聖書の探求(070) レビ記 序(1) 名称、目的、特徴、いけにえの意味、レビ記のキリスト

これからレビ記に入るに当って、もう一度、「モーセの五書」の項のタイプのところや、出エジプト記の分解のところの「出エジプト記とレビ記と民数記の関係」の図を見て、その関連性を復習しておいてください。

Ⅰ.レビ記の名称について

ユダヤ人はモーセの第三書を、「ヴァ・イック・ラー」(ヘブル語、「そして彼は呼んだ」と呼びました。それはこの書が、「ヴァ・イック・ラー」という語で始まっているからです。これは、「神に贖(あがな)われた者が、神のみ前に近づき、神と交わり、神を礼拝し、身体と霊魂との潔めに与(あずか)らせるために、神が彼らを呼びたもうた。」ことを意味しています。

タルムッドの時代(タルムッドは初代の旧約聖書研究の解説とユダヤ伝承を集めたもので、ユダヤ法典とも呼ばれ、ほぼキリストの時代に文書化され始めた。)には、この書は「祭司の律法」(トーラ・コハニ ム)と呼ばれています。「レビ」という言葉が使われなかったのは、おそらく、レビ人に関する儀式やその他の規定、そしてレビ人という名称が、25章32、33節以外に記されていなかったからでしょう。

レビ 25:32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。
25:33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。

七十人訳聖書では、「レビ的書」とされ、「レビ」が修飾語として使われています。そしてヴルカ一夕訳聖書では、この書を「レビティカス」と呼んでいます。すなわち「レビ記」です。

Ⅱ.目的

組織された神の民を、その宗教生活と社会生活において統治するために定めた律法が、このレビ記です。

シナイ山において、イスラエル人は正式に組織化され、神政国家となり、基本的な律法が与えられ、契約は批准され、幕屋が建造されました。これらのことは出エジプト記に記されていたことですが、さらに、イスラエルの民が約束の地への旅を続けるに先立って、彼らが幕屋で主を礼拝するための指針を与える律法を知らせておく必要があったのです。その律法がレビ記の中に記されているのです。

レビ記の構想は二つの方法によって組み立てられています。

第一は、人を神から分離する汚れを取り除くことです。それ故、レビ記の律法は罪を取り扱うのが中心です。人間の罪には、義認以前の罪と義認以後の罪がありますが、これらの罪を取り除くことが、キリストの福音を解く鍵となります。

第二は、人と神との間の失われた交わりを回復することです。そのためには、神は聖ですから、人の罪が潔められなければなりません。神は罪を罰しなさいますが、それは滅ぼすためより、潔めて神との交わりを回復するためなのです。このことを表わすために、レビ記中には次のような記事が多く見られます。

1、いけにえをささげる祭司
2、いけにえから流れ出る血
3、いけにえを焼き尽くす火
4、灰、水、香と祈り
5、神ご自身と民とが隔てられていること
6、至聖所の孤独

これらはみな、罪を潔めようとされる神の御意志を強く表わしています。しかし、このように律法が多様であるのは、これらの方法が罪を除き去るためには、なお不完全であることを示しています(ヘブル9:9~14、10:1~4)。しかし、このような複雑な旧約の型は、その予表する一切を完全に成就するために来られた主イエス・キリストを預言しています。こういう点に心を向けながらレビ記を読んでいくと、レビ記は心の中で生き返ってきます。

ヘブル 9:9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
9:10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

ヘブル 10:1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
10:2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
10:3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

Ⅲ.レビ記の特長

1、鍵の言葉

「あがない」(17:11、45回出てくる)と「きよめ(聖)」(20:7、87回出てくる)

レビ 17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

レビ 20:7 あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、【主】であるからだ。

2、中心思想

罪深い人間がいかにしたら、聖なる神に近づくことができるか?
イ、血を流すことにより、
ロ、自分を献身することにより、
ハ、神と交わり、神を礼拝する特権によリ、
しかも、霊魂の潔めと身体の潔めは神のご命令であること。

3、三大要目

イ、いけにえ
ロ、祭司職
ハ、祭り

4、レビ記の内容が示している時期

レビ人が幕屋を建てた第二年目の第一月の第一日(出エジプト記40:2、17、レビ記1:1)から、シナイ山を出発した第二年目の第二月の二十日(民数記10:11、レビ記27:34)までのわずか一ヶ月余りの歴史です。

出 40:2 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。

出 40:17 第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた。

レビ 1:1 【主】はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。

民 10:11 第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。

レビ 27:34 以上は、【主】がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。

5、だれのために書かれたのか?

異教徒のためでもなく、罪の奴隷としての生活をしている者のためでもなく、贖(あがな)われた民が神を礼拝するため。
イ、創世記‥‥堕落した人を示す
ロ、出エジプト記‥‥贖(あがな)われた人(贖罪(しょくざい)の型)を示す
ハ、レビ記‥‥礼拝する人(礼拝に関しての型)を示す

6、その他の特色

イ、書き出しの部分
「主は‥‥告げて仰せられた。」このような書き出しは、外に民数記やヨシュア記にも見られます。

ロ、聖霊という名が一度も出てこない。
レビ記の記事はすべてキリストに関するものです。聖霊の働きはキリストに栄光を帰するものだからです。

ハ、レビ記ほど多く、主からの直接命令を記した書は外にない。
英訳聖書によると、「主は語られた」「主は言われた」「主は命じられた」は56回、「わたしは主である」は21回、「わたし、すなわち主がする」は2回、それ故、この書は主の直接メッセージに満ちているといってもよいでしょう。

Ⅳ.レビ記のいけにえの意味

イスラエルの民は正式に神政国家として制定され、「祭司の王国、聖なる国民」(ペテロ第一2:9)でしたが、しかし罪深い民でした。そこで罪人が神に近づくことができるために、犠牲制度が制定された。

Ⅰペテ 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

1、いけにえは贖罪(しょくざ)と奉献の二重の目的があります。
贖罪の目的には罪と関係があります。聖なる献物は主の祭壇にささげられ、主は直接このいけにえを焼き尽くされます。これは、今日の私たちには霊的意味で理解されなければなりません。旧約の制度や儀式をそのまま今日の私たちの信仰生活に当てはめることはできません。それらを霊的に正しく理解して各々の信仰生活に適当しなければなりません。

2、献物はきよいものでなければなりません。
イ、動物でいけにえにすることができるものは、羊、やぎ、牛、ハトなど。これは、献げる者の生命を支えるものです。
ロ、植物では、穀物、香、ぶどう酒、油などです。 これは、献げる者が生命の勤労によって生み出したものです。
それ故、主にいけにえを献げることは、献げる者の全生涯を主に献げることを意味するのです。

3、いけにえは罪の代償であり、罪人の身代わりとして献げられるものです。
いけにえそのものには罪を取り除く力はありませんが、それはイエス・キリストの唯一最大のいけにえを表わすものであって、キリストを示しています。

4、罪を悔い改めた罪人がいけにえを献げる過程に注目しなければなりません。
イ、いけにえに選ぶ動物は全きもので、傷なく、シミも汚れもないものでなければなりません(レビ記1:3ほか、ペテロ第一1:19、エペソ5:27、ペテロ第二3:14)。

レビ 1:3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼が【主】の前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。

Ⅰペテ 1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

エペ 5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

Ⅱペテ 3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

ロ、動物を献げる時、献げる者はその両手をその上におかなければなりません(レビ記1:4ほか)。

レビ 1:4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。

これは、罪が献げる者から献げる動物に移ることを象徴しています。いけにえになる動物は献げる人の代理と考えられています。それまでは、死刑を受けるべき罰を負う罪が、献げる人に宿っていました。しかし両手をいけにえとなる動物の上におくことによって、死の刑罰は動物の上におかれ、もはや献げる人にはないことを象徴しています。

ハ、その後、いけにえの動物の屠殺が祭壇で行われます。いけにえは献げる人の手で殺されなければなりません。そして、その血は祭司によって生命の象徴として、祭壇に注がれます(レビ記1:5)。

レビ 1:5 その若い牛は、【主】の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。

血は霊魂を贖い(おおい)ます。(レビ記17:11)

レビ 17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

「贖(あがな)う」という言葉は「おおう」ことを意味しています。祭壇に注がれた血は、血によって罪をおおい、神の視界から罪を抹消するという意味を示しています。人とその罪とは、贖いの血によっておおわれなければならないものです。この「おおい」は、神によって得られるもので、人間の功績によって得られるものではありません。罪人の救いは主の恵みによるのでなければ得られません(エペソ2:5、8)。

エペ 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

エペ 2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

「‥‥祭司は(神の代理者として)、その人のために、その人が犯した罪の贖い(おおい)をしなさい。その人は赦される。」(レビ記4:35)
これこそ、神が教えられた救いの真理の意味です。

ロ、次に、いけにえの動物のある部分を祭壇の上で、火によって焼きます(レビ記1:8、9ほか)。

レビ 1:8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。
1:9 内臓と足は、水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、【主】へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

これは、芳しい香りを主に献げるためであり、代償的奉献を象徴したものです(エペソ5:2)。

エペ 5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

ハ、特に、和解のいけにえの場合(レビ記3章)、いけにえの食物がありました。
このいけにえは、自発約な任意のささげ物であり、祭司と献げた人だけが食べることができました。これは神と人との中垣が取り除かれるという恵みあふれる交わりが象徴されており、キリストによって平和と、交わりと、和解がもたらされるという積極的な恵みと祝福の状態を示しています(エペソ2:13~19)。

エペ 2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

Ⅴ.レビ記のキリスト

創世記は、人間の堕落と失敗を示し、出エジプト記では、神が備えられた大いなる救いが示されました。
さらにレビ記は、神に近づいて神を礼拝し、かつ、神と交わる道を教えています。その中で、人は神の聖なることと、贖罪に頼らなければ、神に近づくことができないことを示しています。

新約の光をもって見ると、レビ記は、自分の迷っている状態を自覚して、キリストの贖罪を受け入れ、神の聖前に進み出ようとする人々の為に霊的教訓を与えています。

レビ記がいけにえに重きをおいているのは、罪の恐ろしさを人間に正しく教えるためであり、神が罪をいかに考えておられるかを、全人類に示すためです。神はレビ記によって、ご自身が聖であられることと、人がその罪を除かれない間は、決して神に近づくことができないことを全人類に示されたのです。

罪は赦されるにしても、赦されないにしても、最も無駄な悪であって、赦される場合は、キリストの原罪のいけにえによらなければならず、赦されない場合には、永遠に、罪を悔い改めない人の責任となります。

罪がいかに重く、恐ろしく、大きなものであるかを知ろうとするなら、次の三大苦痛を考えてみればよい。第一は、歴史を通じて人類が経験してきた苦痛、第二は、主イエス・キリストが味わわれた苦痛、そして第三は、悔い改めない罪人が永遠に負い続ける苦痛です。それ故、罪は必ず、キリストの贖罪によって解決されなければなりません。

1、罪の特徴

イ、罪は、私たちから正しい健全な道徳的判断力を奪います。特に、罪は罪を正当に批判する能力を奪います。
「すべての人は、罪を犯したので」(ローマ3:23)とあるとおり、私たちはみな、罪のために、霊的能力が錯乱され、その感覚は鈍くされ、その基準を失い、物事の真相を見抜くことができなくなってしまっています。この結果、次々と罪を犯し、神の道から離れていってしまうのです。

ロ、イエス・キリストはユダヤ人たちに、「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。」(ヨハネ8:46)と挑戦されました。真の審判者であるキリストは、罪をどのように見ておられるのでしょうか。それは恐ろしいばかりの警告であり、罪に対する審判が現実であることを物語っています。
「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:29、30)
この罪を贖うためには、キリストが十字架の苦痛を受ける必要があったのです。罪の報酬は、十字架の苦痛です。

ハ、この世において、主とともに歩んでいる人々は、罪について主と同じ考えを持っています。
聖徒の罪に対する痛悔と悲しみは、神から離れている人には全く理解できないことです。しかし、人が神に近づけば近づくほど、罪に対する感覚は鋭くなり、その判断はますます厳正になってくるのです。これは聖霊によるのですが、聖霊が強く働いて、人々が救われているところではどこでも、必ず罪の深い自覚があります。

2、レビ記中の模型は、キリストの十字架で実現しました。

イ、十字架は、父なる神の愛と御霊によって、傷のないご自身を神に献げられたキリスト(ヘブル9:14)の愛を表わしています。

ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

ロ、十字架は、罪に対する神の評価です。
キリストの十字架は、罪が、神の前ではこれほどの代価を払わなければ解決できないほど恐ろしいものであることを示しています。

ハ、十字架は、罪が永遠に取り除かれるための贖いのいけにえです。

こうしなければ、神の律法が満足しなかったのです。私たちは自分の理性で贖罪の奥義をはかり知ることができませんが、私たちの心は、これを信じて受け入れることができます。聖霊の働きによって罪を自覚して、苦しみが深ければ深いほど、その人はキリストの十字架の尊さを知ることができます(コロサイ1:20)。

コロ 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

あ と が き

今回からレビ記に入ることができ、レビ記では主イエスの願いの十字架の恵みに深く触れることができるので、とても楽しみにしています。私どもの教会学校では、生徒たちに自発的に聖書を通読するようにすゝめていますが、ある生徒は「レビ記は同じことがいっぱい書いてあって、おもしろくなかった。」と言っていました。実は、その同じことが何度も書いてあるのが大切なメッセージなのですが、それを読み取ることができなかったのです。大人のクリスチャンでも、レビ記が味わい深いものになっている方は少ないのではないかと思います。この機会に、聖書の探求を通して、レビ記が味わい深いものになっていただければ幸いです。
私は今、教会の週報に「みことばによる生活」というテーマで、断想を記していますが、すべてのクリスチャンが、みことばによる力強い生活を身につけていったら、驚くべき奇跡が次々と起こり、主の栄光は現わされます。
そこに向かって今年も前進したいと思います。

(まなべあきら 1990.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型の入口に架けられたポスター(2013年の訪問時に撮影)


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