聖書の探求(067b) 出エジプト記35章 安息日の命令、幕屋建設の命令

35章の初めの部分には安息日の命令がありますが、それ以後はいよいよ幕屋建設の命令が始まっています。
この幕屋建設の事業は出エジプト記の最後の部分を飾る重要な事業です。特に、35章ではイスラエルの民が幕屋建設のために、心から自発的に喜んで持ち物をささげている姿、また、感動して糸を紡いでいる婦人たちのうるわしい姿を記しています。今日の教会も、かくありたいものだと心を打たれます。

Ⅰ.1~3節、安息日の遵守(じゅんしゅ)の命令

出 35:1 モーセはイスラエル人の全会衆を集めて彼らに言った。「これは、【主】が行えと命じられたことばである。
35:2 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目には、【主】の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。

安息日を守る命令ほど、繰り返し語られている命令は、ほかにあまり見られません。
しかも、この命令を破る者は殺されなければならないという厳罰が定められていることは、毎週、神を礼拝することがいかに重要なことであるかを示しています。このことは今日も決して変わっていません。私たちも、聖日礼拝を休むことを気軽に考えないようにしなければなりません。万一、どうしても欠席しなければならない時は、前もって教会に連絡しておき、祈っていただき、自分も聖日には個人的に礼拝の時を持つくらいの心がけが必要です。

モーセが幕屋建設の命令をするに当って、その前に、安息日を守るように命じたことは意味あってのことです。それは幕屋建設に熱中するあまりに、興味がそちらに行ってしまって、安息日にも幕屋建設の仕事をするようになってしまわないようにとの警告が含まれています。外側的な礼拝の場所を造るために、礼拝そのものを怠ってしまうなら、それは本末顛倒してしまっています。今日の教会の活動の中にもこういう面がないか、よく点検してみる必要があります。

出 35:3 安息の日には、あなたがたのどの住まいのどこででも、火をたいてはならない。」

3節で、安息日に火をたいてはいけないことが命じられています。私たちもキャンプなどで野外炊飯をするとき、火をたくことがいかに大切で困難かを経験します。まして荒野を旅している者たちにとって、火をたくことは大変な労力のいる仕事であって、なかには、主を礼拝することをしないで、火をたくことに誘惑を感じている者がいたのでしょう。今日でも、仕事の忙しさの故に、聖日礼拝を休んで、仕事を片付けようという誘惑を受ける者が少なくありません。モーセはそのことを警告したのです。

Ⅱ.4~9節、主への奉納物の命令

出 35:4 モーセはイスラエル人の全会衆に告げて言った。「これは、【主】が命じて仰せられたことである。
35:5 あなたがたの中から【主】への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に、【主】への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、
35:6 青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
35:7 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
35:8 燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、
35:9 エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石である。

これは命令ですけれども、「すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい。」(5節)と、その自発性が強調されています。すべて、ささげ物も、奉仕も、他人と比べた見栄であったり、いやいや仕方なくであったり、強制的であったりすると、主は祝してくださいません。そこには主の恵みがなくなり、人々の心は恵みを失ってしまいます。すべて、喜んで自発的にささげる時にこそ、すべてが満たされるのです。これこそ真の信仰者が取るべき態度であると思われます。

ここには幕屋建造のために必要な物のリストが挙げられていますが、それらはみな、心から進んでささげられるものでなければなりませんでした。私たちも教会で何が必要なのかを十分に調べてリストアップして信者に訴えることは必要でしょう。しかしすべては信仰と愛のささげものであるべきです。そのようにして満たされないことは、一度もありません。

Ⅲ.10~19節、製作すべき物のリストと製作命令

出 35:10 あなたがたのうちの心に知恵のある者は、みな来て、【主】が命じられたものをすべて造らなければならない。
35:11 幕屋、その天幕と、そのおおい、その留め金とその板、その横木、その柱と、その台座、
35:12 箱と、その棒、『贖いのふた』とおおいの垂れ幕、
35:13 机と、その棒とそのすべての用具と供えのパン、
35:14 燈火のための燭台と、その用器とともしび皿と、燈火用の油、
35:15 香の壇と、その棒とそそぎの油とかおりの高い香と幕屋の入口につける入口の垂れ幕、
35:16 全焼のいけにえの祭壇とそれに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤と、その台、
35:17 庭の掛け幕、その柱とその台座と庭の門の垂れ幕、
35:18 幕屋の釘と庭の釘と、そのひも、
35:19 聖所で仕えるための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。」

これらのリストに挙げられているものについては、すでにこれまでに説明をしてきました。しかしモーセは「ひも」までもリストにきちんと記しているところは、さすがであると思います。大事なところだけでなく、小さなところにまで気を抜かずに奉仕しているモーセの忠実さを伺い知ることができます。

Ⅳ.35:20~36:2、作業開始

(1)、20~29節、一般の奉仕者たち

出 35:20 イスラエル人の全会衆は、モーセの前から立ち去った。
35:21 感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。
35:22 すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を【主】にささげた者はみな、そうした。
35:23 また、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。
35:24 銀や青銅の奉納物をささげる者はみな、それを【主】への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のすべての仕事のため、それを持って来た。
35:25 また、心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。
35:26 感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。
35:27 上に立つ者たちはエポデと胸当てにはめるしまめのうや宝石を持って来た。
35:28 また、燈火、そそぎの油、かおりの高い香のためのバルサム油とオリーブ油とを持って来た。
35:29 イスラエル人は、男も女もみな、【主】がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として【主】に持って来た。

この箇所で特に目立つことは、みな、心から進んでささげものをしていることと、感動して、自分に与えられている知恵を積極的に用いて奉仕していることです。教会の働きはすべて、感動に満ちているものでなければなりません。毎回の集会が出席者に感動を与えるものとならなければなりません。そのためには、主がその集会で働いてくださらなければなりません。すべての集会や働きを感動的なものにするのは、そう難しいことではありません。主を見上げ、主の栄光を現わすことを第一目的とすることに専念していればよいのです。これが牧師のため、信者のため、人のために行われるようになると、神の栄光は去って、感動は失われてしまいます。すべてが地に落ちてしまうのです。主のために、感動して働くことは、どんなに大きな喜びとなることでしょうか。これを私たちは経験しなければなりません。

(2)、30~35節、べツァルエルとオホリアブ

出 35:30 モーセはイスラエル人に言った。「見よ。【主】はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し出し、
35:31 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。
35:32 それは彼が金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、
35:33 はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる設計的な仕事をさせるためである。
35:34 また、彼の心に人を教える力を授けられた。彼とダン部族のアヒサマクの子オホリアブとに、そうされた。
35:35 主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、および、青色、紫色、緋色の撚り糸や亜麻布で刺繍する者、また機織りする者の仕事を成し遂げるためである。

主はベツァルエルとオホリアブの二人を名ざしで召し出しています。ここに今日の召命の型があります。主は二人を召し出した後に、仕事に必要な知恵と英知と知識を満たされました。これは、主に召されると、奉仕に必要なすべてのものが与えられることを示しています。人が主に召されるのは、その人に能力があるからではありません。私たちが主の召しに応じるなら、主が必要なすべての力を与えてくださるのです(コリント第一1:24~31)。今日、私たちにとって、キリストが神の力であり、知恵です。私たちはこのお方に根ざして訓練を受け、多くの効果的な働きをすることができます。

31節、知恵と英知と知識は、神の霊が満たされることによって与えられています。ここにいう、知恵、英知、知識とは、ただの技術や技能だけではありません。それはもっと神的、霊的なものです。それは、何が神に喜ばれ、神にふさわしいかを見分ける力であると言ってもよいでしょう(ローマ一2:2)。

32,33,35節、それらの知恵、英知、知識は、設計、彫刻、刺繍という創造的働きの仕事の中に活用されています。創造的働きは、ただの学びや訓練だけでは身につきません。それは霊的なものであり、神の御霊によってその力が与えられるものです。

34節、それは人を教え、指導する力として活用されています。指導力は聖霊による霊的力です。すべての人格的、創造的力は聖霊による霊的力です(イザヤ11:2、テモテ第二3:16,17)。

(3)、36:1~2、心に知恵のある者たち

出 36:1 ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のすべての仕事をすることのできる知恵と英知を【主】に与えられた、心に知恵のある者はみな、【主】が命じられたすべてのことを成し遂げなければならない。」
36:2 モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、【主】が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。

ここには名前は記されていませんが、自ら召命を感じて進み出て、献身した者たちです。彼らは聖霊の感動を受け、また主の知恵と英知を受けていました。

今日、教会の働きは牧師主導型になっていますが、もっともっと主の働きのために信者全員が主の御霊を受け、各々にふさわしい知恵と英知が与えられて、このような奉仕者が多く起こされる必要があります。しかしそれは、人の熱心や、人の知恵や技能によらず、主の聖霊によって召された者でなければなりません。神のみわざを人のわざにすり変えるようなことをしてはなりません。教会の働きは、もっともっと霊的になる必要があります。そうしなければ、感動も、喜びも、勝利も、自発的にささげる喜びに満たされることもありません。主の働きは、聖霊によらなければならないからです。それ故、聖霊に満たされた奉仕者が多く起こされることが緊急に必要です。学問や技能に満たされた者ではなく、聖霊に満たされた者が必要なのです。聖霊が私たちを奉仕にふさわしい者にしてくださるのです。

(まなべあきら 1989.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1902年頃に描いた「Bezalel(べツァルエル)」(Wikimedia Commonsより)


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