音声+文書:信仰の列伝(1) 「信仰は保証」 へブル人への手紙11章1節

2016年7月31日(日)午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

まなべ先生の音声メッセージには、聞き逃せない大切な内容が多く含まれています。
下記に、音声を聞きとって書化しましたので、お読みください。下記のPDF文書の印刷もできます。

信仰の列伝(1) 「信仰は保証」PDF文書

へブル人への手紙11章1節
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

<礼拝メッセージ)>

今日からヘブル人への手紙をお話ししたいと思います。
今日は信仰の列伝の1回目ですので、「信仰は保証」という題でお話ししたいと思います。

お祈り

「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
 恵みの深い天のお父様、こうして今年も私たちを7カ月間、寒い日もあり、暑い日もあり、いろいろ不順なこともありましたけれども、イエス様の道を歩いていけますことを感謝いたします。
今日もみことばを祝してください。
ますます信仰の確信に立つことができ、私たちの生涯を通してあなたの栄光を現す歩みができるように助けてください。
今日もみことばの真理を教えてください。
私たちの歩みをしっかりしたものにしてくださいますよう、心からお願いいたします。
この朝、お年を召された方々や病の中にある方々をお支えください。
暑さが増し加わっていますが、霊肉をお支えください。
この時を主の御手にゆだねて、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。


ヘブル書11章は、旧約の聖徒たちの特色ある信仰を伝えております。

すでに私たちは、信仰の奥義、信仰の高嶺、信仰の戦い、信仰の勇者と、信仰をテーマとして聖書から主のみわざを体験してまいりました。
このシリーズの最後として、ヘブルの11章から「信仰の列伝」を取り上げたいと思います。

11章の1節~3節は信仰の定義を記しております。

聖書の中では非常に珍しい記事でありますけれども、少し難しく感じるかもしれませんが、最初の部分をお話ししてみたいと思います。

まず、11章の1節を見てみますと、
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

「信仰は、保証し確信させるもの」と言われています。
それは一体どういうことなんでしょうか。

それは、信じて従っていく十分な真実な根拠がある、ということであります。ペテロは、「彼に信頼するものは決して失望させられることがない」と言いました。失望させられることがない根拠がある。それを保証し確信させるものだと言っています。

つまり、聖書に神様が啓示された信仰は、決して漠然としたものではなく、根拠のないものではない、ということです。私たちが信じる神様は、木や石や金属で作ったものではない、とイザヤは嘲るように言っています。口があっても話せない、耳があっても聞こえない、目は睨んでいるようでも何も見えていない、鼻はあっても息をしていない、と言っていますね。そういうものを信じて拝んでいるわけではありません。

また、時代とともに変わる哲学、思想、主義主張、道徳観でもありません。今の時代は、道徳観なんてもう無くなってしまったような時代でもありますし、また、はっきりしたイデオロギーもなくなってしまいました。何もかもが混沌としております。何が問題なのか分からなくなってしまったような状況にあります。

そういう状況の中で、私たちが信じている神様はどういう神様なのか。
神様は、私たちをご自身のかたちに似せて造ってくださった。そして、霊の神、人格の神、創造の神、救いの神、きよめる神、毎日交わってくださる神様です。詩篇を見ると、毎日、私の重荷を負ってくださる神様です。神様が私の重荷を負ってくださるから、一日一日いろんな困難があっても乗り超えることができます。

信仰の目的はなんでしょうか。
主を礼拝することです。主と交わることです。神が人をお造りになった時に、ご自身に似せて造られたと書いてあります。それは、愛と信仰によって、主が私と親しく交わるためで
す。
同じ心を持ち、同じ性質を持っていなければ交わることはできません。私たちがどんなに力を尽くしても、木や石の偶像と交わることはできません。どんなに手を合わせても交わることはできません。なぜなら、相手は命がないし、霊もないからです。
「わたしが聖であるから、あなた方も聖でなければならない」というみことばがありますが、心の性質が似せて造られたのは主と交わるためです。汚れた者が聖なる神様と交わることはできません。常識で考えても分かると思いますけれども、汚れた者が聖なる神様と交わることはとてもできないはずです。

人は、神様のご命令のみことばを、サタンの誘惑に従って破ってしまったことにより、この主との交わりを破壊してしまいました。
しかし、アダムとエバが堕落した時、人間が堕落した時、神様はすぐに、交わりを回復する道を備えてくださいました。その道とは、「わたしが道である」と仰ったイエス様であります。神ご自身であられる御子イエス・キリストが、私の罪を代わりに背負って十字架に架かってくださった、それが回復の道であります。「わたしは道です」と言われた道です。
私はこの神様を信じておりますけれども、みなさんも同じでしょう。ですから、根拠がはっきりしております。保証されているんです。

さて1節の、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」は「信仰」の二つの特徴を示しています。

1つ目は、信仰は「保証するもの」であり、2つ目は「確信させるもの」であります。これらをもう少し深く掘りさげてみたいと思います。

今日は1つ目の、信仰は「保証するもの」についてお話しします。

A.「信仰は望んでいる事がらを保証し、」「望んでいる事がら」とは何でしょうか。

イエス様は、マタイの7章7節で、「求めなさい。そうすれば与えられます。」と言われました。

マルコの11章24節でも、「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と仰いました。

ヨハネの15章16節を、ご一緒に読んでみましょう。望んでいるとは、何を意味しているかを指しています。
ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

もう一つ、第一ヨハネの手紙5章14節を読んでみたいと思います。
Ⅰヨハネ5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

これらのみことばから分かることは何でしょうか。
それは、「望んでいることとは、
・得るまでは求め続けること。ただ期待しているということではありません。
・疑わずに、祈り求め続けること。
・イエス様の御名前によって、主に信頼して求めること。
・主のみこころにかなったことを求めること(Ⅰヨハネ5:14)。
であることが分かります。

ヘブルの10章35~36節を読んでみましょう。
10:35ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「約束のもの」ですから、まだ手に入っていないわけですけれども、確信がある、保証されているということです。

ヤコブは手に入らないことについてこう警告しています。手に入らなかった時は、どういう間違いを犯していたかを記しています。
ヤコブ 4:2あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです

「悪い動機で願うから」と言っています。「悪い動機」とはなんでしょうか。後でお話ししますけれども、自分の快楽のために使おうとする、自分だけが楽しむ、ということですね。
クリスチャンは神様を信じて素晴らしい経験をしますけれども、自分さえよければそれでいいというところに陥りやすい。そうなるとヤコブの警告が生きてきますね。

主を喜ばせることを望んで、自分の魂も家族の魂も周囲の人の魂も救われることを望んで、キリストとともによみがえることを望んで、天の故郷、神の都を望む人は、それを必ず手に入れる保証を受けていると言っています。これは非常に大事なことですね。私たちはあてにならないものを信じているわけではありません。

パウロはこの保証について次のように言いました。パウロはその保証をしっかり握って殉教を待ち望んでいました
Ⅱテモテ4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

特別な特定の人だけではない、主の現れを慕っている者には(主の再臨のことです)、誰にでも授けてくださる。信仰者に例外はない。

信仰を働かせる場合、イエス様とつながっていなければならないということは、はっきりしています。ヨハネ15章5~6節、ぶどうの木のたとえを読んでみたいと思います。
ヨハネ 15:5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

教会にぶどうがなっているんですけれども、通る人が口々にこう言います。
「すごい、すごい」と言います。しかし、それが自分にとって何を意味しているのか。
クリスチャンであるならば、ぶどうの枝を見たら、ヨハネの15章を思い出すでしょう。
この神様の教えを忘れてはならないと思います。

私たちはイエス様を離れて、どんな親切をしても、どんな良いことをしても実を結びません。イエス様を心に持って、主の愛によって、主に仕えるように、主を喜ばせるために何事もしたいものです。そういう思いと動機がある時に、それが信仰の働きになります。
キリスト・イエスとつながっていなければならない。

主は、ヨハネ15章4~11節の間に、11回も、「わたしにとどまりなさい」、「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と繰り返して言っておられます。
つまりこれは、聖書の知識だけではなくて、儀式や戒めを守っているだけではなくて、心が全く主に信頼して、主につながって従順に従っているならば、主にとどまっております。
信仰が生きて働いています。実ってくるということですね。
ご存じと思いますが、1月、2月にはぶどうの実はなっていません。しかし、つながっているなら、必ず実はなってきます。

しかし、もし私たちが、自分の欲を満足させようとして、自分のためだけに働くのなら、主の栄光を現すことはできません。二人の人が同じものを求めても、自分の欲のため、自分を輝かせるために求めている人には神の栄光は現せません。

マタイ9章の金持ちの青年のように、幼いころからモーセの律法を守り、豊かな富を持ち、社会的にも高い地位につき、みんなが欲しがっているものを全部持っていたとしても、彼は暗い悲しい顔をしてイエス様のもとを立ち去っていきました。
自分中心の欲を求め続ければ、必ず彼とおなじ運命をたどることになります。わざわいや嘆き、争いが生じてきます。

先ほど読みましたけれども、ヤコブが言っているように、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして」とありますが、「快楽」というと何か不道徳なものを感じるかもしれませんが、そればかりではありません。自分の欲のために使う、自分自身を満足させる自己満足のために用いることですね。それをヤコブは「悪い動機」だと言っています。

ローマ8章32節を読んでみましょう。パウロはこう言っています。
ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

「御子といっしょに」であります。「御子」はいらないから、恵みの方だけもらいたいということはできません。

ですから、私が主に自分の願いや望みを祈り求める時、考えてみます。
・自分の望みや願いは、主が望まれることだろうか。
・キリストの勝利になることか。
・キリストの栄光を現すことか。
・それとも、私利私欲のためか。自分の地位や名誉のためか。
・他人からの評価のためか。自己満足のためか。
それらを考えます。

本当に真実な信仰でなければ、口では「神を第一にします」と言っても、本音では、金持ちの青年と同じで、富にしがみついていたり、使徒の働き5章に出てくるアナニヤとサッピラの夫婦のように、敬虔な聖徒を装いつつ、実は心の中では人々からの評判、評価、尊敬、地位や名誉、そういうものを求めていることがあります。

人々が認めてくれないと、自分はこんなに立派な人間だと、自分から売り出していくようになります。今の時代は自分を売り込むのが大変だと言われています。
もし、「神の栄光を現す」という、純粋で確かな動機から出た願いや望みであるなら、なんの躊躇も迷いもなく、大胆に恵みの御座に近づいて祈ることができます。そして、困難があっても、時間がかかっても、必ずじわじわと成し遂げていくことができます。

聖書の中に、「日夜そうこうしているうちに成長して実を結ぶようになる」、と書いてあります。朝起きてみたら、花が咲かないで実だけなっていた、というのはあり得ないんです。
私たちの生涯を通しても、信仰を毎日働かせることによって、時間がかかっても成し遂げていくことができるんです。
「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」と教えました。これは非常に大事なことですね。

しかし、「主の栄光を現すために」という理由の陰に、自分の欲や地位や名誉が隠されていることがあります。
金持ちの青年は、富も、地位も、高い評判もあり、その上イエス様から永遠のいのちのお墨付きをもらったら、地上生涯で持つもののすべてを持つことになります。見たところ彼は、敬虔な聖徒を装っております。イエス様の十二弟子にも見られないような立派な人物に見えております。
しかし、彼の心の奥にある隠された肉の欲の動機を、主は見抜かれたわけですね。主を欺くことは誰にもできません。私たちは、心の奥の思いや、考え、性質まで、主の前では裸なんです。

ヘブルの4章13節にそのようなことが書いてありますね。
ヘブル 4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

本人は気づかないかもしれませんが、偽りが潜んでいる動機でいくら熱心に祈っても働いても、それは信仰ではありません。
彼は本当は、一番大事なのは、永遠のいのちイエス様ではなくて、富だった、財産だった。
金持ちの青年が幼い時からモーセの律法を守っていたのは、主を愛するからでもなく、主を信じて従っているからでもなく、「自分はこれだけやっている」という誇りと自己満足、また他人から高い評価を受けるためでした。
ですから彼は、イエス様も認めてくれると思って、自信をもってイエス様のところに走って行ったんです。しかしそれは信仰ではなかったので、破綻してしまうのです。

ですから、信仰とは第一に、キリストにある恵みの勝利を、保証することです。

イエス様は、金持ちの青年に、永遠のいのちを保証してくれませんでした。信仰のように見せかけてはいましたが、中身が信仰ではなかったからですね。
けれども本当の信仰であるならば、中身は保証されます。永遠のいのちは保証されます。
キリストの栄光を現すことも保証されています。
ですからイエス様は、彼の信仰が本物であるように、真実なものであるように、彼の信仰が保証できるものになるように、持ち物を全部売り払って貧しい者に富を施しなさい、と仰いました。そのあとで「わたしについてきなさい」と仰いました。

真実な信仰を持ってあかししていくなら、必ず、主の栄光が現されます。ですから毎回お話ししているように、毎日、信仰を活用する生活を実行していただきたいんです。真実な信仰は必ず、神の栄光を現すことが保証されています。永遠のいのちも保証されています。

しかし今お話ししたように、見かけは信仰のように見えていても、敬虔に見えていても、本当の目的や願いが肉のものであれば、信仰は保証されておりません。信仰ではないから、保証がないんです。

B.次に、信仰は「望んでいる事がらを保証する」と言っています。

「保証する」とは、その約束ごとに、神の保証の印を押していただくことです。

エペソ人への手紙を2か所読んでみたいと思います。
エペソ1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖(あがな)いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

聖霊が、私たちが御国を受け継ぐための保証、約束の御霊が証印(ハンコですね)、と言っています。もう一つ読んでみましょう。
エペソ4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖(あがな)いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

昔のハンコというのは、日本のような朱肉印ではなくて、蝋(ろう)をたらし、その上に印鑑を押すものでした。保証書の証印は、契約書に約束されていることを、双方が必ず正確に責任を持って果たすことの確認であります。
ですから保証書には、目に見える事実にはまだなっていないけれども、契約の時期が来れば、事実とされる権威を持っています。

何か高価なものを買うと保証書がついてきますね。保証期間というのがあります。イエス様の保証は永遠の保証ですね。私たちの信仰が真実であるならば、必ず聖霊の保証の印を押されます。ですから本当にイエス様を信じている人で、聖霊の印を押されていない人はいないはずです。その人は契約の時期が来れば、その権威は必ず現されます。キリストにある勝利を望む信仰は、その実現を必ず保証するものです。

エリサベツもローマの百人隊長もこの信仰を持っていたのです。
エリサベツはルカの福音書1章45節で、こう言っています。
ルカ1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

こう言い切れるのは聖霊の保証を持っているからです。

マタイ8章8~10節を読んでみたいと思います。これはイエス様がお褒めになっているところで非常に優れたところですので、取り上げたいと思います。
マタイ8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

イエス様は驚いた、ということですね。だから、ユダヤ人かユダヤ人でないか、戒めを守っているか守っていないか、割礼を受けているか受けていないか、そういう問題ではない。イエス様を驚かせるような信仰、それはみことばの権威であります。百人隊長がみことばの保証を信じていたからですね。

ここで大事な点は、神の偉大な約束があっても、私自身が個人的に主の約束を信じなければ、実際にキリストの贖(あがな)いの保証、御国を受け継ぐ保証が私のものにならないということです。万民に対する保証書が用意されていても、私個人のものにならないと何の役にも立ちません。

これは、キリストの十字架による救いにおいても同じです。
イエス・キリストは、全世界のすべての人の罪の身代わりとなって、すべての人の罪の代価を完全に払って下さっていても、それだけでは私にキリストの救いは与えられておりません。全世界の人々だから、私もその中に含まれると思いたがる人もいます。けれども聖書はそういうふうに約束していない。一人ひとりの個人が、キリストの十字架を信じる必要がある。私個人との契約が成立する必要があります。イエス・キリストが全世界の全ての人の救い主であっても、まだ私個人の救い主になっていません。

それでは、イエス・キリストが、私個人の救い主として明確になってくださるにはどうしたらいいんでしょうか。
それは、聖書の約束のみことばが、私個人と結びつく契約書であることを、信じることです。
イエス・キリストの十字架の血が、すべての人の罪の身代わりになってくださっただけでなく、私自身の罪のために私の身代わりになって流された血潮であることを信じることです。キリストの十字架が私自身の罪のためであることを信じる時、キリストと私の個人契約が成立します。もはや万民のためだけでなく、私の個人的な契約が成立します。

私は、この私の契約を次のようにして成立させました。
ヨハネの福音書3章16節をお読みしてみましょう。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

「世を愛された」と書いてあります。これだけ見るとすべての人を指しています、私個人のことになりません。
私は、この「世」のところに自分の名前を入れて信じました。「御子を信じる者」「者」のところに自分の名前を入れて信じました。そうすることによって、キリストと私個人の契約が成立したんです。

もう一つ、第一ペテロ2章24節を見てみましょう。
Ⅰペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

この聖句の「私たち」のところに、自分の名前を入れて読み、自分の罪のためにイエス・キリストが十字架に架かって死んでくださったことを信じました。
キリストの十字架は、確かにすべての罪人のためでありますけれども、私個人の契約になるために、私の罪のための刑罰であったことを信じることです。キリストの十字架は、私を永遠の滅びから救い出すための、買い戻すための代価でした。

私がこのことを、みことばによって信じた時、主との個人契約が成立して発効したのです。そして、聖霊による贖(あがな)いの保証を受けたんです。これが、「信仰は望んでいる事がらを保証する」と言われている奥義です。
保証書に自分の名前をサインすることによって、保証書が成立します。この保証は、キリストとの個人的契約が成立していないと、効力を発揮しません。「全世界の人のために」、では、私個人の保証にならないんです。
私が、みことばを信じ、キリストを信じる時、罪も汚れもない尊いキリストの血と、真理の御霊が保証してくださるのです。

ここでヨブ記16章19節をお読みしたいと思います。
ヨブ16:19 今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。

ご存じのように、ヨブは三人の友人から非難攻撃を受けました。その時、ヨブは人の助けを求めずに、天におられる、いと高きお方、神の保証を確信したんですね。
「あなたは救われていますよ」って言ってもらいたくて人の保証を求める人がいますけれども、ヨブはそうしなかった。天に証人がおられます。神の保証以外に何が必要でしょうか。

詩篇119章122節をお読みいたします。これは神の保証を求めているんですね。私たちは人の保証を求めたがりますが、それは危険なことですね。
詩119:122あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者どもが私をしいたげないようにしてください。

この人は、高慢な人達の不当なさばきの虐げから守ってくださる保証人として、主を求めております。神の保証を求めたのです。

ヒゼキヤ王の言葉も読んでみたいと思います。
イザヤ38:14 つばめや、つるのように、私は泣き、鳩のように、うめきました。私の目は、上を仰いで衰えました。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。

ヒゼキヤ王は、嘆きとうめきの中で、しいたげを受けて、衰えの中で主を仰いで、主が彼の保証人となってください、と希望を抱いています。人の助けではなくて、神の保証人を求めています。

ローマ4章16節をお読みしたいと思います。
ローマ4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

神の国の相続人になることは、アブラハムの信仰にならう人に保証されています。

ローマ15章8節も読んでみましょう。
ローマ15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、これは旧約の聖徒たちに与えられた約束は、すべてキリストによって実現することを、保証しています。

第二コリント1章22節も読んでみます。
Ⅱコリント1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

だんだんとその保証がはっきりとしてきました。保証として御霊を与えてくださいました。

第二コリント5章5節も読んでみましょう。
Ⅱコリント5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

御霊が保証だと言っていますね。

エペソ1章14節も読んでみましょう。
エペソ1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖(あがな)いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

聖霊が御国を受けるための保証です。とても大事なことが書いてありますね。保証の印とは、ハンコとは、内に与えられた御霊であります。

ヘブル6章17節も読んでみましょう。
ヘブル6:17 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。

神様は旧約の聖徒たちに、キリストの贖(あがな)いと永遠の御国のご計画に変わりがないことを、神ご自身をさして誓われた、と言っていますね。これは永遠に不変の保証であります。

ヘブル7章22節を読んでみましょう。この保証はさらに変わりますね。
ヘブル7:22そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。

先に、コリントやエペソでは、内住の聖霊が保証でしたけれども、ここではイエス様ご自身が保証となってくださいました。この保証は、永遠に完全な、必ず、実現するキリストの保証であります。

この保証を、私個人のものにする時は、私が、イエス・キリストのみことばを信じる時です。
みことばを覚える時ではありません。みことばの意味を理解して、納得して、知識として教えることができるようになる時ではありません。
キリストのみことばを信じて、自分の魂に受け入れて、喜んで主に従う時です。
その時、信仰の保証であるキリストの御霊が、永遠のいのちとなってくださいます。贖(あがな)いの保証、復活の保証、御国を受け継ぐ保証となってくださいます。
聖書はいろいろな表現をします。御国を受け継ぐ保証とか。全部が同じですね。金持ちの青年は見かけだけの信仰でしたから、この保証を得ることができませんでした。

もう一度繰り返しますけれども、エリサベツはルカ1章45節でこう言っています。
ルカ1:45「 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
これは保証を得られるからです。

マタイ8章8節で、百人隊長は、
マタイ8:8 ・・・ ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
と言いました。直訳では「一言だけおっしゃってください」という意味だそうですけれども。そうすれば、「私のしもべは直りますから」と百人隊長は言ったわけです。

みことばを信じることは、理解することを超えています。イエス様はどのようにしてみわざを行われたか、誰も理解できないでしょう。
しかし、信じることはできます。信じるとは、キリストのご人格を、自分のうちに受け入れることです。キリストの御霊をうちに宿すことであります。
みことばを完全に理解できなくても、信じることはできます。
イエス様のすべてが分からなくても、イエス様が目に見えなくても、イエス様を信じて心に受け入れることはできます。これで、キリストとの契約は結ばれます。個人的に有効になります。

しかし、どんなに知識を持っていたとしても、奇跡を行っていても、心に生けるキリストの御霊を持っていなかったら、契約は成立しません。贖(あがな)いの保証はないし、御国の保証もありません。残念な事であります。
信仰らしいものを持っているのではなくて、みことばを信じることですね。ローマの百人隊長のように、また、エリサベツのようにですね。

主のみことばを信じることは、誰にでもできるし、いつでもできます。これは簡単なようですけれども、実は大変重要なことをしているんです。

百人隊長は、みことばだけをいただくことによって、キリストの神なる権威を信じました。

私たちは、みことばを信じることによって
・神の愛、神の真実なご性質、全能の力、
・神様が変わらない不変のお方であること、
・約束されたことは必ず実現されるお方であること、
・神は私にとって最善のことしかなさらないこと、
を信じることになるんです。

こうして、神の約束は、私の生涯と永遠のうちに実現していくんです。
その保証として、御霊とイエス様と神ご自身が働いてくださっております。
私たちの信仰は保証されている、ということをしっかりと心に留めさせていただきたいと思います。
そして根拠のある、イエス様と共に歩む生活を、今週も営ませていただければ幸いです。

お祈り

恵みの深い天のお父様、あなたが私たちの信仰を保証してくださいますことを感謝いたします。
神ご自身が全力を尽くして、ご自身そのものを持ってきて、保証してくださっています。
私たちもしっかりと惑わされずに、みことばの権威を信じて今週も歩ませてください。
私たちもやがてこの地上を過ぎ去りますけれども、神の御国の保証をしっかり持って歩ませてください。
この時を感謝して、尊いイエス・キリストの御名前によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明



音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>
エペソ人への手紙1章13~14節
「また、あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。・・・」