聖書の探求(048a) 出エジプト記8章 かえると、ぶよと、あぶの群れ

8章には、第二、三、四のわざわいが記されています。すなわち、かえると、ぶよと、あぶの群れです。

Ⅰ.1~15節 第二の災害・・・かえる

出 8:1 【主】はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。【主】はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。
8:2 もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。
8:3 かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家に入る。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、入る。
8:4 こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」
8:5 【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」
8:6 アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。
8:7 呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。
8:8 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、【主】に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは【主】にいけにえをささげることができる。」
8:9 モーセはパロに言った。「かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけてください。」
8:10 パロが「あす」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。
8:11 かえるは、あなたとあなたの家とあなたの家臣と、あなたの民から離れて、ナイルにだけ残りましょう。」
8:12 こうしてモーセとアロンはパロのところから出て来た。モーセは、自分がパロに約束したかえるのことについて、【主】に叫んだ。
8:13 【主】はモーセのことばどおりにされたので、かえるは家と庭と畑から死に絶えた。
8:14 人々はそれらを山また山と積み上げたので、地は臭くなった。
8:15 ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。【主】の言われたとおりである。

神は、神の命令を拒むパロに対して、かえるをもって打たれた。これは単なるかえるの異常繁殖ではなく、明らかに神のさばきの御手が加えられていることを示しています。かえるはエジプトの全地に群がり、寝室のベッドに、かまどやこね鉢の中にまであふれました。これによってエジプト人は気持ちの悪い、いやな経験をさせられ、幾分か生活の不自由さを経験させられたでしょう。

これは神の審判といっても、実に憐みに満ちた審判です。私たちも、いやな経験や多少困難な経験をさせられる時、そこに神の警告の御手を悟って、悔い改めるようでありたいものです。しかししばしば、この程度のことは、神の審判とは思われずに無視されてしまいがちです。それがさらに大きなわざわいを引き起こしてしまうのです。

7節では、エジプトの呪法師たちも自分たちの奇術を使って同じことをしました。
8:7 呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。

彼らがあえて、こんな嫌なことを行なったのは、イスラエルの神に対する対抗心からでした。この世はいつも、神への対抗心から教会のすることを真似るのです。クリスマスやその他の商売がそれです。しかしエジプトの呪法師たちはかえるを取り除くことはできませんでした。

8節で、パロは取り引き条件を出しています。かえるを除くように祈るなら、民を行かせるとのことです。
8:8 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、【主】に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは【主】にいけにえをささげることができる。」

しかし取り引きは神に従うことではありません。「祝福してくれるから、信じる。」 「助けてくれるから、信じる。」というような信仰があまりにも多いのではないでしょうか。結局、それは真の信仰ではなかったので、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、かえるが取り去られると、約束を実行しなかったのです。困難が終わると、神を忘れるようなことがあってはなりません。

9節で、モーセがパロに、かえるを去らせるために、「いつ」祈ったらよいか尋ねているのは、パロの指定した時間にピッタリかえるを取り除くことによって、イスラエルの神が真の神であり、そのような神が外にいないことをパロに示すためです。
8:9 モーセはパロに言った。「かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけてください。」

10節では、モーセは自分の働きの使命と目的をはっきりと悟っていました。それは、神を告げ知らせるためです。
8:10 パロが「あす」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。

モーセにとって、かえるを去らせることは手段であり、神を知らせることが目的です。しかし、しばしば私たちは、手段を目的にしてしまっていて、しかもその誤りに気づいていないことがあります。

15節では、パロは息をつく暇ができたので、再び強情になって、神の命令を拒んでいます。
8:15 ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。

この「息つく暇」とは、人間の心のすき間のことかもしれません。彼は苦しみの中では、神のいますことや、祈りの力や、神の要求を認めざるを得なかったのです。しかし、心の中では神に対する態度を変えていなかったのです。これが「かたくなな心」です。今もこのような人が大勢います。苦しい時には真剣に祈り、信仰にも熱心になりますが、苦しみが去ると、神に従わない人々です。私たちは真の意味において、心の奥底まで深められなければなりません。口だけの信仰告白や、一時的な熱心さだけでは十分ではありません。キリストとともに十字架につけられる(ガラテヤ2:20)潔めの恵みに与る必要があります。

ガラ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

Ⅱ.16~19節 第三の災害‥‥ぶよ

8:16 【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」
8:17 そこで彼らはそのように行った。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。
8:18 呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。
8:19 そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です」と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。【主】の言われたとおりである。

この審判は、予めパロに対する警告なしに行なわれています。パロが心をひるがえして心を頑にしたので、今回は神に従うチャンスを与える警告がなされなかったのです。心を頑にしますと、聖霊の光による警告が与えられなくなります。その実例はサウル王に見られます。その最後は悲惨です。
神は地のチリをぶよとしてエジプト全土に刑罰を行なわれました。思い起こせば、人もまた土地のチリで造られました(創世記2:7)。

創 2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

神は地のチリのような取るに足りない小さいものを用いて、神のムチとされたのです。どんな小さいものでも、神の御手に握りしめられるならば、神に有効に用いられることを覚えなければなりません。また、このチリがぶよとなってエジプト全土に及んだことを見れば、小さいものであってもその影響力の偉大さを思わせられます。もしすべてのクリスチャンが地のチリとなって日本全土に福音を伝えたなら何が起きるでしょうか。これはチリだから出来ることです。チリに徹する人にのみできることとも言えるでしょう。チリにはチリの偉大な役目があり、その影響は広大です。人はひとりの有名人を求めますが、神は無数のチリを用いられるのです。パウロもそのように語っています。(コリント第一1:26~29)

Ⅰコリ 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

18節で、エジプトの呪法師たちが同じようなことをしようとしたが、「できなかった」とあるのは、人間の力や人間の真似事には限界があることを示しています。
8:18 呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。

有名人を用いることは人の力でできますが、チリを用いることは人の力ではできません。神の力が必要なのです。

19節で、呪法師たちは、アロンの行なった奇跡が神の力によるものであることを認めざるを得なかったのです。
8:19 そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です」と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。【主】の言われたとおりである。

チリが用いられる時、人々は神の力を知るようになります。

しかしパロはますます心を頑にし、神の命令を聞き入れようとはしませんでした。
おそらく、パロ個人にとっては、ぶよの災害は一般のエジプト人ほどに苦しく感じられなかったのでしょう。しかし聖書は、「主の言われたとおりである。」と言っています。人の心が頭で、仲々、主を受け入れようとしないことは、予め主が言われていることですから、失望せずに福音の奉仕に励まなければなりません。(コリント第一15:58) 主はやがて大いなるみわざをなされるのです。

Ⅰコリ 15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

Ⅲ、20~32節 第四の災害‥‥あぶ

出 8:20 【主】はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。彼にこう言え。【主】はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。
8:21 もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。
8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは【主】であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。
8:23 わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」
8:24 【主】がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とに入って来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。
8:25 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。」
8:26 モーセは答えた。「そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、【主】に、エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。
8:27 それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、【主】にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです。」
8:28 パロは言った。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、【主】にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」
8:29 モーセは言った。「それでは、私はあなたのところから出て行きます。私は【主】に祈ります。あす、あぶが、パロとその家臣とその民から離れます。ただ、パロは、重ねて欺かないようにしてください。民が【主】にいけにえをささげに行けないようにしないでください。」
8:30 モーセはパロのところから出て行って【主】に祈った。
8:31 【主】はモーセの願ったとおりにされたので、あぶはパロとその家臣およびその民から離れた。一匹も残らなかった。
8:32 しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。

7章15節でも、パロは、朝、水のところに出てきています。おそらく、パロはナイル川を拝みに来ていたのでしょう。
出 7:15 あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、

多くの学者たちは、この「あぶ」は、かぶと虫の一種で、太陽神の象徴とされていたと言っています。この昆虫は、先のぶよよりもずっと大きな被害を及ぼしています。
22、23節をみると、この時から神はエジプトの民とイスラエルの民の扱いを区別され、イスラエルの民を特別扱いされました。
8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは【主】であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。
8:23 わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」

これは、神の実在と摂理とをより明確にするためであり、23節では、「わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く」と言われています。これは、神の民と不信者との間に明確な区別がなされていることを示しており、神の民に救いがあることを明らかにされたのです。

24節、エジプト全土があぶによって荒れ果てた時、さすがのパロも救いを求めました。
8:24 【主】がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とに入って来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。

しかしパロの示した「この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。」(25節)は折衷案でした。
この提案は、神のご命令にも反しているし、またエジプト人の暴動を引き起こす危険もありました。
それ故、パロはイスラエル人が荒野で主を礼拝することを渋々承知したのです。しかし、すぐに呼びもどせる範囲にとどめるために、「ただ、決して遠くへ行ってはならない。」(28節)と釘をさしました。これはパロの悔い改めが表面的なものであることを示しています。これに対してモーセは、「ただ、パロは、重ねて欺かないようにしてください。」(29節)と念を押しています。

表面的な悔い改めは、苦難が過ぎ去ると、前よりも一層心を頑にするものです。

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1902年頃に描いた「The Plague of Flies(あぶの災い)」(アメリカ、ニューヨークのthe Jewish Museum蔵より)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tissot_The_Plague_of_Flies.jpg#/media/File:Tissot_The_Plague_of_Flies.jpg

〔あとがき〕

私は聖書を探求するようになって、本当によかったと思っています。先日も、創世記からヨハネの黙示録までの学びを終え、これで何回聖書を通して学んだことになるかは忘れましたが、その度に霊魂を魅了するものを発見しました。「聖書は常に新しい」という言葉はよく聞きますが、これは経験した者だけが言える言葉ではないでしょうか。
さて、ことしも新しい年が始まって、はや一箇月以上が過ぎました。みことばの探求は私たちをいよいよ恵みの深みに連れて行ってくれるでしょう。私も「聖書の探求」を執筆しつつ、もう一度学び直すことができて、恵みに与っています。今年もどうぞ、みことばの探求をお続けください。
最近、バックナンバーをご希望になられる方がおられ、感謝しています。ご希望の方はお申し込みください。
(1988.3.1)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2020年7月現在、通巻437号 歴代誌第二24章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料82円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421