聖書の探求(066) 出エジプト記33章 主の臨在の同行を求めるモーセの執り成しの祈り
33章は、主の臨在の同行を求めるモーセの執り成しの祈りです。
Ⅰ.1~11節、主の臨在の同行の拒否
出 33:1 【主】はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。
33:2 わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、
33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」
32章の民の不信仰、不誠実な罪にもかかわらず、神はアブラハム、イサク、ヤコブに約束された地に上って行くようにと命じておられます。そのために、ひとりの御使いを遣わしてカナンに住む敵を追い払うと約束されました。それは、なぜか? それは、神の約束やご計画は、人の罪によっては変えられないからです。しかし神は、その方法を変更されました。神が直接同行されることを止められ、御使いが代わりに同行するようにされました。その理由は、民が神に不従順で、心の頑なな性質を持っていたからです。心の頑なは、神が最も嫌われる性質の一つです。罪が指摘されたら、すぐに悔い改める、やわらかい、へりくだった心でなければ、神の臨在の同行は得られません(詩篇51:17、ヤコブ4:6~10)。
詩 51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
ヤコブ 4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
4:9 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
4:10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。
神が同行しないと言われたのは、あわれみからでした。心の頑な者と一緒に神が同行すれば、民は滅ぼされてしまいます。神の臨在は、従順な信仰者には祝福となっても、心の頑な者には裁きとなって現われるのです。
4節で、民はこの命令を聞いた時、悲しみ痛みました。
出 33:4 民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。
人の愚かさがここにあります。愚かとは、実際に自分にわざわいが及んできて初めて、自分の罪を悲しみ痛むことです。これは今日もしばしば見られる愚かさです。賢さとは、罪を犯す前に、その罪の及ぼす結果を悟って、罪を離れ、神の道を歩むことです。しかし、彼らが悲しみ痛んだのは、彼らがまだ、信仰を捨ててしまっていなかったことを示しています。信仰を捨ててしまった人は、神の臨在の同行が拒否されても、その意味が全くわからない状態になっていますから、悲しんだり、痛んだりすることすらしません。
4、5、6節に出てくる「飾り物」は、エジプトを出る時にエジプト人から受け取ったもので、エジプト人が偶像にしていたものでした。神の民にとっては、それはふさわしくなかった。それ故、神はそれらの飾り物を身から取りはずすように命じました(5節)。
出 33:5 【主】はモーセに、仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。」
33:6 それで、イスラエル人はホレブの山以来、その飾り物を取りはずしていた。
7節、モーセは32章の偶像礼拝の事件以後、神との会見の天幕を宿営の外に張っていました。
出 33:7 モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも【主】に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。
33:8 モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕に入るまで、彼を見守った。
33:9 モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。
33:10 民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。
偶像礼拝で汚された所で、神とお会いすることは不可能だったからです。モーセが会見の天幕に入って行くと、神の臨在を表わす雲の柱が降りて来ました(9節)。民はこれを見て、遠くから自分の天幕の入口で伏し拝んだのです。これは礼拝というより、むしろ恐怖の故でしょう。
11節、主がモーセと「顔と顔とを合わせて」語られたというのは、モーセが神の御顔を見たというのではなく、他の人には許されなかったほど親しく神と交わったことを示しています。
出 33:11 【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。
神はモーセを「わたしのしもべ」(ヨシュア記1:1)と親しみをこめて呼んでおられますが、これほどに親密な交わりが神と人との間に可能なのですから、今日の私たちも、もっともっと神との親密な交わりを求めたいものです。また親密な交わりに与かることができるほどに信仰が成長したいものです(ヨハネ第一1:3、7)。
ヨシ 1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。
Ⅰヨハ 1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
また、11節には、モーセの後継者となるヨシュアの忠実な姿が見られます。「幕屋を離れないでいた。」は、やがて指導者となるべき者の姿です。一般民衆は、遠く離れて自分の天幕の入口で伏し拝んでいるのに比べて、ヨシュアは神とモーセとの間の奥義を知ろうとして、また神との親密な交わりを慕って、幕屋から離れなかったのです。やがて霊的リーダーとなる者は神を求める感度が一般民衆とは異なっているものがあります。また、自分の指導者からその奥義を受け継ごうと執拗に従っていく姿が見られます。それはヨシュアにも、エリシャにも見られます。現代に、そういう霊的リーダーになる者が次々と起こされることを切に願うものです。
Ⅱ.12~23節、主の臨在の同行の承認
出 33:12 さて、モーセは【主】に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せになりました。
この箇所には、モーセが神のみ心にかなっているか、どうかを求める祈りが五回も記されています。これは、すべてが、神のみ心にかなっているか、どうかで決まってしまうことを示しています。それ故、モーセは徹底的に神のみ心を尋ねたのです。
モーセは、神が2節で、これから先の旅路には御使いを遣わすと言われたことに対して、もっと完全な保証を求めています。
出33:2 わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、・・・
もともと、イスラエルの民を神の約束の地に連れて行くことは、神がモーセに命じられたことであり、そして、この仕事のためにモーセを選ばれたのは神です。それ故、ただ「ひとりの使いを遣わす」と言われただけでは、モーセには十分でなかったのです。
13節で、モーセは二つのことを求めています。
出 33:13 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」
すなわち、性格のはっきりしない御使いよりも、もっと完全な導きの保証と、イスラエルの民を神の民として神が責任をとられることです。そうするなら、モーセはもっと神を知って、神のみ心にかなう者となり、民は神の栄光を現わすものとなるでしょう。
このモーセの訴えに対して、神は、14節である程度まで臨在の同行を承認されました。14節の「いっしょに」という言葉はへブル語本文にはありません。
出 33:14 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」
15節、モーセは神のみ心が開いたのをみて、すかさず、神が民の真中に立って進まれることを求めました。
出 33:15 それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。
モーセには、神が真中に立たれないで、民と共に旅を続けることは考えられなかったのです。私たちの生涯の旅路においても、神の臨在のない生活に、真の幸福はあり得ないのです。
16節、神の臨在こそ、神の民がこの世の人々に神をあかしする最も重要な要素です。
出 33:16 私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」
今こそ、クリスチャンと教会は、神のみ心に従い、神の臨在を求め、みことばにおいても、祈りにおいても、賛美においても、交わりにおいても、生活においても、神の臨在をもって主をあかしするものとならなければなりません。
このモーセの執り成しの祈りには、ヨハネの福音書17章の主イエスの祈りを思い起こさせるものがあります。モーセの謙虚さ、敬虔さ、大胆さ、そして神の栄光を現わそうとする熱心さには、キリストの香りがしています。
17節、主はモーセの祈りに豊かに答えられました。すると、モーセは人間として最も大胆な願いを申し出ました(18節)。
出 33:17 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」
33:18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
すなわち、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」です。主イエスもヨハネの福音書17章5節で、栄光を求めておられます。
ヨハ17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
神の栄光は通常、神の善が人の心に明らかにされることによって示されるのです。しかしモーセには、それが可見的な形で、直接に見えるようにされたのです。
19節後半では、契約の神・主(ヤーウェ)によって、恵みとしての救いが示されています。
出 33:19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、【主】の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
救いは決して人の善行にはよらないのです。(ローマ9:15,16)
ロマ 9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
20~23節、モーセは神の本質を見たのではありません。
出 33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
33:21 また【主】は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」
人の目には、おおいのないままで神の本質を見ることはできません。21~22節に、非常に重要な霊的教訓が記されています。すなわち、私たちは岩の上に立ち、岩の裂け目にあってのみ、すべてを焼き尽くす神の栄光から守られて、神を見ることができます。この岩とはキリストであり、岩の裂け目とはキリストの十字架です。
あ と が き
キリスト教の本質は、洗礼を受けていることでもなければ、教会に所属しているということでもない。勿論、それらはクリスチャンとしての生活では大切なことではありますが、それだけでは、キリスト教の本質を持っているということにはなりません。キリスト教の本質は神のみことばが人の心の中に根ざし、生きていることです。今日、この本質があまり重要視されなくなっているのではないでしょうか。しかし私たちが豊かな実りを収穫するためには、このことは不可欠です。もし、この本質のないキリスト教がこの世の中で盛んになっていくなら、しいな穂(殻ばかりで中身のないもみ)の如く、一見豊かそうであっても、刈り取ってみると、殻ばかりで実がないことになります。お互いの信仰生活をよく振り返ってみて、みことばに飽きていないでしょうか。深くみことばを探求することに意欲を失っていないかを反省してみなければなりません。地面を見ると、雑草は放っておいても生い茂ります。しかし、良い種はたえず手入れが必要なのです。
(まなべあきら 1989.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
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