聖書の探求(027b) 創世記28章 ヤコブの初の神経験

ここでは、いよいよヤコブはカランに向かって出発します。そして彼は初めて神と出会うことになるのです。この時まで、ヤコブは、父から神について聞いていたでしょうが、自分自身で経験したことはありませんでした。すなわち、ヤコブはこの章で初めて救いの経験をしたと言えるでしょう。

〔28章の概要〕

1~10節 ヤコブ、カランへ出発
11~22節 ベテルでの出来事
11節 ルズに到着
12~15節 ヤコブの夢
・12節 一つのはしごと神の使いたち
・13~15節 神の約束
①13,14節 土地と子孫
②15節 神の同行
③15節 神の守り
16~22節 ヤコブの応答
・16,17節 ヤコブの告白(家の宗教から彼個人の宗教となる)
・18節 献身
・19節 ベテルと命名
・20~22節 ヤコブの誓約
①ヤコブの出した条件(20~21節)
イ、神の同行
ロ、パンと着物が与えられること
ハ、無事に父の家に帰ることができること
②ヤコブの約束(22節)
イ、神の家とすること
ロ、十分の一を献げること

〔ヤコブの神経験〕

1、ヤコブの新出発(1~9節)

創 28:1 イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。
28:2 さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。
28:3 全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。
28:4 神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」
28:5 こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムへ行って、ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところに行った。
28:6 エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、
28:7 またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。
28:8 エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。
28:9 それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。

妻をめとるために、ヤコブがパダン・アラム(カラン)に行くというのは表面的な理由で、実際はエサウを避けて逃れるためでした。
これによって、ヤコブは孤独の生涯に入って行きました。人は、孤独な生活の中で、しばしば神を経験し、重要なことを学ぶものです。
ヤコブは、これまで両親から神について教えられていたけれども、まだ直接には神の顕現に接したことはなかった。しかし、両親から離れて頼るべきものがなくなり、孤独を感じるようになった時、神を求める心が起きたのです。よく、クリスチャンの両親の子どもが、世の中に放り出されて、初めて真剣に神を求めるようになることがありますが、それはヤコブと同じことであると言えるでしょう。

ここで、もう一つ注目したい点は、ヤコブとエサウの比較です。

1~5節で、ヤコブは神に導かれ、両親に祝福されて、親族の中から妻をめとろうと出て行きますが、6~9節では、エサウはヤコブのすることを見て、イサクがカナンの娘たちを嫌っているのに気づいて、同じ親族のイシュマエルのところから妻をめとっています。
エサウは、表面的にはヤコブと同じようなことをしたのですが、その動機は全く異なっていました。ヤコブは神のみ旨により、エサウはヤコブを真似ただけです。真似は真の信仰と何の関係もありません。

2、ヤコブの状態(10,11節)

創 28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。
28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

旅立ったヤコブは、不安と恐れと寂しさに心が捕われていたでしょう。これは神に立ち帰っていない罪人の状態を表わしていると言ってもいいでしょう。
彼は、孤独であり、
・ 理解者を持たず、
・ 兄からのろわれており、
・ 無宿者であり、
・ 寂しさと恐れと不安に包まれ、
・ 自分の命を守ろうと逃げ出している者であり、
・ まだ神を知らない者でした。
この時が、ヤコブの生涯の間で、最も心細い時であったでしょう。

3、ヤコブの夢(12節)

創 28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

この夢は、天の神と地の罪人との間の交わりが、イエス・キリストによって回復することを預言しています。
この天に届いているはしごは、人が天に至る道であるイエス・キリストを示しています。人間のいかなる手段も天に達することのできるものではありませんが、主イエスのみ、天に達する道です。
そして、神のみ使いたちは、救いの相続者となる人々に仕える者たちです(ヘブル1:14)。聖霊は私たちの霊を守ってくださいますが、み使いたちは私たちの身体を守るのです。

ヘブル 1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

4、神の顕現(13~15節)

創 28:13 そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

ヤコブは、はしごを見ただけでなく、神ご自身を経験しました。

① 神の顕現「主が彼のかたわらに立っておられた」(13節)
② 神の宣告「仰せられた」(13節)
③ 神の賦与「わたしはあなたが横たわっているこの地をあなたとあなたの子孫とに与える」(13節)
④ 神の臨在「わたしはあなたとともにあり」(15節)
⑤ 神の保護「あなたを守り」(15節)
⑥ 神の導き「あなたをこの地に連れ戻そう」(15節)
⑦ 神の約束「わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(15節)
神の真の救いには、必ずこれらの七つのことがあります。これはヤコブにとって、初めての霊的経験でした。

5、ヤコブの信仰(16,17節)

創 28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。
28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

ヤコブは目をさまして、これが夢であることを悟ったけれども、彼はこれを神の約束と信じたのです。ソロモンの場合も同じです(列王記第一3:5~15)。

Ⅰ列王 3:5 その夜、ギブオンで【主】は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
3:7 わが神、【主】よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
3:8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
3:10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
3:12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
3:13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」
3:15 ソロモンが目をさますと、なんと、それは夢であった。そこで、彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげ、すべての家来たちを招いて祝宴を開いた。

「これは、ただの夢だけだ。」と思ってしまえば、それで終わってしまうけれども、ヤコブもソロモンも、これを神の示しと信じ、そしてそれを現実に受けたのです。神は何度も繰り返し警戒し、教えられるけれども、信仰をもってこれを受け入れて自覚しない者には、益とはならない。

ヨプ記33章には、神の三種類の示し方が記されています。

第一、15節 幻と夢で示される。
ヨブ 33:15 夜の幻と、夢の中で、または深い眠りが人々を襲うとき、あるいは寝床の上でまどろむとき、

第二、19節 苦痛をもって教えられる。
ヨブ 33:19 あるいは、人を床の上で痛みによって責め、その骨の多くをしびれさせる。

第三、23節 代言者(仲保者)、すなわち、キリストによって示される。
ヨブ 33:23 もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、
33:24 神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」

第一の示しによって悟らなければ、第二の苦痛によって教えられなければなりませんが、ヤコブは幸いにして夢による示しを神の声と確信して受け入れたために、恵みを受けたのです。

6、救いの記念(18,19節)

創 28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

ヤコブは朝、目がさめて、夢に見たはしごは天の門であり、この地は神の家であり(17節)、顕われたのは主なる神であることを悟りました(21節)。
そこで彼は、自分が枕にした石を、自分の救いの記念として立てました。後日、彼は再び、この地に来て、この石の下で神を礼拝しています。この石は彼にとって、神を経験した天の門であり、神の家であったのです。

聖書中には、多くの記念碑があります。

① ヨシュアはヨルダン川の底から石をとり、記念碑を立て(ヨシュア記4:5~9)
ヨシ 4:5 ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたがたの神、【主】の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。
4:6 それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか』と聞いたなら、
4:7 あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、【主】の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」
4:8 イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。【主】がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真ん中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。
4:9 ──ヨシュアはヨルダン川の真ん中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある──

② サムエルはペリシテ人との戦いの勝利を記念して、エベン・エゼルという石の碑を立て(サムエル記第一7:12)、
Ⅰサム 7:12 そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った。

③ 取税人マタイ(レビ)は自分の救いを記念するために、多くの人を招いて宴会を聞きました(マタイ9:10、ルカ5:29)。
マタ 9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

ルカ 5:29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

私たちも、救いを受けたその恵みを忘れないように、あかしをして記念すべきです。

7、ヤコブの誓願(20~22節)

創 28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして【主】が私の神となられるなら、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」

ヤコブは、神を信じることができましたから、三つの誓いを立てました。

① 「主が私の神となってくださる。」(21節)
神は、私の神であるから、神に服従するということです。マルコの福音書10章46~52節の盲人バルテマイを見なさい。彼は救われた故に、主イエスの行かれる所について行きました。当時、キリストに従う者は迫害を受けましたが、彼は神を信じ、救われていたために従って行きたくて、従ったのです。

② 「この石は神の家となり」(22節)
ヤコブが枕にした石は自分の信仰の記念であるばかりでなく、神の家とするというのです(コリント第一6:19,20)。
Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

主イエスは、「神の子」、「イスラエルの王」、「人の子」(ヨハネ1:49,51)と記されています。
ヨハ 1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

神の子としては、礼拝をささげるべき神殿が必要であり、イスラエルの王としては、統治すべき王位が必要であり、人の子としては、親しく交わるべき家が必要です。
そして、私たちの心がそのようなものとなることができるのは、まことに幸いです。キリストは心にて拝せられ、心を王座とし、心のうちに住み、親しく交わってくださいます。

③ 「すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私はあなたに必ずささげます。」(22節)

神が自分の神となり、自分の身体が神の家となれば、自分の持ち物も聖別して、その十分の一を献げます。
ユダヤ人は十分の一を神に献げたほかに、任意の献げ物をしました。彼らは、十分の一は律法の命じるところであるから、ほかに心からの献げ物をすることによって神を喜ばせたいと思ったのです。

ピアソン博士やコルゲートは、初めは十分の一を献げて、十分の九をもって生活をしましたが、後に彼らは十分の九を神に献げて、十分の一で生活をするようになったと言われています。

ジョン・ウェスレーは一年間の収入が三〇ポンドであった時、二八ポンドで生活していましたが、後に収入が七〇ポンドになっても、千ポンドになっても、やはり二八ポンドで生活をし、その他はすべて神に献げたと言っています。
ウェスレーは献金について、次のように言っています。

「極々少数の人を除いては、富が増し加わるにしたがって宗教(キリスト教)の真髄(キリストにある心)が段々と衰えていくことを私は恐れている。考えてみると、真の宗教のリバイバルをいかにして続けていくことができるかは、その事の性質上、困難な問題である。なぜなら、真の宗教は必ず人々を勤勉にならせ、質素にさせる。人が勤勉で質素になれば、必ず富んでくる。富が増し加わると、必ず高慢や怒りや、この世を愛する心が様々な方面で現われてくる。そうであれば、心の宗教が今、緑の木のように栄えていても、その有様をいつまでも続けていくことができるだろうか。

メソジストの徒はどこでも勤勉であり、質素になっている。その結果として彼らの富も増し加わってくる。したがって彼らの高ぶりと怒りと肉の欲、眼の欲、持ち物の誇りなどが増し加わってくることを恐れる。かくして宗教の形だけが残って、その精神はたちまちに消え失せてしまうのである。潔い宗教に伴う悪の傾向を防ぐ道はないのであろうか。

私たちは、人々が勤勉に働き、節約することを禁じるわけにはいかない。否、できるだけ儲け、できるだけ貯えることを勧めなければならない。そうすれば富が増し加わるのは当然である。そうであるなら、私たちの金が私たちを地獄の底に沈めないようにしつつ、金を儲けることができるだろうか。
それにはただ一つの道がある。このほかには天下に道はない。

すなわち、
・できるだけ多く儲け、
・できるだけ多く貯えると共に、
・できるだけ多く与えることである。

このようにすれば、儲ければ儲けるほど、恵みにすゝみ、そしていよいよ多くの宝を天に積むことができるであろう。」

(以上、創世記28章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用しました。)

上の写真は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyにより1900年に出版されたバイブルカードより、「Jacob at Bethel(ベテルでのヤコブ)」(Wikimedia Commonsより)

〔あとがき〕

私は、多忙であることもありますが、主が私に与えてくださった使命を果たすために、ほとんど講演会やセミナーへの講師としてのお招きをお断わりしています。ところが先日はどうしても行かなければならない羽目になり、出かけました。お集まりになった皆さんはとても熱心で、様々な工夫をこらした奉仕をしておられる方々ばかりでした。しかし私はそこで一つのことに気づきました。聖書の福音を伝えようと一生懸命になっておられるのに、肝心の聖書をあまり探求しようとしておられないことです。今はニューメディアの時代で、メッセージを伝えるためには、先端技術を駆使した便利な手段が次々と現われています。皆さん、便利な手段や方法に心が奪われて、伝えるべき内容の聖書が置き去りにされています。私の所には時々、中に何も入っていない封書が届くことがあります。現代はこんな風になりつつあるのではないかと恐れています。クリスチャンの心が聖書に熱く注がれ始めたら、リバイバルが起きるでしょう。

「本は読む時代から見る時代に移った」と言われてから、かなりの時間が過ぎました。そして今では、大人の絵本も出版されています。キリスト教の書店でも、カラーの表紙にカラーの写真や絵が載っているものでしか売れなくなりました。しかし私はやはり、特別な本以外は、本は読むものであって、見るものではないと思います。もし聖書を全部絵にしたとしましょう。そうすれば、概略を理解するには視覚に訴えて良いかもしれませんが、大切なメッセージのほとんど大部分は失われてしまいます。霊的に幼稚な人は興味のある本を読みます。しかし霊的に成長した人は表紙や装丁や写真にだまされず、価値ある重要な本を読みます。そして読んでいくうちに興味を覚えるのです。
(1986.7.1)

「聖書の探求」の目次