聖書の探求(047b) 出エジプト記7章 アロンの杖、ナイル川の水が血に

7章から10の災禍が始まります。7章には、その準備段階としてのアロンの杖がエジプトの呪術者たちの杖をのみこむという事件と、第一の災禍のナイル川の水が血に変わる事件が記されています。

Ⅰ.1~7節 あなたをパロに対して神とする

出 7:1 【主】はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。

1節で、神はモーセを「パロに対して神とする」と言われました。これはパロに対して権威ある人格と力あるみわざによって、神を現わす者となるという意味です。真のクリスチャンはこの世に対して同じような意味と役目を持っています。

「あなたがたは地の塩です。・・・あなたがたは世界の光です。・・・」のように、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:13~16)

「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」(ヨハネ14:12)

さらに「あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。」は、6章12節の「私はロベたです。」というモーセの言訳に対する神の答えです。

出 6:12 しかしモーセは【主】の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」

これによってモーセは神の使命から逃げられなくなってしまいました。

出 7:2 あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。

2節の中心は、「告げなければならない」です。モーセはイスラエル人にエジプトから出て行くことを告げ知らせなければなりませんでした。クリスチャンの第一の使命は、キリストによる罪からの解放をこの世の人々に告げ知らせることです。

しかし彼らは決して容易にそのメッセージを信じて受け入れようとはしません。神に対して心をかたくなにするからです。しかし救出は、神の力強い御手によって行なわれます(3,4節)。

出 7:3 わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。
7:4 パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。

そして、神の御手によってイスラエル人がエジプトから連れ出された時、エジプト人は唯一の真の神である主を知るようになります。同様に、この世の人々は、罪から救い出されたクリスチャンの姿や生活を見て、救い主を知るようになるのです(5節)。

出 7:5 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るようになる。」
7:6 そこでモーセとアロンはそうした。【主】が彼らに命じられたとおりにした。

6節で、モーセとアロンは主に命じられたとおりにしました。

先にモーセは躊躇するところがありましたが、神の力によって押し出されたのです。
7節には、この時、モーセが八〇才、アロンが八三才であったことが記されています。

出 7:7 彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。

これはこの時からモーセの本当の意味における公的生涯が始まったことを示しているのでしょう。
イエス・キリストも公生涯に入られた時の年令が「およそ三十才」であったと記されています(ルカ3:23)。

ルカ 3:23 教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。・・・

モーセにとって、それまでは訓練の期間でした。モーセの訓練期間は決して短かくありませんでした。彼は八〇才になってから、神に用いられたのです。神はモーセの若さを用いず、十分に練られた信仰と人格を用いて神のみわざをなされたのです。「練られた品性」は神の栄光を表わします(ローマ5:4)。

ロマ 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

Ⅱ.8~14節 パロへの挑戦

出 7:8 また【主】はモーセとアロンに仰せられた。
7:9 「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行え』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ』と言わなければならない。それは蛇になる。」
7:10 モーセとアロンはパロのところに行き、【主】が命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。
7:11 そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。
7:12 彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

蛇は悪魔の使いでもあったし(創世記3:1、コリント第二11:3)、エジプトの王冠の形象にも用いられていました。

創 3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

Ⅱコリ 11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

それ故、アロンの杖がエジプト人の杖をのみこんでしまったのは、明らかに神に逆らう者に対する神の挑戦です。

アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それが蛇になったのは、超自然的な神のみわざによって、神のメッセージを主張したことを示しています(10節)。

しかし11節のエジプトの呪術者たちとは、蛇使いたちのことで、彼らは様々な奇術や催眠術などを使って、蛇を棒のようにしていたと言われています。彼らは超自然的なわざを行なったのではありません。ここに、神のみわざに似たものでも、非なるものがあることに注意しなければなりません。

12節の「アロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。」は、神の権威をはっきり示しており、パロが真実な人ならここで目が覚めて、神の前にへりくだるはずでした。しかし彼は反対に、心をかたくなにしてしまいました(13,14節)。

7:13 それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。【主】が仰せられたとおりである。
7:14 【主】はモーセに仰せられた。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。

人は神のみわざにふれる時、二種類の反応を示します。敬虔な者は、神の御前にへりくだって礼拝します。しかし高慢な者は、心をかたくなにするのです。パロはその後者となりました。パウロは、ローマ人への手紙9章17節で、「聖書はパロに、『わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。』と言っています。」と言っています。
神はパロに、神の栄光を現わすチャンスを与えたのです。しかしパロは、心をかたくなにすることによって、そのチャンスを踏みにじってしまいました。
神に用いられるために必要なことは、権力、金力、能力があるかどうかではありません。神の御前に心が砕かれ、へりくだっているかどうかです。神は、心がかたくなな者を用いることができないばかりか、滅ぼされます。神はその人に敵対されるのです。

Ⅲ.15~25節 第一の災害-ナイルの水が血に、

出 7:15 あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、
7:16 彼に言わなければならない。ヘブル人の神、【主】が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。
7:17 【主】はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが【主】であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、
7:18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」
7:19 【主】はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
7:20 モーセとアロンは【主】が命じられたとおりに行った。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
7:21 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。
7:22 しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。【主】の言われたとおりである。
7:23 パロは身を返して自分の家に入り、これに心を留めなかった。
7:24 全エジプトは飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘った。彼らはナイルの水を飲むことができなかったからである。
7:25 【主】がナイルを打たれてから七日が満ちた。

十の災害については災害の学びの終わりの時に表にしてまとめてみたいと思います。
その前にご自分で表を作ってまとめてみてください。大変大きな収穫になります。

(十の災害の意味)

これは、パロ対モーセ、エジプト人対へブル人、エジプトの神々(宗教)対主の戦いです。神はエジプトの獣類礼拝、河水礼拝、太陽礼拝、それに国の虐政の上に審判を下されたのです。

(その奇跡性)

(1) その程度において(その激しさ)9:18、10:14

出 9:18 さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。

出 10:14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。

(2) その配時において(期間)8:9,29、9:5

出 8:9 モーセはパロに言った。「かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけてください。」

出 8:29 モーセは言った。「それでは、私はあなたのところから出て行きます。私は【主】に祈ります。あす、あぶが、パロとその家臣とその民から離れます。ただ、パロは、重ねて欺かないようにしてください。民が【主】にいけにえをささげに行けないようにしないでください。」

出 9:5 また、【主】は時を定めて、仰せられた。「あす、【主】はこの国でこのことを行う。」

(3) その区別において(エジプトとへブル、ゴシェンの地の区別)8:22、9:4

出 8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは【主】であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。

出 9:4 しかし【主】は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」

(4) その段階性において(段々と命に関するものに変わっている)
(5) その目的(神の約束の成就、イスラエル人の母国帰還)

(奇跡の効果)

(1) モーセに対して・・神への信頼を強める
(2) イスラエル人に対して・・神の保護の保証
(3) エジプト人に対して・・イスラエル人の釈放
(4) 近隣諸国に対して・・イスラエルの神の力強さを示す(例ラハブ、ヨシュア記2:9~11)

ヨシ 2:9 その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。
2:10 あなたがたがエジプトから出て来られたとき、【主】があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。
2:11 私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、【主】は、上は天、下は地において神であられるからです。

そこで、第一の災害から考えてみましょう。

神がモーセを遣わされた目的は、「わたしが主であることを知らせる」ためです(17節)。

7:17 【主】はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが【主】であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、

モーセの言葉もわざも、すべてがこのために行なわれました。今日の私たちのすべての働きもまた、イエス・キリストが救い主であることを知らせるためです。ここに目的の中心があることを、いつも覚えておかなければなりません。

ナイル川はエジプト人にとっては、神の一つでした。このナイルの水を血に変えて、彼らの生活に打撃を加えることによって、エジプトの神々に対して真の神が対決しておられることをエジプト人が知るようになることを求めておられます。すなわち、神はエジプト人の心の中にある偶像と対決されたのです。16節にわざわざ「ヘブル人の神」とあるのは、そのためです。

7:16 彼に言わなければならない。ヘブル人の神、【主】が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。

16節では、神はイスラエル人の全面解放を求めさせていません。荒野で礼拝をささげさせることだけです。神は四百年以上続いたエジプトにおけるイスラエル人の生活を急激に変えようとされたのではありません。まず、神を礼拝することを確立し、その後、母国帰還を考えておられたものと思われます。しかしパロが拒み続けることによって事態は変わりました。

次に、ナイルの水が血に変えられたことについて考えてみましょう。
水と血はどちらも命を意味しますが、「水」は命を生かすのに必要であり、「血」は命が死に至ることを示しています。ヨハネは、十字架上の主イエスのわき腹を兵士のうちのひとりが槍で突き刺すと、血と水が出たことを記しています(ヨハネ19:34)。

ヨハ 19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

これはキリストの死と命を表わしていると言ってもよいでしょう。また主イエスはサマリヤの女に、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)と言われました。しかしパロのように神に対して心をかたくなにする者は、水を血に、すなわち命を死に変えてしまうのです。「心がかたくな」とは、神のことばを聞こうともせず(22節)、それに心を留めようともしないことです(23節)。

7:22 しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。【主】の言われたとおりである。
7:23 パロは身を返して自分の家に入り、これに心を留めなかった。

しかし神は、掘った井戸の水は血に変えず、残しておかれました(24節)。

7:24 全エジプトは飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘った。彼らはナイルの水を飲むことができなかったからである。

これは神のあわれみです。私たちは神のあわれみが示されている間に、神を信じ、従わなければなりません。(イザヤ55:6.7)

イザ 55:6 【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

このように、第一の災害においては、神は厳しい対決の姿勢ではなく、パロが信じて従うなら受け入れられる寛容をもって臨んでおられることが分かります。これが神のあわれみであり、忍耐です。これを拒む時、審判はさらに厳しくなるのです。
(1988.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、ポーランドの画家 Henryk Siemiradzki (1843–1902)が1868年に描いた「Mojżesz przemieniający kij w węża przed faraonem(パロの前でモーセが杖を蛇に変える)」(Wikimedia Commonsより)


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