聖書の探求(047a) 出エジプト記6章 神の顕現と民の救出の約束

6章には、神の顕現と民の救出の約束が記されています。

Ⅰ.1~8節 わたしはあなたがたの神となる

出 6:1 それで【主】はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」
6:2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは【主】である。
6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」

(1) 神ご自身について

(a)「主(ヤーウェ)である」(2、3、6、8節)これは神の保証を意味しています。
(b)「全能の神」(3節)‥神のカ
(c)「アブラハム、イサク、ヤコブに現われた」神(3節)‥神の約束

(2) 神のみわざ

(a)イスラエル人の嘆きを聞いて(5節)
(b)わたしの契約を思い起こした(5節)
(c)エジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す(6節)
(d)伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖(あがな)う(6節)
(e)民を神の民とし、主が民の神となる(7節)
(f)主が民の神であり、エジプトの苦役の下から連れ出した神であることを民が知るようになる(7節)
(g)与えると誓った約束の地に連れて行く(8節)
(h)所有として与える(8節)

(3) 神の契約

(a)3~4節 過去の契約
(b)5節  現在の契約
(c)6節  将来の契約「あなたがたを贖(あがな)う」

  • 贖(あがな)いの必要(6節)・・苦役と労役があること(マタイ11:28)
    マタ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
  • 贖いの方法(6節)・・大いなるさばき
  • 贖いの目的(7節)・・神と民の関係の確立

1節において、モーセは神がなさろうとしていることを十分に悟っていなかったようです。

出 6:1 それで【主】はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」

それ故に、パロによってイスラエル人の上に更に重い苦難がのしかかってきた時、モーセは神に嘆き訴えたのです。しかし神はモーセに「今にあなたにわかる。」と言われました。これはパロの暴虐が増せば増すほど、神の救いの御力が一層はっきりと現われるようになることを示しています。主イエスもペテロに同じようなことを言われました(ヨハネ13:7)。

ヨハ 13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

人は目に見えているところの困難に心が奪われて、神のみこころを悟るのに鈍い者です。パロはやがて、神の強いみ手によって強いられて、イスラエル人を解放せざるを得なくなります。神のご計画は必ず成るのです。これを阻むことのできる人はいません。

2、3節では、神はご自身が約束を必ず果たされるヤーウェであられることを強調し、祖父たちと結んだ契約をいよいよ実行に移すべき時が来たこと、そして神が全能をもってこれに臨もうとしておられることを告げておられます。

6:2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは【主】である。
6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

4、5節は、神が語られた契約のみことばは不変で、いかに重要であるかを示しています。アブラハムと結ばれた契約は約四百年も過ぎていました(創世記15:13、出エジプト記12:40、使徒13:19、ガラテヤ3:17)。

出 6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。

創 15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。

出 12:40 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。

使 13:19 それからカナンの地で、七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。これが、約四百五十年間のことです。

ガラ 3:17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。

しかしそれは無効になっていたのでも、忘れられていたのでもありません。その時が来るのを待っていたのです。キリストの約束もまた同じです。みことばを信じる信仰がいかに重要かを、思い知らされます。

6~8節は、神が民に対するみこころを明らかにしておられます。

6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。

「連れ出す」「救い出す」「贖う(買い戻すという意味)」という語は、神の救いのみわざの根本的な要求を示しています。特に、「贖(あがな)う」は、聖書中ここに初めて使用されています。このイスラエル人のエジプトからの救出が、私たちの罪からの救出の予表であることに注目しなければなりません。

7節では、救い出された者と神とが、特別な関係を持つようになることを示しています。ここでは、神は、この世に対して、神ご自身と神の救いの道を啓示する手段として、イスラエルを選んでおられます。

6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。

8節では、再び、契約を果たされる神が示されていますが、この部分においては、2、3、6節において語られた「わたしが主である。」が主張されています。これによって神は、ご自身がイスラエルの神であるとともに、全地の主であることを強調しておられるように思われます。

6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」

Ⅱ.9節 民の拒否

出 6:9 モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。

モーセは神のみことばを民に告げました。しかし彼らは落胆(精神的理由)と激しい労役(肉体的理由)のためにモーセの言うことに耳を傾けようとしませんでした。人は、その落胆や苦しさのために、神のみことばから離れてしまいやすいのです。自分が置かれた状況に左右されやすいので注意しなければなりません。

Ⅲ.10~13、28~30節 パロを恐れるモーセ(自分の不適格を言い張るモーセ)

出 6:10 【主】はモーセに告げて仰せられた。
6:11 「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」
6:12 しかしモーセは【主】の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」

6:28 【主】がエジプトの地でモーセに告げられたときに、
6:29 【主】はモーセに告げて仰せられた。「わたしは【主】である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」
6:30 しかしモーセは【主】の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」

モーセが「ロベた」であると言ったのは、4章10節で「口が重く、舌が重い」と言ったことの繰り返しです。

出 4:10 モーセは【主】に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

使徒7章22節でステパノはモーセについて、「ことばにもわざにも力がある」人だったと記しています。

使 7:22 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。

それ故、ここではモーセは、先のパロに苦役によってこりてしまい、神の困難な仕事に消極的になっていたのです。しかし神はこのようなモーセに、兄アロンを助け手として与えて、モーセを励ましました(13、26,27節)。

6:13 そこで【主】はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため、イスラエル人とエジプトの王パロについて彼らに命令された。

出 6:26 【主】が「イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ」と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。
6:27 エジプトの王パロに向かって、イスラエル人をエジプトから連れ出すようにと言ったのは、このモーセとアロンであった。

このように私たちは困難なことに出会うと失望しやすいので、祈り合い、助け合い、励まし合うことのできる同信の友を持つ必要があります。また、クリスチャンは一度や二度の失敗で奉仕を止めたり、あきらめたり、放棄してはなりません。互いに励まし合ってこれを乗り超えていく時、熟練したクリスチャンに成長していくのです。

Ⅳ.14~27節 モーセとアロンの系図

出 6:14 彼らの父祖の家のかしらたちは次のとおりである。イスラエルの長子ルベンの子はエノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベン族である。
6:15 シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、およびカナン人の女の子サウルで、これらがシメオン族である。
6:16 レビの子の家系の名は、次のとおりである。ゲルション、ケハテ、メラリ。レビの一生は百三十七年であった。
6:17 ゲルションの子の諸氏族はリブニとシムイである。
6:18 ケハテの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハテの一生は百三十三年であった。
6:19 メラリの子はマフリとムシである。これらはレビ人の諸氏族の家系である。
6:20 アムラムは父の妹ヨケベデを妻にめとり、彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムの一生は百三十七年であった。
6:21 イツハルの子はコラ、ネフェグ、ジクリである。
6:22 ウジエルの子はミシャエル、エルツァファン、シテリである。
6:23 アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にめとり、彼女はナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを産んだ。
6:24 コラの子はアシル、エルカナ、アビアサフで、これらはコラ族である。
6:25 アロンの子エルアザルは、プティエルの娘のひとりを妻にめとり、彼女はピネハスを産んだ。これらはレビ人の諸氏族の一族のかしらたちである。
6:26 【主】が「イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ」と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。
6:27 エジプトの王パロに向かって、イスラエル人をエジプトから連れ出すようにと言ったのは、このモーセとアロンであった。

この部分の初めにおいてルベンとシメオンの系図が記されているのは、ルベンは長男であり、シメオンはその次でしたが、神の経綸においては、指導的権威は必ずしも先に生まれた者に与えられるとは限らないことを示すためです。

アロンとモーセはレビ人の家系で、両親はアムラムと、ヨケベデです(20節)。アムラムは父の妹、すなわち「叔母」のヨケべデと結婚したのです。ヨケべデとは、「主はわたしの栄光である。」という意味です。人が父の姉妹と結婚することは、レビ記18章21節の律法が示されるまでは許されていました。

アロンの家系からは、ナダブやアビフのような不敬虔な者も出ました(23節)が、ピネハス(25節)のような立派な人物も出ました。

これらの系図の中で、26節はアロンとモーセの使命を示しています。それは、イスラエルを集団ごとにエジプトの地から連れ出すことです。イスラエル人は無秩序な群衆でも、暴徒でもなく、氏族、家族ごとに隊列を整えて、神の軍団として行進すべきでした。これは神が無秩序の神ではなく、秩序正しい神であることを示しています。神は秩序正しいことを好まれます。私たちの生活や計画においても、秩序正しいことは、神に用いられる条件の一つです。

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

〔あとがき〕

知識を仕入れる源がテレビとマンガと週刊誌になってしまった昨今、人の心が病的な不安と混乱の状態にあるのは当然の結果かもしれません。私たちが何を読み、どんなメッセージを聞き続けるかということは、私たちの思想に影書を与えるばかりでなく、私たちの人格形成と、信仰の成長と、実際生活、そして永遠に対して大きな影響を与えます。クリスチャンであっても、甘く、やわらかく、我侭を通してくれる人や、そういう説教を好む傾向があります。
ある時、私はある程度名前の知られている牧師から一通の手紙を受け取りました。その中には、「先生は罪のことをよく言っていますが、もっと積極的な面を強調してもらいたい。」と書いてありました。私はずい分積極的な面を書いていますが、その先生には目にとまらなかったのでしょう。それにしても、罪をそのままにして、積極的な面をいくら強調しても、なんの益があるでしょう。死の病いから解放されなければ、成長は不可能です。
(1988.2.1)

上の写真は、Flemish painter(フランドルの画家)Cornelis de Wael (1592–1662)が1630-1635年頃に描いた「Moses schließt die Fluten des Roten Meeres(モーセは紅海の水を閉じる)」(オーストリア・ウィーンにあるKunsthistorisches Museum(美術史美術館蔵、Wikimedia Commonsより)


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