。
今なお、この地上にあって、しばらくの間サタンが働いておりますが、しかし、主の血潮の中にいる間は、サタンは私たちに触れることができません。
どうかこれらの信仰の残された戦いを全うさせてくださいまして、イエス様、あなたと共に王としての支配の座に就くことができる様に、信仰を導いてください。
そして最後まで走り続け、良い証を成し遂げることができますように。
尊いイエスキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明