音声+文書:信仰の列伝(21) イサクの祝福 へブル人への手紙11章20節

イタリアの画家 Gioacchino Assereto (1600–1649)による「Isaac blessing Jacob(ヤコブを祝福するイサク)」(Wikimedia Commonsより)


2016年12月18日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章20節
11:20 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。


はじめの祈り

「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。」
恵みの深い天のお父様、イエス様のご降誕の節季の時、私たちは今一度心を新たにして、飼い葉桶のような器でありますけれども、イエス様を宿して、恵みを頂いておりますことを感謝いたします。
そしてこうして、聖霊によってみことばを解き明かしていただき、私たちにも新しい恵みを注いでくださることを、この朝も感謝いたします。
どうぞ、みことばを祝し、聖霊との深い悟りや交わりをお献げできますように顧みてください。
また、この一週間を通して、あなたの光を放つことができますように。
みことばを祝して下さい。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は「信仰の列伝」の21回目になりますが、「イサクの祝福」という題でお話しさせていただきたいと思います。

Ⅰ.私たちは日頃、信仰の必要性を、どれくらい強く感じているでしょうか。

私たちの人格が、健全な愛の交わりを保って生活するためには、信仰は不可欠であります。このことを私たちは日頃、実感しております。

心にイエス・キリストを持たなくなってしまうと、まあ、イエス様を失いかけたりしてしまいますと、私の心は自分中心の肉の心に支配されるようになります。その結果として、怒りっぽくなったり、争いやすくなったり、他人を批判しやすくなったりします。こういうふうになってきている時というのは、心の中のイエス様が自由に働かれなくなっている。聖霊が働かれなくなってしまっている。自分中心の肉の心が強くなっている。そういうことのしるしであります。

今日は、イサクの信仰を取り扱いますけれども、イサクは両親から、一番大切な信仰を受け継いでおりました。ですから、ヘブルの11章20節で、「信仰によって」と言っていますけれども、それは両親から受け継いだ一番大事な信仰をイサクが持っていたことを表しています。

次にここで「未来のことについて」と書いてありますけれども、これは「未来のことを見通す力」というよりも、これはヤコブとエサウの未来のことであります。つまり、ヤコブとエサウの心を見抜く力ですね。
主は、人の心を見る、と仰いましたけれども、人の心の本質を見極めるお方です。
イサクは、その主を心に宿すことによって、ヤコブとエサウの心の本質を見通す力を受けており、それぞれに相応しい祝福をしたのです。勿論この祝福は、神様から与えられるものです。

信仰によって心に主を持つ時に、人の心の本質や、ものの価値の本質を見通す洞察力が与えられるようになります。
イサクは信仰によって、ヤコブが神の道を歩んで行く、そして繁栄していく、そういう未来の祝福を担う本質を持っていることを悟ることができたわけであります。
反対に、エサウには神の道からはずれていくことを見通す力を受けています。
それぞれの魂の性質と、その将来に至る神の祝福とわざわいを見通す力であります。
このことは、私たちの信仰とも深い関係があります。私たちの信仰が、祝福に繋がっているか、わざわいに繋がっているか、それを見通すからです。
ですから神の器になる人は、ある程度そういう見通す力を備えておく必要があります。それがどのようにして与えられるかは、これからお話をさせていただきます。

20節で、イサクは信仰によって、神様からヤコブとエサウのそれぞれの将来、息子たちの将来を、ヤコブとエサウの性質によってどのように取り扱わるかを知らされています。
ご存知のように、ヤコブはずる賢いやり方ではありましたけれども、神の摂理の中で、主の権威を求め、主の霊的相続財産を求め、神の国を求める、という、本質的な心の性質を、主は御心にとめてくださったのです。主は、ヤコブの心の性質をご覧になって、御心にとめてくださいました。

確かにヤコブのやり方は、いろいろと問題があります。人はそれを見て、批判をしますけれども、主なる神様は、ヤコブの主を渇いて求める、真剣に求める心の性質に目をとめてくださいました。ま、やり方は、いろいろ批判を受けますけれども、大事なことは、本質的に何を求めるかを、神様はご覧になったわけであります。

やり方は正しくて、スマートで、人々から称賛されていても、使徒の働き5章のアナニヤとサッピラのように、隠れた心の中で肉の欲が働いているならば、主もペテロもそれを見抜いて、アナニヤとサッピラは滅んでしまいました。見たところは、正しくてスマートで、人々の評判も良くて、ということの背後に隠されている肉の欲が危険であります。事実エサウの子孫は、一時エドム人として栄えましたが、ついに民族ごと滅んでしまっています。

大まかに言って、信仰の洞察力には、二つのものを見抜く力があります。

➀、一つは、神の道が何であるかを見抜く力です。
私たちは、神ご自身を知り尽くすことはできません。しかし、主が、この私に何を望んでおられるか、何を求めておられるか、何を命じておられるかは分かります。
また、毎日、どのように歩むべきか、足のともしび、道の光を示してくださいます。
たとえば、神が私に「隣人を愛すること」を望んでおられることは、すぐに悟ることができます。
このことが、信仰の洞察力の中心であります。信仰の洞察力がない人、というのは、日曜日に教会に行けば神様に対する義務を全部果たしている、と思い込んでいる人です。この人には、神のみこころが良く悟られていませんので、洞察力がないと言わざるを得ません。

この当たり前のことが分かって実行すれば、きよめの証しが与えられます。祝福されます。私たちは、信仰の洞察力と言うと何か特別なもののように考えますけれども、すでに私たちが経験していることであります。
詩篇119篇130節をお読みしましょう。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」

「みことばの戸が開くと」というのは、聖書を開いた、ということではありません。
みことばが心の戸を開いて、聖霊の光が心に差し込んでくると、それまで洞察力がなかった、霊的な光を弁(わきま)えることのなかった者が、神の悟りを与えられるようになる、神の御心が分かるようになります。つまりこれは第一ヨハネ1章7節と同じです。「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち・・」というのと同じです。
聖書を読んで理解するだけではなくて、心に光が差し込む必要があります。神の御心を悟る弁(わきま)えが与えられる必要があります。こういう事を心に経験する生活を、営んでいるかどうかが問題なのです。

②、もう一つの信仰の洞察力は、人の心の性質を見極める力です。
ヤコブは一見、兄のエサウの祝福までも求める欲張りに見えますけれども、神様はそう見ていないんです。彼の心の性質が、神の恵みを強く乾いて求めていることを主はご覧になって、そしてイサクもそのことに気づいたようであります。

これに比べて兄のエサウは、神の相続財産を受け取る権利を、長子の特権として与えられていた相続権を、豆スープ一杯でヤコブに売ってしまう、それほどの、神の恵みよりも肉の欲の満足に心が傾いている人であります。
この世の中では、何かができる才能があるとか、技能があることで、評価されがちであります。神様はそういう人間的な才能を用いられません。
エサウは弓の名手で、鹿を射止めて、お父さんのイサクの好物であった鹿の料理を作って持ってきていたので、イサクは、兄のエサウを好んでいたようであります。しかし主なる神様は、エサウの才能も技術も用いませんでした。

しかし大抵、教会では、人が才能を用いることによって失敗しています。
霊的な神の恵みを求めるのではなくて、便利で都合の良い、何をやっても上手で落ち度なくやれる人を用いやすい。そうすると信仰者が、高慢になってしまいます。
熱心だとか、音楽ができるとか、司会ができるとか、人の前に立って働くとすぐに思いあがる肉の心が現れ始めます。そして、わざわいを招いてしまいます。主の奉仕をするには、能力があることよりも、その性質がきよめられていることが大切であります。
神様は何を見ておられるか。その人の心の本質であります。きよめられている人が神の働きをすると、信仰による洞察力が発揮されて、よく実るようになります。

上手か下手かではありません。人は上手な人を用いたがりますけれども、神はそうではないということを心にとめておいていただきたい。
よく不思議がられる人がいますけれども、あんなに上手に音楽ができるのに、楽器も上手なのに、なぜ教会で用いられないのか、と思うかもしれませんけれども、そういう意味であります。

この信仰の洞察力は、神のみことばを取り次ぐ預言者と同じ力を与えられているわけです。この力なしでは、私自身も神の前をまっすぐ歩めなくなるし、家族や友人や、隣り人を救いに導くこともできなくなります。健全な信仰生活に導くこともできません。主に仕える思いを持って、人に仕えることもできなくなります。ですから信仰の洞察力というのは、薄っぺらなものではないということです。

Ⅱ.

A.さてそれでは、この信仰の洞察力を、どのようにして受けられるでしょうか。

1.何度もお話ししている通りですけれども、信仰の洞察力は、知識を理解したり、聖書のことばを覚えて受けられるものではありません。

上手なことばで祈っても、美しい声で賛美を歌っても、信仰は与えられません。これは聖霊によって与えられるまでは決して受けられません。

3つほど聖書を読んでみたいと思います。

まず、旧約聖書ゼカリヤ書4章16節です。
「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」

「わたしの霊によって」 わたしの御霊によって、ということですね。
旧約の時代ですけれども、一番大事なことは何なのだ。人の権力や力ではなくて、能力ではなくて、わたしの御霊によって、神の御業がなされる。

ハガイ書の2章5節も読んでみましょう。
「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。」

ずいぶん古い話から言っていますね。エジプトから連れてきた時から。モーセの時代であります。そのころから「わたしの霊があなたがたの間で働いている。」
イスラエル人はそのことに気づいていたでしょうか。
私たちが救われた時から、「わたしの霊があなたがたに働いている。」私たちはそのことに気づいていたでしょうか。だから恐れる必要はない、と言っています。

3つ目は新約聖書のエペソ人への手紙6章17節です。
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」

聖書のことばを知識として覚えるだけではなく、御霊の与える剣として、心の中で働く剣として、御霊のことばとして受け取りなさい、と言っています。
聖書を学んで知識を覚えて、義務的に守ることではなくて、信仰が働いて信仰の洞察力を働かせることです。霊的な経験をすることができるようになることですね。
形の上だけの理解、納得では、ややもすると神を離れてこの世的な生き方をしてしまいます。ですから信仰は、多くの聖書の知識を持つことが信仰の洞察力を持つことではない、ことが分かります。
聖書の知識を持つことは悪い事ではありませんけれども、高慢にしてしまったり、信仰から遠ざけてしまう危険もある、ということを知っておいていただきたい。

2.信仰の洞察力は、

・みことばから、聖霊によって神の霊を受けること。
・神の御心を悟ること。
それが、生活の生き方、歩み方、態度、行動、考え、選び方の中に現れてくることです。この点をよく見ていると、自分の内に信仰の洞察力があるかないかが分かります。

B.

1.それではどうしたら、信仰の洞察力は受けられるのか。

創世記の25章22~23節を読んでみたいと思います。これはリベカが双子のヤコブとエサウを懐妊した時の話であります。

創 25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして主のみこころを求めに行った。
25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

兄というのはエサウ、弟というのはヤコブです。
主は、ヤコブとエサウが母の胎内にいる時に、二人の各々の性質と将来の実状を告げています。しかし、それを聞いた両親のイサクもリベカも、あまり深く心にとめずに、ヤコブとエサウが青年になるころには、すっかり忘れていました。
親が早く子どもの性質をよく知って、相応しい健全な信仰で育てるならば、主を畏れ、主を愛し、従順に従うことを指導しているならば、大いなる祝福を受けることができます。
大事なことは、昔も今も同じですけれど、神様を畏れる子供に育てることであります。そのためには、霊的な洞察力が必要であります。

子どもの罪に対して、ものさしで叩く親も見てきました。スパルタ教育とかいろいろなことが言われてきましたけれども、反対に、何をしても何も言わない親も見てきました。これでは、子どもは神様を見出すことができません。どうしていいか分かりません。
愛の父なる神様は、ご自分の子である私が罪を犯すと、ご自分のひとり子であるイエス・キリストを、十字架に架けてくださいました。
よく知られている話ですけれども、新島襄は、学生たちが問題を起こした時に、自分の指導が至らなかったことを詫びて、自分の腕を叩いて自分を罰した、と言われています。
真の教育や指導の神髄は、キリストの十字架の愛にあるようです。これを悟ることも、霊的な洞察力ですね。

ルカの2章18~20節では3種類の人の姿が記されています。

ルカ2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ここを読んでいただいたのは、ここの記事を覚えていただきたいからではなくて、3種類の人が出てくるということですね。

➀、まず18節では、「それを聞いた人たち」、ベツレヘムの人達はどういう反応をしたかということです。「みな羊飼いが話したことと同じだったので驚いた」と書いてあります。キリストのご降誕のメッセージを聞いて、心に留めて、その心にとめた深さが、それぞれ異なっている。ベツレヘムの人たちは驚いただけで礼拝に行きませんでした。「すばらしい事ですね」と言ったかもしれませんが、驚いただけであります。本当に礼拝する心があれば、羊飼いの証しを聞いて、すぐに礼拝に行くはずです。でも、行かなかった。

②、19節で、「マリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」
なかなか難しい事ではありますけれども、自分自身がメシヤの母となって、その出来事に加わっておりますけれども、その真の意味を計りかねているわけですね。心に納めて思い巡らしていた。同じメッセージを聞いても、驚き、感動するだけで終わる人もいます。深く心に留めて、生活に活用する人もいます。

③、20節では、羊飼いたちは礼拝に行っています。自分で見聞きして経験しています。そして、神をあがめ、賛美しながら帰って行った、日常生活に戻って行った、と書いてあります。

神を経験して賛美する人ですね。私たちはどの人に当たるでしょうか。聖書の話を聞いて、感動する人はたくさんいます。しかし、この羊飼いのように、礼拝をささげて賛美しながら神を崇めた人は、そう多くはないでしょう。

ここにも信仰の洞察力が働いているわけです。信仰の洞察力を受けるためには、まず、聖書のメッセージを自分に当てはめて、信じて、主イエスのご人格、聖霊を受け入れることであります。
日頃、読み過ごしたり見過ごしたりすることの中に、非常に価値高い真珠が、宝が、含まれているわけです。それを見つけて、拾い出して体験することであります。
聖書は何回読んでも、新しい真理を発見することができます。それを見つけるには、メッセージを聞く人、聖書を読む人、一人一人の信仰の注意と関心が必要であります。

聖書のメッセージを信じて受け入れて、自分に当てはめて、生活で活用している人は、知識の多少にかかわらず、信仰の年数に関わらず、必ず信仰の洞察力を受けます。つまり、「良い真珠」を見つけるわけです。みことばから霊的な良い経験を、さらに深い神経験をするようになります。

この点で、父のイサクも、ヤコブとエサウに対する神の預言のことばを、聞いてはいましたけれども、忘れてしまっていました。創世記の25章23節にこう書かれています。
創25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

この神のことばを、イサクとリベカは深く心にとめておくべきでした。もし、そうしていれば、イサクは創世記27章1節~7節で、ヤコブを差し置いて、先に兄のエサウを祝福しようとすることはなかったでしょう。
神のことばを聞いていても、実際生活でこの世の習わしに従って兄の方が先だと言って、兄のエサウを先に祝福しようとしてしまいました。
これを知った母リベカは、自分のお気に入りの息子のヤコブに、長子の祝福をイサクから受けさせるために、目の見えないところでイサクを騙すような、手の込んだ細工をしたわけです。
リベカが、本当の神の預言を信じているならば、イサクを騙す細工をせずに、イサクに神の預言を教えたはずです。
人の知恵に頼ることは、神のみことばをおろそかにする人がよく陥る危険です。

この、イサクとリベカの信仰の洞察力のなさは、何を引き起こしたでしょうか。

➀、第一に、エサウに、弟ヤコブを殺すほどの憎しみを抱かせてしまいました。
兄弟の間に憎しみをもたらしてしまったわけです。非常に恐ろしい事ですね。相続争いで憎しみをもたらしてしまう。今日でもたくさん起こっていることであります。勿論これはただの財産争いではありません。神の主権の問題ではありますけど。

②、第二に、ヤコブは長い間、異教の地パダン・アラムのリベカのお兄さんのラバンのもとで生活しなければならない、そういう破目になってしまいました。

③、第三に、それに引き続いて、数々の不幸な出来事をもたらしています。

これらはみな、親の信仰の洞察力のなさが引き起こした結果であります。この例からも、私たちにも信仰の洞察力が必要であることを思い知らされます。信仰の洞察力を受けるためには、聖霊によらなければなりません。

マルコの9章29節を読んでみましょう。
マル9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

これを見ると、「それでは私たちは祈ればいいんだ」と思ってしまうかもしれません。
主が言われたのは、聖霊を祈り求めることであります。「祈りによらなければ」というのは、聖霊によらなければならない、と言われたのと同じです。そのごとく、弟子たちはペンテコステで聖霊を受けた後に、この信仰の力を受けました。

つまり、実際の日常生活の中で、従順に聖霊に従わないで、聖霊を憂えさせて、聖霊を悲しませて、聖霊の光を無視して生活していて、その状態でいくら自分で祈ってみても、牧師に祈ってもらっても、聖霊の力や信仰の力は受けられません。聖霊に満たされることを祈っても、満たされません。漠然と聖霊の洞察力を受けることでもありません。毎日、実際的に、具体的に、聖霊にお頼りする生活をすることが大事です。

箴言3章6節で、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。
「どこにおいても」と言うんですから、漠然とすべてのことにおいてだなあ、と思ってしまうかもしれません。それは信仰の訓練にはなりません。

パウロはこう言いました。「飲むにも食べるにも。神の栄光を現わすように」と。
日常の具体的なことの中に、小さな出来ごとの中に、主を見出すのではなければ、洞察力は与えられません。
漠然と祈り求めているのではない、漠然と神様を探しているのではない、もっと言えば、景色を漫然と眺めて「きれいだなあ」と思っているのではなくて、紅葉の葉一枚一枚に、水滴の一つ一つに、木の実の一つ一つに、心をとめて、神の御業を見る。そういうようなことですね。
私たちの生活の一つ一つのことの中に、神様の恵みを発見する。祈りつつ、聖霊に頼りつつ、毎日の生活のこまごまとしたことの中に主を見つけることが、大切な訓練であります。
夕焼けを見て、「ああ、きれいだなあ」と感嘆するのも一つかもしれませんけど、それだけではなくて、実際的な信仰の洞察力を受ける方法は、このことをしないで祈っていても、聖霊の洞察力は受けられません。

もし私が、何事においても聖霊に逆らわずに、聖霊を憂えさせず、悲しませず、みことばと聖霊の光に従って歩んで行くならば、ごく容易に聖霊に満たされ、聖霊の悟りが与えられます。これほど簡単なことはありません。
大事なことは、漠然に大まかに祈っている状態ではなくて、一つ一つの細かなことの中に神様を見出すようになるように、働くことであります。

聖霊に満たされることに困難を覚え、確信を持てない人に、常日頃、自分の知恵に頼り、聖霊に逆らうことがないか、聖霊を憂えしめて悲しませていないか、生活の中で主を求め見出していないか、こういうことに気を付けていただきたいと思います。

4つほど聖書を読んでみましょう。

まず、エペソ人への手紙4章30節、聖霊を悲しませないようにしましょう。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」

第一テサロニケ5章19節、「御霊を消してはなりません。」

短いことばですけれども、エペソ4:30とⅠテサロニケ5:19はつながっているようなものですから、一緒に覚えておきたいものです。
御霊を消してはいけない、というのですから、御霊の火が灯っているわけです。御霊が灯った経験があるわけですから、点いていない電灯を消すことはできません、点いていたから消すわけです。御霊が教えて下さっている、それを無視することであります。それをしてはいけません。

ガラテヤ5章16~17節
ガラ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

ちょっと飛びますけれども、ガラテヤの5章25節を読んでみましょう。
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

御霊によって生きているのに、御霊によって歩んでいない人がいる。これがガラテヤのクリスチャンでした。御霊で始まったことを、肉の力で、自分の知恵と力で全うしようとしている。これは危険でありますね。

2.信仰の洞察力を受けるために何が必要か、お話ししましょう。

それは、神とともに歩み続けることです。これは今まで、何度もお話してきたことですけれども、エノクもノアも神とともに歩んでいました。
神とともに歩んだ者はみな神の栄光を受けております。イサクはこの点で危険でありました。二人の息子、ヤコブとエサウに対する神の預言のことばを忘れ、深く心にとめていなかった。
イサクは弟のヤコブを祝福したのち、ヤコブに騙されたことに気づいたわけですけれども、その祝福を取り消そうとはしませんでした。イサクは神様の預言を思い起こしたのでしょう。神に誓って祝福した祈りは、取り消すことができないことを知っていたようであります。

創世記の27章33節を読んでみましょう。
創27:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」

ちょっと飛びますけれども37節を読んでみます。
創27:37 イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」

続けて39~40節も読んでみましょう。
創 27:39 父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。
27:40 おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。

その時、なぜイサクはすぐに自分を騙したヤコブを呪って、エサウを祝福しなかったのか。それは、ヤコブのやり方はさておいて、ヤコブを祝福したことは神の御心であったことを、イサクは悟ったからです。この時ヤコブは、創世記25章23節の神の預言のみことばを思い出し、気づいたのです。このヤコブの祝福は、神様から出ていたことを悟りました。それでイサクは、自分は確信を持って祝福した祈りが、神様の御心であることを悟っております。ですから祝福を翻さなかったわけです。

私たちは祝福の祈りをしてもらったり、他の人を祝福する祈りをする時に、どのくらい確実性を、信じているでしょうか。イサクと同じように確信して祈っているでしょうか。
イサクはこの神の介入をどのようにして知ったのでしょうか。
それはイサクが、モリヤの山で全焼のいけにえとして捧げられる時、神様が介入されて、身代わりの羊を備えられた時の経験にあります。
神の介入は、事態を一変させられることをよく知っております。私たちのこれまでの生涯でも、しばしば主が介入してくださいました。そのたびに事態は一変しました。

神とともに歩むことによって身に付けた信仰の洞察力は、イサクの間違いをカバーして、イサクをもっと成熟した人にしていったわけです。たとえ危険なあやまちを犯しそうな時でも、主は助けてくださっております。

一瞬だけの、まじないのようなひらめきほど危険なものはありません。私たちは必ず、キリストとくびきをともに負って主とともに歩む生活をさせていただきたい。そうすれば、信仰の洞察力を持つようになります。
ノアも神と共に歩みました。大洪水の警告と、箱舟の救いの真理を伝えました。
教会にいる時に信仰が元気になって、普段の時には神と共に歩んでいなければ本物の信仰を受けることはできません。状況によって変わってはならない。神と共に歩む生活は危機の時にも変わりません。教会に行っているだけでは、信仰は空回りしてしまいます。

イサクが使った信仰の洞察力は、、

➀、第一には、神のみことばを信じる信仰です。
注意深くみことばを聞き、信仰の手でそれを行い、自分の行くところどこにおいても主を見つける、これはお話した通りですが、それがまず第一ですね。みことばを心で聞き、信仰を行い、生活のどこにおいても主を見つけることです。

②、第二に、毎日キリストのくびきを負った生活をすることです。
イエス様が与えてくださる自分の十字架を負って、従っていくことによって、信仰の洞察力が与えられます。こうして身につけた信仰の力は、私たちのすべての大きな危険から守ってくれます。もし、神様の助けがなかったら、イサクはさらに大きな危険を冒すことになったでしょう。

③、第三に、聖霊に心を明け渡し、聖霊の光に忠実に従うことです。
聖霊に満たされた洞察力を受けることができます。神様の介入を受けて、事態を一変させることができます。

最後に、信仰の洞察力は知識の理解や納得ではない、ということをお話しておきます。
聖書を学ぶことは大事ですけれども、それでは十分ではない、ということを知っておいていただきたいと思います。信仰の洞察力を持たなければ、自分も家族も周囲の人々にも主の道を誤らせることになってしまいます。

最後に、箴言3章5節、6節を読んで終わりたいと思います。
箴 3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

何度も言っていますが、漠然と認めるのではなくて、毎日の小さな出来事の中に、一つ一つの出来事の中に、主を見つけること、それが信仰の訓練の非常に大切なことですね。
漠然と夕焼けを見ている人には、訓練はありません。
しかし、一つ一つの草の葉や木の実や、生活の一つ一つの出来事の中に神様の御手を見る人は、信仰の洞察力を受けることができるでしょう。

もうじき年末になりますけれども、イエス様のご降誕の日が近づいてまいりますけれども、もう一度イエス様に注目して、信仰の洞察力を与えていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天のお父様、今週もあなたの道を歩ませて下さり、いたるところにあなたご自身を現わしてくださいますから、感謝をいたします。
こうして私たちが、霊の目を覚まされ、イエス様を見出すことができる信仰を磨くことができますことを感謝いたします。
今週も主と出会うことができますように。
内なる主とともに、生活の中で現わされる神様の豊かな実りを、私たちのものとさせてください。
みことばを祝され、それが証しの力となり、ご家族の方や周りの方々にも光となって影響を及ぼしますので、導いてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
(2017.12.18)


音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>

箴言3章5~6節
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421