音声+文書:信仰の列伝(2) 「信仰は確信」 ヘブル人への手紙11章1節
2016年8月7日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
週報No.2035 信仰の列伝(2) 「信仰は確信」
まなべ先生の音声メッセージには、聞き逃せない大切な内容が多く含まれています。
下記に、音声を聞きとってしましたので、お読みください。下記のPDF文書は印刷できます。
信仰の列伝(2) 「信仰は確信」PDF文書
ヘブル人への手紙11章1節
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
<礼拝メッセージ>
お祈り
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
恵みの深い天のお父様、8月に入りまして暑さがますます増し加わっているこの時、私たちの霊肉も衰えがちでありますけれども、今一度新しくしてください。
外なる人も内なる人も、恵みに満たされて、信仰によって歩むことができますように、今日もイエス様のお力を与えられますようにお願いいたします。
みことばを祝し、聖霊によって内なる人を強めてください。
これからの時を主の御手におゆだねし、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
今日は、「信仰は確信」という題でお話しします。
へブル11章1節の後半部分、「信仰は目に見えないものを確信させるものです」についてお話しします。
私たちは、すでに目に見える状態になっているものに対しては、「信仰」を必要としなくなります。例えば、「今日のパンを与えてください」と祈っていた人も、目の前に今日のパンがある時は、「今日のパンを与えてください」という信仰の祈りはしません。その人は、「今日のパンを感謝します」と、感謝の祈りをするでしょう。それは、パンが実際に目に見えて与えられているからです。
私たちが新しい天の御国に入った時、神の御座の前で、主イエス様とお会いする日には、信仰を必要としません。顔と顔を合わせてお会いするからですね。
第一コリント13章12節でパウロは次のように言っています。
Ⅰコリ13:12「 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
新しい、永遠の神の都では、もはや目に見えない神様とお会いしているわけですから、信仰によって礼拝しているのではなくて、顔と顔とを合わせて礼拝して、主の愛を受けることになります。その時の幸いは、言葉では表せません。
モーセは、なおも信仰によってではありますが、「顔と顔を合わせて」に近い経験をしています。
出33:11 「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。・・・」
このことについてパウロは、次のように言っています。第二コリント3章7~8節をお読みしたいと思います。この時は、消える栄光であったようですね。ですから信仰が必要であります。
Ⅱコリ 「3:7もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、 3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。」
旧約の方では、モーセの顔が輝いていたので、イスラエル人がまともに見れなかった、という書き方をしていますけれども、パウロの方は、モーセは、やがて顔から消え去る栄光を見られたくないので、顔に覆いをかけた、と言っておりますね。
しかし、これに優る経験が、信仰による聖霊の御業であります。これは信仰によるものですね。第二コリント3章18節では、
Ⅱコリ3:18 「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
これもまだ、信仰による経験ですね。しかし、御国で主とまみゆる経験は、信仰によらない、主と直接に交わる礼拝経験であります。まだ人間はそのことを経験しておりませんけれども、今、私たちは信仰によって礼拝を捧げております。
しかし、主と直接交わる霊的経験、モーセはそれに近い経験でありましたけれども、まだ信仰経験でありました。それよりもさらに優る経験が信仰による聖霊のみわざの経験です。さらにそれよりも優れているのは、主と交わる御国の経験であります。
さて、「目に見えているもの」とは、具体的には、すでに自分の手にいれているもの、すでに実体を与えられているもののことを指しています。
祈り求めているものが与えられて、手に入ったなら、もはやそれが与えられることを信じる必要がなくなります。ですから、まだ目に見えないもの、手にしていないものに対してだけ、信仰が必要になる、ということですね。
それでは、「目に見えないもの」とは何のことでしょうか。
通常は、「目に見えない」ということは、目の前に存在していないということであります。実体がまだ実現していないことを意味します。しかし、それだけではありません。目に見えていなくても、存在して働いているものがたくさんあります。
偶像は目に見えますが、存在はしておりません。
霊のまことの神は目に見えませんが、実在しておられます。
御使いもサタンも目に見えません。しかし現実に働いています。
私たちの魂とか、思いとか、考え、性質も目には見えません。しかし、それは言葉や、手足の行いによって現わしているわけです。
サムエル記第一16章7節で、主はこう言われました。
Ⅰサム16:7「 ・・・ 人はうわべを見るが、主は心を見る。」
これは非常に有名な言葉ですけれども。人は、身なりや、学歴、地位、財産、など、外見を見て判断するので騙されやすい。サムエルですら、エッサイの子供たちに油をそそぐ時、体格のいいお兄さんに油を注ぎそうになった。サムエルのような人でも間違えてしまいやすい。人はうわべを見るからですね。確かに惑わされやすいです。
しかし神は、人の目には見えない本質を見るので、神様を欺くことはできません。ですから私たちも、人の本質を見るようにしなければなりませんね。
また、「目に見えないもの」とは、永遠的なものを示しています。
私たちの信仰は本質的には、目に見えないものです。神的で、霊的で、永遠的なものに向けられていなければなりません。この地上の富ではなくて、永遠のいのちに向かっていなければならない。
アブラハムは、天の故郷を待ち望んでいました。ヘブルの11章9~10節を読んでみたいと思います。
ヘブル11:9信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
もう少し先の15~16節も読んでみましょう。
ヘブル 11:15もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
「出てきた故郷」とは、カルデヤのウルのことです。彼が帰りたかったのは、目に見えない天の故郷です。「あこがれていた」と書いてあります。だから神様は、アブラハムの神、と呼ばれることを恥となされなかった、と書いてあります。そして、彼らの目には見えない神の都を用意していた。
これはなにも、この地上の生活が不必要なものだ、と言ったのではありません。また、この地上で必要なものを得るために、信仰を働かせてはいけない、と言ったのでもありません。
誤解しないようにして頂きたいと思います。
多くの聖徒たちは、毎日の糧のために、信仰の祈りを捧げてきました。ダビデは、巨人ゴリヤテを信仰で倒しています。第一サムエル記の17章45~46節を読んでみます。
Ⅰサム 17:45ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
あきらかにダビデは、信仰によって巨人ゴリヤテと戦っています。
第一サムエル記17章49節では、
Ⅰサム17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
と書いてあります。
ここで大事なことは、ダビデは特別な武器を使ったのではなくて、日頃羊飼いの仕事をしている時に、羊を獣から守るために使っていた「石投げ器」を使っています。普段生活の中で、仕事の中で使っている、熟練しているものを使った。ダビデは一発でゴリヤテを倒しました。ダビデは「石投げ器」を毎日使っていて熟達していたんですね。
私にとって大事なことは、苦難の日に主を呼ぶことも大事ですけれども、毎日の生活で、みことばの信仰を使って熟達していることです。日頃使っていないものを、たまに使うということは事故のもとですね。信仰に熟達するにはどうしたらいいかと言うと、毎日、みことばの信仰を活用するしかありません。
イエス様は、マタイ7章24~25節で次のように言われました。
マタイ 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
今年の夏も大洪水が発生して、家ごと流されるニュースを何度聞いたか分かりません。まさにイエス様が仰っている通りだな、と思います。一生涯、苦難に会わない人は少ないでしょう。
よくニュースの中に出てくる人が、こう言います。「50年、70年住んできたけれど、こんなことは初めてだ。」
確かにそうですね。こんなことは初めてだというようなことが、私たちの生涯に起こることがあります。しかし、試練の日に、信仰を活用している人は力を発揮します。
真に主を喜ばすために、神の国と神の義を第一に求めている人に、すべての人との平和を求めている人に、また、きよめられることを求めている人には、主は必ず報いてくださいます。しかし、金持ちの青年のように、見かけは正しくて戒めを守って、知識や地位があっても、心の本質が自己中心で、自己満足を求めているなら、必ずわざわいを受けます。
私たちの生涯には、誘惑もあれば思わぬ試練もあります。病もあれば肉体の死もあります。避けられないものがあります。しかし、いつも主のために、主に仕える生活をし、主の栄光を現わすことを真実に求めていけば、主は私を幸いな者にしてくださいます。このことを言っているわけですね。
ヘブルの1:1では「信仰は・・・・確信させる」と言っています。
これには二つの意味があります。
A.その一つは、信仰は、目にみえない神や御使い、天の御国や復活など、神的、霊的、永遠的なものを、事実として確信させる、と言っています。
漠然とした、人間が考えだした思想や哲学ではなくて、岩のように動かない静かな経験として確信させる、と言っています。昔の哲学や思想は、今は全然違ってしまう、変わってしまう。信仰はそういうものでありません。
私たちが主イエス様を信じて従っていって、父なる神様の御許に到達しないことは、あり得ないことです。イエス様は、「わたしを通してでなくては、誰も父の御許に行くことはできない」と仰いました。
もし私が、神ご自身も、キリストも、聖霊も、天の御国も、復活も、永遠のいのちも確信しなかったら、私はルカの福音書の12章16~21節の金持ちの農夫のように同じようなことを言うと思います。ルカ12章19節を読んでみたいと思います。きっとこういう愚かなことを発するに違いありません。
ルカ12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」
これに近いことを言う人がたくさんいますね。人生の晩年に何十万円あれば大丈夫か、を計算する人がたくさんいますけれども、それだけで判断して、よろしいんでしょうか。
もし、信仰の確信がなかったら、私はもはや、主を愛して仕えたり、この生活で受ける苦難や試練を忍耐しなくなると思います。
艱難を信仰で受け止めて、乗り越えていくこともしなくなります。ローマの5章3節の「艱難をも喜ぶ」ということはしなくなるでしょう。その結果、何が起きるでしょうか。希望を失い、神の愛アガペーを受けることもできなくなってしまいます。
聖霊が与える信仰、キリストを信じる信仰は、目に見えないものを確信させるものです。事実として受け止めさせてくれるものであります。
ヘブル11章8節で、アブラハムが、相続財産として受け取るべき地に出て行け、という召しを受けた時、これに従い、どこに行くのか知らないで出て行ったと書かれています。
目に見えない神様が語っておられる。しかし、見えているかのように従って、ご命令のみことばを確信したので、最後まで従い通しました。
もし、目に見える人間が語ったのであれば、アブラハムは、こうはいかなかったと思います。信仰とは、目に見えない神様が目に見えているように、信じて従うことであります。
B.信仰のもう一つの面は、私たちの五感、つまり、見たり、聞いたり、触ったり、匂いをかいだり、感じたりする機能、そういうものではわからないものを、真の事実として確信することです。
目に見えない霊の神と、神のみわざを、肉体の五感によらないで確信して、自分の魂の内に、自分の人格の内に受け入れることを、信仰といいます。
その時、信じる根拠となるものは、神のみことばと、主イエスの十字架の血潮と、真理の御霊です。この根拠に立てば、迷うこともなく、間違うこともありません。
私たちは、生まれてからこのかた、ずっと、五感によって経験して知り学ぶ、ということに慣れてきています。ですから、そのやり方に制約を受けてきてしまっております。
聖書の中に、イエス様が幼子で成長する時に、「恵みの中で成長された」と書いてあります。恵みの中で成長できていない人というのは、人のことばを信じても、主のみことばを信じる経験をしていません。ですから、主の恵みの中で成長している人は幸いですね。ですから、恵みの中でみことばを経験していない人は、聖書を読んでも、内容を理解して知的に納得することを信仰だと思っている傾向があります。
私は何人もの方から、自分で納得しないと信じないという人を聞きました。理解や納得は、信仰に似ていますけれども、信仰ではありません。
聖書が言う信仰とは、私のたましい、私の人格のうちに、キリストのご人格、キリストの御霊を受け入れることです。これが新約聖書の奥義です。新約聖書が「信仰」と呼んでいるものですね。
私たちは信仰によって、神の領域を知り、霊の世界を事実として確信できるのです。
私は今、肉体をも持った世界、物質に囲まれた世界で生活をしていますが、やがてこの朽ちる体を脱ぐ時がきて、永遠に朽ちることのない世界に入れていただける時が来るのです。
パウロはこのことを、第一コリント15章50節~54節で次のように言っています。
Ⅰコリ 15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し」は、前回お話ししましたが、信仰は、普遍的に神の約束を、個人的に私自身のものにする、ということでした。全ての人に約束されているものを、私個人のものにする、そういうことが保証であります。
「信仰は・・・目に見えないものを確信させるものです。」と言っています。
これは、信仰は、五感の感覚や感情によらないで、神の約束のみことばを確信することですね。
ずいぶん前のことですが、こんな経験をしました。両親がクリスチャンで育った十代後半の若い姉妹から、悩みの手紙が続いて届くようになりました。ある時、この人から、「いろいろ問題があるが、私のどこがいけないのか、本当のことを教えてください。」という手紙がきました。
一度も会ったことのない人に、そういうことを言われても困るんですけれども、その手紙の内容からすると、まず第一に救いが明確でないこと、それから、両親に甘えてわがままになっていることが、すぐにわかりました。
私はそのことを率直に答えて、封筒に入れました。しかし私は心配になってきました。
たとえ本当のことを言ってくれと言われても、露骨に本当のことを言えば、ただ、ひどく怒らせることになります。
もし、私のこの手紙を読んだら、この姉妹は、怒ったり、憤慨したり、失望したりするでしょう。もっと、慰めや励ましが必要なのではないか。しかし、そういうことは、すでに手紙で出してある。慰めや励ましだけでは解決できないのです。私は、しばらく手紙を出さずに机の引き出しに入れておきました。
しばらくして、イエス様が「姉妹が怒ってもよいから、その手紙を出すように。」と言っておられるように感じたのです。それで、恐る恐る勇気を出して手紙を出すことにしました。
今でも覚えていますが、手紙をポストに落とした時の瞬間、「これで憎まれる」と緊張しました。
案の定、それからピッタリ5年間くらい、手紙が来なくなりました。私も忙しかったので、だんだんとその人のことを忘れていました。おそらく5年間ぐらい過ぎて、またその人から手紙が届きました。
私の手紙を読んで、「初めは怒りましたが、冷静になって祈りつつ読むと、よく分かり、救いもはっきりして、悩みから解放され、今度結婚することになりました。」と書いてあり、そして、感謝の言葉がありました。
みんながみんな、このようになるとは限りません。しかしあの時、主の働きかけを信じないで、手が震えて手紙を出すのをやめていたら、どうなっていたか分かりません。
目に見えないものを確信させる。感覚や感情によらないで、生ける神様を信じ、確信してそれに従う。このことが大事ですね。私はその時に、そういう経験をしました。
復活したイエス様は、「その手にくぎの跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をその脇に差し入れてみなければ決して信じません。」と言ったトマスに、こう言われました。
ヨハネ20章27節の終わりで、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と仰いました。
もちろん、この背後には、自分の知恵と考えによって信じない者にならないで、信仰によって信じる者になりなさい、と仰いました。
トマスは「信じます」と言い、「私の主、私の神」と言いました。
しかし、イエス様は、さらに言いました。
29節で、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。
この時は特に、主の復活を信じるように言われたのですけれども。このトマスの態度を見ると、人が信じるのが、いかに見たり触ったりすることをあてにしているかを示しております。見たり触ったりすることで、人は受け入れようとします。
しかし、キリスト教の神様は見たり触ったりする像がないんです。偶像がない。だから人はなかなか信じられないようであります。
ある時、教会学校の子どもがこう言いました。「先生、何か見たり触ったりするものがないの? あるでしょう?」人間はそういうものを求めやすいですね。
イエス様が求めておられる信仰は、なんなのでしょうか。
「見ずに信じる信仰」です。
復活された主イエス様を見たり触ったりできれば、もはや信じることは必要ありません。
見えるものの誘惑は、非常に強いんです。私を信じない者にしてしまいやすいんです。
トマスは自分の知恵と考えに従って、触らなければ信じない、という「信じない者」になってしまいました。
イエス様は「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」、「見ずして信じる者になりなさい」とも仰いました。
ですから主は、私をみことばの約束以外何も見えない、見える可能性も根拠もない、見えないところに連れて行ってくださるんです。
ペテロが水の上を歩いた時、水の上を歩く根拠は何もありません。ただ、イエス様の「来なさい」というおことばだけです。根拠はみことばだけです。
アブラハムの信仰に対して、パウロは次のように言いました。ローマ4章17~21節を読んでみたいと思います。アブラハムが信じることができないような状況の中で、信じたことが書いてあります。
ローマ 4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
アブラハムはいつ信じたんでしょうか。どのような状況の時、信じたんでしょうか。
主がアブラハムにひとり子イサクを与えられた時、アブラハムが自分の体が死んだも同然であることを自覚した時、サラの胎が死んでることを認めた時、その時こそ、アブラハムが主を全く信じることができたんです。
人の知恵だと、そんな無茶な、と言います。そんな馬鹿な、と言います。人間の知恵の範囲では、ありえないことだからですね。
アブラハムはその時、まったく主を信じることができました。その信仰が義と認められたんです。
私たちの信仰は、どういう時の信仰なんでしょうか。何もかもが、うまくいっている時の信仰なんでしょうか。
マタイ8章8節のローマ人の百人隊長も同じです。
「ただ、みことばだけをください」
直訳では、「一言だけでもいいですから、みことばをお話しになってください」と言っています。
この信仰に主は驚かれて褒められています。「こんな信仰はイスラエルには見たことがない」と言っております。
第二コリント5章7節を読んでみましょう。
Ⅱコリ5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
私が自分の考えや知恵で納得したり、聖書に書いてあることを受け止めたり、物事の道理を弁(わきま)えたりすることを、主は嫌がられています。
しかし、私の生まれながらの性質は、自分を基準にした価値判断や理解を好みます。
サタンもそうするように薦めています。サタンはエバに、神のご命令に従順に従うのではなく、あなたはもう十分に神様のように賢いのだから、自分の知恵で考えて好ましい方を選んだらいいんじゃないか、と仕向けています。
人は褒められると嬉しくなる。「あなたは賢い人だから」と言われると舞い上がってしまいます。エバはそういう思いで善悪を知る木を見ると、見て美しく、食べておいしそうだし、神のように賢くなれそうに思えたのです。こうして堕落が始まりました。
自分の知恵に頼り、自分の規準で判断することはサタンの誘惑を受けているのです。トマスもそこに落ち込みました。
ローマ人の百人隊長がなぜ、みことばだけに頼ったのか不思議なことですけれども、旧約の律法を教えられているからとか、ユダヤ人であるから信仰があるわけではないということが分かります。異邦人であっても、教えられていなくても、本当に主を信じて主を愛していく人には信仰が分かります。
主は私たちに、信仰によって神の前を歩くことを求めておられます。創世記17章1節を読んでみましょう。
創17:1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
アブラハムが86歳の時、不信仰なことからイシュマエルが生まれてしまいました。それから13年間、神様は沈黙を守られて、アブラハムに現れてくれませんでした。
99歳になった時、全能の神が現れて、(これはエルシャダイですね、いのちを与える神だ、ということです。)「あなたはわたしの前を歩き、全き者であれ」と仰いました。サラの前でもない、誰の前でもない、自分の前でもない。
「前」というのは、気にするとか、基本にするとか、規準にするとか、ということですね。
「神が光の内にあられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら」、とありますけれども、ありのままの姿で、神の光の中に立ち、歩んでいるなら、神様は私たちをきよめてくださいます。そのことが「あなたはわたしの前を歩む」ことです。
ダビデはいつも「私の前に主を置いた」と言いました。とても大事なことですね。
アブラハムはそれまで、主の前を歩んでいなかった。自分の考えやサラの意見や、様々なものの中を歩んでいました。
主は、私がキリストを信じるための助けとして、感情の高揚を与えたり、知的な納得を与えたりするわけではありません。感情の高揚が与えられたり、喜びに満ちたりするのは、信じたあとの結果ですね。信じたその結果として、喜びに満たされております。平安に満たされたりします。喜びに満たされたから、信じるわけではありません。平安に満たされたから信じるわけではない。
主は、私が、主のみことばと、キリストの十字架と、真理の御霊を信じる時に、聖霊がただちに働いて、深い平安に満たされ、神の愛が心に注がれ、喜びにあふれ、豊かな恵みに満たされます。
私が神の御国に入っていくには、感情から入っていこうとすると、入口を間違えてしまいます。必ず、みことばの約束を信じる信仰で入ります。
どう感じていようと、手ごたえがあると思うと思うまいと、みことばの戸を開くと、光が放たれてきます。その結果、豊かな感情を味わうわけですね。
しかし、感情は不安定です。海の波のようです。梅雨時の天候のようですね。晴れていると思ったら、雷が鳴る。冷めたり消えたりします。感情を当てにしていると危険です。迷ってしまいます。
しかし、みことばと、キリストの十字架と 、聖霊は、何度も言うようですけれども、堅固な不変の真理ですから、このお方を日々に信じて歩ませていただきたいと思います。イエス・キリストは、昨日も今日も永遠に、変わることのないお方です。
第一ペテロの1章8~9節をお読みしましょう。
Ⅰペテ1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
「信仰の結果である、たましいの救い」というのは、栄に満ちた喜び踊るような、それは結果として与えられていることが分かりますね。これは信仰の結果であります。
たましいの救いを受けているから、こういう恵みを経験をするわけですね。これは間違えないでいただきたい。
何かを感じたから信じるのではなくて、信じたから感じるんです。私たちのたましいの内にイエス様が宿ってくださるから、その恵みを経験できるわけです。
さきに、ダビデが信仰によって、巨人ゴリヤテを倒したお話しをしました。そのダビデが、詩編16章8~9節でこう語っています。
詩16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
「私の前に主を置いた」という信仰のゆえに、その結果として心が喜んで、たましいが楽しみ、身もまた安らかである。結果ですね。
この経験から、私も、『主をわが前に置いた生活』というプリントを発行しましたが、この経験は、目に見えない神様を現実に確信して、このお方の導きに従って、困難や試練を、主との交わりを通して、信仰の結果として、喜びや平安、輝きや希望、主の愛を経験する機会を言ったのです。
私たちも、少なくとも多少この経験をしているはずです。すでに体験しているはずですから、そのことを再確認していただいて、ますます歩んでいただきたいと思います。
こういう信仰経験を通して、目に見えない神様が、現実に私の生活の中で働いていてくださっている、私のたましいを変貌させてくださっているのを体験します。ですから、毎日コツコツと、みことばと、キリストの十字架を仰ぎ、聖霊の光に従って、信仰を活用させていただきたいと思います。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの。」だからです。
今週も私たちは、目に見えない世界を、昨日まで歩いてきた道は目に見えていたかもしれませんけれども、明日の道はまだ見えておりません。信仰を持って、確信を持って、み言葉と、十字架の血潮と、聖霊に従って歩ませていただきたいと思います。そうすることを通して、結果として良き実を収穫することができるはずですから。
お祈り
恵みの深い天のお父様、私たちには、信仰がどういうものであるか、体験を通して、少しずつですけれども分からせていただいております。
栄に満ちた喜びも、あなたの信仰の結果として与えられていることを感謝いたします。
ますます、イエス様のたましいの救いを経験して、このことが証させていただくことができますように。そのために、みことばの信仰を、イエス様の十字架を仰ぐ信仰を、聖霊が働いてくださる信仰を、体験させてください。
私たちは生まれた時からずっと、目に見える世界で、五感で判断するような生活を続けてまいりましたから、信仰によって歩むことがいかに難しいかを思い知らされています。
しかし、一歩一歩と神様の光の中を歩みつつ、信仰による歩み方を身につけさせていただいて、心から感謝いたします。
いつでも私の前に主が歩んでくだされば、ひるむことなく魂の喜びも与えられます。
これはダビデだけではありません。ゴリヤテを倒したダビデのような、一つのつぶてが、大いなる威力を発揮することもあります。
私たちが語るみことばが、人々の心に留まることができますように助けを与えてください。
今週も暑さが増し加わりますけれども、信仰の歩みができますように助けてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次
<今週の活用型句>
詩篇16篇8~9節
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」
地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421