聖書の探求(067a) 出エジプト記34章 十戒が再び与えられることによる契約の更新

34章は先に民の罪のために砕かれてしまった十戒が再び与えられることによって、契約が更新されたことが記されています。ここに、クリスチャンが不用意に罪を犯した時、どのようにして恵みを回復することができるのかが語られています。それはすなわち、イエス・キリストの十字架の契約を更新することです(ヨハネの手紙第一2:1~2)。

Ⅰヨハ 2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
2:2 この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。

34章の契約の更新は、モーセの真剣でへりくだった執り成しの祈りが聞き入れられた結果です。私たちも主イエスの執り成しに堅く信頼したいものです(ローマ8:27、34)。

ロマ 8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

ロマ 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

Ⅰ.1~10節、契約の更新の命令

出 34:1 【主】はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。

契約の更新には、十戒の再授が必要です。そこで主はモーセに、もう一度二枚の石の板を持ってくるように命じています。今日においても、契約の更新は神のみことばに基づいた信仰によらなければなりません。この準備ができた時、主は10節で、契約の更新を宣言しておられます。こうして、神は度重なる罪や失敗に対しても、再度、恵みを与えるチャンスを民に与えられました。それは、神が罪人の賛美をお聞きになりたいからなのです。このことを私たちは決して忘れずに、いつも心から主を賛美したいものです。

32章16節では、最初の石の板は神ご自身が造られました。

出 32:16 板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

しかし34章4節では、モーセが石の板を切り取っています。

出 34:4 そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。

そして、27、28節をみると、十のことばは神のことばではありましたが、モーセが書き記しています。

出 34:27 【主】はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」
34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

本質的には十戒の内容は先のものと異なっていませんが、神の創造は一回だけで、その後、人が罪の故にそれを破壊したならば、人の手でそれを回復しなければならない責任を負わされています。しかし神は再び、新創造をしてくださいます。それは霊魂の新創造と新しい天と新しい地の新創造です。私たちは新しい天と新しい地の新創造の時まで、霊魂の新創造を受けて、この地上にあっては、罪のために破壊された世界を修正するために努力しなければならないのです。

2、3節、神はモーセと会われる状況を指定されました。

出 34:2 朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。
34:3 だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも、山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

それは朝であり、シナイ山の頂上であり、人も獣も山に近づいてはならないと言われています。これは確かに、罪を犯した民を意識しておられます。また、モーセがその日、朝早く、他の人と会う前に、その心を神に向けるべきことを求めておられます。私たちは毎朝、人に会う前に、仕事につく前に、先ず神とお会いすべきです。その時には、先ず、キリストの血を携えることを忘れてはいけません。モーセは「主が命じられたとおりに」忠実に従いました(4節)。

出 34:4 そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。

5~7節の主の来臨は、33章21~23節の約束の成就です。しかしここでは、主はただ来臨されただけではありません。ご自分の契約の名を明らかにされ、ご自分のご性質を明らかにされました。これは新しい啓示の発展です。

出 33:21 また【主】は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

出 34:5 【主】は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、【主】の名によって宣言された。

6節には、神の無限の恵みが啓示されています。神は本質的に、測り知れない恵み深い神です。

出34:6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、

7節、恵みが千代も保たれるのに比べて、刑罰が三、四代であるのは、実に神のあわれみ深さを示しています。

出 34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

7節の「咎(とが)」と訳されている言葉は、ヘブル語ではawonで、悪い性質から出た罪を表わし、「そむき」はへブル語でpesha、神に対する反逆、「罪」はへブル語でhatalah、的をはずすことを意味しています。

しかし神は、そのあわれみの故に、それらの罪咎を赦される神です。けれども「罪すべき者を必ず罰して報いる者」とも言われています。罪を悔い改めず、神に立ち帰らない者には、必ず刑罰を加えられ、うやむやにされるお方ではないのです。このことは今も同じです。私たちは主を親しく呼ぶあまりに、主の厳しさを忘れて、罪をいいかげんにしてしまっていることがないでしょうか。罪はきちんと悔い改め、主の十字架によって解決していただかなければなりません。これらの言葉は主の名によって宣言されたとありますから、これは決して変わることのない、真実なものです。

8節、神の栄光を早く見たいと願っていたモーセでしたが、彼は敬虔に、ひざまずき、伏して礼拝しました。これはいつでも、人が神に対してとるべき最もふさわしい姿です。

出 34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、
34:9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

9節、そして彼は再び、民のために執り成しました。ここでもモーセは「お心にかなっているのでしたら」という言葉を用いています。彼は恵みをいただいていることを確信していましたが、へりくだることを決して忘れませんでした。彼は、神の直接のご同行と、民の赦しと、神への献身を受け入れてくださるようにと祈りました。主のものとなり切る時、神は決して見捨てられないのです。

Ⅱ.11~28節、民の守るべき命令

11節、「守れ。」神との契約は、民が神の命令を守ることによって、継続的に成立します。

出 34:11 わたしがきょう、あなたに命じることを、守れ。見よ。わたしはエモリ人、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。

神は決して約束を破らないお方ですから、私たちが神のみことばを守っている限り、必ず実を結んできます。それが神の契約です。信仰は神のみことばを実際に守り行うことによって、成立するのです。

神は、イスラエルの民が神の命令を守るなら、彼らがこれから直面しようとしている敵を全部、追い払ってくださると約束されました。私たちは困難がなくなることを求める前に、神の命令を守らなければなりません。

12~26節にある命令は、これまでに与えられた命令を代表するものとして、その大要が語られています。

12、15節、「その地の住民と契約を結んではならない。」特に、結婚によって、息子、娘たちが偶像礼拝に陥っていく危険を警告しています。

出 34:12 あなたは、注意して、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。

出 34:15 あなたはその地の住民と契約を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。

13節の「アシェラ像」はカナン人が女神として拝んでいたもので、アシェラ宗教では、たえず不道徳な祭りが行われていました。そしてアシェラはイスラエルがアッシリヤとバビロンに捕囚されるまで、絶えず誘惑の原因となったのです。

出 34:13 いや、あなたがたは彼らの祭壇を取りこわし、彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。
34:14 あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである【主】は、ねたむ神であるから。
34:15 あなたはその地の住民と契約を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。
34:16 あなたがその娘たちをあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。
34:17 あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。

私たちは、この世にあって、異教の社会環境の中で生活しているけれども、偶像のワナに陥るような契約や妥協をしてはなりません。それがイスラエルの民の命取りとなって、捕囚されたことを覚えなければなりません。むしろ、クリスチャンは福音宣教によって、人々の心の中にある偶像を取り除いていくべきです。

第二の命令は、年に三度、祭りを行うことです。

出 34:23 年に三度、男子はみな、イスラエルの神、【主】、主の前に出なければならない。

「種を入れないパンの祭り」これは過越の祭りに続いて行われます。

出 34:18 あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたように、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。あなたがアビブの月にエジプトを出たからである。

これは出エジプトを記念しての祭りです。これはクリスチャンにとって、救いの感謝です。

そのほかに、「七週の祭り」これは小麦の刈り入れの初穂をささげる祭りであり、年の変わり目には「収穫祭」が定められ、また毎週七日目も神を礼拝します。

出 34:22 小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行わなければならない。

24節、祭りの時には無防備になるけれども、神の保護があるので侵略してくる者はいません。

出 34:24 わたしがあなたの前から、異邦の民を追い出し、あなたの国境を広げるので、あなたが年に三度、あなたの神、【主】の前に出るために上る間にあなたの地を欲しがる者はだれもいないであろう。

神を賛美し、礼拝する時は、この世のことを心配したり、恐れずに、神の保護を信じて心を注ぎ出したいものです。

第三の命令(21節)は、六日間働いて、七日目は休んで礼拝することです。

34:21 あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。

「耕作の時も、刈り入れの時も」とあるのは、民にとって最も忙しい時のことです。神を礼拝することができないほど忙しく働くと、人は割れるか、それとも争いを起こすかして、自ら破滅を招きます。

第四の命令は、家畜の初子は神のものであることです。

出 34:19 最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。
34:20 ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。

20節では、ろばは羊で贖(あがな)わなければならないとなっています。これは、ろばが労働のために使われるものだからです。

こうして、雄の初子の牛や羊の血は神にささげられました。この血を持たずに神の前に近づくことはできません(20節、ヘブル10:22)。

ヘブル 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

私たちは、イエス・キリストの血を心にたずさえずして、神に祈ることも、礼拝することも、賛美することも許されていません。

また、いけにえの血は種を入れたパンに添えてささげてもいけないし、翌朝まで残しておいてもいけませんでした(25節)。

出 34:25 わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えて、ささげてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。

すなわち、キリストの血は、この世と妥協されてはならないし、それは中途半端ではいけない。キリストの血は完全にささげ切らなければなりません。

26節、私たちがささげるものは全く心から最上のものであるべきです。

出 34:26 あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。子やぎをその母の乳で煮てはならない。」

「子やぎをその母の乳で煮てはならない。」は、この命令の中で特異に思われますが、これは神のあわれみを示したものです。

27節で、主はモーセに、これらの契約のことばを書き記すように命じられました。

出 34:27 【主】はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」

28節では、十のことばをモーセが書き記したように思われますが、1節からすると、十のことばを石の板に書き記したのは神の権威によるものです。

出 34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

モーセは四十日四十夜、主とともにいて、パンも食べず、水も飲みませんでした。モーセは神の直接的臨在のもとで、奇跡的に生命が保たれていたのです。マタイの福音書4章2節でも、主イエスは四十日四十夜断食しておられます。私たちは主の臨在のもとで、奇跡的に霊的命を保たれるのです。

Ⅲ.29~35節、主の臨在に輝くモーセ

モーセの顔が光を放っていた原因は、「主と話した」(29節)からです。

出 34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。

私たちの心が輝き出すのも、聖書から神のみ声を聞き、主と話すことによってです。私たちは輝き出すほどに、主と親しく、深く、みことばによる交わりを深めなければなりません。輝き出す前に、主の前から立ち去ることのないようにしましょう。みことばによる交わりは、主との人格的交わりです。

この霊的光は最初、モーセ自身は気づいていませんでした。私たちはしばしば、自分が主の恵みによってどれだけ力づけられ、変えられているか、全く気づいていないことがあります。気づかずに、何も与えられていないと思うのは不信仰であり、気づいて自慢するなら、高ぶりとなります。気づいて、なお、へりくだるようにしたい。サムソンのように、主の臨在をあまり意識せず、神の力を失ってしまうことのないようにしたいものです。

30節、しかし、霊的光は周囲の人々に感化を与えます。

出 34:30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。

アロンと民は、モーセの顔から光が放たれているのを見て、恐れて、近づけませんでした。この恐れは、聖なるものへの恐れであり、その厳粛さの故に、一時近づけなかったものと思われます。主イエスが変貌山で姿変わりをされた時(マタイ17:1~8)も、弟子たちは恐れています。

マタ 17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

私たちが神のみことばと聖霊に満たされて、輝いているなら、それだけで知らず知らずのうちに大きな影響力のある伝道をしているのです。人々はクリスチャンの輝いている顔を見て、主イエスを求めるようになります。クリスチャンの輝きの中に、自分にはないものがあることを発見して、それを求めるようになるのです。クリスチャンはどんな状況の中でも輝いていたいものです。クリスチャンは一日中、この世の人々から見られているのです。

この光は、モーセが語ることばに神の権威を与えたものと思われます。私たちが神のみことばを伝え、あかしをする時、神との交わりによる輝きをもっているなら、語る言葉の一つ一つに神の権威を感じさせることができます。

出 34:31 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。
34:32 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は【主】がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。
34:33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。

33節、モーセは語り終えると、顔におおいを掛けました。

コリント第二3章13節をみると、パウロは、モーセが顔おおいを掛けたのは、顔から光が消えていくのを民に見られないためであったと言っています。

Ⅱコリ 3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。

霊的光は、神との交わりが乏しくなると消えていきます。それ故、モーセは34、35節で、神と話してきては民に語るということを繰り返しています。

出 34:34 モーセが【主】の前に入って行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。
34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

このことは私たちにとっても大切です。あかしにしても、説教にしても、ただ学んだことを話すのではなく、主と交わり、主から聞いたこと、教えられたことを話すようにすべきです。といっても、学ぶことは不必要だとか、神秘的になりなさいと言っているのではありません。学んだことに命を与えるためには、神と交わり、神と話すことが必要なのです。しばしば神と物語ることによって、いつでも心が輝いていることができます。

パウロは、モーセの光と私たちに与えられる御霊の光とを比べて話しています。
「もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。」(コリント第二3:7~9)

モーセの働きは石に刻まれた文字であり、それは死の務め、すなわち、罪に定める働きです。しかし私たちの働きは、人の心にかかれた文字であり(コリント第二3:3)、御霊に仕え、生かす働きです。

Ⅱコリ 3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

それ故、私たちに与えられる光はモーセの光に勝るものであり、この御霊の光を保つなら、それは私たちをますます主と同じ姿に変えていくのです。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント第二3:18)

私たちは、みことばと聖霊によって、輝く心をもって生活することができます。これこそ、不可抗的伝道法です。毎日、輝いて過ごしたいものです。

 

(その他の考察)

(1)、10節には、契約(律法)を通しての神の啓示と、行動を通しての神の啓示が約束されています。

(2)、32~34章の現代への適用
イ、物質主義-金の耳輪、金の子牛
ロ、人道主義-神の代わりに人を崇めようとすること
ハ、合理主義-理知的判断
ニ、不道徳-たわむれ
ホ、快楽主義-飲み食い

(3)、34章の回復
イ、律法の回復(更新)1~4節
ロ、神の啓示の回復(更新)5~9節
ハ、契約の回復(更新)10~28節
ロ、神の栄光の回復 29~35節

(4)、モーセは山に上ったが、それは民に霊的危機が迫っていることを意味し、山は霊的転機の場所を意味しています。

(5)、32~34章の六つの祈り-神の答え
イ、32:11~13 - 32:14
ロ、32:31~32 - 32:33~34
ハ、33:12~13 - 33:14
ニ、33:15~16 - 33:17
ホ、33:18 - 33:19~23
ヘ、34:9 - 34:10~26

(6)、神の臨在について(34:29~35)
イ、神とともにいる経験である。
ロ、本人に意識されない人格的変化である。
ハ、神とともにいることを、栄光を求める手段にしてはいけない。
ニ、神の栄光の現れを知ったならば、顔おおいを垂れよ。すなわち、へりくだって敬虔な態度をとれ。

(7)、「わたしのかたわらに一つの場所がある。」(33;21)
イ、霊的に神と会う場所
ロ、ひとりでいなければならない場所
ハ、神の栄光の顕現のある場所
ニ、神の愛の配慮のある場所
ホ、ヴィジョンの場所(33:23)
ヘ、神の働きのために備える場所(34章)

あ と が き

イエス・キリストが語られたことは、すべてが本当です。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

私たちは、これらの主イエスのみことばを真実な約束として受けとめて生活しているでしょうか。これらのみことばは、単なる教えとして語られたものではありません。私たちにそのような生活行動を要求するために語られたものです。主によれば、このような生活にだけ真の結実があると語られているのです。

(まなべあきら 1989.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、ドイツの画家 Julius Schnorr von Carolsfeld (1794–1872) によって1851-1860年頃に描かれた「Die Bibel in Bildern(絵で見る聖書)」中の版画(Wikimedia Commonsより)


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