聖書の探求(017) 創世記14章 ロトの救出

14章は、ロトの救出の記録であり、アブラムの性質が試みられています。

この時代のバビロンの記念碑には、エラムがバビロンを征服し、バビロンの諸王はエラムに隷属していたことが記されています。当時、バビロンは南北に別れており、ハムラビ(14章のアムラフェルと同人物)はバビロン(すなわち、北シヌアル)の王であり、アリヨクは南方のラサル(14章にエラサルと記されている地)を支配していました。これを見れば、14章4節に、「彼らは12年間ケドルラオメルに仕えていた」というエラムの王ケドルラオメルが主導者の地位にいた記事が理解できます。

エズラ記4章9,10節には、大王オスナパルの名が記されています。
エズ 4:9 すなわち、参事官レフム、書記官シムシャイ、その他の同僚、裁判官、使節、役人、官吏、エレク人、バビロン人、シュシャンの人々、すなわち、エラム人、
4:10 その他、名声高い大王オスナパルがサマリヤの町と川向こうのその他の地に引いて行って住まわせた民たちが、書き送った。・・・
この名は旧約聖書中、ここ以外に記されていません。英国博物館のニネべ陳列場には、1847年にヘンリー・レヤード卿の発掘によるオスナパルの図書館の中から発見された三つの書板があり、それにはバビロン、シュシャン、エラムなどに対する三度の遠征のことが記されています。
第二のシュシャン遠征の記事の中で、オスナパルはシュシャンを占領した時にニーナの女神の像を回復したと語っており、この像は彼の時代より1635年前に略奪され、エラムに持って行かれたものであると言っています。
これによって私たちは、エラム人のバビロン征服はおよそBC2300年頃のことで、ほぼこの14章の出来事があった年代に当ることが分かります。

〔14章の概要〕

1~12節 ロトがケドルラオメルの捕虜になる。

-ケドルラオメルの連合軍(四人の王)とソドムの連合軍(五人の王)の戦争。

13~16節 ロトの奪還戦

14、15節 熟練した家のしもべ318人による追跡、夜襲、撃破

16節 その成功

17~24節 アブラムの勝利の帰還とその出迎え

(1) 17節 ソドムの王の出迎え(シャベの谷)
21節 ソドムの王の提案(悪魔のタイプ、マタイ4:9)
マタ 4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
22~24節 アブラムの返事

(2)18~20節 メルキゼデクの出迎え
19節 メルキゼデクは祝福をもって迎えた(イエス・キリストのタイプ)。
20節 アブラムは十分の一を彼に与えた(ヘプル7:1~3)。
ヘブル 7:1 このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
7:2 またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。
7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
奉仕のあとには必ず、この二人の出迎えを受けるので、自分を無にして、信仰によって神の恵みであることを感謝しなければなりません。

〔アブラムの性質の試み〕

12章でアブラムがその父の家を出たのは、その境遇に対する試みです。
13章でロトと別れたのは、物質的財産に対する試みです。
14章では、さらにアブラムの性質が試みられています。

1、 ロトの忘恩的な仕打ちを赦したこと(1~12節)

創 14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、
14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。
14:3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。
14:5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
14:6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。
14:7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。
14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。
14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。
14:11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
ロトはアブラムの甥であり、アブラムに従って故郷を出て、彼によって神の祝福を受けていたのです。それなのに、高慢にもロトは自分から豊かな地を先に選んで、叔父のアブラムと別れて東の地(ソドムとゴモラ)に移って行きました。しかしアブラムはロトの忘恩的処置を咎めず、寛容をもって接しました。

2、 命をかけてロトを助けたこと(13~16節)

創 14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。
14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
アブラムはロトの忘恩と高慢な処置にも拘らず、ロトが敵の手に捕われたことを聞くや否や、318人の家のしもべたちを連れて救援に出かけました。当時、勢力を誇っていたエラムやシヌアルの王たちの軍勢をわずかの人数で追跡したのは危険極まることでしたが、ロトを愛するために自分の命を惜しまなかったのです。イエス・キリストも、高ぶりやすく、感謝を忘れやすい私たちのために、ご自分の命を惜しまれませんでした。
アブラムのしたことは、ヘブル人への手紙6章10節に記されている愛の奉仕に当ります。
ヘブル 6:10 神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
ヘブル人への手紙5章、6章はアブラハムとメルキゼデクに関して記してありますから、この6章10節はアブラムがロトの命を助けた愛の労苦を差しているものと思われます。

3、 メルキゼデクを迎えること(17、18節)

創 14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14章と15章には深い関係があります。15章1節に、「これらの出来事の後、」とあり、その次の幻の中で、アブラムに子孫を与えると約束されました。アブラムに子孫が与えられる約束は、彼がメルキゼデクを受け入れたことに関係しています。もし彼が14章において失敗していたならば、15章の約束は与えられなかったでしょう。
アブラムはロトを助けたためにメルキゼデクに迎えられ、メルキゼデクを迎えたためにイサクが与えられる約束を受けたのです。
メルキゼデクのことは、この時から約千年の後、ダビデの時に詩篇110篇4節に記され、また約二千年の後、ヘブル人への手紙に記されています。
詩 110:4 【主】は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
ヘブル人への手紙にメルキゼデクのことが記されていなければ、創世記14章の大切なことは明らかにならなかったでしょう。私たちはメルキゼデクに等しい祭司に従っている者ですから、「成熟(完全)を目ざして進もうではありませんか。」(ヘブル6:1)と勧められています。この「成熟(完全)」は、「実を結ぶということ」です。またへブル6章7節には、土地がその産物を生じることが記されています。
ヘブル 6:7 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
これは完全を示すものとして記されています。ヘブル6章10、11節の愛の労苦は、アブラムのロトに対する態度です。
ヘブル 6:10 神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
6:11 そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
神はこのアブラムの態度に報いて主イエスの型であるメルキゼデクを示され、彼を受け入れることによって子孫を生むことの約束が与えられたのです。実を結ぶことは、大祭司(キリスト)に対する態度に深い関係があることに注意しなければなりません。

4、、メルキゼデクの祝福のことばに答えて、十分の一を献げたこと(19、20節)

創 14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
メルキゼデクはイエス・キリストの型です。アブラムが戦いに勝利を得た後、まずメルキゼデクに迎えられたように、私たちもこの地上の生涯の戦いを終えた後に、まず迎えてくださるのはキリストです。

①  アブラムが非常に疲れていた時、メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来て彼を慰めて祝福しました(18節)。これはちょうどヨハネの福音書20章19~23節で主イエスが弟子たちに手とわき腹を示して慰め、聖霊を約束されたのと同じです。その時、主イエスは息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され‥‥‥」と仰せられました。
これは聖霊を受けて、人を救いに導くようにということを意味しています。アブラムもここで、パンとぶどう酒で慰められ、みことばをもって祝福され、15章において子を生む力を与えられました。

②  メルキゼデクは19節で祝福のことばを語っていますが、これを15章1節の主のことばと比べてみますと、「天と地を造られた方、いと高き神」は、アブラムが願うよりも、思うところよりもまさるものを与える神(エペソ3:20)であって、非常に大きな報いが約束されています。
エペ 3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神」とは、神がアブラムの盾であることを示しています。
これらのことばは、アブラムの心に深く入りました。彼を祝福される神は天地の主であるから、一切の必要を満たしてくださることを信じ、アブラムをして敵に勝たせてくださったのもこの神であることを信じて、栄光を神に帰したのです。

③ このようにしてアブラムはメルキゼデクに、すべての物の十分の一を与えました。これは彼がメルキゼデクのことばを受け入れた時にした第一のことでした。
私たちも主イエスの祝福と賛美のみことばを受け入れる時に、十分の一を献げることができるようになります。

4、 ソドムの王の申し出を拒絶したこと(21~23節)

創 14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
メルキゼデクのほかにアブラムを迎えたのは、ソドムの王でした。ソドムの王は悪魔の手先です。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」(21節)とは、悪魔のことばです。アブラムは、先にメルキゼデクに言われたことば、すなわち、「私は天と地を造られた方、いと高き神」を用いて、ソドムの王の申し出を退けました。これはアブラムが誘惑に勝った秘訣です。主イエスもマタイの福音書4章で悪魔の誘惑に会われた時、聖書のみことばを用いて勝たれています。みことばをよく知り、それを覚え、それを用いることは、悪魔に勝つ秘訣なのです。これを疎かにしたら、私たちに勝目はありません。

主イエスは、「わたしを拒み(押しかえして)、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ12:48)と最後の警告をされました。
これはユダヤ人の運命を決定してしまいましたが、今日の私たちでも、主イエスのみことばを拒むなら、そのことばがその人をさばくことになるのです。アブラムはメルキゼデクのことばを受け入れた故に、誘惑に勝ち、一層祝福されました。私たちもサタンに会う前に、主イエスのみことばを受け入れておけば誘惑に勝つことができます。

5、 天地の主である神を信じる信仰を告白したこと(22節)

創 14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。
アブラムは、ソドムの王に対して大胆に自分の信じる天地の主なる神を告白し、この神に栄光を帰するために、断乎としてソドムの王の申し出を断りました(参考、ルカ12:8,9、ヘプル13:6)。
ルカ 12:8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
12:9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
ヘブル 13:6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
私たちも、主イエスのみことばを受け入れて、どんな場合でも、主イエスを信じる信仰を告白すべきです。

7、アネルとエシュコルとマムレには、分け前を取らせたこと(24節)

創 14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
彼自身は神を信じ、分け前を受け取ることを拒みましたが、彼の信仰にまで届かない者や未信者には各々の判断に任せました。

上の写真は、スペインの画家Juan Antonio de Frías y Escalante(1633–1669)により描かれた「Abraham y Melquisedec(アブラハムとメルキゼデク)」(スペインのプラド美術館蔵、Wikimedia Commonsより)

あとがき

今年の梅雨はずい分大雨が続き、日本中が水びたしになりました。特に、九州から西日本の皆様にはお見舞い申し上げます。
しかし私はこの大雨の中で一つ考えたことがあります。それは、もし神様の恵みがこの大雨のように今の日本に降り注がれたら、どうなるだろうか、ということです。

聖書を深く探求しているクリスチャンの少ない日本では、大混乱を招くのではないでしょうか。ダムの建設が十分になされ、河川の整備が整い、ガケや山の安全が確保されていてこそ、大雨は私たちに恵みをもたらすのです。神の恵みの雨も同じではないでしょうか。

聖書が正しく信じられ、信仰生活の土台が確立され、神の恵みを受けるための空の器が十分に準備された時だけ、神の恵みの大雨は混乱をもたらさず、整然と、しかも偉大なみわざがなされるのではないでしょうか。このことは過去の教会の歴史が私たちに教えています。今、神の恵みの大雨がとどめられているのが、私たちにとって恵みなのかもしれません。すみやかに大雨の準備が整いますように。(1985.8.1)