聖書の探求(052) 出エジプト記14章 紅海渡渉(としょう)の記録

14章は紅海渡渉(としょう)の記録です。
この出来事は、モーセの生涯の中でも、シナイ山における律法の授与とともに最も重要な出来事です。そしてこの出来事はイスラエル民族の歴史と今日までの世界の歴史の中において繰り返し語られてきました。しかも、その霊的意味は、罪からの救いという重要な真理を表わしています。
私たちがこれから聖書の探求をすゝめていくとき、何度もこの紅海渡渉(としょう)の記事に出会います。それほどにこの出来事は重要です。
〔注:渡渉(としょう)とは、歩いて流れを渡ること。〕

Ⅰ.1~14節 パロの軍勢による神の栄光

出 14:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
14:2 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。

主はイスラエル人を紅海に沿って南下させ、バアル・ツェフォンに宿営させました。この道は紅海によって行手をさえぎられてしまうので、エジプト脱出をさらに困難に、否、不可能にさえしてしまいます。少なくとも、人間にはそう思われる道です。この道をとったなら、あとは神の奇跡による以外にエジプト脱出は不可能となります。神はあえて、民にこの道をとらせたのです。ここに人知をはるかに越えた神の知恵があります。神は民にこの道をとらせることによって、イスラエル人にも、エジプト人にも、主が神であることを知らせようとされたのです。

私たちは主を信じる時も、主に従う時も、うしろのものを焼き払い、再び引き返せない状態にして主に従うべきです。もし、行き詰まったら、引き返せばよいという考えで、うしろの道を残したままで従い始めるなら、決して主も、主の奇跡をも見ることがないでしょう。しかし現実に私は、うしろの道に引き返している多くのクリスチャンを見てきました。主は、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:62)と言われました。パウロは、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む」(ピリピ3:13)と告白しました。主を信じて従う者には、前進と勝利しかないのです。もしクリスチャンがうしろを振り向くことがあるとするならそれは主がペテロをあわれんで振り向かれたように、他者をあわれむ時だけです。

うしろを振り向いた人で勝利を得た人は一人もいません。ロトの妻は塩の柱となり、イスカリオテのユダは滅びました。
主に従う時には、うしろを焼き払わなければなりません。もしあなたが引き返す心を半分持ちつつ、主に従っているなら、ペテロのように段々、主から遠く離れ、やがて主を拒むようになります。うしろを焼き払った人は、本当に主に信頼して進むことを学びます。キリストの弟子にならないではいられないのです。主の奇跡が自分の現実のものとなってきます。

出14:3 パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。
14:4 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしが【主】であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。

4節で、主は、パロが心をかたくなにし、パロとその全軍がイスラエルの民を追跡することによって、神の栄光を現わすと言っておられます。

私たちはしばしばこれと同じことを経験させられます。主は私たちを困難な状態の中に置かれた後に、そこから助け出されることによって、主が生きておられる神であることを私たちに分からせられるのです。
クリスチャンは困難に直面する時、しかも主の助けなくしては全く解決不可能と思われる時こそ、神の栄光を現わす時です。このような時に、信仰の弱い人は居ても立ってもいられなくなり、自分勝手の行動を始めて失敗します。聖書は、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10:36)と教えています。クリスチャンはこのことをよく悟って、主から与えられる困難を避けて通らず、信仰をもってこれを受け留め、神の栄光を現わさなければなりません。
主イエスは十字架を通って勝利を得られ、私たちは多くの困難を経て神の国に入ることが教えられています(使徒14:22)。

使 14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。

これはクリスチャンの鉄則です。しかしすべてのことを益に変えてくださる神は、この苦難を栄光に変えてくださるのです。主は、アブラハムのふところに入れられたラザロについて、「ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。」(ルカ16:25)と言っておられます。この真理を私たちは十分に悟るべきです。

また行き詰まった苦難を栄光に変えるものは信仰です。主が、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」(ヨハネ11:40)と言われた通りです。

出 14:5 民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」

5節、パロはエジプトの主要労働力であった二百万人ものイスラエル人が一度にエジプトを去ったことが、いかに大きな損失であったかに気づきました。もし現在の日本から、ある日突然二百万人の人々が日本脱出をはかったら、それは国にとって大問題になるでしょう。

パロは自分が神の審判の苦しみから逃れるために、イスラエルを去らせることに同意しましたが、その苦しみが過ぎると、自分の損得だけを考えて、イスラエルの追跡を始めたのです。しかしパロのような態度や行動をとる人は今日も大勢います。苦しい時に祈りを求めてきたり、相談に来られますが、苦しみが去ると、主とともに歩もうとはしない人々です。信仰をその程度に考えている人が多いのではないでしょうか。

出 14:6 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
14:7 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。

パロは選り抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を自分で率いて追跡してきました。しかしイスラエルの民は高らかなる強い御腕によって連れ出されたのですから、再びパロが捕えて奴隷にしようとしても無駄です。クリスチャンもキリストの大いなる御業によって救い出されたのですから、いくらサタンが激しくクリスチャンを落とそうとしても無駄です。ただ、クリスチャンが自ら、信仰を捨ててサタンに従う時にのみ、再び堕落するのです。

14:8 【主】がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。

8節の、「主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので」という言葉は、これまで何回も出てきました。これは主がパロに対して、憐みを取り去られたことを示しています。

ローマ9章17,18節によりますと、パロは主の憐みを悟って、神の栄光を現わすべきでした。しかしパロは却って神を拒んだのです。それ故、神はパロに対して憐みを取り去られてしまいました。神の憐みが取り去られた人はみな、昔も今も、心がかたくなになります。

ロマ 9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

8節の終わりに、「イスラエル人は臆することなく出て行った。」とあります。彼らは、主を見上げ、主のみことばを確信している間は、臆することなく、いかなる困難にも勇敢に行動し続けることができたのです。

14:9 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。
14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、【主】に向かって叫んだ。

しかし10節で、主から目を離し、パロが近づいて来るのに目が奪われると、非常に恐れています。これはペテロの水上歩行の場合も同じです。彼が主をみつめている間は、荒れ狂う波も恐れることなく、湖上を歩くことができました。しかし逆巻く波に目を移したとき、たちまち恐怖が彼の心に侵入してきたのです。
私たちの心は、主か困難か、確信か恐れかのどちらかによって占領されるのです。そしてそれは、私たちが何を見つめているかということによって決まるのです。

14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、【主】に向かって叫んだ。
14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」

10節、イスラエル人は恐れた時に、「主に向かって叫んだ。」これは信仰の叫びではありません。それは、11,12節の不平、不満の言葉をみると分かります。彼らは主から目を離した時、滅亡が自分たちに迫ってきていると感じたのです。いつでも主を信じなくなると、不信仰が心の中に恐怖を生み、恐怖は不幸と不満の争いを起こし、そして自らを滅ぼしていくのです。

14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14:14 【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

13,14節、しかしモーセはひとり信仰に堅く立っていました。教会の中でも、問題を起こす人は一人か二人ですが、それが段々と教会員全体に広がっていって騒然としてくるのです。しかしそのような中でモーセのように一人毅然として信仰に立っている人は、根も葉もない騒ぎを静めることができるのです。どうぞ、お互いは群衆としてのクリスチャンではなく、モーセの如く神のしもべとしてのクリスチャンにならせていただきましょう。

モーセは民の不信仰な動揺を静め、信仰を取り戻すために、民に四つのことを命じました。

①恐れてはいけない
②しっかりと立つ
③主の救いを見る(経験すること)
④黙っている(不平不満を言わないこと、騒がないこと)

これらは勝利を得るための条件です。しかし勝利の秘訣は、主が民のために戦われることにあります。主が私たちのために戦ってくださらなければ、私たちがどんなに努力しても、この世とサタンに対して勝目はありません。このことはいつの世にも真理です。このことはヨシャパテの時代にも主が語っておられます(歴代誌第二20:15、17)。

Ⅱ歴代 20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。【主】はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
20:17 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる【主】の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。【主】はあなたがたとともにいる。』」

なぜ、モーセだけがこのような大切なことを知っており、確信を持って話すことができたのでしょうか。それは、彼が神としげく交わり、神のみことばをよく聞き、神とともなる生活をしていたからです。私た ちも教会に行った時だけ、神とともなる生活ではなく、常日頃、みことばと聖霊による生活を実際にさせていただきたいものです。そうすれば、周囲のざわめきにも動揺せず、また人々にも確信を持って神の道を示すことができるようになります。

Ⅱ.15~25節 前進せよ

出 14:15 【主】はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。

信仰には前進あるのみです。このことは 既にお話しました。勝利は前進してこそ得られるのです。
15節で、主は、祈ってはいるけれども前進しようとしないモーセに、「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」と命じられました。これは祈っても、少しも実行しようとしない人への警告ではないでしょうか。実行されなかった祈りがどんなに多いことでしょう。神と約束したことで、そのまま忘れ去られた祈りがどんなに沢山あるでしょうか。祈りは実行に移されて完成するのです。実行もまた祈りであることを忘れてはいけません。祈っていると実行しないし、実行し始めると祈り心を失ってしまう人がいます。私たちは静かに坐って祈る時間を持つ必要があります。しかしそれは一日のうちでも限られた時間です。私たちのほとんど大半の祈りは、働きながらの祈りです。
パウロは、「絶えず祈りなさい。」(テサロニケ第一5:17)と言いましたが、それは働きながらの祈りのことではないでしょうか。忙しくなると祈り心を失ってしまう人がいます。祈り心は聖霊によって内につくられていく心の性質ですから、聖霊との歩みを忘れなければ、必ず身についてきます。

それにしても、モーセの場合、行手には広い深い紅海が広がっているのです。その前に立てば、立ち止まって祈るしかないと思うでしょう。しかし主は、前進するように命じられました。神はいつでも、困難を切り開いて、道をつくってくださってから、「この道を行きなさい。」とは言われません。困難は少しも取り除かれておらず、紅海の波がザァザァうなっている時に、その中に道があるから前進するようにと命じられるのです。このことはこれから四十年後、ヨルダン川を渡る時も同じです。私たちが信じて踏み出す時、その瞬間にかわいた道が現われるようにしてくださるのです。このようにすることによって、神は私たちの信仰を生きたものにしてくださるのです。
理屈だけの信仰、感情だけの信仰では決してこういうようなことはできません。神は困難があるからこそ、信仰の前進を命じられているのです。

出 14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。

16節、海を分けて、道をつくってくださるのは主です。しかし主はモーセに、「あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし」と命じられました。杖を上げることも、手を差し伸ばすこともみな、これは信仰の意志表示です。信仰は心に思っているだけではなく、積極的に意志表示することが大切です。手を上げること、あかしをすること、手紙や電話や様々な方法によって、自分の信仰を具体的に表わすことを主は命じておられます。このことに消極的になる時、信仰は弱くなってしまいます。モーセの杖や手に力があったのではありません。しかしそれによる信仰の積極的な意志表示は、不思議な所に道を生じたのです。しかもそれは歩きやすい「かわいた地」です。海の底に「かわいた地」があることなど、通常考えられないことです。これは主の奇跡です。しかもパロの戦車が進んでいくと車輪がはずれたとあります。おそらくこれは、元のドロドロの地に戻ったからでしょう。ここには、信仰は真似をしてはいけないという警告があります。

出 14:17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。
14:18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るのだ。」

17節、神は、パロが神の民のすぐ近くまで接近することを許されました。どうしてでしょうか。それは神の栄光をあらわすためだと言っています。
パロにとっては、もうすぐ手の届くところまで接近したので、好い気になっていたでしょう。またイスラエルにとっては気が気でない状態だったでしょう。しかし神にとっては、逆らうパロとその軍勢が滅び、神に従う民を救うためでした。実に、私たちは、心底神を信じ、神のみこころに確信をおいているのでなければ、神に従い切ることは困難でしょう。ですから、信仰生活とは、信仰が徹底しているか、不信仰になるかのどちらかで、その中間はあり得ないということです。神を疑いつつ、神に従うことは絶対にできないことです。何があっても、主だけを信じて進む人でなければ、このような試みには耐えられないでしょう。
神は神の民を二重の障害から守られました。すなわち、海の水とパロの軍隊です。

出 14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、
14:20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

19節には、神が民を守られるための意図が見られます。「雲の柱」は主の臨在であり、「神の使い(The Angel of God)」は、受肉以前の主イエスです。主は神の民と敵との間に入られて守られるのです。この「雲の柱」の働きには非常に興味深いものがあります。それはイスラエル人にとっては夜を照らすものであり、エジプト人にとっては真暗な雲となりました。これは、神の臨在は神の民にとっては光となり、恵みとなりますが、不信者にとっては闇となり、つまずきとすらなることを示しています。これによって、信者と不信者との間には、永遠の隔たりがあることが分かります(コリント第一1:18、コリント第二6:14~16)。

Ⅰコリ 1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

Ⅱコリ 6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

出 14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、【主】は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。
14:22 そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

21節では、主は海の中に道をつくるために、二つのものを用いられました。一つはモーセの祈りであり、もう一つは一晩中強い東風を起こされました。主は超自然のみわざをなされるために、人間の信仰の祈りと自然の風を用いられたのです。
また、ペテロが水の上を歩いた時のような力をイスラエル人に与えず、陸の上を歩く能力で渡れるようになされたことも、興味深いことです(信仰の通常の活用)。

出 14:23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中に入って行った。

23節、エジプト人もイスラエル人が歩んでいる奇跡の道に入って行きました。しばしばクリスチャンたちが偉大な聖徒の信仰の真似をして失敗することがあります。確かに聖徒たちの生涯は輝いています。そして私たちもそのようになりたいと切望します。しかし、出来上がった聖徒たちの信仰の真似をしても失敗するだけです。むしろ、聖徒たちがどのようにしてそこに到達したかを学ぶ必要があります。そしてそのことこそ、すべてのクリスチャンが最も学ばなければならないことです。

出 14:24 朝の見張りのころ、【主】は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。
14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。【主】が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

24,25節では、パロに敵対される主の意図が見られます。
時は、朝の見張りのころ、すなわち、夜がまさに明けようとしている時です。その時の主の臨在の仕方は、「火と雲の柱のうちから」とあるように、微妙な変化が見られます。
「見おろし」は、注意深い監視です。主は今も天から人の子らを見おろしておられます(詩篇14:2、53:2、歴代誌第二16:9)。

詩 14:2 【主】は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。

詩 53:2 神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。

Ⅱ歴代 16:9 【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」

「かき乱された。」主の恐るべき顕現は、パロの軍勢を混乱させました。
「戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。」神はパロとその軍勢を滅びの場所にとどめてしまわれたのです。
彼らは滅亡の直前になって、主がエジプト人を滅ぼそうとしておられることに気づき、逃げようとしました。しかし時はすでに遅かったのです。今も、死の間際まで、神と永遠について、全く無関心な人が少なくありません。そして気づいた時は、すでに遅いのです。
信仰には、紅海もパロも恐れず、前進あるのみです。そうすれば神が戦ってくださるのです。

Ⅲ.26~31節 パロの軍勢の最期

出 14:26 このとき【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」
14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、【主】はエジプト人を海の真ん中に投げ込まれた。
14:28 水はもとに戻り、あとを追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。

聖書は、旧約時代の歴史においても、神の警告においても、神に逆う者が必ず滅びることを示しています。また、この大真理は教会の二千年間の迫害の歴史においても、真実でした。いかなる富と権力を以っていた者も滅びたのです。神に逆う文明や国家も滅びました。そして今も滅びつつあることを、今日の私たちは十分に自覚して、この世における生活を営まなければなりません。パウロはこう言いました。
『私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。』(ピリピ3:18~20)

次に、エジプト人が滅んだ理由は何であったかを考えてみましょう。

第一に、エジプト人が神の命令に逆らい、イスラエル人をカナンの地に行かせなかったからです。なぜ、行かせなかったのでしょうか。それは、イスラエル人を奴隷としてエジプトの労働力に使い、パロの利益を上げるためでした。自分の欲のために神に逆らう者は滅びます。これは先程のパウロの言葉にあったとおりです。

第二に、エジプト人は信仰がないのに、イスラエル人のあとを追って、紅梅の底の道に入っていったからです。このように、真実な信仰がないのに信仰者の真似をする者は滅びます(使徒19:13~16)。

使 19:13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
19:14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
19:15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。
19:16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。

第三は、25節で、神がイスラエルのためにエジプト人と戦っておられることに気づいても、自分の罪を悔い改めなかったので滅びたのです。

出14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。【主】が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

第四は、26,27節で、モーセが神の命令に従ったので滅びたのです。クリスチャンが神に忠実に従うことは、自らに勝利を与えるとともに、それはまた、神に逆らう者に対しては審判となります(コリント第二2:14~16)。

Ⅱコリ 2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

出 14:26 このとき【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」
出 14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、【主】はエジプト人を海の真ん中に投げ込まれた。

26節の「このとき主は」の「このとき」は神の時、神のタイミングです。神はこれまで、憐みの故に何度も警告を続けられました。しかしエジプト人は自らの滅亡が目の前に迫ってくるまで、神に従おうとはしませんでした。

27節、エジプト人は迫ってくる水から逃げようとしましたが、逃げ切ることができませんでした。この時の恐怖はいかばかりだったでしょうか。これは主の救いを知らずして死に臨む者の恐怖でもあります。この神のタイミングは、神の審判から逃れることのできる者は一人もいないことを示しています。これは厳粛です。

出 14:28 水はもとに戻り、あとを追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。
14:29 イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。

28,29節、しかし忠実に神に従う者にとっては、周囲に滅びる者を見つつも、前に道は開かれてくるのです。実に、クリスチャンはイスラエル人が紅海を分けて進んで行ったように、この世を分けて進んでいくのです。

出 14:30 こうして、【主】はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。
14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。

30,31節、イスラエル人はこの出来事で三つのことを経験しました。

一つは、主によって救われたこと、
第二は、エジプト人が滅んだのを見たこと、
第三は、主の大いなる御力を見たことです。

信仰はただの知識ではありません。信仰は必ず体験させます。主イエスは、私たちが主を信じることを「食べる」「飲む」という言葉で表現されたのは、信仰は知識として知るにとどまらず、内的経験とすべきことを教えるためでした(ヨハネ6:48~58)。

ヨハ 6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

イスラエル人は、この信仰経験をすることによって、ますます主を畏れるようになり、また主がしもベモーセを用いておられることも知ったのです。

ここで、「見る」ということについて、もう一つ注意しておきたいことがあります。
もしこの「見る」が、内的信仰経験ではなく、目で見ることであるなら、その信仰はくずれやすいものです。イスラエル人の信仰は多分にこの要素があったのではないかと思われます。なぜなら、彼らの信仰は、 シナイの荒野の旅に入ると、すぐにくずれてしまったからです。主イエスは、「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。目で見るだけの信仰や感情の高揚を求めるだけの信仰はくずれやすいばかりでなく、人格の奥深くにまでとどかず、また生活も潔く変貌していかないのです。それ故、キリストのみことばによる内的経験が不可欠です。

あとがき

聖書を探求することは、本当に根気の要ることです。手取り早く慰めを得たい人は、それなりの本を手にしますが、深みのあるところにまでは届きませんから、しばらくすると同じ悩みに陥ってしまいます。聖書はやはり、根気よく、こつこつと学んでいく必要があります。しかもそれがただの学問や研究で終わらせずに、信仰の建て上げによって完成させなければなりません。こういう面で日本のクリスチャンは浅いのではないかと思います。
しかし、聖書に深く根を下したクリスチャンには底力があります。少々の困難や迫害にアゴを出したりしません。むしろ輝いてそれを乗り越えていきます。私は、じっと見ていて、そういう方に出会うと、主がいかにお喜びになっておられるかを心に思います。
この聖書の探求を病床の中で学んでいてくださる方が何人かいらっしゃいます。また毎月、首を長くして待っていてくださる方もいらっしゃいます。こういう方々に励まされつつ、四年四箇月続いてきたのです。乞御助祷
(まなべあきら 1988.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1907年に出版されたBible cardのイラスト「Israel’s Escape from Egypt(イスラエルの民のエジプトからの脱出)」 (Wikimedia Commonsより)


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