聖書の探求(049a) 出エジプト記10章 いなごの大群と三日間のくらやみ

10章には、第八、九の災害、すなわち、いなごの大群と三日間の暗闇(くらやみ)の災が記されています。

Ⅰ.1~20節、第八の災害‥・・いなご

1節には、主がパロとその家臣たちを強情にしたと記されていますが、それはパロたちが神に逆らい続けることによって、神のあわれみが取り除かれたことを意味しています。
出 10:1 【主】はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、
10:2 わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが【主】であることを、あなたがたが知るためである。」

パロが強情になったことは、神のみわざが始まることのしるしでもあります。困難な障害が起きることは、神のみわざが始まる前触れであると言ってもいいでしょう。
今回は、モーセやイスラエル人やその子孫が主を知るためです。

3節では、パロの高慢が指摘されています。ここで初めて、パロの罪がはっきりと指摘されました。
10:3 モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、【主】はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。

自分の罪を自分で悟って(聖霊に教えられて)、悔い改める人は幸いです。しかし他人から罪を指摘されると、人は高慢な心がムクムクと起き上がって、それを認めることも、悔い改めることもしない場合がしばしばです。しかしそれでも、罪が示されれば、どんな時でも、すぐに悔い改めることが大切なのです。その人は必ず幸福を与えられます。

4~6節、第八の災害は、いなごの大群が送られることです。それは、地面をおおって、見えなくなるほどですから、大変な数です。いなごの災は食糧に影響を及ぼし、それを食い尽くすことです。
10:4 もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。
10:5 いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。
10:6 またあなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。このようなことは、あなたの先祖たちも、そのまた先祖たちも、彼らが地上にあった日からきょうに至るまで、かつて見たことのないものであろう。』」こうして彼は身を返してパロのもとを去った。

7節では、この災のためにパロの家臣たちは、エジプトが滅びるのを恐れています。
10:7 家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、【主】に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」

しかし八回も災を受けて、やっと恐れるようになるのでは、少し遅いように思われます。一般に、人は何度も災が自分に及んでくるまで、恐れを感じないようです。現代人は、自分とこの世とが滅びるのを恐れなければなりません。

8~11節、パロは渋々、イスラエル人がエジプトから出て行くのを認めました。
10:8 モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、【主】に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」
10:9 モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは【主】の祭りをするのですから。」
10:10 パロは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの幼子たちとを行かせるくらいなら、【主】がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。見ろ。悪意はおまえたちの顔に表れている。
10:11 そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、【主】に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」こうして彼らをパロの前から追い出した。

しかし、エジプトの最大の労働力であったイスラエル人を失いたくなかったので、家族や家畜を残して、壮年の男だけが行くように命じました。そうするなら、男たちは必ず、再びエジプトに帰って来ると考えたのです。このパロの姿は、神の裁きからも逃れ、この世の富も得ようと、二股かけている人間の姿です。これでは必ず滅びます。
このような、二心の不真実なパロの態度に対して、神はモーセに、いなごの大群を呼び寄せるために、手を差し伸ばすように命じました。
13、19節は、自然界を支配しておられる神を示しています。いなごは東風によって運ばれて釆て、西風によって追いやられました。

10:12 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」
10:13 モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。【主】は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。

10:18 彼はパロのところから出て、【主】に祈った。
10:19 すると、【主】はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。

14~17節、このいなごの大群は、エジプト全土の植物を食い尽くしました。
10:14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。
10:15 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。
10:16 パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。「私は、おまえたちの神、【主】とおまえたちに対して罪を犯した。
10:17 どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、【主】に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」

これは、さすがのパロをも恐れさせるほどの被害でした。
パロは、その被害の故に、自分の罪の赦しを求めました。しかしそれは、神の前に自分の罪を認め、悔い改めるというものではありませんでした。それは被害を免れるための、彼がとるいつもの手でした。

20節、しかしパロの心はますます頑になるばかりでした。
10:20 しかし【主】がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。

パロは神を拒んだだけでなく、自分中心の利益のために信仰を利用しようとしたのです。それ故、パロはもっとひどい状態に陥ったのです。
しかしモーセは、そういうパロの願いを聞いて、祈っています(18節)。主のしもべの働きが、いかに難渋であるかを思い知らされます。
10:18 彼はパロのところから出て、【主】に祈った。
10:19 すると、【主】はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。

Ⅱ.21~29節、第九の災害‥‥三日間のやみ

第三、六の災害と同じように、この災も警告なしに行なわれています。

21節、「やみにさわれるほどにせよ。」
10:21 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」

これは「やみ」のひどい暗さを示しています。人は、そんな暗さをだれも経験したことがないでしょう。

22~23節、この「やみ」は三日間続き、エジプト全土をおおいましたが、イスラエル人の住む所には光がありました。
10:22 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。
10:23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。

このやみの継続期間や地域の制限からして、これは太陽の皆既日食とは異なる神の奇跡的みわざによることが分かります。
23節の「三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。」は、やみのひどさを表わしているとともに、やみが家の中にまで入りこんでいたことを示しています。これはエジプト人に大きな恐怖をもたらしました。なぜなら、太陽はエジプト人の偶像であり、やみがエジプトを襲ったことは、彼らの神の敗北を示したからです。現代はこのやみ以上に人々の心は暗く、人々の偶像である富は敗北しているのです。
しかし神の民の住む所には、神の光がありました。主イエスは、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)と言われました。

24節、このやみの故に、パロは再び妥協を求めました。
10:24 パロはモーセを呼び寄せて言った。「行け。【主】に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」

彼はイスラエル人の財産である羊や牛をとどめておけば、必ず帰ってくると考えたのです。しかし妥協は回心ではありません。

25節、これに対してモーセはパロ自身の回心を求めました。
10:25 モーセは言った。「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、【主】にささげさせなければなりません。

「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、‥‥」これはパロ自身が信仰を持つようにとすゝめたものです。

26節は、神を礼拝するためには、何一つ保留するものがあってはならないことを示しています。
10:26 私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、【主】に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって【主】に仕えなければならないかわからないのです。」

私たちは、エジプトすなわち、罪の生活に一部を残したままで、神を礼拝することができません。一つも残さず、神のみ前に持ち来たり、献げなければなりません。神の前には、閉ざされている心の部屋が一つもあってはならないのです。

27節、
10:27 しかし、【主】はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。

主は、はっきりと回心しようとせず、ただ自らの利益を求めるために、神と神の民を利用しようとするパロから去られました。その結果、パロの心は頑(かたく)なになり、イスラエル人を去らせなかったのです。こ
こに、良きにつけ、悪しきにつけ、徹底的に取り扱われる主の御姿を見る思いがします。

28節、
10:28 パロは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」

パロは、神とモーセが少しも妥協に応じないのをみて、やけを起こし、自ら神のあわれみの御手を振り捨て、救いのための唯一の道を自ら捨ててしまったのです。

29節のモーセの言葉は、決定的な意味を持っています。
10:29 モーセは言った。「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」

もし、読者の方の中に、神に属したり、離れたりしている人があるなら、その人は、パロと同じ危険にあります。すみやかに、悔い改めて、神に従ってください。

あ と が き

私の心からの願いは、この日本に教会の数が増えることばかりでなく、聖書のことばが根づいてくることです。このために、これまでも微力ながら全力を尽くしてきましたし、これからも主がこの地上に私を置いていてくださる限り全力を尽くすつもりです。使徒たちも、「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:4)と言いましたが、みことばに対してはクリスチャンの間でも関心がうすく、と言うよりも、特定のわずかの人だけが熱心に求め、大多数の人はみことばよりも、キリスト教的なファッション(音楽、演劇なども含めて)に興味を集中しています。
なぜ、キリスト教の中心である聖書がクリスチャンの間であまり関心がないのかというなら、一つは救いが明確でないこと、教会がみことばの解き明かしに専念しなかったこと、他の手段で人を集めようとしたことに原因があるのではないかと思われます。しかし、みことばなくしては、実りはありません。
(まなべあきら 1988.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、ドイツのイラストレーター、Emil Schmidt (1839–1909)により描かれた「A swarm of locusts(イナゴの群れ)」、Wikimedia Commonsより


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