聖書の探求(031a) 創世記35章 ヤコブの潔めの完成
この章では、ヤコブは神に満たされています。それ故、この章は「ヤコブの潔めの完成」の章と言ってもよいでしょう。この章の中心部分は9~15節でしょう。
〔35章の概要〕
1~5節 べテルヘ
(a) 神の顕現(1節)
(b) 築壇の準備(1、3節)
(c) 出発と神の保護(5節)
6~15節 ベテル(昔のルズ)にて
(a) 築壇(7節)
(b) 神の顕現(9~13節)-
(c) デボラの死(8節)
16~29節 べテルから
(a) べツレヘムで‥‥ベニヤミンの誕生とラケルの死(16~20節)
(b) ミグダル・エデルのかなた‥‥ルベンの不道徳(21,22節)
(c) ヘブロン‥‥イサクと再会と、イサクの死(27~29節)
(教訓)
① 時 - 困難の時に助けたもう神(1、3、7節、参考28章、34章)
創35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
創 35:3 そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」
創 35:7 ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現れたからである。
② 神の顕現の条件 - 生活の全般が神のみこころに合致すること(築壇の生活、1,2節)
創 35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。
③ 神の顕現の目的 - 祝福(9節)
創 35:9 こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
(a) 変貌(10節)
創 35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。
(b) 祝福の源としての祝福(11節)
創 35:11 神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。
(c) 神との会見の祝福(9、12節)
創 35:9 こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
創 35:12 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」
(d) 神の目的にかなった祝福(デボラ、ラケル、イサクの死)(8、19、29節)
創 35:8 リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それでその木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
創 35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、今日のベツレヘムへの道に葬られた。
創 35:29 イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。
32章はヤコブの聖潔の経験でしたが、35章は聖潔の更新です。11節の「わたしは全能の神である。」は17章1節でアブラハムに語られたのと同じです。御業をなしたもう神に栄光が帰されています。
創17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
〔ヤコブの信仰の完成〕
1、ベテルに帰れとの命令(1節)
創 35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
ヤコブは帰国すれば、すぐにベテルに行くべきでした(28:19~22)。
創 28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして【主】が私の神となられるなら、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」
それなのに彼はその誓約を果たさず、シェケムに住んでいたのは、彼の不服従でした。そしてついに大失敗をしてしまったのです。
神はもう一度ヤコブに、35年前、兄エサウの顔を避けて逃げる時に約束したベテルに行って、そこに祭壇を築き礼拝をささげるように命じました。神はヤコブを神の道からはずれた所まで引き帰らせて、もう一度神の道を歩むように命じたのです。私たちも乗り越えるべき課題を避けていたり、解決しておかなければならない人間関係をそのままにして逃げていたりしているなら、神はそのままで前進させてくれません。必ず何度でも、同じような課題に直面させてはずれた道を正しく歩ませようとなさいます。信仰の道は避けて通ることができないのです。またお互いは、神に約束し、誓ったならば、それを必ず果たすべきです(伝道者の書5:4)。真剣に果たすつもりのないことは軽々しく誓わないことです。
伝5:4 神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。
ヤコブとその家族がその堕落した状態から救い出されるためには、神との約束からはずれた点をはっきりさせて、そこからやり直す以外に方法がありません。私たちも神の道をはずれていることに気づいたら、キリストの十字架に立ち帰って、救いをはっきりと確信しなければなりません。
神はヤコブの不従順、不信仰、不注意にも拘らず、彼を捨てず、あわれみをもって彼を導かれました。これも神がヤコブと結ばれた約束を守っておられたからです。神は約束に対してまことに厳密に誠実なお方です。だからこそ、私たちは神の約束のみことばをしっかりと信じる必要があるのです。
2、ヤコブの服従(2~4節)
創 35:2 それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。
35:3 そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」
35:4 彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。
ヤコブは神の命令に対して、いつになく従順で、しかも細かいところまで気を配って実行しています。
ヤコブ自身はこれまで偶像を拝んだことはなかったけれども、家族が偶像を拝むことには無頓着でした(2節)。しかしここでは彼は家長として家族の責任をとり、偶像を取り除くように命じています。ヤコブの家族か堕落していった一つの原因は、彼が家族に対して責任をきちんととらなかったからです(参考、ヨシュア記24:15、使徒16:31)。
ヨシ 24:15 もしも【主】に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、【主】に仕える。」
使 16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。
四節の耳輪は、偶像を拝む時につけたものと思われます(ホセア2:13、申命記7:25,26)。
ホセ 2:13 わたしは、彼女がバアルに香をたき、耳輪や飾りを身につけて、恋人たちを慕って行き、わたしを忘れてバアルに仕えた日々に報いる。──【主】の御告げ──
申 7:25 あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、【主】の忌みきらわれるものである。
7:26 忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。
現代のイヤリングのルーツもこのあたりにあるのではないでしょうか。クリスチャンは自ら慎んで偶像に関するものを避け、己が身をもって神の栄光を表わさなければなりません。ただ偶像を取り除き、拝まないだけでなく、偶像に関する物も取り除く必要があります。ギデオンはこの偶像の付属品を作ったために、それによって彼の家は堕落しました(土師記8:24~27)。
士 8:24 ついで、ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。」──殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである──
8:25 すると、彼らは「差し上げますとも」と答えて、一枚の上着を広げ、ひとりひとりその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。
8:26 ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で一千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、垂れ飾りや、ミデヤンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首の回りに掛けていた首飾りなどもあった。
8:27 ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。
ヤコブはこの点で徹底していました。私たちは、神のみこころにかなわない中心的なものは取り除いても、その付属品をいつまでも惜しんで持っているために、それが落し穴になるのです。
3、神からの恐怖による保護(5節)
創 35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。
ヤコブは周囲の人々の復讐を恐れていました(34:30)。
創 34:30 それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」
そしてヤコブがその地を立ち去ろうとしている時は最も危険なはずです。しかし神は、ヤコブたちが罪を悔い改めた故に、彼らを守られました。その方法は、周囲の人々に恐怖を与えるという方法でした。今も神は、人々の心に様々な思いを与えられます。
4、ヤコブのべテル帰還(6節)
創 35:6 ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。
ヤコブがルズ(ベテル)に帰ってきた時、彼はその間の神の保護を覚えて感慨無量だったでしょう。彼はカナンに帰ってきてからも、ずっと家畜や所有物のことばかりを考えて、親たちのことすら忘れていました。しかしリベカのうばデボラの死に会って(8節)、両親のことを思い出したものと思われます。27節で彼は、父イサクのところに帰っています。
創 35:8 リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それでその木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
創 35:27 ヤコブはキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った。そこはアブラハムとイサクが一時、滞在した所である。
5、ベテルの神(エル・ベテル)(7節)
創 35:7 ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現れたからである。
33章20節では、シェケムにおいてヤコブは神を「エル・エロへ・イスラエル(イスラエルの神である神)」と呼びました。しかしここでは自分の名前となった「イスラエル」を付けずに、「エル・べテル(ベテルの神)」と、大なる救いを施される神の名を呼んだのです。
創 33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。
35章1節で神はヤコブに、ベテルに帰って、そこに祭壇を築けと命じておられます。
創 35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
これは「救いの神を覚える」ということです。これが謙遜の道です。彼はその時、非常に堕落していましたから、罪の赦しを求めるべきでした。
6、ペヌエルの恵みの回復(9~12節)
創 35:9 こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。
35:11 神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。
35:12 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」
32章28節がペヌエルの恵みです。
創 32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
そしてもう一度、ペヌエルの恵みが更新され、また拡大されています。
ペヌエルにおいては、神はヤコブの名前を告げられましたが、御自分の御名は仰せになりませんでした。しかしここ(11節)では、神はご自分を「全能の神」と言って名乗られました。この御名は神の約束の保証です。
ペヌエルでは、見聞きできるものによりましたが、ここではそういうものは一切なく、ただ神の御名が明確にされました。
ペヌエルでは、ヤコブの名前がイスラエルに変えられました。これはヤコブが、神に対して力ある者、すなわち、神を動かし、働かせまつる力ある者となったというしるしでした。しかしここでは、働きたもう神ご自身の御名が示されました。
たといヤコブが神を動かすほどの信仰者となっても、神が全能の神でなければ無意味です。つまり、人の側の信仰と神の側の力とが表わされた時、祝福は完全なものとなるのです。
これはペヌエルの完成です。すなわち、既に受けている恵みに居坐ってしまわず、却って恵みを与えてくださる神に目を向け、神を信じ、神を畏れ、神に従うことです。
7、記念の石の柱(14,15節)
創 35:14 ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけた。
7節では祭壇を築きましたが、ここでは記念の碑(石の柱)を立てました。その上にぶどう酒と油を注いだのは、「注ぎのささげ物」のことです。土師記9章13節に、「神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒」とあるのは、普通の宴会のことではなく、「注ぎのささげ物」のぶどう酒を意味しているものと思われます。
士 9:13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』
イスラエル人は神の約束の地であるカナンの国に入るまでは、この注ぎのささげ物を献げませんでした。(民数記15章)。
これは喜びのささげ物です。ヤコブは無事に母国に帰ったので、記念の石の柱を立てて、注ぎのささげ物をささげたのです。聖書中、注ぎのささげ物のことが記されているのは、ここが初めてです。
ここではぶどう酒とともに、油も注がれました。油は光を与えるものです。ぶどう酒は喜びを、油は聖霊の光の型と言えましょう。
これは、全く神に受け入れられたことを喜ぶペヌエルの祝福の完成です。
ここには大切な教訓が含まれています。すなわち、証しのために記念碑を立てたことです。たえず証しをすることは、救いと恵みを継続する一つの条件です。心に信じ、口で告白すること(ローマ10:10)は、霊的世界の根本的な法則です。
ロマ 10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
イスラエル人はヨルダン川を渡った時、記念のために十二の石を据えました(ヨシュア記4章)。
取税人マタイはすべてを捨ててキリストに従った時、証しのために宴会を開いて友人たちを招き、そこで証しをしました。私たちも謙遜をもって、受けた恵みの証しをすべきです。
35章16~29節は、ヤコブの祝福の後の三つの悲しみを記しています。
ヤコブは祝福を受けた後に、大きな悲しみを経験しました。神はしばしば、苦しい試練を忍耐強く乗り越えることができるように、まず、それに耐えるだけの祝福を与えてくださるのです。
1、第一の悲しみ(16~20節)
創 35:16 彼らがベテルを旅立って、エフラテまで行くにはまだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ。
35:17 彼女がひどい陣痛で苦しんでいるとき、助産婦は彼女に、「心配なさるな。今度も男のお子さんです」と告げた。
35:18 彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、今日のベツレヘムへの道に葬られた。
35:20 ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている。
最愛の妻ラケルが出産のために死んだこと。ラケルが死んだ所はエフラテ、すなわちべツレヘムでした。これは悲しい出来事でしたが、ベニヤミンが生まれるためのものでした。
このベツレヘムでダビデが生まれ、主イエスもお生まれになりました。主イエスはユダ族からの出でしたが、ベニヤミンの地でお生まれになりました。
2、第二の悲しみ(21~26節)
創 35:21 イスラエルは旅を続け、ミグダル・エデルのかなたに天幕を張った。
35:22 イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた。さて、ヤコブの子は十二人であった。
35:23 レアの子はヤコブの長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。
35:24 ラケルの子はヨセフとベニヤミン。
35:25 ラケルの女奴隷ビルハの子はダンとナフタリ。
35:26 レアの女奴隷ジルパの子はガドとアシェル。これらはパダン・アラムでヤコブに生まれた彼の子たちである。
ここにヤコブの子どもたちのリストが記されているのは、25章19節からのイサクの働きがここで完了するからです。
そしてここには、ルベンの恐るべき罪が記されています(22節)。ルベンはその罪のために長子の権利を失い、ラケルによる長子ヨセフがその長子の権利を得ました(歴代誌第一、5:1,2)。ルベンの罪は、父ヤコブにとって、どれほどの悲しみと苦しみになったことでしょうか。
Ⅰ歴代 5:1 イスラエルの長子ルベンの子孫──彼は長子であったが、父の寝床を汚したことにより、その長子の権利はイスラエルの子ヨセフの子に与えられた。系図の記載は長子の権利に従って行うものではない。
5:2 ユダは彼の兄弟たちにまさる者となり、君たる者も彼から出るのであるが、長子の権利はヨセフに帰したからである──
3、第三の悲しみ(27~29節)
創 35:27 ヤコブはキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った。そこはアブラハムとイサクが一時、滞在した所である。
35:28 イサクの一生は百八十年であった。
35:29 イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。
父イサクの死(180才)。イサクの死はヤコブが帰ってからしばらく後のことであったと思われます。それがここに記されているのはイサクの歴史の完結を示すためです。
ヤコブがこれらの悲痛な苦しみを耐え忍んで乗り越えるために、予め神は祝福を与えられたのです。ここにも神のあわれみが見られます。
(以上、創世記35章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用しました。)
上の写真は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyにより1906年に出版されたバイブルカードより、「Jacob’s Vision and God’s Promise(ヤコブの夢と神の約束)」(Wikimedia Commonsより)
〔あとがき〕
暑かった夏も過ぎてみると、なつかしいものです。信仰の試練も過ぎてみて、その恵み深さを悟るものです。しかしなぜ、わずかの試みで教会から離れてしまう人が多いのでしょうか。時々、昔は教会に行っていました、教会学校の教師もしていましたという人に出会います。そういう人とお話していますと、共通して感じることがあります。それは聖書を読んでいない、学んでいない、分かっていないということです。私は、信仰が中断してしまう最大の原因は、聖書を読まず、学ばず、探求しないからだと思っています。
それではなぜ、クリスチャンと言われている人がそれほど聖書に関心を示さないのでしょうか。その第一の理由は、救いが明確でないことです。第二は誘惑に負けてこの世のことにひきずり回されているからです。第三は、教会で聖書が分かりやすく実際生活に即して話されていないからではないでしょうか。日本で福音が勝利できるかどうかは、クリスチャンが聖書をどう扱うかにかかっています。(1986.10.1)