音声と文書:ヨハネの黙示録(57) 小羊の花嫁である聖なるエルサレム 21:9~27

下記に音声を聴き取って文書化しましたので、お読みください。
また、次のPDF文書をクリックすると印刷できます。

PDF文書:ヨハネの黙示録(57)

ヨハネの黙示録21章9~27節
21:9 また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
21:11 都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
21:12 都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
21:15 また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
21:16 都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
21:17 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
21:18 その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21 また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
21:26 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
21:27 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。
【新改訳改訂第3版】


上の写真は、オランダの地図作家、彫刻画家、出版家である Gerard de Jode (1509–1591) により1585年に出版された「Icones Revelationum S Ihoannes Evangeliste in Pathmo(パトモスの伝道者ヨハネの黙示録のイコン)」の一枚(Wikimedia commons より)
Published by: Gerard de Jode. After: Jan Snellinck


はじめに

この箇所では、私たちの霊の目がしっかりと開いて見ていないと違ったものを見てしまう、という危険性があります。
ここには聖なるエルサレムが描かれていますが、この姿をただの街並みとして脳裏に描いているとするならば、違ったことを想像していることになります。

私たちは聖書を注意深く読むことよって、この聖なる都が「小羊の妻である花嫁」を指しているということが分かるんですね。
9節の終わりのところで御使いがヨハネに、「小羊の妻である花嫁を見せましょう。」と言って聖なる都エルサレムを見せていますから、エルサレムの都市の姿ではなくて、これは花嫁の姿である。

ヨハネが私たちに伝えようとしているメッセージは何かというと、観光旅行ができるような聖なる都ではありません。
最近はいろいろな観光旅行がはやっていますが、その一つが聖地旅行と称して、エルサレムとか、ローマとか、さらには、大草原の小さな家のあったところとか、いろいろなところに連れて行こうという旅行があるようです。が、そんなのは聖地旅行ではないと思いますが、ここは観光旅行ができるような聖なる都エルサレムではないということです。

これは場所的な、物質的な、外見的な都ではなくて、ヨハネが示そうとしていることは、本質的な、霊的な、礼拝的な神との関係、交わりの深さ、親密さ、そういうものを表す都です。
ですから描写としてはある街、都市を表すような書き方をしていますが、ここでヨハネが伝えようとしていることは、「新しいエルサレム」というものの内容はどういうものかということを伝えたいんですね。

ですから、ここで「小羊の妻である花嫁」と言われたのは、キリストの血によって洗われ、潔められ、信仰を最後まで耐え忍んで全うした信仰者、それが聖なる都エルサレムであるわけです。
ですから、天の御国に入れられたクリスチャンの姿が、都の城壁がどうとか、十二の門があるとか、ということばで記されているわけです。つまり、神との交わりのことです。

ここに表されている「聖なる都エルサレム」というのは、歴史を超えていますし、物質的な環境とか、肉体的な状態とか、社会的な状況とかを超えた聖都エルサレムの本質を表わしている。
まず、ここでは霊的な本質的なことを語っているんだ、ということを念頭に置いてこの箇所を読んでいただくことが大事である。

そうしないとですね、この通りを行ったら、金銀財宝があるんだとか思ったりしてね。一つくらい盗んでみようかという人が出てくるかもしれないですね。そういうことではないんです。この城壁の土台に十二の宝石がありますけど、皆さん持っていますか? 一つ二つ欲しくなっちゃうでしょう。ならないですか? 私なんかは全部欲しくなりますけれど。 全部持ってきて奥さんに「これ見ろ。」と言って大威張りができるかなと思いますけどね。だから私はよく言っているんです。「天国に行ったら宝石が一杯貰えるから。」ってね。
しかし、ここの宝石は、実は宝石店で売っているような宝石のことではないんですね。ですから、こういう点を心に留めて読むということが大事である。

Ⅰ.都についての話しに入る前に、9節10節でいくつかの点を見ておかないといけないことがあります。

A.第一に、9節に現れた御使いに目を留めてみたいと思います。

黙21:9 また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」

ここには、「最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。」と書いてあります。
この御使いは、かつて、地上に神の裁きによるわざわいをもたらした御使いの一人ですね。

17章1節をもう一度振り返ってみますと、

黙17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。

この御使いが、ここに現れている。彼は、かつては、大淫婦バビロンの滅亡を示しました。かつて、わざわいを示した御使いが、今や最も幸いな小羊の花嫁の現れを示しているわけですね。
このあたりを見ますと、ちょうど世界で最も華やかな結婚式場で、新郎が新婦のところに現れてくるのを告げている司会者のようにふるまっているような気がしますね。
その時はもはや彼は、わざわいを下す仕事はなくなっちゃっているわけですね。

21章4節にありましたように、新しいエルサレムでは、祝福あるのみで、わざわいは全く取りさられています。
かつて、わざわいを示した御使いが、今や祝福のメッセンジャーになってその働きをしている、ということが分かります。
恐ろしいことを語っていた御使いが、最も幸いなことを語っている。これは、ここにはもはやわざわいはない、ということを表しています。

B.もう一つここで見ておきたいことは、10節です。

黙21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。

この御使いは、御霊によってヨハネを高い山に連れて行きました。
そこで何を見せたのか。

1.「聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。」と書いてありますね。

これは21章2節の繰り返しでありますが、ここでは聖なる都エルサレムは場所的ではなくて、霊的な神との関係を語っているわけですから、「天から下って来る」というのは場所が移動するということではなくて、信仰者と神との交わりの完成、すべての準備ができたことを意味しています。

この地上で私たちは信仰によって、祈りを通して神様と交わるわけですが、ここではもう信仰によって交わるのではなくて、顔と顔とを合わせて交わる。
「完成するまでの準備は全部できましたよ、整いました。」 これが「天から下って来る」という意味なんですね。
ですから、新郎である小羊は、新婦である信仰者とお会いするわけですよね。その準備が全部整った、ということです。
クリスチャンはもはやここでは、信仰によって神と交わるのではなくて、顔と顔とを合わせて交わる霊的領域、天的領域に入っていくわけです。

2.ここで私はもう一つのことをお話しておきたい。

ここで御使いは、御霊によってヨハネを高い山に連れて行って、素晴らしいものを見せてくれました。

これに対して、マタイの福音書の4章8節を読んでみたいと思います。

マタ4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

ここでも高い山に連れて行って、見せられていますね。ここは、イエス様ですけれども。悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行って、見せた。
何を見せたかというと、「この世のすべての国々とその栄華を見せた」。同じ高い山に登っても、見せるものが違っていますね。

宇宙飛行士でも宇宙に行って言うことが違いますね。ある人は、「神はいなかった。」と言ったかと思うと、「地球は青かった。」とか、「神の創造は素晴らしい。」とか、同じものを見ても随分違うようです。

高い山に登らされたけれども、目的が違っていたんですね。サタンは、イエス様にサタンを礼拝させるためであった。
私たちはここで、二つの異なったことが見せられていることに気づきます。
御霊によって見るものは常にすばらしいものですね。霊的にすばらしいものを見せられる。私たちの魂が、御霊によって満たされるようになると、いつでも霊的に素晴らしいものを見るようになりますし、それを求めるようになるわけです。
ところが、心がサタンに支配されるようになると、見るものが変わってくる。同じ高いところに登りましても、この世の富と栄華を見るようになって、そういうものを追い回す生涯を送ってしまいやすい。

勿論イエス様の心がサタンに支配されていたわけではありませんが、イエス様でさえサタンの誘惑にあった時、サタンはこの世の富と栄華を見せつけて、欲望を駆り立てようとしたわけですね。
ですから、私たちは、御霊が見せてくれるものとサタンが見せてくれるものとが違っているということをはっきり知っておく必要があると思うんです。
幸い、この21章では、サタンはもう滅ぼされていますから、こういう意地悪はしないわけですけど。
ここでは本当に素晴らしいものを見せられているなと思います。

Ⅱ.11節には「聖なる都エルサレム」の顕著な特徴が記されています。

「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」

これはですね、宝石ではなくて、「似ているようであった。」と書いてありますから、象徴的なことを語っているということすね。
この都は小羊の花嫁であります。信仰者たちの群れであり、まことのキリストの教会ですね。その特徴は神の栄光で輝いているということです。

この箇所には、素晴らしさを表すのにあらゆる宝石の名前が次々と書いてあります。聞いたことも見たこともないような宝石の名が書かれています。かんらん石なんて、どういうものなんでしょうね。見たことがないから思い浮かべることができません。
これは霊的な重要性とか、価値高さ、あるいはクリスチャン一人ひとりが経験する経験の素晴らしさ、これらを描くためにこういう言葉を使っていますね。

ヨハネはよくこんなことを思いつくなあ、と思います。後でまたお話しますが、これは旧約聖書から引用されているんです。
私たちが考える宝石のイメージとヨハネが考えているイメージとは少し違いますね。

この栄光については、23節~26節に説明が加えられています。

1.23節。「都には、これを照らす太陽も月もいらない。」

この間、金星と月と地球が重なったとか、重ならないとか言っていましたけれども、ここに来たら、そういうものはもういらない、っていうんです。そういうものも素晴らしいかもしれないですけれども、私たちはもっと素晴らしいものを知っている。

いつか子供たちをハイキングに連れて行って「楽しかった?」って聞いたら、「私、もっと楽しいものを知ってる。」と言われちゃって、「そうか。先生もだあ!」と言ったんですけれどもね、しかし、これですね。

都は太陽も月もいらない。すなわち、物質的光を必要としない、ということです。
これは地上に生きるクリスチャンにおいても霊的に同じことが言えます。キリストを内なる光とした者は、地上的物質を得る喜びとか、肉的満足とかはあまりもうたいした光にならないんですね。

太陽を神の栄光と比べて、私たちの地上における何かの喜びと比べてみると、小さなろうそくくらいでしょうか。太陽が出てきたら皆さんどうです、ろうそくをどうします? もう、役に立たないですね。太陽が輝いている時に、提灯ぶら下げて歩く人は一人もいない。そんなものですね。

ですから内にキリストの光を宿す者は、この地上における物による喜びとか、そういうものではもはや満足しない、ということですね。
人の心は本当に、地上における喜びみたいなものでは、明るくもならないし、満足させられるものではない。

アメリカでしたかね、ある孤児院に一組の夫婦が来て子どもに、子どもを引き取ろうとして、「私の家に来ない?」って言ったんですね。
この夫婦は何とかして馴染んでもらおうと思ってね、子供に「家に来ると、パトカーもあるよ、消防車もあるよ、おもちゃがいっぱいあるよ」って言ったんです。
そうしたら子供はね、「おもちゃいらない、お父さんとお母さんが欲しい」って言ったんですって。
なるほどなあ、と思って、ギャフンと言って帰っていったんだそうです。
子供の方がすごいですね。大人は、おもちゃでつろうとか、ケーキもあるよ、とかっていろいろ言うんですけれども。
人間の心は一時的に惑わされても、光にも喜びにもならない、ということですね。

ですから、人はいかなる物質的援助を得ても、外側的な助けを受けても、心の中に霊的な光を受けるまでは、決して喜びも満足も経験しない、できないわけですね。これは大事なことだと思います。
困っている時になにがしかの助けを送ってくれるということは有り難い事かもしれません。しかしもっと大事なことは、その人の心に光を与えることですね。

ペテロとヨハネが、美しの門のところにすわっている足の不自由な乞食に対して、なにがしかのお金をチャリンと投げていれば、乞食は多少喜んだかもしれないんです。でも本当の喜びに到達しなかった。
ですから人間は霊的な光を心に受けるまでは、ずうっと貪欲であり続けるということです。このことを教えられます。

太陽も月もいらない。神の栄光が都を照らし、小羊イエスが都の明りだからである。
小羊の花嫁である教会にとっては、神が光なんです。
ヨハネの第一の手紙1章5節に、「神は光であって、暗いところが少しもない。」と書いてありますね。素晴らしいことです。
小羊なるイエス様も「わたしは世の光である」とヨハネの福音書8章12節で語っています。これはみんな、神と小羊の臨在こそが都における唯一の光である。ということです。

これは今のクリスチャンにとっても、永遠の御国においても同じです。
本当に人間の心を明るくし、喜びで満たし、満足を与えるのは、神様が一緒にいてくださるということです。
人間というのは、やっぱり、本当に自分を愛し、自分を理解してくれる人がそばにいてくださることを最も求めるものだと思います。どんなに金で作った像を横においてくれたってね、嬉しくも何もない。
この光を持たない者は、神の国に入ることが出来ない。

2.24節と26節は同じことを言っているように思われます。

 黙 21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。

 黙 21:26 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。

世界の国々の民も一般の民も指導者たちも同じく、キリストによって救われ潔められた者は、この都の光、すなわち、キリストの光を持って都に入ってくる、ということです。

イエス様がたとえのお話のところでね、10人の乙女の話があるでしょ。灯の油を準備していた者と準備していなかった者とがいますね。光を灯して行くというのですが、あの時の油というのは、御霊、聖霊の油ですね。ですからあれは、手に持っているランプに灯しているのではなくて、私たちの内側に光を灯している。この時には、普通の一般の人であっても、「地の王たち」と書いてありますが、この地上でどんな地位や名誉があると言っても、それは役に立たない。それは光にならない。
その時の光は、もうこれは、キリストの光だけであります。

ある人が牧師にこんな質問をした。
「地獄には、だれがその地獄の火を燃やし続ける薪(たきぎ)を持っていくのですか」、というんです。薪がなかったら消えてしまうではないか、という話なんです。
そうしたら牧師はこう答えたそうです。
「それはね、一人ひとりの罪人が自分の罪という薪(たきぎ)を持っていくから永遠に燃え続けるんだ。」と彼は言いました。その通りであります。

ここでは全くその逆です。地上で受けたキリストの光を、各々の潔められたクリスチャンが聖なる都に携えて入るわけです。だから都は明るいですね。太陽も月もいらない。ここでは地上の地位とか名誉は、光にならない。

26節でも「人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」とあります。
諸国における民の栄光というのは、地上の功績とか繁栄とか、そういうものではありません。
日本は、世界で一等国だとか経済大国だとか、いろいろなことを言われていますけれども、そういう栄誉ではない。役に立たない。

ここでの栄光と誉というのは、キリストの福音宣教によって与えられた栄誉と威光ですね。
これは霊的凱旋門をくぐる入城行進の時、聖徒たちは次々とこの栄光を携えて、神様と顔と顔とを合わせる交わりのために入っていくわけですね。26節はそのことを言っているわけです。
私はここを見ますと、一人ひとりの光とともに、この地上でのグループの光があるわけですね。非常に素晴らしい事であります。

3.25節。ここには、もはや霊的夜はなくなります。

「都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。」

夜がないということは、霊的暗黒がない。つまり、もうここには、神との交わりの中から離れていく者は一人もいない、ということです。

ちょっと前の方に帰りますが、この都には十二の門がありますね。この門は基本的にはキリストです。
ヨハネの福音書の10章9節で、「わたしは門である」とおっしゃいましたから。
この門が閉ざされないということは、キリストとの交わりは決して途絶えることはない、ということですね。
これらがこの都の栄光の特徴であります。

Ⅲ.さて12節~22節は、この都をあたかも建築物のように描いています。

A.しかしこれらは、霊的に本質的なことを描いているわけですから、ヨハネはこの都の姿を、旧約聖書の描いている都市の姿で描いているわけです。

特にここではエゼキエル書がそのテキストになっているようです。
ですから、大きな高い城壁が出てまいりますね。旧約時代の城壁というのは、外敵から守られるために造られていたわけです。
しかし、神の国ではもはや外敵はいませんから、この城壁がそういう特定の目的を持っていたわけではありませんが、ヨハネはただ旧約的な表現によって、神様と聖徒たちの交わりが、美しくて、理想的で、完成した堅固なものであることを示しているようです。ヨハネの旧約的思想から来ていることを覚えていただきたいと思います。

B.まず、十二の門の描写について考えてみたいと思います。

① 13節を見ますと、十二の門は東、北、南、西、各方向に三つずつに分かれています。
「東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。」
この東西南北の方向は、あまり特別なことではないと思います。これは、世界のあらゆる国々の人がこの恵みに与(あずか)ることを、意味しているように思います。

② 21節に飛びますが、「十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。」とあります。
文字通りに読むと、この真珠のアコヤ貝はどれほど大きいものになるのかということになってしまいます。
マタイの福音書13章45~46節をちょっと読んでみましょうか。ヨハネはイエス様のこの話を思い出して、言っているんだと思いますね。

マタ13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

つまり、この交わりのすばらしさ、その価値高さを表しているわけですね。
天の御国のその素晴らしさ、これは地上のあらゆるものを売ってでも手に入れるんだと。
こういうことをイエス様はお話なさっておられますから、ここで真珠という言葉を使っていますのは、ヨハネがきっとこのイエス様の話を思い出したからだろうと思うのです。だからこれは、天の御国のすばらしさを表している。
この交わりは、神様と顔と顔を合わせる交わりは、得も言われぬ大いなる素晴らしい経験である、価値高いものである、ということを表しているわけですね。

③ 12節に帰りますと、そこには「十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、」と書いてありますね。
御使いは「おり」とは書いてありますが、何をしているのかは書いてありません。何をしているんでしょうか。「あなたは入りなさい、あなたはだめ。」とか言って、突っ立って門番をしているんでしょうか。
おそらくこれはね、賛美しているんだろうと思うんです。
残念ながらこの御使いたちは、この門の中に入ることができないのです。なぜなら、この門を入るということは、キリストの全き救いに与(あずか)ることですからね、御使いはそこに与(あずか)ることができないわけです。
だから御使いは、このキリストの全き救いに与(あずか)ることが出来ないですから、門の周りにいて神を賛美している、と思われるわけですね。
ですから主と最も深い交わりに入ることができるのは、御使いではなくて、贖(あがな)われた聖徒たちである、ということです。
だから、御使いたちは最も近くまでは行きました。
「それらの門には12人の御使いがおり」、こう書いてありますけれど、それ以上は、門の中に入って近づくことが出来ない。
救われた人達というのは、非常に大きな特権に与(あずか)っているんだということがここで分かります。

➃ それからもう一つ、この門にはイスラエルの十二部族の名が書いてあります。

「黙 21:12 ・・・ イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。」

十二部族というのは、旧約聖書を表していますね。
14節をちょっとご覧いただきましょう。

「都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」

十二は神の完全数ですけど、こちらの方は「十二部族」ではなくて「十二使徒」ですから、これは新約聖書を表しているんですね。
ヨハネはこの二つを通して、聖なる都エルサレムの奥義は、旧約聖書と新約聖書の上に成り立っているということを示しているんです。

私ならば、そうやって、分かり易く書きますがね、ヨハネは幻で見たものですからね、そういうわけにいかなかったんでしょう。
ですから今日、すべてのクリスチャンはもう少しはっきりとこのことを認識すべきだと思うんです。
旧約聖書と新約聖書から離れた信仰というのは、どんなに神秘的でも神の国には到達しない、ということです。この土台から外れている。聖なる都エルサレムの経験に到達しない、ということを覚えなければなりません。

C.さて、16節に進みましょう。この都は測量されております。

黙 21:15 また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
21:16 都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。

金の測りざおを持って「一万二千スタディオン」と書かれています。

エゼキエル書の40章を見ますとね、測量が出てまいります。
エゼキエルは幻の神殿を描いているんですが、ある人は、この神殿はヨハネの黙示録の神殿のことを予言しているんだ、と言っているわけですよ。ですから、測量はエゼキエルの方から出ているんだと思います。
それから、この都は四角形であると書かれてますが、この四角形の概念もエゼキエル書の42章15節~20節に書いてある。ちょっと読んでみましょうかね。ヨハネはここから得ているようです。

エゼ42:15 彼は、神殿の内側を測り終えると、東向きの門に私を連れ出し、神殿の周囲を測った。
42:16 彼が測りざおで東側を測ると、測りざおで五百さおであった。
42:17 北側を測ると、測りざおで五百さおであった。
42:18 南側を測ると、測りざおで五百さおであった。
42:19 彼が西側に回って測りざおで測ると、五百さおであった。
42:20 彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。

全部五百さおですから、正方形ですね。
しかもこの向きを見ますと、東、北、南、西、となっていますからね、これも先ほどの三つずつあるという門の並び方と同じですね。
ですからヨハネは、エゼキエル書のこのあたりを念頭においていたんだなあ、ということが分かります。

しかし、ここで四角というのは、ヨハネは、霊的本質の幻を描いているわけですから、図形的な四角形を言っているんじゃないということが分かります。
それじゃなんなのかというと、この都の性質、すなわちこの都は義であり聖である、そういうことを示している、それを四角形で表しているんですね。

これは旧約聖書を見ますと、例えば、旧約の至聖所は正方形であり、祭壇も正方形、香を焚く壇も正方形、大祭司の胸当てもみな四角であったわけです。
ですから、それは聖なるもの、神の義、神の聖、これを表していることが分かります。ですからこの経験、この神との交わりは、義であり、聖なる交わりであることが分かるわけです。

D.次に、城壁の十二の土台石に、「小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」とお話しましたが、
1.19節~20節には、その十二の土台石が宝石で飾られているということが記されています。

黙 21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。

実は、これらの宝石は、おそらくヨハネが、旧約の大祭司の胸当て、胸当ても四角形でしたが、この胸当てにつけられていた宝石にならったものだと思われます。
私たちが宝石と聞きますと、世界で一番大きなダイヤモンドは何カラットだとかを考えますけれども、ヨハネはそんなことは考えなかったわけですね。宝石っていうと、大祭司の胸当ての一つ一つに、イスラエルの部族のしるしが付けられていたわけですが、ヨハネはすぐにそのことを思い出したんですね。

これは何を意味しているかというと、聖書の真理の永遠的な輝きを表しているわけです。
この土台石は十二使徒の名である、と書いてありますがね。その土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。ですから、聖書の真理の永遠的な輝き、みことばによる霊的な輝きが永遠に輝くんだということを意味している。私たちが聖書を通して経験する光ですね。霊的な経験というのは永遠に輝く。
ですから私たちはこうして聖書を読んで、心の中に神の光をいただく。それは永遠的性質を持っているということ。これは、非常に大事なことである。それを表しています。
この宝石の輝きは、今は多少私たちはかすかであるかもしれませんが、そういう経験を少しずつしているわけですね。やがてそれが、みことばの光が、この新しい天と新しい地に行くと、これが、物凄く輝き出すということです。

2.そして、この土台の上に碧玉の城壁がある。

18節、「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。」

「混じりけのないガラスに似た純金」、よっぽど磨かれていたんでしょうね。
これはキリスト者の、永遠に完成された神との交わりを意味しています。この交わりは、妨げるところの不純物が何一つないということ。神様と私たちの交わりの間に、何か隔てるものがあるかというと一つもない。その交わりは透き通っている。そして、神の栄光に輝いている。城壁というのは、そういう意味ですね。
みことばの上に立った神との交わりはここに到達した。

これとおなじことが21節の終わりのところ「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。18節と同じですね。都の大通りも同じようですね。完成した交わりを表している。
しかし、大通りというのは、普通誰が通るんですか。人が互いにすれ違いますね。
ですからこの大通りは聖徒と聖徒が行きかうところでしょうから、そこでも人と人とのお互いの交わりに不純物は何一つなく、透き通っており。神の栄光に輝いている。
ですから、お互いに思い違いをしたり、思い過ごしをしたり、一人合点になったり、そういうような混じり気が、ここに行くともうないということですね。透き通ったガラスのような純金である。

今私たちは、地上における交わりは、これほどに完成された状態にまでは到達しません。しかしせめて、不純のない動機を持った交わりには到達できる。
この地上にあっては、動機の上では混じりけのないものであっても、ガラスに似た純金にはまだ達できない。

パウロも私たちクリスチャンが、信仰生活を築き上げていくのに木とか草とか藁(わら)ではなくて、金、銀、宝石などによって、朽ちないものによって建て上げなさいと教えています。
これは、この地上の信仰生活の完成を教えているんだ、ということが分かります。
ですから私たちは、この世的な富とか名誉によって自分の人生を建て上げていくんじゃなくて、永遠的に価値ある信仰、義、聖、愛、こういうものによって建て上げなさい。そのためには、涙とか汗とか苦しみの代価も払わなければならない時があります。
こういうことをパウロは教えてくれたわけですね。

Ⅳ.次に22節を見ましょう。

黙 21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。

1.ヨハネは「私は、この都の中に神殿を見なかった。」と言っています。

霊的本質においては、どんな豪華な大聖堂の建築物も何の意味もなさないですね。すべての窓がステンドグラスであっても何の意味もなさない。
霊的な目を持たない人にとっては凄いと言うかもしれない。けれども、霊的本質においては、どんな豪華な大聖堂を建てても、なんの意味も持たないんです。

あれは何でしたかね。モルモンか何かでしたけど、神殿を建てた。全部金張りだった。そんなもの見てもしょうがないわけです。
なぜならこの霊的な真理こそが神の都だからということです。神の都である一人ひとりの聖徒の内側に、神である主と小羊とが臨在される、それこそが真(まこと)の神殿だからです。
神殿て何なのか、というと、ビルデイングではないんです。
もし私たちが、真(まこと)の神殿ではない建物の神殿を造るならば、それは神様が宿っていない、臨在していない、ただの人の集まる教会堂を建てただけであります。
これはキリストの働きではなくなってしまう。

パウロがコリントの第一の手紙6章19節で、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮です。」と言っていますね。

この「からだ」というのはボデイではありますが、「全体としての人間」、一個の人間としてのすべてを含んだ人間のことですから、だだ身体だけを意味していません。
この私の内に神の臨在があるということ、それが神殿である。それ以外はいかなる神殿も存在しないということです。
「都の中に神殿を見なかった」ということは、ビルデイング的な神殿は神殿ではないということを言っているわけですね。

2.しかもヨハネは、うちに住まわれる神様を「万物の支配者」であると書いています。

「万物の支配者」ということばを言う時は、もはや新約時代の聖徒だけではなくて、すべての時代の、神を内側に宿した聖徒たちを含んでいる言い方ですね。ですから旧約時代も含まれておる。
「万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」
神殿は一つしかないわけです。

Ⅴ.最後に27節に、この章の締め括(くく)りとして、

1.「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。」

これは、21章8節の繰り返しですね。ここに入れる者と入れない者のリストがありました。

2.それから、「小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることがで
きる。」

これは20章12節~15節の繰り返しですね。

ヨハネは教会に対して、再び警告を繰り返しているわけです。まだすべては終わっていない、完成していないんです。完成の時までキリストから離れる者がないようにと。
また、第二の死に向かっている者があれば、「いのちの書」に記される者となるようにと、教会にメッセージを送ったわけですね。この素晴らしい交わりに与(あずか)ることができるようにと。

天の御国に関してヨハネの最大の関心は、天の御国がどこにあるか、どういう場所なのかという場所的な問題じゃあないんです。そこにどんな花が咲いているかとか、どんな状況なのか、外見的なことなんかあんまり気にしていない。霊的本質についてであります。

日本人はよく、天国には花が咲いているとか、そんな話ばかりしますけどね。咲いている花はやがて枯れるんじゃないのかと思うんですが。それは信仰の浅さ、表面的なことであると思います。

ですから、天の御国というのは、私たちがこの地上を去ってから持つものではないですね。
こういう事が分かりますと、すでに私たちは天の御国を自分の内側に持っている。
24節なんかまさにそうですね。
「都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」
天の御国の光を持っている者が、ここに到達できるということであります。

日本人の知識というのは、どうも霊的な、本質的なものではないような気がしますね。この世の渡世術に使うような便宜上のものであります。
クリスチャンは是非、この霊的、本質的なものを心に持っていただきたいと思います。
天の御国は、私たちが行ってやっと持つものではなくて、この地上から持っているもの、そういう光を持って入っていくものだということです。
神様は天の御国を、まず私たちの内側に与えてくださる。それを持って天の御国に行くことが、天の御国への到達である。

お祈り

「小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」
恵みの深い天の神様、今日もあなたが、どのように素晴らしいものを私たちに備えてくださったか、みことばを通して知ることが許され、ありがとうございます。
この地上にあっては完成の域には到達しませんが、しかしなお、その霊的な経験において、また動機の経験において、私たちは、この混じりけのない者に変えてくださることを感謝いたします。
今、光である主を心に宿しますことによって、光を携えて行ってここに到達できる主の約束を感謝いたします。
どうか完成する域に到達するまで、この地上にあって、信仰から外れることなく、あなたの道を歩ませてくださるように、最も素晴らしい交わりに到達させてくださるように、心からお願いいたします。
この時を感謝して。尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明