音声と文書:ヨハネの黙示録(51) 肉食の鳥と火の池 19:17~21

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PDF文書:ヨハネの黙示録(51)

上の写真は、オランダの地図作家、彫刻画家、出版家である Gerard de Jode (1509–1591) により1585年に出版された「Icones Revelationum S Ihoannes Evangeliste in Pathmo(パトモスの伝道者ヨハネの黙示録のイコン)」の一枚、「Battle of Armageddon(アルマゲドンの戦い)」(Wikimedia commons より)
Published by: Gerard de Jode. After: Jan Snellinck


ヨハネの黙示録 19章17~21節
19:17 また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
19:18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」
19:19 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
19:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。
【新改訳改訂第3版】


はじめに

黙示録も、いよいよ19章に入りました。終わりに近づいてまいりましたね。
ここは非常に凄惨というか、恐ろしいことが書いてあるところです。聖書の中でも最も恐ろしい部分の一つではないかと思います。

ここには二つの刑罰が書かれてある。
肉食の鳥、ハゲタカかコンドルのことでしょうか。
それから火の池。
この二つの刑罰が記されています。
19章のこの最後の一くくりは、最も厳しい神の審判を示していると思われます。

人間は神の憐みの時代には、神様の厳しさをあまり考えようとしない。これは人間の常ですね。
たとえば、お金の豊かな時代というのはパッパカパッパカ使ってしまってね、貯蓄しておけば何か必要になった時とか、病に倒れるとかの時にね、すぐに備えができるわけです。
あると、どんどん使ってしまう。大事な時のことを考えて、余裕のある時に備えておくということを人間はあまりしない。

いろいろな方が結婚なさる時に、私は前もって忠告するわけです。
子供が生まれるとお金がかかるようになるから、二人でいるときは比較的お金を残すことが出来るんだから、パッパカお金を使うんじゃないよ、と話をするんですけれどもね、よく分からないんです。なかなか難しいんですね。
憐れみの時代というのは、神の厳しい審判のことをあまり考えようとしない。
審判が来て慌てても、遅いということになる。
私たちは神様の憐れみ深さ、神の愛の深さを知るとともに、厳しさのことも思わねばいけない。

パウロもそう言っていますね。神様には愛と厳しさの両面がある、ということを知っておく必要があると思います。
ここの部分、19章は厳しい方を表わしていると思いますね。
イエス様は病める者、貧しい者に対して非常に深い愛を示されたかと思うと、神殿では縄で鞭を作って厳しい姿を示しておられました。
子供たちを叱っているとね、「先生は厳しいけれども、本当は優しいんだよ」なんて言われると、それ以上叱ることが出来なくなっちゃう。子供に読みとられてね。
なかなか子供もね、こちらの気持ちをくみとってね。そういうことを言われると、なかなかやれなくなっちゃう。向こうも「さる者」だと思うんです。
神様には優しさと厳しさとバランスがあると思います。

Ⅰ.ヨハネはここで、もう一人の御使いを見ています。

この御使いは、これまでのヨハネを案内してきた御使いとは別の御使いのようです。

1.17節で、この御使いは太陽の中で一人立っていました。

黙 19:17 また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、

おそらくこの御使いは太陽を背にして立っていたんでしょうね。これは象徴的な出現であると思いますね。これが何を意味しているのかは、なかなか難しい。

聖書を見ますと、太陽のことについて幾つか出てまいります。
黙示録16章8節を見ますと、第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけて、太陽は火で人々を焼くことを許された、という記事があります。

黙 16:8 第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。

この御使いが第四の御使いであるかどうかはわかりませんが、おそらく太陽をつかさどることと関係がある御使いである、と思うことが出来ます。

聖書を読んでいきますとね、一般現象と思われる中に御使いの働きがかなり多くあるということが分かるんです。
私たちは、なんでも自然が動いているかのように思います。しかし、その背後に御使いがあるということを聖書は教えています。
ここに神の支配があることを見ることが出来る。

ウェスレーという人は、秋に木の葉が一枚落ちても神様のみしるしだ、と言ったそうですが、そういうか言わないかは別としても、大事なことでしょうね。
彼は新聞を読んで、神様が世界でどのような働きをしておられるかを見る、と言ったそうです。真に、全ての中に神の働きを見ことができるんですね。

さて、この太陽の中に立っていた御使いですが、「大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。」と書いてあります。
「中天」いうのは「中」の「天」と書いてありますけれども、ユダヤ人たちは天を三つに分けています。第一の天、第二の天、第三の天とね。
第一の天というのは低いところですね。
第二の天というのは、鷲が飛んで雲が浮かぶぐらいのところでしょうか。
第三の天というのはこの空中の天のことではなくて、神の御座のことを表している。
ヘブルの思想というのは、天をそういう思想でとらえているんです。

2.御使いは「彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った」とありますが、これは命じているわけですね。

この御使いは鳥を支配する権威を与えられていた。
かつて、罪を犯す前にアダムとエバは、エデンで鳥に名前を付けたりして支配していたわけです。
今、鳥を支配できますか。なかなかできないですね。ニワトリだって支配できませんよ。卵を取ろうとすると、手をつつかれますからね。
黙示録の8章13節を見ますと、「鷲が中天を飛んでいる」のが見られます。
スズメなんかそんなに高いところを飛んでいませんね。高いところを飛ぶのは大きい鳥です。おそらく、この鳥は肉食の猛禽類であると思われます。
低いところを飛んでいるモズは蛙を食べるようですが、この鳥はおそらく猛禽類でしょうね。

3.この鳥たちは「さあ、神の大宴会に集まり」と招待されているわけです。

さきに、神様は聖徒のために小羊の婚宴を開かれました。
これに対比しているわけですね。聖徒のためには小羊の大婚宴が開かれている。一見、鳥のために大宴会を開かれたんですが、よく見ますと、これは鳥のためではなく、18節以降に記されているこの世の王たち、千人隊長、勇者たち、神に逆らうすべての自由人、奴隷、小さな者、大きな者たちのためです。

黙 19:18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」

これは彼らが宴会に招かれたのではなくて、宴会の御馳走になるためですね。変な招かれ方ですが、こういう肉が空飛ぶ鳥に与えられる。非常に残酷である。
彼らはただ肉体的に滅ぼされただけではなくて、その肉が猛禽類の餌にされた。
人間の歴史を見てみますとね、いろいろな埋葬があります。土葬にしたり、火葬にしたり、鳥葬というのもあります。このあたりから鳥葬というのが始まったかどうか分かりませんが、猛禽類につつかれるっていうのはイヤですね。残酷極まりない。手厚く葬るどころではない。

みなさん、ご存じかもしれませんが、イゼベルって方がいますね。第2列王記の9章35節当たりに出てくるんですが、イゼベルが殺された時、その死体の肉を犬が食べてしまった。

Ⅱ列王 9:35 彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両方の手首しか残っていなかったので、
9:36 帰って来て、エフーにこのことを知らせた。すると、エフーは言った。「これは、【主】がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬どもがイゼベルの肉を食らい、
9:37 イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれも、これがイゼベルだと言えなくなる。』」

しかも、あっという間に食べてしまった。死体を取りにいったら、もう骨しかなかったというんですからね。
それに比べて、ダニエルという人はライオンの檻の中に入れられて、それでも食べられなかったんですね。
こういうのを見ますと、神様の怒りというものが、いかに強いものであるかを思わされますね。
イゼベルはヨハネの黙示録2章20節で、悪の象徴としてイゼベルという名が出てまいります。

黙 2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

イゼベルの肉を犬が食べましたが、ここでは鳥が食べている。
日本に住んでいるとあまりこういうことはあまり見慣れませんが、アフリカに行くと、獣が死ぬとコンドルが集まってきて、象なんかが倒れるとアッという間に食べられてしまう。人間が行き倒れになると、あっという間になくなってしまうんです。
こういう神の裁きっていうのがあるんだなあと思いました。
神様はこの悪人たちの肉を鳥の餌にした、というのは神の怒りの激しさを表していると思うんですね。

18節を見ますと、ここに出てくる人物はこの世で権力を振るった人達ですね。

黙 19:18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」

王様や千人隊長、千人の部下を持っている人というのは多くないと思うんです。勇者、馬に乗る者の肉。
だんだんあとを見ますと、馬とそれに乗る者の肉、と書いてありますから、彼らは馬と同じになっちゃうわけです。
かつては馬のお尻を叩いていた人が、馬と同じに計算されてしまう。自由人で奴隷をこき使っていた人も、同じに扱われてしまう。彼らの死も馬や奴隷と同じになるということですね。有名人も無名人も腐った肉になってハゲタカの餌になってしまう。この地上の生涯では栄華を握っていたわけです。しかし、こうなるとどこにも見られない。

私も葬式に出ることがありますが、飾り立てれば飾りたてるほど、なんだか虚しくなってしまう。そこには美しさというものが一つもない。
最近はろうそくを立てないで、ろうそくみたいな電気がつきますがね。提灯の中もろうそくではなくて、ろうそくの恰好をした電気がつくわけです。どれもこれも綺麗にはなっていますが、本当の美しさが何一つない。

ヨハネはこの場面を淡々と語っていますが、実際のこの場面というのは私たちの想像を絶するものがありますね。
かつて日本も戦争で空襲を受けたことがあって、広島なんかもこれに近かったんじゃないでしょうかね。焼けただれて、死者が山のように積み上げられて悪臭が漂い、目も開けられない。これが展開してくるんですね。
やがて、私たちはこういう場面を見ることになる。
ある人はキリストとともにこれを見る。ある人は鳥に食べられる立場としてこれを見る。どちらに立ったらよいかはご自分で判断していただいたらいいと思います。
恐ろしさ、というのはあるんだ、ということですね。

Ⅱ.

A.19節にうつりますと、再び、獣と地上の王たちとその軍勢が現れてきます。

黙 19:19 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。

1.獣についてはしばらく様子を見なかったんですが、最後に獣が出てきたのは17章16節でした。

黙 17:16 あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。

この時には、獣は、大淫婦バビロンに反逆して倒す、ということが言われておりました。
獣は実は二人いたわけですね。第一の獣と第二の獣がいた。これは13章11~12節、16章13節にも出てきます。

黙 13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。

黙 16:13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

第二の方はにせの宗教家。にせ預言者という言葉がここ20節に出てまいります。

黙 19:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

第一の獣というのは、神に反逆する政治的反逆者であります。ヨハネの時代は迫害をしていたローマですね。その筆頭はネロですね。ネロに象徴される、神に反逆する政治家ですね。権力者であります。
かつての日本でも東条内閣がそうでした。ヒットラーやムッソリーニもそうでしょうね。ネロが死んでもネロの精神がずっと受け継げられている。世界の歴史を見ますと、人は代わるけれども精神は生き継いでいるわけですね。だから獣はずっと生き継いでおる。

第二の獣というのは、ローマ皇帝の皇帝礼拝したドミチアヌス。
彼は預言者ではありませんでしたが、宗教を利用することによって国家権力を果たそうとした。ヨハネの時代は彼を意味していたわけですね。
つまり、ローマ帝国国家統一という大義名分の上に、政治家たちに宗教が利用された。
日本でもそうですね。神道という宗教を利用して国家統制をしようとした。これも惨敗に終わりましたけれども。
今も政治家たちは宗教を利用しています。それに加担する人達が第二の獣です。今も私たちの知らない背後で選挙に加担しているわけです。政教分離なんて言いながら、現実にはそんなものではない。

ですから第一の獣と第二の獣は、政治家と宗教家という特徴はありますけれども、そこにはほとんど区別がなくて、ある時は同一人物が両方を兼ねているということもあります。ドミチアヌスというのはそういう人ですね。政治的権力者であり宗教的権力者であった。独裁的な迫害が起きるときはこういう傾向が強くなってくる。かつての日本にもありました。

2.さて、彼らは地上の王たちとその軍勢を連れて、戦いに来るわけですね。

その軍勢と神の軍勢が戦いを交える。11節~16節で、この前見ましたね。

黙 19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

「忠実また真実」と呼ばれる方、「神の言葉」と呼ばれる方、「王の王、主の主」と呼ばれる方、そのお方の軍勢に対して戦いを挑もうとしている。
この戦いは一体どのような戦いなのか。
ある人はハルマゲドンの戦いであるという。
ハルマゲドンの戦いというのは、黙示録の最後に出てくる戦いだと言われているわけですが、ある人は20章8節にあるゴグとマゴグの戦いであるという人もある。

黙20:8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。

ゴグとマゴグが具体的にどこであるかということは、判定しにくいわけですがね。
このハルマゲドンの戦いと、ゴグとマゴグの戦いが同じものであるのか別のものであるのか、よく分からないんです。
しかし、分かることは何かというと、この地上での最後の戦いであるということは事実です。
人類史上、戦いは何回行われたか。
夫婦喧嘩から言うと無数ですね。
この後は戦いがなくなります。神様が敵対する者を全部滅ぼしてしまうからですね。
この時が来るまでは、地上には真の平和は来ないんです。いろいろな平和運動というものがありますけれども、真の平和は来ない。

私たちは、それまではどうしたらよいかというと、各々、自分の内に神の平安を宿すことである、ということです。それしか得られないということです。
この地上でサタンが働いている間は、最終的な平和には到達しない。
この戦いがどのくらい続くのかはわかりませんが、いろいろな聖書を読み比べてみますとね、どうもこの戦いは実際には行われないようですね。
始まるか始まらないかという時点で、獣が捕らえられてしまうようです。

20章8節を読んでいただきましたが、ここにゴグとマゴグの戦いが記されていました。ハルマゲドンの戦いと同じであるなら、9節を見ますと、彼らは地上の広い平地に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛された都を取り囲んだ。すると天から火が下って彼らを焼き尽くした、と書いてありますから、まさに砲火を交えようとする、今風に言えばまさにミサイルを発射しようとするその時に、天から火が下った。
取り囲んだ時に彼らは火に焼き尽くされてしまう。

黙 20:9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。

ですから、実際には、聖徒たちと獣の軍勢との戦いというのは起こらない、ということになりますね。しかし、そこには、歴史上最大の緊張状態が生じるでしょう。

よく、皆さん、ニュースでお聞きになると思いますが、ミリタリーバランスっていうのがありますね。軍事力のバランスで平和を保っている。
防衛庁の人の話をよく聞くとね、得意げになって言っていますね。中期防衛力がどうだ、こうだとかね。あんなの一つやめるだけで、どれだけ豊かになるか。
アメリカもソ連も大変なんですよ。ちょっとしたお小遣いなんかでミサイルなんて作れないわけなんですよ。作ったらまた、作った以上にお金をかけて分解しなきゃならないんでしょ。あれ、大人がやってるわけです。子供が積み木で作ったのを壊すのは簡単ですけれどもね。
作るのに研究者を何千人も使って教育して費用をかけて、今度はうんとお金をかけて分解する費用と教育をする。何してんのかなあ、と思うんですよ。立派な大人がすることかと、思うんですよ。彼らは緊張状態を作り出して、ミリタリーバランスなんてあまりたいしたことではないと思うんですよ。

それは大戦争になる前に終わってしまうようですね。
この方法はですね、いつでも今でも神様がおとりになる方法で、実際は戦いをしない。
私たちもこれを知っていると、神さまを信じて従順に従ってまいりますと、たとえ緊張状態になりましてもね、神様に委ねていると、問題というのは爆発する前に解決されていく、ってことをしばしば経験する。
これは神様が採用されるいつもの方法ですね。戦う前に終わるわけです。日本の先の戦争を見ると、あれは愚かだと思いますね。やめておいたほうが良かった。
だから、最後の戦いもその方法で行くだろう。
だから、みなさんも戦いを交えてはいけません。神にゆだねておくと戦いは終わる。
これは世界大戦争も夫婦喧嘩も同じですからね。戦いを交えちゃったらいけない、お互いが損をしますからね。
神様は最も知恵深いお方ですからね。人から挑戦を受けて真正面から受けるお方ではないんです。戦う前に滅ぼしてしまう。私たちはよく心を留めておきたいですね。
緊張状態が続くと私たちは震えあがりますけれども、恐れる必要はありません。神様は戦う前に勝利をお与えになる。

B.さて20節にうつりますと、獣は捕らえられて打ち負かされる。

黙 19:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

また、獣の前でしるしを行い人々を惑わしてきたにせ預言者も捕えられてしまう。どうも、このにせ預言者というのは、政治家の手下のような感じがしますね。
捕らえられたのは政治的指導者や宗教的指導者の二人だけではない。後に、二人は特別扱いされますがね、額に獣のしるしを受けた者、獣の像を拝んだ者も一緒に捕らえられてしまう。獣を礼拝した人達ですね。
おそらく、この人達は「私はにせ預言者にだまされた」、と言い訳するでしょうね。人間ですから。捕らえられるということは、こういう言い訳が通用しない、ということを示しているんです。

ですから、私たちは、自分の宗教を選ぶのに慎重でなければならないということです。
普通一般の方が宗教を選ぶとき、どんな風にして選んでいるんでしょうか。

大勢みんなやっているから。
日本は仏教の国だから。・・・ほんとに仏教の国ですか。
日本は神道だから。
得するから。・・・御利益(ごりやく)宗教というのもありますね。

私たちはどれが真実であるか十分に確かめて選ばなければならない。選択には責任が伴うということです。このことを忘れないようにしたい。
「だまされていた」という言い訳はこの時は通らない。

C.にせ預言者の二人は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれるんです。

「火の池」、と出てきますが、これはヘブル語でゲヒンノムということばから 出ているんです。地獄を表す言葉です。ギリシャ語でゲヘナ。
お聞きになったことがあると思いますが、ヨシャパテの時代からヒノムの谷というのがあります。ヒノムの谷というのはゴミ捨て場であったわけです。

東京に夢の島っていうのがあって、今ではもう本当に夢の島のようになっているんでしょ。埋め立てて高層ビルが建っているんでしょ。
この間、夢の島で火災があったんですか? 私も一度ゴミ捨てに行ったんですけれども、当時はネズミがぴょんぴょんして、風が吹いてくるとすごい臭いでしたね。その上にコンクリートをしてまたゴミを捨てる。
ゴミを燃やしているんですけれども、煙がワーッと来て、長いマスクをした人が長い竿でやっている。ネズミがぴょんぴょん飛んでね、大変でしたよ。二度と行きたくありませんね。

ゲヘナはそんなものじゃない。
犯罪人の死体もしばしばこのゲヘナに捨てられた。
それから、ユダヤ人たちはだんだんとヒノムの谷を、地獄を表す言葉になっていった。ゲヒンノム、火の池と呼ばれるようになったんですね。
彼らは生きたまま地獄に投げ込まれる、と書いてある。これは恐ろしいですね。肉体の滅亡だけではなくて、霊的滅亡の場所でもある。
これで地獄というところがどういうところか、おおよそ見当がつく。

イエス様は、この地獄がどのようなところか、かいま見せてくれている所が、ルカの福音書16章22節から31節に書いてあります。

ルカ 16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

ここにはハデスという言葉が出てきます。
これは最終的な地獄ではありませんが、質的には同じです。
金持ちの人も死ぬわけですね。貧乏人も死んで、御使いがちゃんとアブラハムの懐につれていってくれた。
日本では死ぬと三途の川を渡らなきゃいけないとか、迷っちゃいけないとか言いますけれども、聖書を見るとそういうことは全然心配しなくていいんですね。
息を引き取るとね、御使いが来て連れて行ってくれる。道に迷うことはないんですから、提灯なんて持たなくてもいいんです。
金持ちの方は大変ですよ。御使いが間違いなく連れて行ってくれたのは良かったけれども、ついたところはハデスですよ。これは確実にゲヘナに行くということです。
ここは肉体的な苦しみばかりではなく、霊的刑罰の場所でもあるということです。しかし、ここからは引き返すことが出来ない。
ですから、私たちはこの地上にある時に、どういう信仰を待たなければいけないかよく考えなければなりません。火の池、彼らは永遠にそこで過ごすことになる。栄えに栄えた悪の帝国は、滅亡していくわけです。

Ⅲ.さて黙示録の方に帰りたいと思いますが、21節の「残りの者たち」とは、獣のしるしを受けた者、獣を拝んだ者たちのことです。

黙 19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

すなわち、獣に騙された一般の人達です。これは大勢いますね。彼らは必死に抵抗するようですね。もはや悔い改めの心を失っているようですね。人間の心というのはある程度固くなりますとね、柔らかくならない。もとに戻らない。
獣が火の池に投げ込まれるのを見て、激しく抵抗しているんだと思いますね。でも、彼らは釈放されることがない。

1.彼らは、「馬に乗った方の口から出る剣によって殺され」と書いてあります。

「口から出る剣」とはすでにお話しましたが、神のことばです。
イエス様はある時、「人が生きるのはパンのみによらず、神の口から出ることばによる」ということをお話になりました。神のことばは人の魂を生かし、養うことでした。
しかし、それはイエス様を信じ主に従う者に対してです。

イエス様はもうひとつこうも言われましたよ。

ヨハ12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

実に、この主のみことばが成就するのが、19章の21節です。

黙 19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

ことばというのは非常に恐ろしい。
イエス様は武器で人を殺したりしません。武器で人を殺すのは、ことばに権力や力を持たない人間がすることです。首を絞めたり、ナイフで刺したり、ミサイルを飛ばしたりするのは、ことばに力がない人間がすることです。
神様は天と地を創造された時も、みことばでなされました。命を与えて生かすのも神。この神様が「命よ、去れ」と言ったら、すべての生き物を殺してしまうこともできる。
ですから、イエス様がみことばで彼らを殺すのも少しも不思議じゃない。
人間の世界では、ことばで人を殺すことはできないわけですが、神様にとっては少しもおかしいことではない。

私たちは日ごろ、イエス様のみことばがそんなに権威があるとは考えないで聖書を読んでいるのではないかと思うんですね。
福音書を見ると、ほとんどイエス様はみことばをもってみわざをなされた。

みことばによって嵐を静めましたね。
みことばによって病をお癒しになる。
お祈りによってパンを増やされた。

ですから私たちは改めて神様のみことばの権威というものを悟る必要があると思います。みことばは命を創造する権威があるとともに、命を奪う権威もあるということですね。
イエス様は何によって人を殺すのか、それはみことばである。

2.さて、殺された者たちの肉はどうなるのか。17節、18節で、呼び集められた猛禽類の餌にされてしまう。

黙 19:17 また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
19:18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」

聖書を見ますとね、「飽きるほど食べた」と記しています。

黙 19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

私は、この世界にどのくらいの猛禽類がいるのか知りませんけれども、むさぼるように食べて満腹したということです。

今頃は、都会の鳩を見ますと、最近、豆など食べないですね。鳩にハンバーグ。鳩がハンバーグをつついていますね。鳩も肉食に変わってきていますね。
ここでは肉体の滅亡だけが記されていますけれども、この残酷な刑罰は肉体だけにとどまっていないようです。霊的滅亡に及んでいる。
生きている人間には霊的苦痛のことについて書いてもよくわかりませんから、肉体のことだけ書いてあるわけですが、霊的苦痛は肉体の苦痛にまさるものですね。
箴言の中にも、病は耐え忍ぶことが出来ても、心の痛みは耐え忍ぶことが出来ないと書いてありますね。
彼らも恐ろしい刑罰を迎えるわけですがね、20章の終わりのあたり、11節~15節のあたりを見ますと、彼らも火の海に投げ込まれることが書いてありますね。命の書に記されていない者はみな、火の海に投げ込まれた。

人間がここに陥らないためにはどうしたらよいか。
これはキリストの福音がいるということですね。
キリストの福音を表面的に知っているだけではなくて、根本的に、魂にこれを植えられる必要がありますね。それが生活の中にも浸透して行く。
あらゆる誘惑や迫害に対しても、主に忠実な態度をとり続けることが出来る様に、育てていかなきゃならない。
それは、クリスチャンにゆだねられている証と伝道ということであります。非常に重要なことである。
ここでは、この世における最後の戦いが記されておりますが、非常に凄惨な姿を記しております。肉体的にも霊的にも滅亡が控えておる。
私たちの人生の終わりがここにあったら、本当に虚しいと思います。悲惨だと思いますね。
神様のもとに行って賛美できるような生涯を送らせていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天の神様、
どのように生きたか。
王のように生きても、勇士として生きても、千人隊長として生きても、もし、この地上にあって、主よ、あなたを迎え入れなかったら、祈っている者も馬の肉と同じようになってしまう。自由人も奴隷と同じように、小さい者も大きい者と同じようになると聖書は記しておりました。
この地上にあって、いかなる特権を持ち、いかなる栄誉と栄華を極めた者であっても、神の前では恐ろしい審判を迎えることになることを教えていただきました。
願わくは、イエス様、あなたの恵みが浸透して、命の書に記され、キリストの血によってあがなわれた民として、あなたのみ前に歩ませていただける者としてください。
また、私たちをして、この大いなる裁きに陥る者を救い出すことが出来るようにどうぞ顧(かえり)みてください。
すべての者が裁きを受けることを教えていただきました。
私たちは永遠に自分の好きな道を歩んでいくことが出来ません。
最後の時が一刻と近づいています。
主の口から出るみことばによって裁かれると仰せになりましたが、主のみことばを信じる者には、命と糧とを与えてくださるものであると。
どうぞこれを受け入れる者に顧(かえり)みてください。
尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明