聖書の探求(041) 出エジプト記 序論(1) 名称、目的、エジプトの歴史

今回から出エジプト記に入りますが、創世記の時のようにゆっくりと探求することができませんので、ぜひ、みなさん個人で出エジプト記をじっくりとお読みくださり、深く探求していただきたいと思います。

1、出エジプト記の名称について

ユダヤ人は出エジプト記をその冒頭の言葉によって、「ウィーレ シモス」(「名は次のとおりである。」)あるいは、ただ「シモス」(「名」)と呼びました。

七十人訳聖書では、この書の中心主題に基づいて、EXODUS(この語は出エジプト記19:1に出てくる「地を出る」からとられている)を用いています。ヴルガタ訳もこれを用いており、今日、私たちが用いている「出エジプト記」はその訳です。

出 19:1 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野に入った。

2、目的

出エジプト記は創世記とその他の律法の書との間を結ぶ環の役割を果たしています。出エジプト記には大きく四つのことが記されています。

第一は、イスラエルの民の急速な増加です。
第二は、出エジプトのための諸準備です。

消極的な面・・・イスラエルの民が、彼らに課せられた厳しい束縛により、自由を求め続け、救出の準備が整えられたこと

積極的な面・・・神が彼らの為になされた力強い奇跡により、エジプト脱出の準備が整えられて、イスラエルの民が神こそが主であり、彼らの唯一の契約の贖(あがな)い主である神であって、全能の神であることを確信するに至ったこと

第三は、エジプトを出て、紅海を渡り、シナイ山に至るまでの実際の脱出(出エジプト記1~19章)の記述です。

出エジプトの旅のここまでは、主として出来事の記録がその特色です。しかしここから先は、法令がその中心になります。イスラエルの民は正式に神政国家として組織され、その組織に必要な法令を受けなければなりませんでした。
この法令は三部から成っています。
(1) シナイ山で授与されたもの(出エジプト記、レビ記)
(2) 荒野を放浪中に授与されたもの(民数記)
(3) モアブの平野で交付されたもの(申命記)

第四は、神がシナイ山でイスラエルに授与された法令と関係があります。(出エジプト記20~40章)

ここでは、
(1) 基本的な道徳律法が発布されています。
(2) 幾つかの条例がかかげられ、それらは神と民の契約の基礎となっています。
(3) 聖なる神のみすまいである幕屋の建設が指示されています。この指示は、金の小牛の罪を犯した為、しばらく実行に移されませんでしたが、ついに幕屋は建設され、神はそこを、人と物語られるみすまいと定められました。

出エジプト記の主題は、エジプトの圧制からイスラエルの民を救出することと、神に対してイスラエルの民を聖別することです。

中心聖句は、12章13節です。

出 12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

中心思想は、「血」です。

出エジプト記中の三つの重要事項は、
(1) 過越祭‥‥救贖(きゅうしょく)、生命
(2) 律法‥‥服従、忠節
(3) 幕屋‥‥礼拝、慈愛
です。

3、エジプトの歴史

エジプトの歴史はおゝまかに言うと次のようになります。

(1) BC4000年以前‥‥エジプトの歴史以前

(2) BC第40世紀(BC3900年~)
(a) タシアン・バダリアン文化‥‥最初の農耕民族
(b) ネカダ第一
(c) ネカダ第二

(3) BC第30世紀(BC2900年~)
(a) 原始王朝時代 第一、二王朝、BC2850~2650年
(b) 古代王国 ピラミッド時代 第三~六王朝、BC2650~2200年
(c) 第一の中間時代 第七~十一王朝、BC2200年~2050年

(4) BC第20世紀(BC1900年~)
(a) 中代王国、第十一、十二王朝、BC2134~C1786年
(b) 第二の中間時代(ヒクソスの時代)、第十三~十七王朝、BC1786~1570年
(c) 新王国、第十八~二十王朝、BC1570~1085年(この期間に出エジプトの大事件が行なわれた。)

(5) BC第10世紀BC(BC990年~)
(a) 後代、第二十一~三十一王朝、BC1082~332年(没落と勢力の回復が交互した時代)
(b) ギリシャ文化の下でのエジプト、BC332~30年(ギリシャのアレキサンダー大帝の侵攻)

(6) AD第1世紀
(a) ローマ・ビザンチン時代、BC30~AD641年(キリスト教国の時代)
(b) イスラム(回教)時代、AD641年~現代

そこで問題になるのが、出エジプトの出来事はいつ行なわれたのか、ということです。
これには大きく二つの説があります。一つは、BC15世紀であるという前期説(アンガーやパーカイザーの説、彼らは福音的立場の学者たちです。)と、BC13世紀であるという後期説(オルブライト説)です。
(次の図参照)

(各説の理由)

一、前期説(BC15世紀)の理由

(1) 列王記第一6章1節の「イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目‥‥‥」から計算すると、ソロモンの治世の開始は約BC973年頃であるか  ら、その四年後とはBC969年となります。この年から480年さかのぼった年が、出エジプトの出来事があった年ということになります。その年はBC1449年となります。これはパーカイザーたちの年数に一致します。

(2) ガースタング博士は、AD1927~36年に、エリコを発掘し、この町がヨシュアの時代に相当するBC1400年頃に破壊されたことを示す土器や甲虫石を発見し、また多くの点で聖書を実証する証拠品を発見しています。
ところでイスラエルの民がパレスチナに入国したのは、出エジプトして以来、四十年間の放浪の生活をして後のことであると聖書は言っています。(民数記14:33,34、32:13、33:38、申命記1:3)またこのことはモーセの年令からしても分かります。

民 14:33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。
14:34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。

民 32:13 【主】の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで【主】の目の前に悪を行ったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。

民 33:38 祭司アロンは【主】の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日であった。

申 1:3 第四十年の第十一月の一日にモーセは、【主】がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。

モーセが神からエジプトに派遣された時は、八十才であり(出エジプト記7:7)、カナンの地を目の前にして死んだ時は百二十才(申命記34:7)でした。

出 7:7 彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。

申 34:7 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

それ故、ガースタングの発見したエリコ陥落の年BC1400年に、イスラエル人の40年の放浪生活を加えると、出エジプトは約BC1440年頃に行なわれたことになります。

(3) 出エジプトの時の王パロと考えられているアメンホテップ2世の次の王トートメス4世(BC1420年)は実子ではなかったとされています。これは十のわざわいの時に、長子がみな死んでいることと合います。

(4) テル・エル・アマルナ土板の発見
1888年にメンフィスとテべスとの間にあるアマルナの廃虚からBC1400年頃のエジプトの王アメンホテップ3世と4世(「アケナテン」とも呼ばれる)の王室記録の一部である約四百枚の土板が発見された。これらは現在、ロンドンとカイロの博物館に収められています。
これらの土板の中には、「ハビルン(バビロンのことと思われる。)」の侵攻に対してエジプト王アクナトンに援助を要請したエルサレムの支配者アビ・ヒバの手紙が含まれています。これらの土板の内容を合わせると、創世記と出エジプト記とを合わせたものと等しくなります。
ところで、アメンホテップ4世(アケナテン)は、彼の治世下に、アジヤの領土を失い、彼は一神教の太陽礼拝を試みています。この一神教の試みは、モーセの奇跡の間接的な影響ではないかと考えられています。さらに彼は首都をアマルナに移しています。このアマルナから土板が発見されたのです。

二、後期説(BC13世紀)の理由

(1) ラメセスの町(出エジプト記1:11)はラメセス2世(BC1290~1224年)の事業である。
確かにラメセス2世は大建築者であったようですが、また大宣伝者でもあり、先祖のある種の功績を自分のものとしたところもあると言われています。

出1:11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。

(2) エドム・モアブにおける鉄器時代の始まりは、BC1300年頃からである。
これはイスラエルの民が荒野を旅している時、エドムやモアブがその地を通過させなかったこと(民数記20:14~21)を後期説の理由にしようとしています。しかしエドムとモアブが鉄器を使い始めたのがBC十三世紀頃であるという根拠ははっきりしていません。

民 20:14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。
20:15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。
20:16 そこで、私たちが【主】に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。
20:17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」
20:18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」
20:19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」
20:20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。
20:21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。

(3) エリコとアイを除いて(これらの町はガースタングの発掘によって、BC1400年頃と立証されているために除いている)、他のパレスチナの町々は、BC13世紀の半ばに崩壊した証拠が多い。
これはヨシュアとイスラエルの民が、エリコやアイばかりでなく、ほとんどパレスチナ全土を占領したことに基づいて論証しようとしています。しかしこの論証には二つの問題点が残されています。その一つは、他の町々の崩壊がBC13世紀半ばに起きたという証拠があまりはっきりしていないことです。もう一つの問題点は、ガースタングの発掘した、エリコ崩壊がBC1400年頃であったという証拠をどのようにして覆(くつがえ)すことができるか、ということです。

(4) ヒクソスの時代のエジプトの王はユダヤ人に親近関係を持ち、好意的であったことが知られています。ヒクソスとはエジプトの十三~十七王朝時代の王たちで、牧羊王たちであったと言われています。彼らはセム系の征服者たちで、ユダヤ人に好意的であったようです。ヒクソスがエジプトを支配している間は、イスラエル人は好遇を受けて繁栄したことは事実です。しかしある人々が言うように、ヒクソスの第十六王朝のアベビ2世がヨセフを迎えたパロであると考えるのは、聖書の記述に適合しません。なぜならヒ  クソスの時代は約216年間であるのに、イスラエルの民のエジプト滞在期間は約四百年(創世記15:13、使徒7:6)、正確には430年(出エジプト記12:40,41)だからです。

創 15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。

使 7:6 また神は次のようなことを話されました。『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』

出 12:40 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。
12:41 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、【主】の全集団はエジプトの国を出た。

イスラエルの民の勢力が増大したのがヒクソスの時代であったから、ヨセフがエジプトに行ったのもヒクソスの時代としなければならない根拠は一つもありません。前期説から計算するとヨセフのエジプト行きはBC1900年頃ということになります。

エジプトの歴史を大まかに見てきましたが、エジプトはイスラエル人が滞在している間は、世界帝国となりましたが、イスラエル人のエジプト脱出と共に衰えてしまいました。これはキリスト教の歴史においても言えることです。キリスト教が盛んな間はその国は栄え、下火になると、どの国も衰えてきたのです。これは、家庭や個人にとっても同じです。

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、アメリカで1907年にthe Providence Lithograph Companyから出版されたバイブル・カードの挿絵「Israel’s Escape from Egypt(イスラエル人のエジプトからの脱出)」(Wikimedia Commonsより)

〔あとがき〕

「月刊冊子『聖書の探求』をありがとうございます。ちょうど一年前から御教会を知りこの探求をとっています。毎月が楽しみです。魂の糧によって、疲れている体も、喜び踊るようです。‥‥‥」
このようなお便りを頂くとき、二十年間抱いてきた私の確信はいよいよ強められます。
その確信とは、みことばに根を下さなければ、クリスチャンの信仰は成長しないということです。昨今、教会ではいろいろなイベントが行なわれてにぎやかになってきましたが、その反面、深くみことばを掘り下げて学ばれるということが少なくなってきたのではないかと危惧しています。またクリスチャンも、イベントには興味を示して出席しても、みことばの講解や学びにはあまり関心を示さないのではないでしょうか。これは根のある花と切花の違いほど差があります。切り花はしばらくの間、美しく香りもありますが、たちまち枯れます。みことばに深く根を下さない信仰も同様です。根さえあれば、冬も越せます。
(1987.7.1)


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