聖書の探求(053) 出エジプト記15章 救われた民の賛美と、マラにおけるつぶやき
15章は、救われた民の賛美と、マラにおけるつぶやきの始まりを記しています。
Ⅰ.1~19節、モーセと民の賛美
この歌は主の勝利の歌です。これは14章15~18節の主のみことばの成就です。
出 14:15 【主】はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
14:17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。
14:18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るのだ。」
みことばに全く信頼する者は、常に勝利を見ます。
(1) 彼らは勝利の主を七つの意味で賛美しています。
出 15:1 そこで、モーセとイスラエル人は、【主】に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「【主】に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。
15:2 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。
15:3 【主】はいくさびと。その御名は【主】。
「主は、私の力」(2節)
「ほめ歌」(2節)
「私の救い」(2節)
「わが神」(2節)
「私の父の神」(2節)
「いくさびと」(3節)
「主(ヤハ)」(3節)
これらがみな、個人的経験として「私の‥‥」と歌われているところにすばらしさがあります。民族的救出であったのにも拘らず、民が各々、神を個人的に自分の力、自分の救い、自分の神として賛美しているところに教えられることがあります。私たちは主を個人的に自分の力、自分の救い、自分の神として体験する必要があります。そこから本当の霊の歌が生まれてくるのです。
(2) さらに、この賛美は四つのことの故に、神をほめたたえています。
第一は、神の力の故です(2~2、6,7.8、11節)。
出 15:2 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。
15:3 【主】はいくさびと。その御名は【主】。
出 15:6 【主】よ。あなたの右の手は力に輝く。【主】よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。
15:7 あなたは大いなる威力によって、あなたに立ち向かう者どもを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それは彼らを刈り株のように焼き尽くす。
15:8 あなたの鼻の息で、水は積み上げられ、流れはせきのように、まっすぐ立ち、大いなる水は海の真ん中で固まった。
出 15:11 【主】よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか。
主は全能の神です。私たちはどのようにすれば、この全能の神の力を受けることができるのでしょうか。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださる。」(歴代誌第二16:9)
Ⅱ歴代 16:9 【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」
主は、みことばに従い、心を主に全うする者に力を現わしてくださるのです。
第二は、敵の滅亡の故です(4,5、9,10、12節)。
出 15:4 主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。えり抜きの補佐官たちも葦の海におぼれて死んだ。
15:5 大いなる水は彼らを包んでしまい、彼らは石のように深みに下った。
出 15:9 敵は言った。『私は追って、追いついて、略奪した物を分けよう。おのれの望みを彼らによってかなえよう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』
15:10 あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。
15:11 【主】よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか。
15:12 あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみこんだ。
いかにこの世の権力をもって誇る者も、神の御前には愚か者として滅びるのです。神の御前には、エジプト帝国の権力も、アッシリヤ帝国の権力も、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国の権力も滅びたのです。この世の権力も、武力も、富も、役に立たないのです。クリスチャンはこのことをよく知って、この世を恐れず、あかししていかなければなりません。
第三は、贖(あがな)われた(神に買い取られた)民の故です(13、17,18節)。
出 15:13 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。
出 15:17 あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。【主】よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。
15:18 【主】はとこしえまでも統べ治められる。」
贖(あがな)われた民の中に神が臨在されることのうるわしさと、神の導きと恵みによる支配の故に、神の民は賛美せずにはいられなかったのです。
第四は、神の民の救出によって、周囲の国々の民が震えおののく故です(14~16節)。
出 15:14 国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕らえた。
15:15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは、震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。
15:16 恐れとおののきが彼らを襲い、あなたの偉大な御腕により、彼らが石のように黙りますように。【主】よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。
クリスチャンは、救いの確信をもってあかしし、賛美し、生活をしたいものです。その力強いあかしの影響力は、周囲の人々を震えおののかせるほどのものであることを覚えましょう。
出 15:19 パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、【主】は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真ん中のかわいた土の上を歩いて行った。
19節は、賛美の言葉ではなく、普通の叙述になっていますが、確信に満ちたあかしの文章です。パロの軍勢の滅亡の瞬間と、イスラエル人が海の真中のかわいた土の上を行進していく婆をリアルに描いています。
このどちらも、神のみわざなのです。クリスチャンはこのことを十分に自覚し、自ら神に買い取られた民であることの幸いを覚えたいものです。そして、ますます、困難の中をも恐れずに、真直に神の備えられた道を前進しましょう。
Ⅱ.20~21節、ミリヤムと女たちの賛美
出 15:20 アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。
15:21 ミリヤムは人々に応えて歌った。「【主】に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」
20節に、女性の初めての聖職者として、女預言者ミリヤムが登場します。ここで言う「預言者」とは、「神を賛美する者」という意味が強いのです。サムエル記第一、10章6、10~13節に、サウルが預言したことを記しています。これも、神のみことばを語ったというより、神を賛美したという意味が強いようです。
Ⅰサム 10:6 【主】の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
Ⅰサム 10:10 彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。
10:11 以前からサウルを知っている者みなが、彼が預言者たちといっしょに預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。」
10:12 そこにいたひとりも、これに応じて、「彼らの父はだれだろう」と言った。こういうわけで、「サウルもまた、預言者のひとりなのか」ということが、ことわざになった。
10:13 サウルは預言することを終えて、高き所に行った。
ミリヤムと女たちの賛美は、歌だけでなく、タンバリンと踊りが加わっていることに注目しましょう。心に満ちあふれた賛美は必ず外側にあふれ出るものです。
21節のミリヤムの賛美は、モーセの賛美の最初の部分(一節)の繰り返しです。
このように、楽器や踊りをもって神を賛美することはすばらしいことです。しかしこの賛美は深い神との交わりから出た信仰の賛美であるというより、救出されたことに対する感情的なものであったようです。なぜなら、彼らはすぐそのあとで、呟(つぶや)き始めたからです。最近、教会の中にも賛美が強調され始めて、賛美活動が広がりつつあります。まことに幸いなことです。私たちの教会でも積極的に賛美を取り入れるようにしています。しかし、みことばと聖霊によって人格が変貌せられ、日常生活が神に喜ばれるものに変わっていくのでなければ、賛美はただの雰囲気や感情だけのものに堕落していくでしょう。歌や楽器の上手な者が高ぶり始めたり、教会もみことばから離れていく危険があります。このことは生活の中でのつぶやきや不満となって出てくるのです。ミリヤムと女たちの賛美は私たちにこのことを警告として教えています。ヤコブは、賛美とのろいが同じ口から出ることを叱責しています(ヤコブ3:10)。
ヤコブ 3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
賛美を歌う者は、その同じ口から、のろいや、つぶやきや、不満の言葉が出てこない者でなければなりません。賛美は信仰によって、霊魂の底から神にささげるものでなければ、勝利はありません。この点で、ヨシャパテが指導した賛美は模範的です(歴代誌第二、20:18~22)。
Ⅱ歴代 20:18 それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も【主】の前にひれ伏して【主】を礼拝し、
20:19 ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、【主】を賛美した。
20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、【主】を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」
20:21 それから、彼は民と相談し、【主】に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「【主】に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」
20:22 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、【主】は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。
彼らは、信仰を刷新し、主への献身を新にし、みことばを信じ、潔められて主を賛美している故に、勝利を得たのです(20,21節)。
Ⅲ.22~26節、マラでのつぶやき
出 15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
22節、彼らはシュルの荒野を三日間歩いただけで、水を失いました。私たちはこの世という荒野を旅する者です。ですから、絶えず「いのちの水」を携えておく必要があります。日曜日に、いのちの水を飲んだだけで、一週間を過すことはできません。いのちの水は毎日必要なのです。
出 15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。
そこで彼らはマラで水を捜しましたが、マラの水は苦くて飲むことができませんでした。神は旅する民のために水を備えておられなかったのでしょうか。神は備えておられました。民がもう少し忍耐してエリムまで行けば、そこに豊かな水が備えられていたのです。また主は苦い水を甘くすることもおできになったのです。ところが民は、神に問うことも、求めることもしないで、ただ不平のつぶやきを言ったのです。
神は民が、本当に主に信頼した、具体的な信仰生活をするかどうか、マラの苦い水の所に導かれたのです。あなたの前に苦い水が置かれたら、神があなたの信仰を試みておられると知らなければなりません。主はその苦い水を甘くすることもでき、あるいは、もう少し忍耐して先に進めば、豊かな水を備えていてくださるお方であることを信じて、主に祈り、問い、求めることを忘れてはいけません。しかし私たちは、苦い水に出会うと、主に問うことも、求めることもしないで、すぐにその苦さの故に、つぶやいてしまうのです。日曜日に神を賛美して、その帰る途中において、つぶやいてしまいやすいのです。私たちは、恵みを受けたあと、特に注意しなければなりません。サタンがねらっているからです。サタンは、私たちから恵みを奪い取るために、直面した小さい困難のためにつぶやかせようとします。
出 15:25 モーセは【主】に叫んだ。すると、【主】は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
25節、モーセが水の中に投げ込んだ一本の木は主イエスを指しています。主を忘れた生活には、必ずつぶやきが生じてきます。しかし、主イエスが共におられる生活には、恵みがあり、苦い水も甘くなります。
マラの苦い水が、信仰の試みであったことは、25節後半と26節から、はっきりしています。それは、神の民が、神から授けられた神のおきてと定め、すなわち、神のみことばに従って歩むかどうかを試めされることでした。
出 15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。」
主は26節で、祝福の条件と約束を示しておられます。
その条件は、
1、主の声に確実に聞き従うこと
2、主が正しいと見られること(主のみこころ)を行なうこと
3、その命令に耳を傾けること
4、そのおきてをことごとく守ること
これらが祝福を受けるための条件です。
約束は、「エジプトに下したような病気を何一つ‥‥‥下さない。」です。これは神の審判を下さないことを言われたのです。
さらに、主は、本質的にいやし主です。神は、神に忠実に従う者にとって、霊的に、精神的に、肉体的に、恵み深いいやし主であり、救い主なのです。それ故、先の条件は、今日の私たちにとっても重要な条件です。
Ⅳ.27節、エリム到着
出 15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。
神はご自分の民のために紅海を分けるような大きなみわざをなされた。これは神のみわざなくしては、民を救うことができなかったからです。しかし、実生活における小さい問題については、私たちの信仰を訓練されます。それは私たちが信仰をもって乗り越えることのできる問題だからです。
イスラエルの民はマラでつぶやきましたが、もう少し忍耐して進んでいればエリムにつき、そこで一二の水の泉と七十本のなつめやしの木を神が備えてくださっていたことを発見できたのです。私たちは大部分において神に従います。ほとんど九十九%は神に従います。しかし最後の一歩、最後の一%を忍耐できずに、つぶやいてしまいやすいのです。つぶやきそうになる時、もうダメだと思ったら、そこからもう一歩、信仰と忍耐によって神に従ってください。あなたはエリムのすぐ近くにまで来ているのです。一歩手前まで来て、つぶやくのは愚かです。忍耐と信仰をもって前進すれば、必ずエリムに到着するのです。決して、あせったり、あわてたりしてはいけません。それがつぶやきの始まりとなるのです。イスラエル人が紅海の大水では失敗せず、わずかの飲み水のためにつぶやいたことに心を留めてください。あなたの信仰が試みられるのは、あなたに不可能な問題ではなく、あなたが乗り越えられる問題においてだということに心を留めてください。
〔あとがき〕
クリスチャンの信仰生活には、三つの不可欠なものがあります。それは、みことばに養われることと、神を賛美することと、祈ることです。
そのうち、賛美と祈りについては、しばしば強調され、そのための指導もされています。しかし近年、みことばによって十分に霊魂が養われる必要について、あまり強調されなくなったように思われます。さらに、みことばの解き明かしも清涼飲料水のように、さわやか気分を強調するものが多くなっているように思われます。
しかし私は、三つの要素のうち、みことばは最も重要であると思っています。神が私たちに与えてくださった信仰の客観的根拠は、聖書だけだからです。もし、みことばの理解と経験が浅かったならば、その賛美も、祈りも浅いものとなるでしょう。上手に賛美が歌えても、熱心な長い祈りができても、みことばに下された根が浅かったら、その献身も浅いものです。聖書を学ぶには、一層の忍耐と献身が必要です。しかし結実も多いのです。
(まなべあきら 1988.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の写真は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1902年頃に描いた「The Songs of Joy(喜びの賛美)」(アメリカ、ニューヨークのthe Jewish Museum蔵、Wikimedia Commonsより)
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