音声と文書:ヨハネの黙示録(59) 私はすぐに来る 22:6~12

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PDF文書:ヨハネの黙示録(59)

ヨハネの黙示録22:6~12
22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。
22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」
22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。【新改訳改訂第3版】


上の絵は、ロンドンG. Newnesにより1896年に出版された「The art Bible, comprising the Old and new Testaments : with numerous illustrations」の一枚、黙示録22:8の挿絵。(Princeton Theological Seminary Library蔵。Wikimedia commons より)


はじめに

何度も「来る」という言葉が記されていますね。「わたしはすぐに来る。」

6節で、「預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。」と書いてあります。

実はこれは黙示録1章1節とほぼ同じ言葉なんです。

黙 1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

ですから、開幕の時のことばと全く同じである、ほとんど同じである、ということは、この書全体がいよいよ終わりの時に来た、ということを表している。いよいよ終末に関する幕が下りようとしている。

このヨハネの黙示録は3幕ぐらいに分かれていたわけですけれども、いよいよ終わりの時がきましたよ、と語っているわけです。

Ⅰ.これまでヨハネを導いてきた御使いは、6節で、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言いました。

1.「これらのことば」とはどれらの言葉なのか。

これは、ヨハネに示された数々の幻の中に示された、神の啓示である。けれども、「信ずるべきであり、真実である」というのは、ヨハネの黙示録だけではなくて、旧約聖書からずっと記されてきたすべての神のことばなんです。
これらの神様のことばのうち、一つとして不真実なものはなかったわけです。

「真実」という言葉がありますが、神様が言う真実と人間が言う真実とは違うわけですが、神様の真実は絶対的真実です。神様のみことばと現実の歴史が食い違うということは、一つもなかったわけです。少なくともいままでは起きてこなかったし、見つかっていません。

かつては、何人かの学者たちが、聖書中の人物で、あれは架空の人物ではないかと言われた人もいたわけです。
例えば、サルゴン王という名前が出てきますがね、1回だけ出てくるんですけれども、歴史家たちはサルゴンという王様は聞いたことがないし、あれは実在しなかった人物ではないか、と考えていたわけです。
ところが考古学者たちはですね、掘り起こしていたらサルゴン王の印章が見つかった。ハンコが見つかったわけですね。

それからソロモンのことについては、聖書はソロモンがどんなに大きな権力を持っていたかを記しているんですが、学者たちは、ソロモンがそんなに多くの軍馬を持っていたとは考えられない、と言ったわけですけれども、後にソロモンの大きな馬屋の跡が発見された。学者たちはびっくりしました。聖書が真実であることが、繰り返し、繰り返し証明されてきたわけです。

前世紀の半ばから科学の進歩が期待されてきましたが、多くの学者たちは聖書が事実に基づいていない、ただの神話であることが証明されるだろうと考えたわけです。
今もコンピューターが流行って、いろんなことを研究している人がいますが、科学が進歩すれば、聖書はただの神話であるとか、まさかアブラハムの時代にあんな文化があったのだろうかとか、無神論者たちはこう思っていたわけですけれども、赤外線だとかで土の下も見える様になってきて、そこを掘ってみますと、瓦に書かれた文字盤がどんどん発見された。そして、アブラハムの時代にすでに図書館があったことが分かったわけですね。

ですから、科学の発達は聖書が真実であると証明しましたが、不真実であることのを証明するものは一つもありませんでした。

これは人体においてもそうですね。人間の神経を通しての活動というのはある程度科学的にわかってきましたが、その霊的動機は科学的に説明できないんです。
神経のここをつつくと手がこう動き、脳のこのあたりはこういう働きをするとかって言いますけれども、例えば、同じ怒ってもね、義のために怒るのと、腹が立って怒るのでは動機が違いますね。そこがどうなるのかは、科学では何も解明されていないわけです。

あるいは、水は何と何でできているのか、というのはすでに分かっているんです。酸素と水素だけではありませんよ。分子構造やいろんなことが分かってきたんです。しかし、どの科学者も、これがどうできているかの理論はつけられても、水を自分で作った人はいないんです。

ですから、科学は聖書が真実であるということだけを示している。

私もいろんなことを学んできて、びっくりしたことがあったんです。ガラスをダイヤモンドで切るって言いますよね。最近のことだろうかと思いましたが、なんと旧約聖書の時代にすでにダイヤモンドのガラス切りがあるんです。凄いなあと思いますね。
私たちはね、聖書の時代は古い古いって言いますけれどもね、そうじゃない。優れた知性を持って人間は生まれてきた。

科学が発展すればするほど、神様のみことばが真実であるということだけを証明してきました。
ですから、聖書が「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と宣言しているのに、人間は、長い間、聖書が不真実である証拠を探そうと躍起になってきたわけです。科学という道具を使ってね。
ここに、何が意味されているのか、と言うと、科学が発達すればするほど、聖書が真実であるということと、人間が不真実である、ということを示すにとどまってしまったということです。

2.さらに、この言葉をじっと見てみますと、聖書が真実であるということだけではなく、「信ずべきものである」と書いてありますね。

これは、神様のことばは、信じるに値するということ以上のことを示しています。

「信ずべきことば、信ずべきものである」、というのはどういう意味なのか。

・これはまず、誰でも信じなければならないことばだ、ということです。
法律っていうのがあります。法律は誰でも守らなければならない、ということですね。信ずべきことばとは、そういうことです。
・信じる者には祝福を与える。
・信じない者、みことばを拒む者には神の審判が下る。

こういう事を宣告したことばだということです。
信ずべきことばというのは、そういうことです。

真実な神様のことばを拒む者は、その人が不真実であることを示しています。不真実な者は神によってさばかれなければならない。
ですから。「信ずべきものである」というのは、信じたほうがいい、ということを意味していないんです。もっとそれ以上のことですね。

神様はどのようにして、私たち人間を真実な者か不真実な者か判定されるのか。

みなさん、「あの人は正直な人だ」、とか「うそつきだ」とか言う時に、どうやって判断するのですか。約束したことを守ったか守らないかで決めるわけですね。
神様が、私たちを真実な者か不真実な者かを決める時は、神のことばを信じるか、拒むか、によって判定されます。
ヨハネの福音書12章48節でイエス様はそう仰いましたね。そこでイエス様は、何がさばくのか、ということをお話しになりました。

ヨハ12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

「イエス様がお話になったことばが、終わりの日にその人をさばく」、と書いてありますね。
私はね、時々感じることですがね、人間は結局、紙に取り囲まれて生きているなあ、と思うんです。私の身の回りは紙だらけです。
神だらけ、っていう意味ではありませんよ。ペーパーだらけ。
みなさんは字を書く時に、紙がいるでしょ。パピルスを考えた人は凄いなあと思います。紙なしには生きていけない。コンピューターができたらもう紙はいらなくなるだろう、と言われましたが、コンピューターが発達すればするほど、どんどん紙がいるようになった。
その紙に何が書いてあるのか。ことばが書いてある。

イエス様が話されたことば、聖書はこの紙に書いてあるわけですが、印刷されたんですけれどもね、大変なことなんです。

神のことばが真実であるということは、さばく権威を持っているということです。真実というのは裁く権威を持っている。これは大事なことだと思いますよ。
聖いとか、真実というのは、そういう権威を持っているということなんです。
不真実だとか、汚れているというのはその権威を失っているということです。

ですから、もとに帰りますけれども、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」、これは、さばく権威があることばだということが分かります。

B.さて、6節後半でヨハネが、「預言者たちのたましいの神である主」と言ったのは、預言者たちに霊感を与えられた神、ということですね。

この主はヨハネに対しても同じように、啓示の御使いを通して、霊感を与えられました。8節に、「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。」と書いているんです。

ヨハネが記した黙示録は、神の権威があることばだ、ということです。ただのことばじゃない。
イエス様がおいでになる時、私たちはどうなるか、っていうのはこの神のことばによって決定される。ですから、聖書を知っていても知らなくても、神のことばは権威を持って働くわけです。「私は知りませんでした」、では済まなくなる。
ですから、「預言者たちのたましいの神である主」というのは、旧約聖書、および、ヨハネの時代にすでに記されていた新約聖書と同じように、このヨハネの黙示録は、神の啓示の書であり権威を持っているということを表しているんです。

C.そしてこのヨハネの黙示録は、6節の終わりで、「すぐに起こるべき事」を記したんだ、と言っています。

「すぐに起こるべき事」というのは何かというと、ヨハネの黙示録の中に出てきた幻です。どんなことがあったかというと、

① 悪に対する神の義の勝利。
悪と神の義が戦い、神の義が必ず勝利するということ。

② ローマに象徴された、悪の世界の組織が崩壊すること。
共産主義的な国がどんどんと崩壊していますね。この世の権力というのはみな崩壊していくんです。

③ 千年王国の支配

④ サタンと獣たち、この世の王たちがつぎつぎと火の池に投げ込まれる。
第二の死ですね。

⓹ 最後には新しいエルサレムが出現する。

これら全部は「すぐに起こるべき事」として、語られているわけです。人々が、遠い未来のことで自分とは関係ない、と思っているようなことではない、ということです。

「すぐに」ということについてペテロはさらに説明をしています。

Ⅱペテ3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます

ここで、ペテロは「今の天と地」は何のためにとっておかれる、と書いてありますか。

ア、燃やすために、取っておかれる。
材木みたいに燃料として取っておかれるわけですね。つまり、みことばによるさばきがあることを、はっきりと示しました。みことばによってさばかれるということです。これは不敬虔な者を、滅びの日まで取っておかれる。ですから、今の日が続いているということは、決して喜ばしい事ではないんです。

イ、第二番目には、8節で主の日数計算のものさしを示しました。
「一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
ですから、「すぐに起こるべき事」と言われたのは、二千年を過ぎているといっても主は忘れていないということですね。脅しのために言っているんじゃない。
仏教でいっている極楽とか地獄は、勧善懲悪ですね。脅かしてね、悪い人を懲らしめるため。

ウ、第三に、人々は主のさばきの日が遅いと思っているようだが、神様は約束をやめて取り消されたのではない、思い違いをしないように。

それには理由がある。
イエス様は一人でも滅びないように望んでおられる。すべての人が悔い改めて救われるようにと、忍耐深く待っておられる。
しかし、主のさばきの日は必ず来る。「盗人のようにやって来る。」
つまり、人々が「神のさばきなんかありっこないんだ。」と言っている日にやって来るということです。「まだ来ないだろう。まだ来ないだろう。」と言っている時にやって来る。だから、気を付けなくてはいけませんね。
私たちは、「イエス様はいつ来るんだろう。しばらく来ないな、あと100年くらいは、生きているうちは来ないな。」と思っていると、盗人のようにやって来ますよ。
泥棒というのはいつ来るか分からない。神様は忘れているんじゃあないということですね。

エ、第四には、私たちがどんなに敬虔に主の日を望んで、聖い生き方をしなければならないかを指摘しておりますね。

イエス様が終わりの日を今日にしないのは、ただ一つの理由があるだけです。
なぜ今日イエス様は来ないのか。来てもかまわない。それは、一人でも多くの人がイエス様を信じ、イエス様に従った生き方をするように願っている、ただこれだけです。

ですから、私たちはこの御心を知ったならば、力を尽くして神の道を歩み、また、福音を伝える奉仕に励みたいと思います。
私たちは、神様というお方を人格者として知らなければいけません。神様は理由があって今日来ないだけなんですね。
今日も来ないから、明日も来ないだろうなんて思っちゃいけない。

D.そして、このヨハネの黙示録に記されている出来事は、22章7節を見ますとね、イエス様の再臨に結び付けて起きる、ということを示しています。

黙 22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

それまでも歴史上、様々な神のさばきが行われてきました。けれども、それらがどんなに厳しいものであっても、最終的なさばきではなかった。旧約の時代から新約の時代、そして、現代に至るまでじいっと歴史を振り返ってみてください。
歴史上どんなに厳しい審判が下っても、最終的なさばきは主の再臨の時に起きるということですね。

私は、いろいろな歴史の考え方の違いを感じることがあります。
ドイツはヒットラーの残虐行為というのがありました。
日本もドイツに負けないくらい残虐行為がありましたけれども、やはり、違いがあるなあと感じます。日本人は、本当に恐ろしい罪を犯した、という罪の意識がないんです。
ドイツ人は首相そのものが、前の戦争で重大な罪を犯したと、国民に反省を促しています。二度と犯してはならないような罪を犯したんだと。

日本ではね、あれは侵略ではなかったとか、なりゆきだったとか言っています。
ドイツ国民みんなが、罪を犯したと考えているかどうかは分かりませんが、ヒットラーがやったことは本当に恐ろしい罪だったと自覚している。少なくとも国民に自覚させようとしている。
このあたりで、神のさばきの受け止め方がずいぶん違ってるだろうなと思うんです。

それでもなお最終的なさばきは、イエス様の再臨の時に起きる。
イエス様は7節と12節で「見よ。わたしはすぐに来る」と2回おっしゃいました。これはキリストご自身のことばです。これも「信ずべき真実なことば」なんです。

22章17節になると、「来てください。来てください。」という言葉がありますね。
22章20節を見ますと「しかり。わたしはすぐに来る。」と最後に付け加えています。これ、イエス様のことばです。
22章7節を見ますと「この書の預言のことばを堅く守るものは、幸いである」と言っています。

「すぐに来る」、だから、「私のこのことばを堅く守っていなさい」
なぜ幸いなんでしょうか? それは12節に書いてありますね。

黙 22:12 ・・・ わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

この「報い」には祝福の報いもあれば、さばきの報いもあります。
「報い」は、私たち一人ひとりが神のことばをどのように守り、行ってきたかによって決められる。
7節は条件を書いてある。12節はその結果を書いてあるわけです。
ですからイエス様は、良い報いを得たかったら、この書の預言のことばを堅く守りなさい、そうすれば幸いである、と仰ったのです。

このみことばを注意深く読まなければなりません。

マタ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

どういう人に祝福が与えられるか、報いがあるかを言っているわけですけれどね。
クリスチャンと言われてる人の中に、洗礼を受けただけの人がいる。教会に行っているだけのクリスチャンもいる。聖書を持っているだけのクリスチャンも大勢いる。
こういう人々が、主にどのように扱われるか、真剣に考えなければならない。

イエス様は福音書の中で、再三再四、みことばを守って行うようにお話になりました。みことばを守り、行うことに深く心を留めて生活している人はあまりいないんです。このことに注意しなければならないと思います。

私たちが最後に受ける報酬は、この世でどんな地位を持っていたか、どんな功績を残したかということではありません。
みことばを堅く行うことに対して決められる、ということを決して忘れてはならない。みことばは私たちをさばく剣にもなりますし、祝福の報いを与える基準にもなります。
ですから、もっと深くみことばを知り、もっと深くみことばに信頼し、心からみことばを愛する。そしてあらゆる困難や妨害にあっても、みことばを守り行う者でありたい。その人は必ず報われるわけです。
みことばというのはそれほどの価値があります。

7節で、イエス様は「幸いである」と仰いました。聖書の中によく「幸い」という言葉がありますね。日本人は「幸い」というのを見ても、あまり幸いに感じないですけれども、この「幸い」というのは、祝福されるとか、幸福でうらやまれるようになるという意味です。

人間というのは最後に勝つと、「ああ、よかったね」、と羨ましそうに言うんですけれども、その前のプロセス、いろんな迫害や困難を乗り越えていく信仰、そのあたりのことは嫌がるわけですね。

最後に喜ぶ者、平たく言えば最後に笑う者というのは、みことばを堅く守り続ける人だ、ということです。最後に泣くのは、後の方に書いてありますけれども。
今私たちは、みことばを守り行うことによって、いろいろな妨害や意地悪に会うかもしれません。でも最後は必ず羨まれる者となる。

ある教会の先生がこんな話をしてくれました。
その先生は学歴もあり優秀な人でみんなから嘱望された方でしたが、仕事を辞めちゃって伝道者になったんですね。そうしたら親戚や家族の者から「気が狂っちゃったんじゃないだろうか」とうわさされたりしたんですが、何十年か経った時にみんなが当てにした人はその人だったと言うんですね。みんながその人のお世話になったという話です。
私たちは、みことばを堅く守っていると「気がおかしくなっちゃった」と言われるかもしれませんが、最終的に人が頼りにするのはその人だ、ということです。羨まれる人になった。

みことばを堅く守り行う者は、主の祝福が与えられるということです。家族が本当に当てにできるのはその人です。

私の親父が死ぬ前に言いました。「約束を守るものはお前だけだ」と。
他の息子たちは「お父さん、こうして上げる、ああして上げる」と都合の良いことを言いましたが、みんなケロっと忘れてる、って。
「約束を守るのはお前だけだな」って。大した約束はしていなんですがね、できない約束もしませんけれどもね。

どうかクリスチャンは、家族の中でもね、「みことばを守る」って言ったら批判されるかもしれませんがね、結局頼りにされるのは自分である。だから堅く守りなさい。最後に祝福を受けるのはその人だということです。

Ⅱ.さて8節は、ヨハネは自分のことを言っているのですが、これは、私たちに大事なことを教えています。

A.8節「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。」

なぜヨハネはわざわざこんなことを書いたのか。
それは、「私、ヨハネは、正気で書いているんだ」ということです。精神状態がおかしくなって、夢うつつの恍惚状態で、何書いたか分かんないというような状態で書いたんじゃない、ということです。
ヨハネはこの幻の意味をを正確に理解でき、観察し、反応できる正常な精神状態でこれを記したということです。精神的に混乱した状態で書いたのなら、これは信じるに値しないですね。

異端や偶像宗教の創始者のことを読みますと、精神的に混乱状態になっていることがよくあります。
天理教を始めた人の話を聞きますとね、姑さんにすごくいじめ抜かれてね、川で子供のおしめなんかを洗っていたら、神がかったっていうんですね。つまり精神的に発狂状態になっちゃったんです。そして、後から他の人たちがいろいろ付けた話が出来上がったんだそうです。中山みちっていう人ですかね。恐ろしいことですね。要するに、姑さんにいじめられて神様になっちゃったわけですけれどもね。
結構そういうのって多いんですよ。ものみの塔だって、統一教会だって、ちょっとおかしくなってしまった人たちが創始者になっているんです。

異常な状況で神がかったほうが、どうも神様的に見えるんでしょうけれども、それは神の啓示ではない。彼らはそれを神の啓示だと言っていますけれども、ヨハネは、そんな愚かな状態ではなく正常だった、ということを書いているんです。
聞いたことばの意味も正しく悟ることができ、見たこと、観察したことも正確に理解できる。そういう意味することがはっきりと書いてある、ということです。
だから、錯乱状態で、何を言っているのか何を見ているのか分からないような、ボヤーンとした状態でこのことを記したんじゃないと言っているんです。

見たところの幻があまりにも驚くべきことだったので、彼は御使いの足元にひれ伏して拝もうとした。
連れてきてくれているのは御使いだと彼は知っていたわけですけれども、内容があまりにも崇高で驚異的でありましたから、思わず彼はひれ伏してしまったわけですね。こういう事はよくある事なんです。

ヨハネの理解力や判断力が、非常に正確で健全でありましたから、聞いたこと見たことを十分に理解したんです。ヨハネは、失神状態でうわごとのようにこの書を書いたんじゃないということです。

B.9節を見ますと、御使いは「やめなさい ・・・・・ 神を拝みなさい。」と言っています。

非常に大事なことです。これと同じようなことばが19章10節でも御使いが語っています。

黙 19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

これはヨハネの魂の状態が、非常に霊的な敬虔な状態に置かれていた、ということを示しています。
ヨハネは神のみことばの真実さを聞いてそれを悟るごとに、もはやこれは神様を礼拝するほかはないと思い、すぐに礼拝の態度をとったようですね。
崇高な幻の前で礼拝したい、というヨハネの気持ちを表しているんですね。

C.9節では更に、「私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。」と言っています。

御使いも結局、私たちと同じ神の被造物である、ということを意味しているんです。御使いは特別なものではない。天使が現れるとね、何か天使と自分とは違うように思いますけれども、天使の方は「わたしはあなたと同じだ」と言っています。御使いもまた、私たちと同じように神様を礼拝するものである。人から礼拝を受ける者ではないということです。
礼拝を受けることができるのは神様だけです。父なる神と御子イエスと御霊の三位一体の神以外にありません。
ですから、ヨハネに「神を拝みなさい。」と言ったわけですね。

人はこれまで神以外のものを無数に拝んできました。また、サタンをはじめとして、多くの権力者が自分を拝ませようとしました。
明治憲法から昭和憲法に変わる時、最大に変わった点は何かというと、天皇が、私は神ではなくて人だ、と言ったことです。
人間は人を神にしようとする。聖書を見るとそういう人はみんな滅んでしまった。

み使いは、「やめなさい。神を拝みなさい。」と言って、神様だけを礼拝することを教えました。

Ⅲ.10節で御使いは「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」と命じました。

これは神様の命令です。
終末の時はますます時々刻々と近づいている。足音が聞こえるほど近づいて来ている。
この神様のことばはキリストの福音ですから、封じておいてはいけない、ということですね。「すべての人に福音を伝えよ」という命令です。
これはイエス様が昇天される前にも言っていますね。すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ、と言っておられます。

マルコ 16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

教会の中にいるクリスチャンは、自分たちがキリストのみことばを知っているだけじゃダメなんです。クリスチャンは、しばしば積極的に神のことばを伝えないことによって、神のことばを封じてしまっている危険性がある。

私たちはね、これは本当に大事なことだと思います。クリスチャンと教会に与えられている最大の使命は、何なのか? キリストのことばを伝えることです。
キリストのことばを伝えたら、その国は繁栄しますよ。アメリカという国を御覧なさい。イギリスという国を御覧なさい。世界に福音宣教者を出してた時はどんどん繁栄しました。しかし、それを止めてしまった時、どんどん堕落してしまいました。

中国が共産主義の国になる前に、中国大陸に伝道した英国人、ハドソン・テーラーという人がいます。
みなさんも「炎のランナー」という映画をご存知でしょ。あれはハドソン・テーラーの宣教団体から派遣された人の話なんですね。ハドソン・テーラーという人は、初めて中国に宣教団を作った人であります。

彼は中国人の服装をしてね、中国人の食事をした。中国語を学び内陸の奥地に伝道した人です。
彼はある村に着いて集会をした時に、一人の若い酋長がハドソン・テーラーのところに来てにこう言ったというんです。
「あなたが今話ししていた神様について、あなたの国の人はいつ頃から知っていたんですか」
「そうですね、300年か400年くらい前から、私たちの国の人たちはキリストについて知っています」
「それでは誰が、300年も400年も隠していたのですか?」と言って、「私の父はそういう神様を探しながら、ついこの間死んだんです。」と怒り出したっていうんですね。
これを聞いたハドソン・テーラーは、これではダメだと思い、さらに奥地へ奥地へと激しい伝道をしていったというんですね。

ハドソン・テーラーという人は非常に体の弱い人であった。
メリー・スレッサという人は、アフリカに伝道した婦人の人ですがね、この人も非常に体の弱い人だった。
宣教師というのは、「私は体が弱いからできません。」なんていうのはダメなんです。体が弱くったってやってるんですね。体の強い人はダメです。怒ってね。
ハドソン・テーラーは、身体が弱い人でしたが、中国大陸の奥地へとどんどん宣教していった。

彼が蒔いたキリストの種は、その後、毛沢東によって共産主義の国に変わっても、生き続け、広がり続けた。その間、伝道者はほとんどいなくなってしまった。
現在、テーラーの時代に蒔かれた種が増え続けて、中国のクリスチャン数は5000万人とも8000万人とも1億人とも言われています。その数ははっきりしませんけれども、少なくとも、クリスチャンの数は僅かではないということは事実ですね。
ハドソン・テーラーは、「神のことばを封じてはいけない。」ということを実行した人であった。

日本はね、神のことばはそんなに蒔かれていない。教会は伝えていないんです。このことを私たちは、心に留めないといけませんね。
日本のほとんどの人は、キリストという名前は知っているかもしれませんが、聖書のどの一つのことばを覚えているでしょうか。どの聖書の一つのことばが、その人の心に留まっているのでしょうか。
考えると、神のことばはほとんど封じられたままになっている。封印されたままになっている。

ムーデイーという人はね、神のことばを赤い紙の裏表に印刷してね、捨てられてもどっち側でも神のことばが出るようにして配った。電車に乗ってみんなが捨てても、どっち側が出ても神のことばが見えるようにした。真っ赤な紙にですよ。
いつか私も西武線のある駅前でトラクトを配布したんです。赤い紙で配りましたね。道が真っ赤になりました。それで、私はそれらを集めてきて、また配りました。何度も集めてまた配ったことがありましたけれど。
ムーデイーという人は大空にヨハネ3章16節を、真っ赤な文字で書きたいといったそうです。凄いなあと思いますね。

「神のことばを封じてはいけない。」
私たちも、神様のことばを封じさえしなければ、神様の御業はなるということですね。
キリストのことばを封じておいてはいけない。秘密にしておいてはいけない。絶えず人々の心の前に示さなくちゃならない。もっと積極的に伝える時は近づいている。

Ⅳ.11節は、終末における人間の性質の特徴を表しています。

黙 22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

A.ここに繰り返されていることばに、「ますます」とか「いよいよ」という言葉があります。

善にもあれ、悪にもあれ、人の内にある性質がますますはっきりとその特徴を表すようになる、ということです。
「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。」
ここで「行いなさい」と書いてありますから、行った方がいい、という意味ではないんです。
神様を無視し、拒み、神抜きの生活をする人は、ちょうど坂道を加速度的にボールがスピードを増して転がっていくように、ますます堕落していくということです。放っておいてもそうなっていく。
決してこの世の中は、いいふうには変わっていかない。内に汚れの性質を持っていると、ますますその行いとか生活は不正に満ちていくことを語っているわけです。

もう一方では神様を畏れ、神に従って生きている義とされた聖徒たちは、内に与えられた聖い性質によって、ますます正しい行いと生活をするようになる。

どちらも、内側にある性質によって、どんどん不正を行うようになり、また正しいことを行うようになる。
ますます汚れを行い、あるいは、ますます聖なる者となっていく。その差、その区別は、どんどんと広がっていく、ということです。

イエス様のお話の中に、良い麦と毒麦の話がありますけれども、誰の目から見ても、良い麦と毒麦とがはっきりとしてくるということです。
イエス様は、毒麦と一緒に良い麦も間違って抜いてしまうといけないから、終わりの時まで抜いてはいけない、と仰いましたけど、ここに来るとはっきりとわかる。
良い麦の中に混ざっている毒麦も、はっきりとその姿を現すようになる。

ですから私たちはただ教会に来ているだけではだめ。
イエス様の十字架を自分の罪のためと信じて救いを受け、それだけではなくて、聖霊によって聖い性質を頂く。
そして、みことばを堅く守り行う者でないといけない。
いよいよ聖なる者とならせていただきたい。

人の内側に持っている性質は必ずどんどんどんどんと増え広がっていく。その思いとか、生き方とか、態度とか行動になって現れてくる。これは、終末に近づけば近づくほど、露骨に現れてくる。
今は本当に露骨に現れる時代になりましたね。汚れた者は地獄に相応しい者になっていくし、聖徒は新しいエルサレムに相応しい者になっていく。

どうか私たちは、良い麦に混ざった毒麦ではだめです。教会に行ってはいたけど、やっぱり毒麦だった、というのでは具合が悪い。
キリストのみことばをしっかり信じて生きたいですね。

その報いは非常に大きい。イエス様はそれぞれの仕業に応じて報いるために、私の報いを携えてくると仰せられています。その時が刻一刻と近づいております。
私たちは、「見よ。わたしはすぐに来る」と仰ったイエス様のみことばを堅く守り行う者でありたい。そして、人々から羨まれる生涯を辿らせていただきましょう。
この福音のことばを封じないで、人々の目の前にいつでも差し出す生活をさせていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天の神様、こうしてあなたがいよいよお出でになろうとする、この間近な時代に、私たちは生かされておりますが、神様は、もう一度、あなたのみことばを堅く守り行う者は幸いであると仰せになられました。
また、これらのみことばを封じてはいけないと仰せになられました。
聖書は絶えず開かれていなければなりません。人々の心の前に提示されていなければなりません。
しかし、私たちの住むこの日本の人たちの心をみると、一体何人の人々の心の中に、神のことばが覚えられており、また、神のことばが心の中に働いているかと考えますと、ほとんどの人の心の中に神のことばは封じられてしまっております。
どうぞ私たちがもっともっと彼らの心にあなたのことばを示すことができる様に、どうぞ助けてください。
イエス様は、「すぐに来る」と仰せになりました。何度もそれを語っておられます。そして、この世紀末、私たちは、主よ、あなたがお出でになることを強く待ち望みながら、毎日毎日の生活を営ませてください。
この時を感謝して、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明