聖書の探求(048b) 出エジプト記9章 家畜の疫病、腫物(しゅもつ)、雹(ひょう)

9章は、第五、六、七の災害、すなわち、家畜の疫病、腫物(しゅもつ)、雹(ひょう)について記しています。

Ⅰ.1~7節、第五の災害‥‥家畜の疫病

1節において、神はモーセに「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。」とパロに告げるように命じておられます。
出 9:1 【主】はモーセに仰せられた。「パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、【主】はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。

クリスチャンは、ただ良いことを言うだけでなく、それは、神が言われているメッセージであることを明確にしなければ、相手に対して効果を表わすことができません。たとい相手が拒むにしても、クリスチャンはだれの権威によって福音を語り、あかしをしているのかをはっきり示す責任があります。
さらに、そのメッセージの内容も明白であるべきです。「わたしの民を行かせて」はエジプト(罪の生活)からの解放であり、「彼らをわたしに仕えさせよ。」は神を礼拝する生活を示しています。

2~5節は、拒む時の神の刑罰の警告です。

先ず2,3節。ここでは野にいる家畜だけに激しい疫病が起きると警告されています。

9:2 もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、
9:3 見よ、【主】の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。

これは、神を信じるエジプト人がいるなら、その人が自分の家畜を家の中に入れる余裕を与えられたのです。神にとって大事なことは、イスラエル人か、エジプト人か、という民族のことではなく、神を信じ従うかどうかということです。

4節、この時も、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別されました。そしてイスラエルの家畜は一頭も死なないと言われました。
9:4 しかし【主】は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」

これは、神の民に全き救いがあることを示しています。「一頭も死なない」とは、神の保護の完全性を示しています。神には失敗や誤りはないのです。真の神の民はいつでも、神の御手に守られているのです。

5節で、「時を定めて」とあることに注目しましょう。
9:5 また、【主】は時を定めて、仰せられた。「あす、【主】はこの国でこのことを行う。」

エジプトでは家畜が疫病で多く死ぬということは珍しくはありませんでした。しかし定まった時に疫病が発生して、多くの家畜が死ぬこと、しかも野にいるものだけが死ぬことは、神の御手によるものであることを明らかにしています。
9:6 【主】は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。

7節で、パロは神のことば通りかどうか、イスラエルの家畜を調べに使いを出しています。
9:7 パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。

そして彼は、神のことばどおりであったことを知ったけれども、神に従わなかったのです。おそらく、パロ自身に大きな被害がなかったからでしょう。しかし、神のことばが真実であることを知りつつ、従わない人は大勢います。主イエスの降誕の時の律法学者、祭司長、ヘロデ王たちがその例です。彼らはその場所を他人に教えることができるほど知っていたのに、自らは主を礼拝に行かなかったのです。これによって、知識と信仰は別のものであることが分かります。私たちも十分に気をつけたいものです。

Ⅱ.8~12節 第六の災害・・・腫物(しゅもつ)

この災害は、パロには警告なしに行なわれています。彼が神の命令を拒み続けたからです。警告があるうちに神に従わなければなりません。不服従で強情な者に対しては、神はもはや憐み深いお方ではなくなります。神は警告なしに審判を加えられます。

8節の「両手いっぱいのかまどのすす」に何か効力があったのではありません。それは腫物を象徴するものです。
出 9:8 【主】はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。
9:9 それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」

この災害は神の権威によるものです。しかしまた、先のチリのように、神はこのように取るに足りないわずかの物を用いて、大いなるみわざをなさるのです。

10節で、モーセとアロンは、かまどのすすを持ってパロの前に恐れず立ちました。
9:10 それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。

ましてクリスチャンは聖書を手にとって、この世の人々の前に立つべきです。おそらくパロは、すすを握って真黒になっているモーセとアロンを嘲ったことでしょう。しかし二人は神の命令を確信していた故に、パロを恐れず、恥じなかったのです。とかく人は、富や地位を握ると堅く立ち、聖書だけでは恥じるようです。それは、神の権威をしっかりと信じていないからです。

11節では、エジプトの呪法師たちは、モーセの真似が出来なかったばかりか、自ら神の審判を受けました。
9:11 呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。

信仰の真似事は危険です。パロは後に、イスラエル人に続いて紅海の中に入って滅びました。使徒の働き5章のアナニヤとサッピラ、19章のスケワの七人の息子も同じです。信仰はひとり一人が本物でなければなりません。

12節、「主はパロの心をかたくなにされ」これは、パロが神を拒み続け、高ぶっている故に、神がパロから離れたことを意味します。
9:12 しかし、【主】はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。【主】がモーセに言われたとおりである。

サウル王も同じです。(サムエル第一16:14)
Ⅰサム 16:14 【主】の霊はサウルを離れ、【主】からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。

これは神の審判です。今日でも、神を拒み続けているなら、聖霊は働かれなくなり、罪を悔い改めることができなくなるほど、心が頑になってしまうことがあります。私たちは神が心に働いていてくださり、警告してくださっている間に、神に従わなければなりません。(イザヤ55:6)
イザ55:6 【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

Ⅲ.13~35節 第七の災害・・・激しい雹(ひょう)

13節の神のメッセージはこれまでのものと少しも変わっていません。
出 9:13 【主】はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、【主】はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。

それは、人がエジプト、すなわち罪の生活を離れて、神を礼拝する生活を営むことです。

14節、神は今度は、災害が及ぶ範囲を示されました。パロ自身と、パロの家臣と、パロの民に対してです。
9:14 今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。

15節、神は先の第五の災害の疫病で、家畜ばかりでなく、パロもパロの民も地上から消し去ることができました。
9:15 わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。

しかしそうしなかったのは、神ご自身のためでした。
(1) 14節、「わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。」
(2) 16節、「わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。」

このことはパウロもローマ人への手紙9章17節に引用し、パロのこの出来事によって、神の御名は今日、全世界に知られるところとなっています。
ロマ 9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。

17節で、神は、パロが神の審判を受けるのは、パロが神の民に対して高ぶっているからであり、神の命令に対して不服従であることを指摘されました。
9:17 あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。

18~21節、しかし先の疫病の時と同様に、神は憐みの故に、災害を限定されて、野にいるものに限られました。
9:18 さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。
9:19 それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」
9:20 パロの家臣のうちで【主】のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
9:21 しかし、【主】のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。

この警告は予め出されたので、パロの家臣のうちでも、主のことばを心に留めて従った者は、しもべと家畜を家の中に避難させて、災害を免れました。(20節) しかし、何度、災害に会っていても、主のことばを心に留めない者が大勢いたのです。

これは私たちへの大きな警告でもあります。(マタイ7:24~27、ヤコブ1:21~25)

マタ 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

ヤコブ 1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
1:23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

出 9:22 そこで【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人、獣、またエジプトの地のすべての野の草の上に雹が降る。」
9:23 モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、【主】は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。【主】はエジプトの国に雹を降らせた。
9:24 雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。
9:25 雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。
9:26 ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。

この災害は徹底したものでした。それ故に、パロは自分の罪を認め、モーセに祈りを求めました。(27、28節)

9:27 そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。
9:28 【主】に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」

29、30節、モーセは、神に祈ることを約束しましたが、それはパロとその家臣たちが神を恐れたからではありません。
9:29 モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに【主】に向かって手を伸べ広げましょう。そうすれば雷はやみ、雹はもう降らなくなりましょう。この地が【主】のものであることをあなたが知るためです。
9:30 しかし、あなたとあなたの家臣が、まだ、神である【主】を恐れていないことを、私は知っています。」
9:31 ──亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。
9:32 しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである──
9:33 モーセはパロのところを去り、町を出て、【主】に向かって両手を伸べ広げた。すると、雷と雹はやみ、雨はもう地に降らなくなった。

彼らが恐れたのは神ではなく、雹(ひょう)です。人は、神から災害が下っても、神を恐れず、災害を恐れるだけです。モーセは、彼らが神を恐れていないと宣告しました。ここに鋭いモーセの洞察力を見ます。モーセはこのパロとのやりとりを通して、ずい分霊的訓練を受けたものと思われます。私たちも課題に直面する時、ただそれを乗り越えることばかりを考えず、そのことを通して自分自身の人格が訓練され、成長することを求めなければ.なりません。

34、35節、皮相な生き方をしているパロたちは、モーセの祈りによって雨と雹(ひょう)と雪がやむと、再び心を頑にし、強情になりました。
9:34 パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。
9:35 パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。【主】がモーセを通して言われたとおりである。

人間にとって最も難しいことは、頑で強情な心の性質が変えられることです。これは人の努力や修業によっては不可能です。ただ、神の恵みのみわざによる外ありません。

モーセの祈りは天の扉を開くことができましたが、頑固なパロの心を聞くことはできませんでした。人の心は自分で神に対して開かなければなりません。勿論、人にその意志があれば、聖霊は助けてくださいます。また、私たちの祈りを通して、その人が神に対して心を開きたいと思うように導かれることはしばしばあります。しかし最終的には、その人自身が神に対して心を開かなければならないのです。パロはすでに何度も何度も、心を開いたかに見せかけて、心を頑にすることを繰り返していましたので、彼の心は石のように頑になっていたのです。私たちは多くの人が神に対して心を開くように祈らなければなりません。しかし祈られている人は、一日も早く神に対して心を開く決心をすべきです。パロのようにならないために。しかし神は、このパロの反抗さえ、神の救いのご計画の中で用いられたのです。(ローマ11:33)

ロマ 11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

(まなべあきら 1988.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、スイスのthe Toggenburg Bibleに描かれた細密画「Moses in the background with two people suffering from the Biblical plague of boils(腫物で苦しんでいる二人の人物と、かまどのすすを天にまき散らすモーセ)」(1411年頃の作、作者不明) ドイツ、ベルリンのKupferstichkabinett(印刷物博物館)蔵、Wikimedia Commonsより

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