聖書の探求(042) 出エジプト記 序論(2) ホレブとシナイ、出エジプト記のキリスト

4、ホレブとシナイについて

ホレブはシナイ半島の神の山をさしています(出エジプト3:1、18:5)。

出 3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。

出 18:5 モーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻といっしょに、荒野のモーセのところに行った。彼はそこの神の山に宿営していた。

ここで律法がイスラエルに与えられました(申命記4:10~15、5:2、列王記第一8:9、19:8)。

申 4:10 あなたがホレブで、あなたの神、【主】の前に立った日に、【主】は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」
4:11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。
4:12 【主】は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。
4:13 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。
4:14 【主】は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行うためであった。
4:15 あなたがたは十分に気をつけなさい。【主】がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。

申 5:2 私たちの神、【主】は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。

Ⅰ列王 8:9 箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、【主】が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。

Ⅰ列王 19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

ホレブとシナイはほとんど交互に記されています。

ホレブ(出エジプト17:6、申命記1:6、列王記第一8:9、19:8、歴代誌第二5:10)

出 17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

申 1:6 私たちの神、【主】は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。

Ⅰ列王 8:9 箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、【主】が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。

Ⅰ列王 19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

Ⅱ歴代 5:10 箱の中には、二枚の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエル人がエジプトから出て来たとき、【主】が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで入れたものである。

シナイ(出エジプト19:11、24:16、31:18、レビ記7:38、25:1、申命記33:2、士師記5:5)

出 19:11 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、【主】が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。

出 24:16 【主】の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中

出 31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

レビ 7:38 これは、モーセがシナイの荒野でイスラエル人に、そのささげ物を【主】にささげるよう命じた日に、【主】がシナイ山でモーセに命じられたものである。

レビ 25:1 ついで【主】はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。

申 33:2 彼は言った。「【主】はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。

士 5:5 山々は【主】の前に揺れ動いた。シナイもまた、イスラエルの神、【主】の前に。

(ホレブとシナイについての種々の説明)

(1)ホレブは山脈の名で、シナイは頂上の名である。
(2) ホレブはシナイ山の低い部分、またはその嶺である。
(3) ホレブは山脈の北方の低い部分、シナイは南方の部分、特に山頂をさす。
(4) シナイとホレブは同じ地で、シナイはホレブの古い名前(士師記5:5)とする説。
この説では、ホレブとシナイのどちらを選ぶかは、記者の個人的好みや気分、また記録した時期によるらしい。

上の写真は、「Climbing the trail near the summit of Mount Sinai(シナイ山頂上近くの山道を登る)」(Public Domain、2008年にMark A. Wilson (Department of Geology, The College of Wooster)によりアップロードされた。Wikimedia Commonsより)

5、出エジプト記のキリスト

1、出エジプト記は贖罪の書です。

神の民はエジプトの地や奴隷生活を強いられていましたが、そこから脱出する力がなく、失望の中に沈み、うめいていました。神はそこから救出されたのです(出エジプト記3:7,8)。

出 3:7 【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

これは、私たちの霊魂が罪と世の絆から贖い出されて、神の子たちの栄ある自由に入れられることのしるしです。ここに神は、民の救い主、または先導者として示されており、その上、神はその民の中に住んで、彼らの毎日の生活を顧みられている身近なお方として表わされています。

2、モーセは燃える柴の中から神の使命を受けました。

この小さい柴が神によって燃え立たされていることは、神のみ子の御姿です。神が、ご自身を顕わし、人の目に見られ、人の手で触ることができるようになったのです(ヨハネ第一1:1)

ヨハ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

3、モーセが主の御名を尋ねた時、「『わたしはある。』という者である。また仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」(出エジプト記3:14)

この「わたしはある。」という語は、主イエスのみことばの中でしばしば見られます。

「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
「わたしは世の光です。」(ヨハネ8:12)
「わたしは門です。」(ヨハネ10:9)
「わたしは良い牧者です。」(ヨハネ10:11)
「わたしは、よみがえりです。いのちです」(ヨハネ11:25)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)
「わたしはまことのぶどうの木であり」(ヨハネ15:1)

サマリヤの女が「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。」(ヨハネ4:25)と言ったとき、主イエスは「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(26節)と答えられ、主は、この名をご目身に当てはめられました。

主が「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)と言われたとき、ユダヤ人たちは主を打とうとして石を取り上げました。なぜユダヤ人はそうしたのでしょうか。それは、ユダヤ人がイエスをピラトに訴えた時の言葉を聞けば分かります。
「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」(ヨハネ19:7)

4、過越の小羊(出エジプト記12章全体)

過越の小羊はイエス・キリストの贖罪を示しています。聖書中には、おびただしい模型があって、一つ一つに正しい解釈をすることは困難ですが、神ご自身がその意義を説明しておられる模型については明確に悟ることができます。過越の小羊など、出エジプト記中の模型はほとんど、この種のものです(コリント第一5:7,8)。

Ⅰコリ 5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

(次の聖句を対照してください。)

出エジプト記12:6・・・コリント第一2:2

出 12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、

Ⅰコリ 2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

出エジプト記12:5,7・・・ペテロ第一1:18,19

出 12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

Ⅰペテ 1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

出エジプト記12:46・・・ヨハネ19:36

出 12:46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。

ヨハ 19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。

出エジプト記12:3,30・・・ローマ6:23、ローマ5:8

出 12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
出 12:30 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ロマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

出エジプト記12:2・・・ヨハネ3:7、ガラテヤ4:2~5

出 12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

ヨハ 3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
ガラ 4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。
4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

出エジプト記13:2・・・コリント第一6:19,20

出 13:2 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

イザヤ書31章5節に、
「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し(過ぎ越して)、これを助けて解放する。」
とあります。この「鳥」という字は女性の字で、母鳥が自分の巣を保護するのに過ぎ越す。すなわち、その巣を守るために自分の翼を広げて、その上を飛びまわるのです。天からの殺戮者がエジプト全地をまわり歩いた夜、主はこのようにして自らの民を守られたのです。
殺戮者がエジプト全国にこの刑を執行したのは、主の命令によるもので、「エジプトの国の初子は、王座につくパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。」(出エジプト記11:5)と言われていました。当時、イスラエル人はエジプトに住んでいましたから、エジプトとその運命を共にしなければならない立場にありましたが、血を塗った門口には、主ご自身が戸口ごとにさながら番兵のように立たれて、その全家を守り、彼らの救い主となられたのです。エジプトに在住していたイスラエル人の長子たちは、自分の代わりにほふられた小羊の血によって救われたのです。神は彼らに「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」(出エジプト記12:13)と言われました。門口に塗った小羊の血は、彼らの安全を保証し、神の約束に対する彼らの信頼の心を確かなものにしました。私たちが救いを受けるのもこれと同じで、私たちに代わってほふられた神の小羊イエスによってです(ヨハネ1:29)。

ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

また、救いについて確信が持てるのは、神が私たちのために記した聖書のみことばを信じることによってです。そのみことばの一つに「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。」(ヨハネ第一5:11)とある通りです。

5、活けるパンと活ける水(出エジプト記16章全体)

イスラエルの民が呟(つぶや)いた時、主はモーセに、「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。」(出エジプト記16:4)と言われました。
主イエスは、この型をご自分に適用されて、「わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨ八ネ6:48~51)と言われました。
これは、過越についての教えとよく一致しています。主が弟子たちと過越の食事を共にした時、すなわち最後の晩餐の席で、この過越の祭がイエスご自身をさすことを教えられました。
「イエスはパンを取り、祝福して(この動作は過越しの祭の儀式の一部です。)後、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」(マタイ26:16~28)
主がご自分の肉を食べさせ、血を飲ませることを語られると、弟子たちは呟(つぶや)いて、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言いました。しかし主は、弟子たちがこう呟(つぶや)いているのを知っておられ、彼らに言われました。
「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たらどうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:60~63)
これは飲食のことを言っているのではなく、私たちがキリストの死を自分のためとして、霊的に信じて受け入れることを教えているのです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)
これは重要です。私たちは、流されたキリストの血が、自分の罪が赦されるために自分の霊魂に当てはめられたという信仰の自覚を持たなければならないのです。また、イスラエルがマナを集めたように、私たちも日々、実際にいのちのパンであるみことばを食べなければならないのです。

6、打たれた岩(出エジプト記17:1~7)

出 17:1 イスラエル人の全会衆は、【主】の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ【主】を試みるのですか」と言った。
17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
17:4 そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 【主】はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。

「あなたが岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」(出エジプト記17:6)
「彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(コリント第一10:4)
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)
これらの聖句を読めば、もはや解説は不要でしょう。

7、律法(出エジプト記20章~23章)

モーセはキリストの型であって、特に二つの点でこれをみます。

(1) モーセはイスラエルの全国民を恐るべきエジプトの妖隷状態から救い出しましたが、キリストはそれよりもはるかに恐るべき罪のきずなより私たちを救い出してくださいました。

(2) モ-セは律法を教えましたが、キリストは新しい律法を与えました。キリストが山上の説教(マタイ5~7章によって新しく示された律法は、モーセの律法よりもまさり、かつ大いなるものです。この律法は、外側のことよりも、私たちの品性と行為の源泉を支配するものであって、主はこれを誠実と愛をもって制定されたのです。

8、幕屋(出エジプト記25章~31章及び、35章~40章)

幕屋と儀式の真意については、ヘブル人への手紙を見ると、これらは「天にあるものの写しと影」である(ヘブル8:5)と記されています。

ヘブル 8:5 その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」

この幕屋は、イスラエルの陣営の真中に神が臨在しておられることの表徴であって、民のテントの中央に神の幕屋があり、神と人とがここで会うことを表わしたものです。この点で、幕屋は神のみ子イエス・キリストの型です。
「ことばは肉体となって、私たちの中に幕屋を張られた。私たちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:14、原語の意味)
「見よ。神の幕崖が人とともにある。神は彼らとともに住み、」(ヨハネの黙示録21:3)
暮屋は全体としてキリストの型であって、その各部分がキリストの栄光を表わしています。(詩編29:9後半)

幕屋の設計はすべて神より出たものであって、モーセがシナイ山の上で啓示されたものです。
「それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。『よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」(ヘブル8:5)
「主がモーセに命じられたことを、ことごとく行なった。」という意味の句が、この幕屋建設に関して五十回以上も記されています。

(1) 幕屋の外見は、人目を引きそうもない長い黒いじゅごんの皮で作った天幕でおおわれています(出エジプト記26:14)。

出 26:14 天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。

しかし内部に入ってみると、四方が金色に輝き(26:29)、天井は青、紫、紅の糸及び純白の麻のより糸をもって巧みにケルビムを織り出した幕で(26:1)、この内部の美しさを照らすものは、金の燭台の光です(25:31)。

出 26:29 板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作らなければならない。横木には金をかぶせる。
出 26:1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。
出 25:31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。

キリストはこの幕屋が示すとおり、信じない者にとっては、なんら慕うべき見映はありませんが、信じる者にとってはその美徳は私たちの霊魂を満ち足らわせます。

(2) 幕屋は大庭の中にあって、大庭の周囲には六十本の柱が立てられ(四隅の柱は二度数える)、その柱に純白な麻の幕が釣り下げられ、門にはいろいろな色糸で織り出した幕がかけてあります(27:9~18)。

幕屋の左右と背面はアカシヤ材に金を着せた板塀で囲み、地中に据え付けた大きな銀の台座の上に建ててありました(26:15~)。

これらの台座は、イスラエルの民が各自その贖罪の銀として献げた銀貨を溶解して鋳造したものでした(38:25~28)。

出 38:25 会衆のうちの登録された者による銀は、聖所のシェケルで百タラント千七百七十五シェケルであった。
38:26 これは、ひとり当たり一ベカ、すなわち、聖所のシェケルの半シェケルであって、すべて、二十歳以上で登録された者が六十万三千五百五十人であったからである。
38:27 聖所の台座と垂れ幕の台座とを鋳造するために用いた銀は、百タラントであった。すなわち、一個の台座に一タラント、百の台座に百タラントであった。
38:28 また、千七百七十五シェケルで彼は柱の鉤(かぎ)を作り、柱の頭をかぶせ、柱に帯輪を巻きつけた。

これは幕屋の全体が贖罪という基礎の上に建てられていることを示しています(ペテロ第一1:18,19)。

Ⅰペテ 1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

(3) 幕雇の前面には入口の幕があり、幕屋の内部は聖所と至聖所のニつに分けられていて、その間に隔ての幕がかかっていました。(26:33)

出 26:33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。

幕屋の屋根の部分には、四重の幕を用い、その幕は下まで垂れて、両側の板をすべておおっていたのです(26:1~14)。

門から贖罪所(契釣の箱のふたをさす -出エジプト記25:17、これは恵みの御座と同じです- ヘブル4:16)に進もうとすると、祭壇をとおり、洗盤をとおり、聖所の入口の幕をとおり、右にパンの机、左に金の燭台を見てとおり、香壇をとおり、隔ての幕をとおり、至聖所にある契約の箱のふた(恵みの御座)に至るのです。これが営外から神の御前までに進み入る道を示しています。

出 25:17 また、純金の『贖いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。

ヘブル 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

先ず、大庭の入口には門があって(ヨハネ10:9)、ここに幕がかかっていました。

ヨハ 10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

内に入るときは、静かに幕を上げると、容易に入ることができます。私たちの霊魂と私たちの救い主との間には、他人の介入なしに静かに救いのみわざが行なわれることを示しています。

門の内に入ると、すぐに全焼のいけにえをささげる銅の壇の前に立ちます。この銅の壇は、イエス・キリストが一度だけ私たちの罪のために犠牲となられたことを示しています(へブル10:12)

ヘブル 10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

次に、洗盤の前に立ちます。これは贖罪の結果として、私たちが潔められるべきことを示しています(ゼカリヤ13:1)。

ゼカ 13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

ここまでは、イスラエルの人々はだれでもみな来ることができました。

しかし聖所に入ることができるのは祭司だけでした。私たちもイエス・キリストの十字架を信じることによって、主の御用のために聖別して祭司としてくださるのです。それ故に、私たちはなにはばかることもなく、大胆に聖所に入ることができるのです。

聖所の入口には一つの幕がありました。これもイエス・キリスト御自身を表わしています。私たちが新しい祝福の領域に入るためには、必ずキリストによらなければなりません。最初の段階の入口がキリストであったとおり、最後の段階の入口もやはりキリストです。

門の幕も、隔ての幕もみな同じ材料と同じ色糸で織り上げられたもので、その面積は百平方キュビト(縦五キュビト、横二十キュビト)です。門の幕が横に広いのは、あまねく全世界の罪人に対して門戸が開か
れていることを示しています。

聖所の中には、二つの大きなものがありました。(出エジプト記25:30,31)

出 25:30 机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。
25:31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。

すなわち、供えのパンと純金の燭台です。


これは、「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)、
「わたしは世の光です。」(ヨハネ8:12)
と言われたキリストを示しています。

次にあるのは、金の香壇です。(出エジプト30:1~8)

出 30:1 あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。
30:2 長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。
30:3 それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。
30:4 また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。
30:5 その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。
30:6 それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。
30:7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびを整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。
30:8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、【主】の前の常供の香のささげ物である。

これはキリストのとりなしを示しています。(ヘブル7:25)

ヘブル 7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

主がたえまなく私たちのために執り成してくださっているので、私たちの祈りが神の御前に届くのです。(ローマ8:26,27、34)

ロマ 8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
ロマ 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

祭司たちが入れるのは聖所までであって、それより奥は至聖所で、ここには祭司も普断は入れませんでした。至聖所に入れたのは大祭司唯一人であって、一年のうちでただの一日だけ犠牲の血を携えて入ることができました。(ヘブル9:11,12、24)

ヘブル 9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
ヘブル 9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。

主はまた、ご自身の血によって、私たちの新しい活ける道を開かれたので、私たちも至聖所に入ることができ、神のみ前に出られるようになったのです。(ヘブル10:19,20)

ヘブル 10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

隔ての幕について

へブル10章20節には、「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して」とあります。聖所と至聖所は隔ての幕で仕切られていましたが、主イエスが十字架上で息を引き取られた瞬間に、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マタイ27:51)と記されています。「上から下まで」とは、私たちが神に近づく道を、神ご自身が開かれたことを示しています。

契約の箱について

契約の箱の中には、律法の石の板がはいっていました。(ヘブル9:4)

ヘブル 9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。

これもキリストを表わしています。キリストだけが完全に律法を守られ、律法の完成者となってくださったことを教えています。
この箱の蓋が恵みの御座であって、原語は「あがないの覆い物」という意味です。

ヘブル9:5の「贖罪蓋」の語と、ローマ3:25の「なだめの供え物」の語とは同じです。

ロマ 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

「なだめの供え物」とは、キリストのことであって、神と人との会合所のことでもあります。(出エジプト記25:22)

出 25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

この贖罪所の上に神の臨在のしるしであるシェキナの栄光がとどまっていました。この栄光は恵みの御座から昇って、夜は火の柱となり、昼は雲の柱となってイスラエルの全営をおおい守り、また行軍の先導者ともなったのです。(出エジプト記40:34~38)

出 40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

9、大祭司(出エジプト記28、29章)

アロンは大祭司であるイエス・キリストの型です。
大祭司の制服は、みな主イエスの模型です。その装飾の中の三つの彫刻物が教訓を与えています。

(1) 肩当て
この肩当てには、しまめのうの宝石にイスラエルの子らの名を彫みつけたものをつけていました。(28:9~12)

出 28:9 二つのしまめのうを取ったなら、その上にイスラエルの子らの名を刻む。
28:10 その六つの名を一つの石に、残りの六つの名をもう一つの石に、生まれた順に刻む。
28:11 印を彫る宝石細工師の細工で、イスラエルの子らの名を、その二つの石に彫り、それぞれを金のわくにはめ込まなければならない。
28:12 その二つの石をイスラエルの子らの記念の石としてエポデの肩当てにつける。アロンは【主】の前で、彼らの名を両肩に負い、記念とする。

(2) 胸当て
十二種類の宝石にイスラエルの子らの名を彫りつけ(出エジプト記28:15~21)、大祭司は民の名をたえず負って、神の御前に出たのです。

出 28:15 あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。
28:16 それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。
28:17 その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。
28:18 第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。
28:19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、
28:20 第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。
28:21 この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。

(3) 額の上にある純金の札
その上には、「主への聖なるもの」と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物につけます。この札はかぶり物の前面にくるようにしなければなりません。これがアロンの額の上にあるなら、アロンはイスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負うことができます。これはささげ物が主の前に受け入れられるために必要なことなのです。(出エジプト記28:36~38)

出 28:36 また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『【主】への聖なるもの』と彫り、
28:37 これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。
28:38 これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が【主】の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。

このようにアロンの肩と額と心との上に、この彫刻物が付帯されていたことは、私たちのために立てられた大祭司イエス・キリストの完全な力と完全な知恵と完全な愛を示しています。

△「肩」‥‥よい羊飼いは迷える羊を「見つけたら、大喜びでその羊をかついで」(ルカ15:5)
△「胸当て」‥‥「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
△「純金の札」‥‥「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、」(コリント第一1:30)

私たちと神との間に人間が入って、外見だけの祭司となってはならないが、また心の中に現実者であるキリストを自覚していなければ、これまたむなしい。私たちは、大祭司としてのキリストを心に宿していなければ、一刻も立てないことを知り、また主イエスの犠牲によらなければ、決して神に近づくことができないことも知らなければなりません。

模型であるアロンはひとりの罪人でしたから、欠陥がありました。しかしイエス・キリストは完全な大祭司です。人間としては「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)
主は人生の波風にさらされましたから、私たちに同情でき、かつ助けることができるのです。(ヘブル2:18)

ヘブル 2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

彼は全く人となられたので、私たちの必要を極端までも残らず理解することができ、また全く神であられるので、私たちの必要を残らず満たすことができるのです。
彼は十字架上で贖罪をなしたもうた時に、全世界の罪を負われたのです。そして今は、御座に坐して執り成しておられるので、全世界の必要を負い、また満たすことができるのです。

6、出エジプト記の分解

六大トピックス

(1)2章~4章 モーセ
2章  モ一セの誕生
3章:  モ一セの召命
4章:  モ一セの決断
(2)5章~11章 十災
(3)12章~13章 過越
(4)12章~13章 紅海渡過
(16章 マナ)
(17章 アマレクとの戦い)
(18章 イテロの来訪)
(5)19章~20章 十戒
(21章~24章 契約の書)
(6)25章~31章 幕屋の指示
(32章~33章 金の子牛)
(34章~40章 幕屋建設)

①二区分への分解

1章~18章 出エジプト
19章~40章 律法(国民的契約)

②三区分への分解

(イ)内容別区分
1章~2章 隷属
3章~18章 解放
19章~40章 再建

(ロ)地理的区分
1章~15章 エジプト
16章~18章 旅路
19章~40章 シナイ

(ハ)出来事別区分
1章~11章 十災
12章~18章 過越
19章~40章 十戒
(ニ)歴史的区分
1章~18章 出エジプト
19章~34章 律法(十戒)
35章~40章 幕屋の建立

(ハ)神の介入的区分
1章~5章 エジプトの束縛
6章~18章 イスラエル救出のための神の介入
19章~40章 シナイ山の律法、神制政治の設立

③ロバート・リーの分解

1章~19章 物語
(1) 1章~2章 奴隷の労働
(2) 3章~15章21節 あがない
(3) 15章22節~19章 教育
19章~40章 立法
(4) 19章~23章 献身
(5) 24章~40章 礼拝

④もっと詳しい分解

1章 圧制
2章~6章  モーセ
7章~10章 九災
11章~12章 第十の災と過越
13章~18章 旅路
19章~24章 十戒
25章~31章 幕屋建設の計画
32章~34章 幕屋建設の遅延
35章~40章 幕屋建設の完成

⑤出エジプト記とレビ記と民数記の関係

出エジプト記1~18章 ⇒ 民数記の旅路
出エジプト記の19~24章(十戒)および25~40章(礼拝) ⇒ レビ記の聖なる生活

7、モーセの生涯の区分

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

〔あとがき〕

七月六日、私はCSキャンプ場の下見のために丹沢で三番目に高い塔ノ岳に登りました。
小雨の降る中、傘をさしての登山です。しかもその登りのキツイこと。私は、何度、引返そうと思ったかわかりません。しかしついに三時間二十分かかって1491mの頂上に立ちました。なぜ私は、子どもたちを連れて来るのが難しいこの頂上に登ったのでしょうか。
それは頂上の山荘で私が到着するのを待っていてくださる方がいたからです。この時、私は天の故郷をあこがれていたアブラハムの信仰(ヘブル11章9~16節)を思い出しました。

私たちには天の故郷でお会いする方が沢山います。先ず、イエス様、そして愛する方々、このような方々が天の故郷で待っていて下さいますから、この世での生活が患難に満ちていても、信仰の山を登り切ることができるのです。
結局、キャンプ場は別の所になりました。私たちのキャンプは楽しいばかりでなく、信仰と訓練の要素をかなり取り入れています。
(1987.9.1)

 

「聖書の探求」の目次

 

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」


http://israel.bona.jp/wp/archives/4648/


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