聖書の探求(051) 出エジプト記13章 エジプトからの出発

13章は、いよいよエジプトからの出発ですが、その直前に神は、この救出が神によったものであることをイスラエルの民に覚えさせるために、種なしパンの祭りを守るように命じられました。

Ⅰ.1~16節 初子の聖別と種なしパンの祭りの制定

1~2節は、主がモーセになされた命令であり、3~16節は、モーセが民に告げた神の命令です。そのうち、9~16節は3~8節を詳しくしたものです。

出 13:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

2節、主の第一の命令は、神の民の間では、人であれ、家畜であれ、初子は神のものとして聖別しなければならないことです。後に、レビ人が神のために聖別されて奉仕に当る制度が確立し、これが旧約時代ずうっと続くことになります。
しかし、新約におけるクリスチャンにとっては、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。これこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:19,20)
と記されているように、すべての真のクリスチャンは神のものなのです。

出 13:3 モーセは民に言った。「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。【主】が力強い御手で、あなたがたをそこから連れ出されたからである。種を入れたパンを食べてはならない。

3節、モーセは民に、主が力強い御手によって、奴隷の家であったエジプトから連れ出してくださった日を覚えていなさいと命じています。これは神の民のへりくだりと、神への賛美と感謝のために必要でした。
クリスチャンは自分がどのようなところから救い出されたかを絶えず覚えて、自らへりくだり、また神に賛美と感謝をささげるべきです。
「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」(イザヤ51:1)

出 13:4 アビブの月のこの日にあなたがたは出発する。
13:5 【主】があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたカナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地に、あなたを連れて行かれるとき、次の儀式をこの月に守りなさい。
13:6 七日間、あなたは種を入れないパンを食べなければならない。七日目は【主】への祭りである。
13:7 種を入れないパンを七日間、食べなければならない。あなたのところに種を入れたパンがあってはならない。あなたの領土のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。

4~7節、次に、パン種を入れないパンを食べることが繰り返して強調されています。この種なしパンの儀式は、約束の地に入ってからも行なって、絶えず思い出すことが命じられています。乳と蜜の流れる地で順調な生活に慣れると、過去に神から受けた恵みを忘れがちになるものです。私たちもこのことに注意したいものです。
主イエスは、パリサイ人やサドカイ人たちの教えを「パン種」と言われました(マタイ16:6,11,12)。

マタ 16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
16:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

パウロは悪意や不正などの悪い動機を「パン種」と呼んでいます。クリスチャンには二心のパン種があってはなりません。罪のパン種はクリスチャンの生活のどこにおいても、あってはならないのです。パン種はわずかであっても、全体をふくれあがらせるように、罪のパン種も、その人とその生涯、その家庭、その人の関わるすべてを滅びに陥れる恐ろしいものです。

出 13:8 その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、【主】が私にしてくださったことのためなのだ』と言いなさい。

8節、さらに、主がしてくださったことを息子たち、子孫に語り伝えることが命じられています。今日においても、信仰の継承がしっかり行なわれることは重要なことです。息子、娘たちに物質的財産を残さなくても、信仰の財産だけは確実に手渡したいものです。これこそ親が子どもに残すことのできる最大の財産です。信仰さえ継承しておけば、他の物はすべて神によって必要なものは与えられます。

出 13:9 これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは【主】のおしえがあなたの口にあるためであり、【主】が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。

出 13:16 これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは【主】が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れ出されたからである。」

9、16節、ユダヤ人の男子は祈るとき、律法の三箇所(出エジプト13:1~10、申命記6:4~9、11:13~21)を羊皮紙に書きつけ、小さく折りたたんで、小箱に入れて、左手首と額にひもで結びつけました。このようにして彼らは出エジプト記の教訓をいつも心に覚えていたのです。しかし主のみこころは、神のみことばを小箱に入れて、ひもで結びつけて覚えていることだけではありませんでした。「それは主のおしえがあなたの口にあるため」とあるとおり、彼らの心に神のおしえがとどまり、それが絶えず口に語られ、戒められ、教えられ、覚えられることでした。
今日、私たちは、教会に行くだけでなく、聖書を読むだけでなく、信じて、それを生活の中で行なっていくことが求められています。また聖書のみことばは全世界に宣べ伝えるようにと命じられています。このようにしてこそ、私たちはキリストを実際に心に覚えることができるのです。

出 13:10 あなたはこのおきてを年々その定められた時に守りなさい。

10節、これらのことは毎日行なうべきであるとともに、特に、毎年定められた時に守り行なうことが命じられています。イスラエル人には一年間に大きな祭りが三回行なわれましたが、これらの祭りはしばしば信仰の大復興につながっています。私たちも降誕節、復活節、聖霊降臨節などをただのさわぎとして終わらせず、十分信仰を強調するように守って、信仰の大リバイバルにつなぎたいものです。

出 13:11 【主】が、あなたとあなたの先祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに賜るとき、
13:12 すべて最初に生まれる者を、【主】のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は【主】のものである。
13:13 ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。
13:14 後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか』と言うときは、彼に言いなさい。『【主】は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。
13:15 パロが私たちを、なかなか行かせなかったとき、【主】はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私は初めに生まれる雄をみな、いけにえとして、【主】にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は贖うのだ。』

11~15節、カナンの地に入った時の命令。12節に、家畜の雄の初子をあがなうことが命じられています。15節には、雄の初子が主のものであることの理由が記されています。この「あがない」は、主がエジプトの人と家畜を殺され、それによってイスラエルの民を救い出されたことに起因しています。この「あがない」の思想の中には、明らかに「キリストのあがない」のみわざが意味されています。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(コリント第一6:20)と語りましたが、「あがなう」とは、代価を払って買い戻すことを意味します。私たちは、キリストの十字架の代価によって神に買い戻された神の民であることを忘れてはなりません。

13節の「ろば」は、イスラエルでは汚れた動物ですから、神に犠牲としてささげることができませんでした。それ故、羊で贖(あがな)わなければならなかったのです。これは、罪に汚れた私たちがそのままでは神に近づくことができず、神の小羊であるキリストによってあがなわれなければならないことを示しています。贖わなければ、ろばは首を折られ、滅びることになるのです。

9、14、16節、モーセは、神のおしえを覚え、初子を贖わなければならない理由を繰り返し述べています。それは「神が力強い御手で、民を奴隷の家、エジプトから連れ出されたからである。」

私たちにとって、罪からの救いと潔めは、明確でなければならないし、それはクリスチャンの生涯の中心でなければなりません。そしてこれは、神の力強い御手によってなされるものです。

Ⅱ.17~22節、近道を行かせない

出 13:17 さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」

神は、イスラエル人をエジプトから連れ出してから、ペリシテ人の地を通って行けば、約束の地へは近かったのです。しかし主は、その道をたどらせませんでした。なぜでしょうか?「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」(17節)からです。
人は信仰の力を十分に持っていないのに、近道を急ぎたがります。そして困難に会うと、すぐに引き返したがるのです。主はそのことをよく知っておられたのです。

出 13:18 それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。

18節、それ故、主が私たちを導かれる道は、回り道です。しかしそこも決して楽な道ではありません。ただ、ペリシテ人のような外敵はいません。外敵はいませんが、内敵、すなわち、不平、不満の敵がいます。主は民に、外敵と戦う前に内敵と戦って勝っておくことを教えられます。自分の内なる敵が潔められてこそ、外敵との戦いに勝利できるのです。

またこの道は荒野の道で、つぶやかず、忍耐を教える道です。ヘブル人への手紙10章36節は、神の約束のものを手に入れるために必要なものは忍耐であると教えています。

ヘブル 10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

信仰の戦いの大部分は、忍耐であると言ってもいいでしょう。ですから、クリスチャンは十分に忍耐の訓練を受ける必要があります。

神は信仰の弱い者を危険の多い道に導くことはしません。しかし荒野に導きます。すなわち、クリスチャンなら必ず忍耐を学ばせられることを覚えなければなりません。また荒野に全然危険がないというわけではありません。主イエスの時のようにサタンが現われることがあります。主イエスでさえ、厳しい公生涯に入る前に、荒野に導かれたことを覚えなければなりません。

また、神の民は、各々がバラバラの歩みをするのではなく、整然と編隊を組むとき、力をもつのです。整然と編隊を組んでいるものをくずすことは困難です。私は次の言葉が好きです。ただ好きというだけでなく、真実を示していると思います。
“Big is agree. Small is creative. Church must be agree and creative.”

教会は人数が多いか少ないか、会堂が大きいか小さいかが問題ではありません。信仰が一致しているか、創造的であるかが、重要な問題点です。みんなが同じことをしているのが信仰の一致ではありません。目新しいことをするのが創造的なことではありません。真の信仰の一致とは、各々が自分の持ち場をしっかり守り、編隊を組んで、サタンの入り込むスキを与えないことです。これは敵をも恐れさせる行進です。創造的であることは、神のみことばが各々の内に、生活の中に、この世の中に浸透していっていることです。これらが地道に行なわれていく時、勝利が与えられるのです。しかし各会員が互いにねたんだり、争ったり、好き勝手なことをしている教会は必ずくずれていきます。もしイスラエル人が編隊を組まないで各々勝手に荒野をさまよっていたなら、彼らは約束の地に到達することができず、イスラエル民族は消滅していたでしょう。このことを思って、私たちクリスチャンは教会の一員としての自覚をもって、編隊に加わりたいものです。

出 13:19 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。

19節、モーセはヨセフの遺骸を携えて来ました。これはヨセフの遺言のあかしと誓いを守ったからです。私たちは先人の示した信仰の道を無視してはいけません。昨今は教会の集会もずい分様変わりしつつあります。礼拝の中心が神のみことばのメッセージから賛美に移りつつあります。説教はほんの付け足しで、しかもみことばの読解ではなく、ただの激励の言葉に変わりつつあります。私は個人としても礼拝における賛美の位置を重要視する者です。しかし、賛美は神のみことばを除けものにしません。旧約聖書においても、新約聖書においても、神のみことばの説教は礼拝の重要な部分を占めていました。もしこのことを後代に伝えそこなったら、キリスト教は根のない歌う宗教に堕落してしまうでしょう。

出 13:20 こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。
13:21 【主】は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
13:22 昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

20~22節、民が実際にエジプトを出発するまで、神の導きは与えられませんでした。実際に信仰で歩み出さない者を、神は導かないのです。しかし民がスコテからエタムに来たとき、神は雲の柱と火の柱で導き始めました。

神の民が自分の目で見ることができる昼間は雲の柱で導かれ、自分の目で見ることができない夜は、輝き照らす火の柱が必要でした。これは、私たちが自分の判断で分かる時には、理性で分かる導きが与えられ、自分の理性で分からない時には、信仰によって聖霊の光を受けて歩むべきことを教えています。このようにして彼らは、雲の柱、火の柱のあとに従って、昼も夜も進んでいったのです。パウロはテモテに、「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(テモテ第二4:2)と教えました。私たちは、歩みやすい時も、困難な時も、暗黒の時も、信仰によって前進しなければなりません。

22節の、「‥‥この火の柱が民の前から離れなかった。」とは、神の臨在の保護が絶えず与えられていたことを示しています。道路や運河、都市や村落もみな過ぎ去り、人跡未踏の荒野に入ったその時、神は民のために先導の柱を備えられ、この柱は長い旅路の果てまで導かれました。

この導きの象徴が「柱」であったのは、神と人との縦の関係を強調していると思われます。

この柱は、

(1) ご自分の民と共にある神の臨在を象徴しています(出エジプト14:19、24,25、33:9,10)。

出 14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、

出 14:24 朝の見張りのころ、【主】は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。
14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。【主】が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

出 33:9 モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。
33:10 民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。

これはインマヌエルの神なるキリストの姿でもあります(マタイ1:23)。

マタ 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

(2) 民を先導した(出エジプト13:21、民数記9:17,18、詩篇78:14、ネヘミヤ9:19)。

出 13:21 【主】は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

民 9:17 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。
9:18 【主】の命令によって、イスラエル人は旅立ち、【主】の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。

詩 78:14 神は、昼は雲をもって、彼らを導き、夜は、夜通し炎の光で彼らを導いた。

ネヘ 9:19 あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。

これは先立って歩まれたキリストの姿でもあります(ヨハネ10:4)。

ヨハ 10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

(3) 民への憐み(ネヘミヤ9:19)

ネヘ 9:19 あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。

これは「あなたがたを捨てて孤児にはしません」と言われたキリストの姿でもあります。(ヨハネ14:18)

ヨハ 14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

(4) 民の避難所(民数記10:34、詩篇105:39)

民 10:34 彼らが宿営を出て進むとき、昼間は【主】の雲が彼らの上にあった。

これは民を守ろうとされたキリストの姿でもあります(マタイ23:37)

マタ 23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

(5) 民に対する神の保護、防御(出エジプト14:19、申命記1:30)

出 14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、

申 1:30 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、【主】が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。

これは私たちのことを慮ってくださるキリストの姿でもあります(マタイ10:30、ペテロ第一5:7)。

マタ 10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

Ⅰペテ 5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

このように学んできて分かりますことは、旧約の出来事はただの歴史的事実だけではなく、現代の私たちと深く関わってくださる神がおられるという事実に触れることです。

そしてたとい私たちが荒野を現在歩んでいるとしても、神の臨在の柱を見失わなければ、必ず約束の地に到達することができると確信できます。しかしまた、最も安全な道を歩んでいるようであっても、神の柱がないなら、それは最も危険な道であるということも知ることができるのです。

あとがき

私は、聖書については、次の四つの面が必要であると確信しています。

第一は聖書のみことばを信仰によって心の内に経験することです。これは主観的ですが、健全な内的経験として信仰生活に不可欠です。

第二は聖書の生活化です。日常生活の中に聖書のみことばが適用されることです。具体的な生活の中で、聖書のみことばを活用することです。これは見えるようになった信仰です。具体化された信仰です。ヤコブが強調したのはこの信仰です(ヤコブ2:14~26)。

第三はみことばの宣教です。聖書のみことばは、世界のどこにおいても力強く宣べ伝えられなければなりません。パウロはこのことをテモテに教えました(テモテ第二4:2)。
現代はみことばの宣教が弱くなっているように思います。クリスチャンは音楽を聞くためには群がっても、神のみことばを聞くために教会に群がっていないように思います。

第四は聖書の知的理解です。このうち、第一から第三までが弱くなると信仰も弱くなります。

(まなべあきら 1988.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、「Handmade Shmura Matzo used at Passover Seder(過ぎ越しの晩餐で使われる手づくりのShmuraマッツア(過ぎ越しのための厳格な規格に沿って作られた種なしパン)」(Yoninah氏撮影、Wikimedia Commonsより)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2020年7月現在、通巻437号 歴代誌第二24章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料82円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421