聖書の探求(068a) 出エジプト記36章 幕屋建造の開始

36章は幕屋建造の開始の章です。ここには奉仕者たちの働く熱気が感じられます。織物をする者、留め金をつくる者、板に細工する者、横木をつくる者など、喜々として働く神の民の姿が目に映るようです。

Ⅰ.3~7節、なおも続くささげ物

出 36:3 彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。
36:4 そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、
36:5 モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。【主】がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」
36:6 それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。
36:7 手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。

この記事を読むなら、民がどんなにささげることに喜びを感じていたかが分かります。これらは民が義務的にしたささげ物ではありません。

「なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。」(3節)
「民は幾たびも、持って来ています。‥‥あり余る奉仕です。」 (5節)

これらの聖句は、一人の人が一度だけでなく、何度もささげ物をしたことを示しているように思われます。一度で義務を果たしたとは思わなかったのです。そしてついにモーセは民に、ささげ物を持ってくることを中止するように命じなければなりませんでした。私はまだ、このようにささげ物をした教会の話を聞いていません。世界には、このようなささげ物をするすばらしい教会もあるでしょうが、それは決して多いとは言えないでしょう。パウロはマケドニヤの教会が、ささげる恵みに富んでいたと言っています。そして、「あなたがたも、このささげる恵みに富むようになってください。」とすゝめています(コリント第二8:1~7節)。

Ⅱコリ 8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
8:2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
8:3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
8:6 それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。
8:7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

神の働きのためには、いつもあり余るほどのささげ物がささげられていなければなりません。しかし世界的な神の働き場には、不足気味が慢性化しています。これを解消することはそれほど困難なことではありません。パウロは次のように教えています。

「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。『多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。』と書いてあるとおりです。」(コリント第二8:14,15)

これは出エジプト記16章18節でイスラエルの民がマナを拾った時の出来事から語られています。

出 16:18 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。

主は人間に、互いに欠乏を補い合うことによって、愛と喜びを経験するように求めておられます。人間には、物質的欠乏もあれば、霊的欠乏もあります。その両方とも、補い合わなければなりません。特にクリスチャンは、何度も督促されてからささげるのではなく、「もう、ささげるのを中止してください。」と言われるようなささげ方をしたいものです。

イスラエルの民がエジプトを出て来る時、エジプト人から幾分か貴重品を受け取ってきました。しかし彼らは長い間、奴隷生活をしており、その後、荒野の旅を続けていたのですから、そう財産家が多かったとは考えられません。それでは、どうして彼らはこのようにあり余るほどのささげ物をすることができたのでしょうか。

第一に、彼らは、まとめて一度に多くをささげようとはしませんでした。「朝ごとに」「幾たびも」ささげたとあります。私たちは一度に多くをささげられなくても、わずかなものを何度もささげることによって驚くほど多くをささげることができるのです。これは立証済です。もし、「こんなわずかなものをささげても、何の役にも立たない。」と思って、ささげなかったら、レプタ二つをささげたやもめさんが受けたような主のおほめのことばをいただくことはできません。わずかなものでも、恵みに感じてささげるなら、恵みは積もって山となります。

第二に、その仕事が真正に神のお仕事であることを認めたからです。それは、その仕事にたずさわる奉仕者たちの献身の度合によって分かりました。奉仕者たちは、「それぞれ自分たちがしていた仕事から離れ
てやって来て」働きました。

第三に、それは自分たちも加わって神を礼拝することに関する仕事に対してささげられました。私たちがささげるささげ物は、結局、私たち自身が神の恵みを受けるためのものなのです。たとい、それが外国の人々のためのささげ物であっても、神の恵みが自分に帰ってくるのです。

第四に、彼らがぜいたくな生活をしなかったから、これほどのささげ物ができたのでしょう。もし、世界の富める国に住む人々が、その十%を節約して神にささげ、質素な生活をすれば、世界の神の働き場は常に満ち足りるようになります。しかし現実は、富む国の人ほど自己中心で、互いに欠乏を補い合って愛の交わりをしようとしませんから、神の働き場はいつも不足気味になっているのです。

この記事から、現代に生きる私たちも、次の四つの点に注意する必要があります。

第一は、恵みに満たされた礼拝をすること、
第二は、奉仕者の真剣な献身、
第三は、感謝のささげ物を、いつでも、わずかでもささげるようにすること、
第四は、質素な生活をすること、

このようにしてのみ、神の働きのために、いつでもあり余るほどのものが備えられていくのです。

Ⅱ.8~38節、主に、幕をつくる

1、幕屋の幕十枚(8~13節)

出 36:8 仕事に携わっている者のうち、心に知恵のある者はみな、幕屋を十枚の幕で造った。撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でケルビムを織り出した。
36:9 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とした。
36:10 五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また、他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせた。
36:11 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に青いひもの輪をつけた。他のつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにした。
36:12 その一枚の幕に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の端にも輪五十個をつけ、その輪を互いに向かい合わせにした。
36:13 そして、金の留め金五十個を作り、その留め金で、幕を互いにつなぎ合わせて、一つの幕屋にした。

13節をみると、十枚の幕は各部分、部分が正確につなぎ合わされて一つの幕屋を形成しています。これは実に、パウロによって解説されていますキリストのからだを意味しています。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しつかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)

これは、キリストのからだである教会を示しています。またへブル人への手紙は、モーセの時の幕屋は不完全なものであり(ヘブル9:9)、キリストのからだこそ完全な幕屋であることを記しています(ヘブル9:11)。

ヘブル 9:9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。

ヘブル 9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、

これは、キリストご自身のからだを指しています。

2、幕屋の上にかける天幕(14~19節)

出 36:14 また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作った。その幕を十一枚作った。
36:15 その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とした。
36:16 その五枚の幕を一つにつなぎ合わせ、また、ほかの六枚の幕を一つにつなぎ合わせ、
36:17 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に、輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつけた。
36:18 また、青銅の留め金五十個を作り、その天幕をつなぎ合わせて、一つにした。
36:19 また、天幕のために、赤くなめした雄羊の皮のおおいと、じゅごんの皮でその上に掛けるおおいとを作った。

この天幕は、やぎの毛(14節)と、赤くなめした雄羊の皮と、じゅごんの皮(19節)の三重です。これは至聖所における神の栄光が外にもれないためのものです。これもまた、マタイの福音書17章2節で、キリストのからだからもれ出た神の栄光によって、キリストのからだであることがわかります。

マタ 17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

この天幕も、青銅の留め金でつなぎ合わされています。これは、今日もキリストの栄光は互いにつなぎ合わされたキリストのからだである教会を通して現わされるべきであることを示しています。見かけは、そまつな毛皮のように見えても、内側はキリストの内住と愛の交わりの実を結ぶことによって、教会はキリストの栄光を現わすことができるのです(ヨハネ15:8)。

ヨハ 15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

3、板と台座(20~30節)、板を留めるための横木(31~34節)

出 36:20 さらに、幕屋のためにアカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作った。
36:21 板一枚の長さは十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半であった。
36:22 板一枚ごとに、はめ込みのほぞ二つを作った。幕屋の板、全部にこのようにした。
36:23 幕屋のために板を作った。南側に板二十枚。
36:24 その二十枚の板の下に銀の台座四十個を作った。一枚の板の下に、二つのほぞに二個の台座、ほかの板の下にも、二つのほぞに二個の台座を作った。
36:25 幕屋の他の側、すなわち、北側に板二十枚を作った。
36:26 銀の台座四十個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座。ほかの板の下にも二個の台座。
36:27 幕屋のうしろ、すなわち、西側に板六枚を作った。
36:28 幕屋のうしろの両隅のために、板二枚を作った。
36:29 底部では重なり合い、上部では一つの環で一つに合わさるようにした。二枚とも、そのように作った。それが両隅であった。
36:30 板は八枚、その銀の台座は十六個、すなわち一枚の板の下に、二つずつ台座があった。

台座は私たちの信仰の土台であるキリストです(コリント第一3:11)。

Ⅰコリ 3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

私たちの神殿は、この土台の上に建てなければなりません。

4、垂れ幕(35,36節)

出 36:35 ついで、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で、垂れ幕を作った。これに巧みな細工でケルビムを織り出した。
36:36 そのために、アカシヤ材の四本の柱を作り、それに金をかぶせた。柱の鉤は金であった。そしてこの柱のために銀の四つの台座を鋳造した。

これは聖所と至聖所との隔ての幕です。
この幕は、イエス・キリストが十字架にかかられた時、上から下まで真二つに裂けました(マタイ27:51)。

マタ 27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。

ヘブル人への手紙10章20節は、イエス・キリストの肉体がその垂れ幕であったと言っています。

ヘブル 10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

キリストのからだが十字架の上で引き裂かれることによって、私たちに新しい生ける道、すなわち、神の臨在される至聖所での交わりにあずかることができる道が与えられたのです。

5、天幕の入口の幕(37,38節)

出 36:37 ついで、天幕の入口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で、刺繍をした幕を作った。
36:38 五本の柱と、その鉤を作り、その柱の頭部と帯輪に金をかぶせた。その五つの台座は青銅であった。
これはキリストによる救いの入口を表わしています。

このようにして、幕屋全体がキリストを表わしており、それはまた、キリストの救いと、キリストのからだである教会をも表わしています。幕屋はこの偉大な真理を予表していたのです。

あ と が き

私は自分の奉仕に三つの目標を立てて進んできました。
一つは、教会のすべての集会を通して、聖書全巻をお話するようにつとめること。
第二は、信仰生活の基礎となる聖書の教えをテキストにして、だれでも学ぶことができるようにすること。これについてはつい最近、バイブルクラス入門コース2「キリストにある生活」をつくりました。
第三は、クリスチャンの実際生活についてを本にすることでした。
そして、ここまで進んできて、気づくことは、クリスチャンは救われて、洗礼を受けると、もう基礎的なことは卒業したように思って何も学んでいないために、霊的に恵まれていても、信仰が確立しておらず、困難に弱かったり、あかしができなかったり、異端に迷い込んだりしています。これはこれまで教会が礼拝と伝道を中心にして、教育をあまり重要視してこなかったからです。
これからはテキストを使った聖書クラスを通して、聖書の基礎的教えを身につけていく必要があります。成長はその上に成り立つものです。

(まなべあきら 1989.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型(2013年の訪問時に撮影)


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