聖書の探求(065) 出エジプト記32章 イスラエルの最大の罪、金の子牛礼拝

32章は、出エジプト以来、イスラエルの最大の罪、金の子牛礼拝を記しています。

Ⅰ.1~6節、待ち切れずに偶像に走る民

ここには、手の掌をかえすように神を捨てて、偶像に走る人間の姿を見ます。

この時のイスラエル人はエジプトでの十の災禍を見、紅海を渡るという大奇跡を経験してきていました。しかし彼らは、モーセの帰りが少し遅くなっただけで、偶像を求めたのです。ここには、二つの問題があります。

第一は、彼らは神のみわざを見ていましたが、神を人格的に知らなかったことです。

この点がモーセと民の違いです。これは今日もあり得る違いです。悩みや困難を解決された経験を持っていても、みことばや祈りによって、直接神と交わり、神を人格的に知るという経験がない者は、不安や恐れが生じると、神のもとを去って、他に助けを求めやすいのです。つまり、神を知っていると思っていても、それは表面的だけであって、実際には神を知らないからです。
みことばも、知識だけでなく、みことばによって神との語らいをすることが必要です。クリスチャンにこのことが不足しているのではないでしょうか。

第二は、目の前の不安や恐れに心が乱れてしまうことです。

目に見える指導者がいる間は、彼に従っていても、その指導者がしばらく見えなくなると混乱するのは、信仰が明確でない証拠です。
いつの時代にも、群衆とはこのようなもので、何かあると、心定まらず、神のもとを迷い出すのです。それ故、まず群衆を集めることよりも、しっかりしたキリストの弟子をつくることが先決問題です。

1節で、民はアロンのところに集まってきて、「私たちに先立って行く神を、造ってください。」と偶像をつくることを要求しています。しかも、「モーセは当てにならないから」というような言い方をして、モーセに対するこれまでの不満をもらしています。

出32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

これに対して、アロンは気が弱く、信仰もはっきりしていなかったために、断る勇気がなかったのです。このことは、後にアロンがモーセに言訳をしていることから分かります(22~24節)。しかし、アロンも指導者の一人でしたから、彼はモーセのいない間、きちんと民を指導する責任がありました。これができない、信仰のはっきりしない者が指導者の地位につく時、大問題をひき起こすことになります。

アロンは金の子牛の偶像をつくることに知恵を与え、手を貸してしまったのです(2節)。

出32:2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。

しばしば、信仰のはっきりしない指導者が神からの離反の先頭に立ちやすいので注意しなければなりません。すべての異端はこうして生まれたのです。

4節で、アロンは、この世で最も恐ろしい発言をしました。すなわち、神でないものを神だと言ったのです。これは神に対する冒涜であり、人に対する欺きです。

出32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。

5節では、アロンは祭壇を築き、呼ばわったとあります。

出32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは【主】への祭りである。」

彼は、彼の前に立ちはだかっていたモーセがいなくなり、民の目が自分に集中してきて、サブ・リーダーからチーフ・リーダーになった気分で、調子にのって興奮気味であったように見えます。
彼はここで、民が求める偶像礼拝をすゝめたのです。神を離れた者がいくら権力を持ち、人気を獲得しても、彼にできることは、人々に罪を犯させることくらいです。

ここに偶像礼拝の特長が見られます。すなわち、「これ(金の子牛)があなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」(4節)と言っているのだから、いいのだという考え方です。

現代も、人々は、宗教はみんな同じようなことを教えているから、何を拝んでも同じだという考え方をしています。しかし、礼拝する対象が異なることは、決して同じではありません。論理に多少似ている点があっても、礼拝の対象が異なることは、本質的に異なっています。私たちの信仰にとって、根本的に重要なことは礼拝の対象がだれであるかということです。様々な像をつくって、「これが私たちを救ってくださるイエス・キリストだ。」と言っても、それはイエス・キリストではありません。キリストの名を借りた偶像なのです。

さらに6節は、偶像宗教の共通した特長を示しています。

32:6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

全焼のいけにえや和解のいけにえをささげるという儀式は、真の宗教に似ていても、その内容は異なっています。その内容はいつも霊的ではなく、肉的満足を求めることです。彼らは飲み食いして、その情欲のままにたわむれ騒いだのです。これは性的に不道徳なたわむれを意味しています。

みことばによって、真の神と人格的に交わり、神の道を歩み続ける者でなければ、これと同じことを繰り返すことになります。人間の知恵による、人間の欲を満たすための人間的宗教は、たといキリスト教を名乗っていても、金の子牛と同じ偶像礼拝になるのです。

Ⅱ.7~10節、うなじのこわい民

7節で、主はイスラエルの民を、「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民」と言われました。ここで「あなた」とはモーセのことです。

出 32:7 【主】はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。

3章7節では、主はイスラエルの民を、「わたしの民」と呼ばれ、ご自分の民をエジプトから救い出すためにモーセを遣わされたのです。

出 3:7 【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。

しかしここでは、主はイスラエルの民を、「わたしの民」と呼ばず、「あなたの民」と言われました。その理由は、イスラエルの民の堕落にあります。

私たちクリスチャンも、一度、主の御救いに与った後、再び偶像礼拝や罪の生活に帰らないようにしなければなりません。罪の生活を焼き払って、うしろに引き返せないようにしておいて、神の道に前進させていただかなければなりません。

ヘブル人への手紙6章4~6節の、
「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば(注、そののち信仰からそれて、忠誠心を捨てて去って行き、堕落した状態にとどまり続けるなら)、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
という聖句は、主によって救われた後、再び罪を犯したら、もう二度と悔い改めて主に立ち返ることができないと言っているわけではありませんが、もし神のみことばを踏みにじり、罪を犯し続けるなら、心は石のようにかたくなになり、聖霊は自由に働いてくださらなくなり、悔い改めて主に立ち返る心を持つことができなくなってしまう危険があります。実際にこのようになってしまった人がいます。モーセの時に神を拒み続けたエジプトのパロや、アビガイルの夫ナバル(サムエル第一25章)はそのような人です。そればかりでなく、今日においても、かつてクリスチャンであって、後に堕落し、心がかたくなになってしまった人もいます。

しかし、ヨハネの手紙第一2章1節をみるなら、このような人も回復が不可能ではありません。
「‥‥‥もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」

私たちが罪を犯したら、できるだけ早く、罪を告白し、主の十字架を仰がなければなりません。放っておくと、自分を正当化する理由を考え出し、心はかたくなになっていきます。この状態にとどまっている限り、人は悔い改めて主に立ち返ることができません。

8節は、彼らが堕落した道筋を記しています。

出 32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」

(1) 神が命じた道からはずれたこと、すなわち、みことばの道からはずれたこと
(2) 自分たちのために偶像を作り、礼拝したこと。偶像礼拝は、いつでも自分の利益を求めて行われます。真の宗教は、自分のためではなく、神のためでなければなりません。
(3) 神の恵みのみわざを、偶像に帰したこと。しばしば人は、自分に与えられた祝福を自分の力に帰しやすい。

この三点は、今日でも、堕落への引き金になっています。

9節では、主は、民がしたことではなく、主に対してかたくなに逆う性質を指摘しておられます。

出 32:9 【主】はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。

かつて、エジプトの王パロはそのかたくなな性質の故に滅びました。今ここに、一度救われたイスラエルの民も、その心のかたくなな性質の故に、神の審判を受けようとしています。「うなじがこわい」とは、神に逆う人間のかたくなな性質のことです。

使徒の働き7章51節で、ステパノは大祭司たちの前で同じように叫んでいます。
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」
時代が変わっても、人の心の性質は全く変わっていなかったのです。これが砕かれなければなりません(詩篇51:17)。

詩 51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

心が砕かれない者は、神の恵みの外にいることを覚悟しなければなりません。

10節は、民に対する神の怒りが現わされていますが、それとともに、モーセ自身が試めされているように思われます。

出 32:10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

主はモーセに対して、「わたしはあなたを大いなる国民としよう。」と言われました。これはモーセにとって大きな試みであったに違いありません。彼は、アブラハムに代わって、神の民の父祖となる特権が、今、目の前にぶらさがっているのです。このような神の暗示に対して、モーセがどのように答えるかは、モーセの性質を試みるものでした。旧約聖書においても、新約聖書においても、そして今日に至るまで、自己否定は、その人の信仰の性質を試めすための試金石として、神がしばしば用いてこられた方法です。

私たちは、神から与えられるすべての祝福や名誉を断わらなければならないというのではありません。ほとんどの場合、へりくだりと感謝をもって、お受けしてよいのです。しかしその祝福や名誉があなたの心を高ぶらせるなら、それを断わることがあなたにとって最善です。人は、高い地位や指導者の立場につくことによって、あるいは有名になることによって、高ぶり、堕落する危険があります。イスラエルの初代の王サウルは最初、へりくだった好青年でした。しかし王となった後、彼は神に忠実ではなくなり、己の判断で神に不忠実な行動をするようになり、最後には外見的な見栄で、国民の前に自分が敬虔な人物であるかのように見せかけようとしています。彼は、神に捨てられてしまいました。このようなことは、今日の私たちにもしばしば起きる霊的危険です。十分に注意して避けなければなりません。

Ⅲ.11~14節、神のみこころを動かしたモーセのとりなし

モーセは、神の怒りに対して、三つの論理をもって訴えました。

(第-の論理)

先に、7節で神はイスラエルの民を「あなた(モーセ)の民」と言われましたが、ここでモーセは再び、民を「ご自分(神)の民」と呼んで、イスラエルの民が神の民であることを告白し、強調しています。

出 32:11 しかしモーセは、彼の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

なぜ、イスラエルの民は神の民なのでしょうか。それは、神の偉大な力と力強い御手によって、すなわち、あの恐るべき十の災害と紅海を分けるという偉大な御力と御手によって、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出されたからです。今、シナイの山のふもとに彼らがいる、という事実は、それを表わしています。神がそのようにまでして救い出された民を、簡単に捨ててしまわれてはならない。それは主の御名にキズがつくことになります。
まして、今日、イエス・キリストが十字架にかかられて罪から救い出された民を、主が簡単に捨てられるということはありません。しかし、そのことの故に安心し、油断して、イスラエルの民とアロンが罪を犯したように罪を犯すようであってはなりません。神のみこころは、「すべての人が悔い改めに進むこと」(ペテロ第二3:9)です。

Ⅱペテ 3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

モーセが神の前に持ち出した第一の論理は、イスラエルの民はモーセが率いてきたけれども、この民はモーセの民ではなく、神の民であるということです。

(第二の論理)

イスラエルの民を滅ぼせば、敵に、神をののしるチャンスを与えることになります。
敵はこう言うでしょう。「イスラエルの神は民を滅ぼすために、悪意をもって民をエジプトから連れ出したのだ。」と。

32:12 また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

クリスチャンは、未信者の人々が主の御名をののしったり、嘲笑ったりする原因をつくらないように気をつけなければなりません。これ以上に、主の御名を汚し、侮辱することはありません。
パウロはコリントの信者たちがこの世の裁判官に訴えたことに対して、コリント第一、6章1~7節で指導しています。その中でパウロはこう言っています。「私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」(5、7節)

今日、教会の信者たちがお互いのことで裁判所に訴えるようなことは稀であるかもしれません。しかし、教会の中で争いやイザコザがあることはよく聞きます。これは問題がどうであれ、主の御名を汚していることであり、未信者の人々には決してよいあかしにはなりません。このようなことがあること自体、クリスチャンが自己中心であることを暴露しています。何のためにキリストの十字架があるのか、わかっていないのです。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)
このみことばの如く、赦し合うクリスチャンでなければ、教会は主をあかしすることはできません。クリスチャンが主イエスを侮辱するようなことは、訴える側、訴えられる側、どちらにあってもしてはならないのです。
モーセの論理は、神はイスラエルの民を滅ばすために連れ出した、悪意に満ちた神だと、未信者に言わせてはならないということです。彼は自分の名誉よりも、神の御名が汚されないようにと願ったのです。このとりなしは、モーセ自身やイスラエルの民の利益のためではなく、神の御名のためです。それ故に、神のみこころは動いたのです。私たちも、自分のためではなく、相手のためでもなく、牧師のためでも、教会のためでもなく、神のために道を選んでごらんなさい。神はみこころを働かせてくださいます。

(第三の論理)

13節で、モーセは、父祖たち、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブたちとの約束は必ず守られなければならないことを持ち出しました。

出 32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる』と仰せられたのです。」

もし、これが守られないと、神は約束を破って、偽りを言う神になってしまいます。すべての神のみことばが全く信頼できないものになってしまいます。モーセはここに、信仰上の根本的な問題を持ち出したのです。
私たちは、ただ祈るだけでなく、このように神に栄光を帰しつつ、神の御名のために用意周到なお祈りをすべきです。

14節の「主は‥‥思い直された。」というのは、主のお考えが間違っていたとか、感情的になり過ぎていたとかいうのではありません。

出 32:14 すると、【主】はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

神は人間のように後悔されたりはしません。私たちは祈りによって、神の永遠の目的や根本的な原則を変えることはできません。ただ神は、私たちの祈りの動機や神に対する態度が変わる時、出来事の経過や導きを変えられるのです。

Ⅳ.15~29節、民に対する神の刑罰

15節に、二枚のあかしの坂の両面に字が書いてあったことを記しているのは、本書の記者がその板を自分の手に持って見た人であることを示しています。それ故、出エジプト記はモーセによって記された書であることは間違いありません。

出 32:15 モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。

16節は、この二枚の板に書かれたものは、神の権威によるものであることを示しています。

出 32:16 板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

しかし、この神の権威のみことばの板は、民の罪の故に打ち砕かれてしまいました。

人間にとって、最大の刑罰は、神のことばが取り去られてしまうことです。神のことばが取り去られたなら、人間は救いの道、天への道、すなわち、真理を見い出すことができなくなってしまいます。

「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。」(アモス書8:11,12)

アモ 8:11 見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。
8:12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、【主】のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。

私たちは聖書が与えられており、教会では神のことばが語られていても、これを読むことも、聞くこともしなければ、自らききんを招くことになります。神のことばが語られている間に、十分に聞きたいものです。やがて、どこに行っても、みことばを聞くことのできない時がきます。

また、宗教はただ神のことばを伝えるだけではなく、教育、訓練、指導も必要です。
モーセとヨシュアは、民の叫ぶ大声を聞きましたが、二人の判断は全く異なっていました。ヨシュアは民がさわぎ、ふざけている声をいくさの声と聞き違えています。

出 32:17 ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」
32:18 するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」
32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。
32:20 それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。

ヨシュアは注意深く聞くことにおいて、また判断力において、なお未熟だったのです。このことは、同じ説教を聞いても、聞く人の霊性や能力に応じて、受け留め方や理解の深さが全く異なってくることにおいて、現われてきます。ある人は恵みを受けているのに、ある人は怒り出すということも起き得るのです。

アロンも、モーセの留守中、民を指導する能力に欠けていました。

32:21 モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」

確かに、民の方から偶像を作ることを持ちかけてきました。しかしアロンはそれを拒まず、反対せず、禁止せず、かえって同意し、先頭に立って金の子牛を作ったのです。その罪は民と同様に重いのです。しかもアロンは、モーセから自分の罪が責められた時、責任を民に転嫁しようとしました(22,23節)。

出32:22 アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。
32:23 彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』

これはアダムとエバの堕落の場合と同じです。アダムはエバの罪に同意し、共に罪を犯しました。しかし神から罪が責められた時、彼はエバに罪の責任を転嫁しようとしたのです(創世記3:12)。

24節の「この子牛が出て来たのです」という言い方は、アロンが罪をそれほど深刻に考えておらず、あやふやにぼかしてしまおうとしています。

出32:24 それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」

民も、アロンによって正しく指導されなかったので、乱行をおこない、敵のもの笑いになってしまいました。

出32:25 モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。

神の民がもの笑いになることは、神の御名を汚すことなのです。クリスチャンは主のために馬鹿にされたり、嘲笑われることは甘んじて受けても、自分の罪の故に主が嘲笑われるようなことをしてはいけません。

26~29節で、モーセが取った処置は、今日で言うなら、罪の悔い改めです。

出32:26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、【主】につく者は、私のところに」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。
32:27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
32:28 レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。
32:29 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」

26節でモーセのもとに集まったレビ族は、モーセと同族です。この時、レビ族が取った態度が信仰的にすぐれていたために、後に、レビ族の子孫は神に仕える族として、特別に用いられる特権を得ました。神に熱心な者は、必ず、後に神に用いられる者となります。
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖(あがな)い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

Ⅴ.30~35節、モーセの愛のとりなし

19,20節において、モーセは民の罪に対して激しい怒りを現わしました。しかし30節では、深い愛を現わしています。

出 32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は【主】のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」

(1) モーセの愛は、明確に罪を指摘することによって現わされています。罪をうやむやにした愛はありません。キリストの十字架は罪を明確に指摘するとともに、神の愛を示しています。罪の指摘は相手に嫌な気持ちを与えるかもしれませんが、罪を不明確にしておいては救いはありません。

(2) モーセは、主のもとに上って行く目的と課題をはっきりさせることによって、愛を示しています。その目的は、「あなたがたの罪を贖(あがな)う」ためです。

(3) モーセは、「たぶんあなたがたの罪のために贖(あがな)うことができるでしょう。」と言って、贖(あがな)いの確信があったようではありませんが、その可能性を信じて、民を救いたいという愛を現わしています。

このような愛の思いは、すべてのクリスチャンがいつも持っていたいものです。結局、人の心に伝わっていくものは愛の心だけですから。救われていない人を見たら、その人が救われる可能性を信じて、主に祈る者でありたい。モーセは一面、厳しい人のようですが、彼は愛に満ちた人です。

31~32節は、モーセの真剣な執り成しです。31節は、民に代わっての罪の告白です。

出 32:31 そこでモーセは【主】のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。

32節では、モーセは自分の名がいのちの書(ヨハネの黙示録20:12,15)から消されるのを引き換えに、民の罪の赦しを求めています。

出 32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

黙 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

黙 20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

パウロもローマ9章3節で、自分がのろわれる者となることと引き換えに同国人の救いを願っています。

ロマ 9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

モーセも、パウロも人間ですから、人の罪の身代わりになることはできません。
このことを成し遂げてくださったのはイエス・キリストです。しかし本当に、人を救いに導こうと願うなら、モーセやパウロのように自分が滅びることを引き換えに、のろわれてもかまわないというような思いでなければ、人を救いに導くことはできません。これが伝道者の心です。

33~34節は、神のお答えです。

出 32:33 すると【主】はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。
32:34 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」

(1) 神はどんなにモーセの願いでも、真理の原則を曲げることはされませんでした。
これは、14節で「わざわいを思い直された。」というのとは異なります。33節は、だれが滅びるかをはっきり示した原則であって、それは神に罪を犯した者です。この者のためには、だれも身代わりになることができません。ただ、イエス・キリストだけが可能なのです。

(2) 34節、民をさばくことは神のなさることであり、モーセにはモーセのなすべきことが示されています。ここでは、神ご自身ではなく、主の御使いが遣わされて導くことが告げられています。民が罪を犯したからです。クリスチャンの信仰がボヤケテきたり、神様がわからなくなったり、心に確信がなかったりするのは、大抵の場合、隠された罪があるからです。罪だけが、神と人との交わりを隔ててしまうのです(イザヤ59:1,2)。

(3) 35節、罪には必ず神の刑罰が伴います。

出 32:35 こうして、【主】は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。

たとい、赦されて滅びなくても、わざわいが伴いますから、罪を犯さないように、みことばと祈りによって神の道を歩む者でありたい(詩篇119:11)。

詩 119:11 あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。

あとがき

クリスチャンの信仰がなかなか成長せず、実生活の中で役に立っていないのは、第一に聖書に対する飢え渇きがないことと、仕事に忙しすぎることではないかと思います。

第一に、何かの理由で一日中、夜まで聖書が読めなかった時、あなたは聖書に対して、ひどい飢え渇きを感じますか。病気で教会に出席できなかった時に感じるような、激しい飢え渇きを感じますか。それとも、なんとも思わないでしょうか。

第二に、仕事の忙しさや疲れに対して、どのような対策を立てていますか。聖書を読むことが仕事の疲れをいやす清涼剤になっていますか。それとも、聖書を読むのが億劫になっていますか。現代は意味もなく忙しい時代です。そしてクリスチャンも歯車の一つにされて動かされてしまいがちです。しかし、それに押し流されていたら、あなたの信仰は急速に衰え、やがて死滅してしまいます。私たちは毎日、この世の歯車から抜け出して、神のみことばによって養われる必要があります。

(まなべあきら 1989.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


上の絵画は、フランスの画家 Nicolas Poussin (ニコラ・プッサン、1594–1665)によって1633-1637年頃に描かれた「The Adoration of the Golden Calf(金の子牛礼拝)」(ロンドンのNational Gallery蔵、Wikimedia Commonsより)


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「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」

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