音声と文書:ヨハネの黙示録(58) いのちの水の川 22:1~5

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PDF文書:ヨハネの黙示録(58)

ヨハネの黙示録22:1~5
22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。【新改訳改訂第3版】


上の絵は、オランダの地図および彫刻画の製作者であったPieter Mortier (1661–1711)により作成されたMortier’s Bibleの挿絵「The tree of life(いのちの木)」。(Phillip Medhurst Collection。Wikimedia commons より)


はじめに

今日はいよいよヨハネの黙示録の最後の章、22章に入らせていただきます。

22章の1節から5節。この箇所を読みますとね、どこからお話したらよいか分からないほど、本当に恵みが満ちている箇所なんです。

随分前、ある人が私をバイキング料理に連れて行ってくれたことがあるんです。どれから食べたらよいか分からなくて、ウロウロしていたことを思い出すんですがね。この箇所は、バイキング料理どころではなくて、どこからお話したらいいんだろうかと、どこからでも恵みが溢れているように思うんです。
しかし、ある程度、順序立ててお話しないと分かりにくいですから。

1.一番最初に、ヨハネの黙示録に入る時にお話ししましたけれども、聖書は創世記から始まって、ヨハネの黙示録で完結しているわけですね。

ここはその完結する最後の章ということです。
創世記からヨハネの黙示録までの間に、神様は天地創造から永遠の御国まですべてを記された。
もっと難しく言うと、神様は有限の世界から無限の世界、一時的な世界から永遠の世界までを、この一書の中に記されました。

ウェスレーという人は「一書の人」と呼ばれましたけれども、「一書」というのは聖書のことですが、この聖書の中に天地創造から永遠の御国までみんな入れてしまっている。ですから、この聖書は全く比類のない偉大な書物であります。それを私たちは学ぶことができ、信じることができ、それに従って生きることもできる。こういうことを教えられている私たちは、最も幸いな人であると思います。

しかし、人間というのは、与えられた幸いに気づいていないわけです。
人間というのは不思議なもので、自分にない物ばかりを探すような生き方をしがちですけれども、考えてみるなら、私たちは実に多くの物を与えられている。

特にこの素晴らしい聖書を与えられているということは、本当に幸いなことです。しかし、これに気付かなかったら、聖書を読むことも、学ぶことも、信じることも価値のないものに思ってしまう。
ですから、私たちは、この幸いをもう一度これらの箇所を通して、しっかりと把握していきたいと思います。

2.もう一つ、ヨハネの黙示録の締めくくりにおける永遠の都では、創世記で失われたものが回復している。

創世記でのろわれたものがここでは取り除かれている。こういう事がはっきり分かってきます。こういうところに神の全宇宙的、永遠的な贖(あがな)いを見ることが出来ます。

Ⅰ.この箇所の前半部分の大きな特徴は、「いのちの水の川」の幻が見せられていることです。

1.この「いのちの水の川」については、聖書は多くのことを教えています。

これから少しずつ学んでいきたいと思いますが、これは明らかに「霊的いのち」を指しているということを心に留めていただきたいんです。
この「霊的いのち」は川のごとくに流れてきた。
「霊的いのち」がなぜ「川」として流れてきたのか。確かにこれは「川」のようなんですね。
それはイエス様の十字架から流れてきた。
そしてそれは十二使徒たちの魂に流れ込み、それが泉となって彼らを通して当時のローマ帝国に流れていった。ローマ帝国の人の心に流れていった。
それはさらに時代を超えて、民族や国語を超えて、無数の人々の魂に流れ込んで、私たちの内にも流れ込んできたわけです。そしてまた、私たちの内側から流れ出ていこうとしている。

ちょうど高い山に降った雨や雪が、揚子江や黄河やアマゾンやあるいは小さな小川に流れ込んでいくのと同じです。ですからこの「霊的いのち」は「川」として表現されている。聖書の中にいくつも出てきます。いくつか見てみましょうかね。

① 詩篇23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

いろいろな表現をされますが、ここでは「いこいの水のほとりに伴われる」となり、ダビデの心の中に流れ込んだ時、「霊的いのちは」は「いこいの水」であったようです。

② エゼキエルもこの「いのち」を語っている。
エゼキエル書の47章。これは非常に大事な章でありますが、ここを見ますと、この「水」は神殿の敷居の下から流れ出ている。これは、「いのちの水」の話です。

2節を見ると、だんだん流れ出ていって、3節では足首まで、4節では膝まで、腰まで、そして、渡ることが出来ない川となった、と書いてある。ちょうどこれは、イエス様の十字架ですね。それが今は、渡ることが出来ない大川となって世界中に流れている。こういう預言であった。

エゼ 47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
47:2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。

③ イエス様も、この水について2回ほど語っておられます。
これはサマリヤの女の人に話された時の言葉です。

ヨハネの福音書4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

④ ヨハネの福音書7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

この「川」というのは「RIVERS」となっていますから、一本の川ではなくて、「かわがわ」、何本もの川になって流れていくというわけですね。
ここでは「信じる者は、聖書が言っているとおり」と言っていますから、信仰と聖書というものが、この泉とか川の持つ鍵になっているということが分かります。

ですから、この「川」は人の目には留まらないかもしれない。留まる、留まらないにかかわらず、時代を越えて永遠に流れ続けてきた。これからも流れる「川」ですね。
その大きな川の支流として、私たちはいるわけですけれどもね。今、私たちはこの流れを持っていますし、この流れをさらに広く流そうとする力が、私たちの内側に働いている。

ヨハネの福音書7章39節を読みますと、イエス様は聖霊のことを言われたのであるとヨハネは教えていますから、これはすべて聖霊の働きによるものだということです。

ヨハ 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

「いのちの川」についてもう少し学んでみます。創世記2章10節から14節を見ると、これも大事なことですね。

創 2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

エデンの園には一本の川があって、四本に分かれてエデンを潤していた。その川から良質の金とか、宝石が産出していた。この川のおかげで、エデンは潤っていた。ですから、実にこの川は「いのちの川」そのものでした。

この川をもっとよく見ますと、2章の9節に、「いのちの木」が出てまいりますね。

創 2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

さらに、創世記3章22節を見ますと、「いのちの木」が出てまいります。「いのちの木」から取って食べて永遠に生きるようになる。最後の24節でも「いのちの木への道」があると書いてあります。

創 3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

ですから、この「川」「いのちの木の実」をならせていたわけですね。ところが、人は神様に反逆し、その罪によって追放された。その場所は堕落と争いの場所となっていったわけですね。

この状態は歴史を通じてずっと続いてきたわけです。
私たちの記憶に新しいところでは、チグリス・ユーラテス川の近くでイランとイラクの戦争が続いて血が流されていました。(注:1980年から1988年にかけて、イランとイラクとの間で行われたイラン・イラク戦争)
この地は古代バビロン、アッシリヤ、バビロン、ペルシャと、ずうっと戦いを続けてきたわけで、現代も戦いが続いているわけです。
ですから「いのちの水」を失った人類は、無数の殺し合いを続け、血を流し続けたということです。

しかしキリストの十字架の死と復活によって、この「いのちの川」は回復し始めました。そして、このヨハネの黙示録22章において、その回復が完成するわけですね。
人はこの水によってのみ平安に生きることが出来る。ですから、この「いのちの水の川」は聖書の中でたくさん教えられているわけですね。
これを失った人間がどういう生き方をするようになってしまったかということも、私たちは知ることが出来ます。

2.黙示録の方に帰りますけれども、この「いのちの水の川」は水晶のように光っていた、と書いてあります。

黙 22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

これは霊的いのちの回復が完全であることです。
「水晶のように光る」とは、何一つ不純なものがない、そして、神様の栄光の輝きがあることを示している。
今、私たちは内に神様のいのちを持っていますから、幾分か光を経験していますけれども、まだ水晶のようには光っていないかもしれない。
ここではもはや再び曇ることがないほどに完成している。

子供のころ、ランプのホヤ磨きをおじいさんにさせられたことを覚えておりますがね、あれは本当に面倒なことでね、いっぺん使うとすぐに黒くなってしまう。タオルみたいのを突っ込んで、大人の手では入らなくて、子供の手だとスコンと入るんです。それで中のまるいところを拭くんですけれども。(ランプを使うと)すぐに曇りだすんですね。
人間の心もすぐに曇りやすい。
しかし、ここに来るともう再び曇ることはない。

A.この川は「神と小羊との御座から出て」います。

エゼキエルは非常に興味深い預言をしております。もう一度エゼキエル書を見てみたいのですが、どこからこれが流れているか知っておきたいわけです。

エゼ47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。

ここを見ますと、神殿の敷居の下から流れ出ている、とあります。ところが、ヨハネは21章22節で学びましたが、もはや神殿はない、と書いていますね。

黙21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。

こう言っておりましたから、エゼキエルが示した神殿は、「神と小羊」を表している、ということになります。
ですからエゼキエルが示した神殿は、明らかに建物としての神殿ではなくて、究極的には、ヨハネの黙示録が言う「神と小羊」のことである。
しかも、エゼキエルは「敷居の下から流れ出ている」と言っていますね。これは意味
があるんです。

そこで私たちは、都の城壁の土台が何であったか思い出さされますね。
21章14節を見ますと、「都の城壁には十二の土台石があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」と書いてあります。
これは以前にお話ししましたが、すなわち聖書ですね。

「都の城壁には十二の土台石」、これによって何が分かるかと言いますと、この「いのちの水の川」は、「神と小羊」が源でありますけれども、神の言葉、すなわち、聖書を通して流れ出る、ということを表している。
すなわち、キリストのみことばを信じる者、聖書のことばを信じる者の内に流れ込む。イエス様もそう仰っておられました。

ヨハ7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

「聖書が言っているとおりに」と書いてあります。
聖書は聖書によって解釈するんだ、と教えられましたが、非常に大事なことだと分かってまいりました。

「キリストのいのち」というのは必ず神のことばを通して流れ出る。
これはイエス様もエゼキエルも記している。
ですから、キリストのいのちは聖書から外れて、いかなる神秘的な空想的なものからも流れ出ることはない、ということです。ですから、聖書から外れて神秘的な空想的な事を言っている人は、それはキリストのいのちではないいのちから出ているということになります。これが分かってまいりました。

B.2節を見ますと、この川は「都の大通りの中央を流れていた」と記されていますが、

これは、1節の「御座」が大通りの中央にあって、そこから流れ出ていた、というのが正しい訳のようですね。

黙 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

1.この「大通り」というのは、神の民の交わりを表していますから、神の民の交わりにはどうしても「いのちの水」が必要なんです。

昔から人間の住む所って大体決まっているでしょ。
最初から砂漠の真ん中に街を造る人なんていませんね。泉がある所とか、川のある所とか、海辺が近いとか、水のある所から人って住むようになるでしょ。
それと同じように神様の民も「いのちの水」が必要なんです。

現在、教会はこの霊的な神のいのちが乏しいために、人々の交わりが非常にこの世的になって、争いとか、妬みとか、そういう問題が起きてきている。
霊的いのちが乏しくなると、こうなってくる。
ですから、神の民の交わりには、必ず、霊的いのちが必要だ、ということが分かってまいりました。

2.「川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。」

毎月実がなる木というのは、普通はないですね。
そして、実ばかりではなくて、「木の葉も諸国の民をいやした。」
これはちょうど、エデンの園の川がいのちの木を生かし、実を結ばせていたのと非常によく似ていますね。

人類は罪の故にエデンの園から追放された。創世記の3章24節を見ますと、神様は、このいのちの木に人が近づかないように、回る炎の剣を置かれた、と書いてあります。

創 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

これは何を意味しているのか。
罪をそのままにした者が、永遠のいのちを得られないようにされたわけです。聖書は「いのちの木への道を守るために」、と書いてあります。
その「いのちの木への道」というのは、イエス・キリストですね。この道は、信仰によってしか、回復することが出来ない。
イエス様は「わたしが道である」とお話になりました。これは、「いのちの木への道」でありました。

マタイの福音書の19章を見ますと、金持ちの青年がイエス様のところへ走ってきて「永遠のいのち」を求めています。しかし彼は自分の表面的な律法を守る行いによって、「永遠のいのち」を得ようとした。それで、彼は失敗してしまいました。
この道は今も、罪をそのままにした者が、自分の努力とか、自分の功績とかで得られないように、回る炎の剣が置かれているんですね。

3.エゼキエルは、この両岸に生えている木についても興味深く語っています。

エゼ 47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

この地域というのは、ネゲブ地方とよばれている南の地方です。エゼキエルの時代は、ユダの南部のネゲブ地方は、荒野でありました。そこは荒野ですから作物なんか取れやしない。そこが緑豊かな地になることは、ユダヤ人にとっては夢のまた夢であった。
ですから、これらの預言を霊的に理解しようとする時、こういう状況、その時代の要求に目を留める必要がある。
これを理解するためには、イザヤの預言にも目を留めないといけません。

イザ 43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

この「荒地」というのは、イザヤの時代もエゼキエルの時代も、ユダの南のネゲブ地方として、実際の場所としてありましたが、それはそれとして、霊的な意味も踏まえています。
そこはやがて灌漑用水が引かれて、豊かな豊作地に変わった。その預言は成就したわけですが、それはこの地上における一時的なことであって、イザヤもエゼキエルも、さらにそれを超えて、実は、聖霊による教会の時代の働きも預言しているわけですね。

「いのちの水の川」が流れていくと、どこででもそこの水は良くなる、と書いてありますね。この「いのちの水」、イエス様のいのちが心に流れ込んだ人は、その心の中の水は非常に良くなる。
ただし良くならない場所が一つだけ書いてある。それがエゼキエルの47章11節で、沢と沼とはその水は良くならないで塩のままで残る。現実的にはそれは死海を表しているのかも分からない。

実はヨハネの黙示録の22章までを含んで、ここまで預言していたのである。ですからエゼキエルもヨハネも記している「いのちの木の実」とその「葉」は、実際に豊かな食糧であり薬であったということと共に、霊的な恵みの効用を意味している。
人は今まで教会を通し、あるいはキリストのみことばによって霊的ないのちを受けて、魂の渇きをいやし、霊的な食物を得、霊的な病や傷を癒してきたわけですね。

もう一つこの真理を語っている所があります。

詩1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

これも実はこのことですね。
どんな人が「水路のそばに植わった木」のようかというと、みことばの教えを、日ごとに昼も夜も口ずさんでいる人である。その人は実がなるし、葉は枯れないと書いてありますね。
ですから私たちはこのみことばから真理を得て、この真理を得るなら必ず実るし、葉も枯れない。このことをはっきりと体験しなければならないですね。
「その木の葉は諸国の民をいやした。」と書いてありますから、このキリストの救いは全世界に、魂の救いと癒しを与えてきた、ということを物語っているわけなんです。

Ⅱ.次に3節を見ますと、今度はのろいのことについて書いてあります。

「もはや、のろわれるものは何もない。」
A.ヨハネの黙示録には、神の都にないものがいくつも書かれています。

そこをもう一度拾い出したいと思うのですが、「ないもの」がたくさんあるんです。21章からリストアップしてみましょう。

① まず「ないもの」は、「以前の天と以前の地」、すなわち、この地上にあるもの。
それから「海」もない。「海」は恐れを表しますから、恐れがない。

黙21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

② 21章4節を見ますと、涙がないし、死もない、悲しみ、叫び、苦しみもない。

黙 21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

③ 21章22節を見ますと、建物としての神殿はもはやない。

黙 21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。

この地上でどんなに大きな建物を建てたとしても、天の御国ではなんの役に立たない。

➃ 21章23節では、太陽も月もない。

黙 21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。

⓹ 21章25節を見ますと、

黙21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

一日中、門が閉じないというのだから、扉がない、ということでしょうね。つまり、これは、神との交わりを妨げるものはない、という意味ですね。いつでも開かれ一度も閉じられない扉なんて、つけておく必要がない。

⑥ 22章5節、夜がない。これは、霊的暗黒がない、ということですね。

黙22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

⑦ 21章27節を見ますと、神に逆らう者、汚れた者、憎むべき者、偽りを言う者がいない。

黙21:27 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。

罪ある者もいない、サタンもいなければ獣もいない。その手下どももいない。

このように、ないものがたくさんあります。
そして、ヨハネはもう一つ、22章3節、「のろわれるものは何もない」と言いました。
のろいはどのあたりから始まっているのか。創世記を見ますと、のろわれるべきものが生じているところがあります。

創3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。

人類が始まってしばらくしてからのろいが始まっている、ということが分かります。
まずのろわれたのは、蛇ですね。「おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。」すでにここにのろいが入っている。

創3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」
これは、4章11節で、カインに対しても同じように言われていますね。

創4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

こうしてのろいが人類に入ってきたわけですね。
「土地」というのは、土地を耕す、ということですから、そこから食料を得る、仕事をする、ということがあるわけですが、そこから人間の生活のすべてがのろわれるようになってしまった。要するに祝福を受けることができなくなってしまった、ということですね。

パウロはローマ人への手紙3章23節で、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」と言いました。これはのろわれているということですね。
この「のろい」はすべての人の罪によって生じたわけです。

人類の歴史は決して幸福なものじゃない。のろわれた歴史であるといっても過言ではありません。
人間は何とか幸せになろうとしていろんな努力をしているでしょ。なんとか幸せに明るく生きようと。しかし人間の歴史をみると、決して明るいものではないんです。

罪がイエス・キリストによって完全に取り除かれる時にだけ、のろわれるものはなくなっていく。
ですから、私たちの生涯においても、キリストの救いの信仰がはっきりすればするほど、この「のろい」から解放されていく。「のろい」は罪の解決によってしか得られないということです。
私たちはこういうことをよく知って、生涯を歩ませていただきたい。

Ⅲ.その次に私たちは、最も素晴らしい光景を見ます。

黙 22:3 ・・・ 神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

1.ここで私たちは、天の御国の住民の姿を見ます。

彼らは「しもべたち」と呼ばれており、額に「神の名」がつけられている。
これはすでにお話してきましたが、小羊の血で洗われた人々、「いのちの書」にその名が記されている人、すべての真実なクリスチャンはこの中に入れられるわけです。

2.この人たち、「そのしもべたちは神に仕え」、と書いてあります。

この「仕える」というのは、礼拝するという意味ですね。
私たちが、御国の父の御許でなす最大の仕事は何か。それは神様を賛美し、神様がどんなに素晴らしいお方であるか、主が自分に何をしてくださったかを申し上げる、礼拝をすることです。
私たちは毎週主を礼拝するわけですが、ここを見ますと、毎日ずっと主を礼拝する。
私たちは、光といのちと従順によってこの奉仕をするわけです。

この時にはね、私たちは完全に悟りを与えられています。だから、曇った心とか、怠惰な心とかというのはもう取り除かれている。
人間というのはね、天の御国が地上の延長のように思いますがね、そうじゃないんです。毎日讃美歌を歌わなければならない、大変だなあと思う必要はない。
私たちはもっともっと神の真理を悟るようになるんです。完全な英知を持って真理を悟る。神様を知るんです。

今、私たちは神様を多少知っていますよ。もっと深く知る。神様が自分にしてくださった意味も分かります。ですから賛美が尽きない。礼拝が尽きないものになっていくわけですね。素晴らしいことです。「仕える」っていうのはそういうことを言っている。

3.さらに4節で、「神の御顔を仰ぎ見る。」とあります。

神さまの御顔を仰ぎ見るときには、私たちは神に似た者に変えられていなくてはなりません。「神の御顔を仰ぎ見る」というのは、私たちが神様に似たものに変えられていくということです。
パウロは、この地上にあっては、聖霊によって私たちは主と同じ姿に変えられていく、と教えました。

Ⅱコリ3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ヨハネもそのことを教えていますね。

Ⅰヨハ 3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

ヨハネはこの2節の終わりのところで、「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となる。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」と言っています。
イエス様のありのままの姿を見るというのは、もはや信仰ではない。顔と顔をあわせて、イエス様を見ようとすると、私たちはキリストと似た者になっていないとそれはできないということを教えていますね。やがて私たちはそうなる。
ですから今は、心に望みを抱く者は、イエス様が清くあられるように、自分も清くして生活する必要があるんです。
私たちは地上では聖霊によって、信仰によって神様に従っていく。徐々にキリストに似た者にされていく。
ヨハネの黙示録では、私たちの完全に完成した姿を見ることができますね。
ですから、「神の御顔を仰ぎ見る」とは、もはや信仰によって神に近づくことを意味していない。直接顔と顔とをあわせて、主とお会いすることができる。

詩篇17篇15節をご覧いただきます。ダビデがそのことを強く願っているんです。

詩17:15 しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。

この目ざめるというのは、目がさめて朝が来た、というよりも神の御国で目ざめる時のことでしょうね。
ダビデの切実な願いは何か。それは彼も、神の御顔を仰ぎ見たいという願いを持っていた。その時、自分は本当に満足する。
私たちは地上で、あれを食べた、あれを見た、あれをした、などと言っていますけれども、本当の満足はない。
本当の満足はイエス様のみ顔を仰ぎ見る時ですね。早々と満足してしまわないようにしたい。クリスマスが来た。ケーキを食べた。満足した。こんな程度の満足では収まらないようにしたい。もっと崇高な満足を私たちは求め続けたいと思うんです。

4.5節の「もはや夜はない」。これは21章23節の繰り返しですね。

黙 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

黙 21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。

神様の聖徒たちについて書いているわけですが、もう一つ重要なことが書かれてるのは、この5節の一番最後、「彼らは永遠に王である」
3節では「しもべたち」と言いました。これは名誉ある称号ですね。
モーセも神のしもべと呼ばれました。イエス様も父なる神からしもべと呼ばれています。神様から最も栄誉に満ちた特権を受けた人は皆、しもべの道をたどった、ということです。

このことは、イエス様が福音書のなかで弟子たちに何度も教えておられるんですね。そのしもべの道が永遠の王につながっている。

マル 10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

イエス様が教えられたしもべの道をたどれば、必ず「永遠の王」に到達できる。これしか道はないんです。この世の中で、人の上に立とうとする者は滅びる。この地上で王の地位に立とうとする者は滅びる。

しかも、ここの王はただの王ではなくて「永遠の王」です。これに注目していただきたいんです。
先に黙示録の20章4節、あるいは6節でも「王」ということばが出てまいります。

黙20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

黙 20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

4節の終わりに、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
6節の終わりにも、「キリストとともに、千年の間王となる。」
と書かれています。
どちらも千年の王、とありますが、22章5節の王は「永遠の王」なんです。千年間の王ではないんです。永遠から永遠にわたっての王である。
「千年間の王」もまた一時的なものです。しかしここでは永遠の王です。ですから、これはとても重要なことを意味しています。

私たちが王になる時、途中でやめてしまうような王ではなくて、永遠に変らぬ王ですね。ここに就かなくてはならない。
この永遠の王への道はただ一つしかない。それはキリストの死という全く悲劇的なところから出発しています。

さらに、

・この世の権力者たちから迫害を受け、
・無数の苦難を味わい、
・厳しい試練を通過し、
・自己否定、自己犠牲の道を辿り、
・時には、絶望感と悲哀を味わい、
・自分の弱さや無力さを思い知らされながら、

それでもなお信仰によって辿り着くところが、この「永遠の王座」ですね。

ですから、神様のご計画は、ここがクライマックスです。ここには悪に対する完全な勝利がある。そして、二度と奪われることがない平安と栄光に満ちている。

こうして、地上に始まったことが永遠のものに変えられています。歴史的なものが理想に変えられて完成している。

聖書は神様のご計画のすべてのプログラムをこうして描き出しているわけです。
私たちは、現代は神のプログラムのどのあたりを進行中なのかを心に留めておきたい。すでに、イエス様の十字架から二千年を過ぎようとしています。この完成の時は間近に迫っていると見るべきでしょう。
ですから、私たちは大きな期待を持って、しもべの道を歩ませていただきたい。
その行きつく所は必ず「永遠の王座」が待っているということを心に留めて、各々の信仰生涯を全うさせていただきたい。

お祈り

「彼らは永遠に王である。」
恵みの深い天の神様、私たちのために、主は偉大なご計画をして下さいました。
これはイエス様の十字架という出来事から、その生涯におけるさまざまな迫害、乗り越えるべき困難、自己否定や自分の弱さや無力さを、つくづくと教えられ、なおその信仰の中を歩きつづけた結果として、「永遠の王座」を与えられることを教えていただきました。ありがとうございます。
どうかこの座を目指して一歩一歩前進させてください。
この世の終わりも間近であります。神様のご計画のクライマックスはいよいよ近づいておりますが、信仰を持って大いなる期待を抱いて、イエス様の道へと進ませてください。心からお願いいたします。
この時を感謝して、イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明