聖書の探求(071) レビ記 序(2) ささげ物、その他の特徴

Ⅵ.ささげ物

1、レビ記1~7章には、五種類のささげ物が記されています。

1章、全焼のいけにえ(燔祭)‥‥これは、第一義的に十字架上のキリストを表わしています。そして、人に対して適用される時は、全き献身を表わす意味も含まれています(創世記22:2)。

創 22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

2章、穀物のささけ物(素祭)‥‥これは、他のささげ物と一緒にささげられるのが、その特徴です。これは、キリストの人としての性質(人性)を表わし、いのちのパンであられるキリストを示しています。(ヨハネ6:48)。

ヨハ 6:48 わたしはいのちのパンです。

3章、和解のいけにえ(酬恩祭)‥‥これは任意の自発的なささげ物で、祭司とささげた者だけが食べることができます。これはキリストの平和と、交わりと、和解を示しています(ローマ5:1、10、ヨハネの手紙第一1:3,7)。

ロマ 5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

Ⅰヨハ 1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

主イエスの十字架は、まさに自発的な和解のいけにえでした(ヨハネ10:17,18、ピリピ2:6~8)。

ヨハ 10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

4章~5章13節、罪のためのいけにえ(罪祭)‥‥これは広範囲な罪のためのいけにえです。これは神の小羊なるキリストを表わしています(コリント第一5:7、ペテロ第一2:24、3:18、ヘブル9:26)。

Ⅰコリ 5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

Ⅰペテ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

Ⅰペテ 3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

ヘブル 9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

5章14節~6章7節、罪過のためのいけにえ(愆祭 (けんさい))‥‥これは一つは、あやまって犯した過失、自分では知らないでした過失についてのいけにえです。もう一つは、他人の権利を犯した時の弁償可能な罪についてのいけにえです。

 キリストの十字架の犠牲は、これらのいけにえすべてにまさって、完全無欠です。このようにレビ記では、いけにえがいくつにも分けられているのは、いけにえの意味をはっきりと教えるためとともに、一つ一つのいけにえが不完全であったからです(ヘブル10:1~18)。

ヘブル 10:1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
10:2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
10:3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
10:8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
10:9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
10:11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
10:15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
10:16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
10:17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
10:18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

2、ささげ物と、祭司と、ささげる者の関係

(1)、ささげ物はキリストです。
 「‥‥イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(ヘブル10:10)

(2)、祭司もキリストです。
 「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから‥‥」(ヘブル4:14)

(3)、ささげる者もキリストです。
 「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

 レビ記では、ささげ物と、祭司と、ささげる者の三者が別々ですが、新約においては、この三者をイエス・キリストご自身がしてくださったのです。それ故、キリストの救いは完全無欠なのです。

3、捧げ物は二つに大別されます。

(1)、一つは、全焼のいけにえ、穀物のいけにえ、和解のいけにえです。

これらはすべて「なだめのかおりの火によるささげ物」と呼ばれ、最も顕著なものは、全焼のいけにえです(レビ記1:17)。

レビ 1:17 さらに、その翼を引き裂きなさい。それを切り離してはならない。そして、祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、【主】へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

 この「全焼のいけにえ」は、主に受け入れられるための芳しい香りのあるささげ物であって(1:3,4)、幕屋の大庭にある銅の祭壇の上で全部を焼いたのです(1:9)。

レビ 1:3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼が【主】の前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。
1:4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。

レビ 1:9 内臓と足は、水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、【主】へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

全焼のいけにえでは、ささげ物のすべてをささげてしまって、どの部分も残しておいてはいけなかったのです。これは、父なる神のみ旨に従われたイエス・キリストの完全な御生涯を示しています(ピリピ2:6~8、ヘブル5:8~10、ペテロ第一2:21~25)。

ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

ヘブル 5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
5:10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

Ⅰペテ 2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

 キリストは全人類の罪を負われただけでなく、全人類に代わって父なる神の御前に最も尊いいけにえをささげながら、御前に現われているお方です。キリストはすべて残らず父なる神のみ手に渡し(ルカ23:46)、思考も、志望も、残らず全部をことごとく父なる神にささげて一生を送られました(ヨハネ5:30)。

ルカ 23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

ヨハ 5:30 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

 それ故、キリストの十字架は芳しい香りのささげ物となったのです。
 「‥‥キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ5:2)

 これはまた、いけにえの喜びを表わすものでもありました。
 「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。」(詩篇40:8)とあるとおりです。

 こうして、全焼のいけにえとは、自分の全生涯を神に明け渡すことを示しており、これはクリスチャンにとっては全き献身を意味しております。それ故、このいけにえは神に対するいけにえです。

 これに対して、穀物のいけにえは全焼のいけにえに伴ったものであって、そのささげ物の麦粉と油とは、人がその隣人に対してなすべき道を示しています。主イエスはご自分の命を裂くことによって、私たち人間にいのちのパンを与えてくださったのです。主はマタイの福音書22章37~39節で、神を愛することと、隣人を愛すべきことを教えてくださいました。

マタ 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、

全焼のいけにえが神を愛することに当るなら、穀物のいけにえは、隣人を愛することに相当するでしょう。

 イエス・キリストの人としての地上における御生涯は、これらの二つのいけにえを完全に果たされたのです。

 麦が砕かれ、粉にされ、火で焼かれたことは(2:1,2)、主イエスが伝道中、毎日、人々から攻撃され、「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方」(ヘブル12:3)で、日々、人間のためにご自身を与えられたことを示しています。

レビ 2:1 人が【主】に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え、
2:2 それを祭司であるアロンの子らのところに持って行きなさい。祭司はこの中から、ひとつかみの小麦粉と、油と、その乳香全部を取り出し、それを記念の部分として、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは【主】へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

ヘブル12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

(2)、もう一つは、罪のためのいけにえと、罪過のためのいけにえです。

これらのいけにえは、イエス・キリストが人の罪のために身代わりとなって死なれたことを表わしており、その中でも中心になるのは罪のためのいけにえです。

 罪のためのいけにえは、罪の贖いのためにささげられました。ささげられた獣の脂肪は銅の祭壇の上で焼き尽され(4:8~10)、煙となって立ち昇ったことは、そのいけにえが主に受け入れられたことを表わしています。

レビ 4:8 その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、
4:9 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。
4:10 これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。

 しかし、その獣の皮も肉も、その他の一切は、宿営の外に運び出されて、灰捨て場で焼き尽されました(4:11,12)。

レビ 4:11 ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、
4:12 その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。

このことは、罪が極めて邪悪にして、忌むべきものであることを示しています。
主イエスは、私たちに代わって、この罪のためのいけにえとなってくださったのです。

 「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」(ヘブル13:11~13)

 「‥‥キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(ヘブル9:26)

一点のしみも、罪もない純粋な聖なる贖い主の御霊が罪と接触して「私たちの代わりに罪とされ」(コリント第二5:21)て、父なる神がその御顔を隠された時の主イエスの悲痛は、私たち人間にはとても測り知ることはできないでしょう。

Ⅱコリ 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

それが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)の叫びとなって現わされたのです。

マタ 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

Ⅶ.その他のレビ記の特長

1、祭司

  祭司長アロンの聖別(8章)、及び祭司職とその働きは、私たちの大祭司イエスの型です(ヘブル4:14~5:10、7:1~28)。(聖句が長いので聖書を参照ください。)

 また、アロンの子らやレビ人たちの聖別は、真のキリスト者がみな祭司であることを示しています(ペテロ第一2:5,9)。

Ⅰペテ 2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

 アロンの子ナダブとアビフの記事(10:1,2)は、私たちが神に近づくことのできる唯一の道は、贖罪の血であるという真理を強調しています。

レビ 10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を【主】の前にささげた。
10:2 すると、【主】の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは【主】の前で死んだ。

彼らは自分の火皿の中に異なった火をとり、それを主の前に ささげたので、主は彼らを焼き滅ぼされたのです。祭司たちの火皿には、祭壇からとった火を盛り、その上に香をたかねばならず(レビ記16:2、民数記16:46)、ただ、この火を携えたときだけ、主に近づくことができたのです。

レビ 16:2 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。

民 16:46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。【主】の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」

そのように、私たちの祈りが香のように神の御前に立ちのぼり、神に受け入れられるためには、ただキリストの贖罪の血の功績によらなければなりません。すなわち、キリストの十字架によって与えられる聖霊の火によってささげる祈りだけが、神に受け入れられるのです。

2、日常生活の定め

 レビ記中には、神の民の日常生活に関する定めが記されています(11、12、15、18、19、20、21、26章など)。
 これは、主がご自分の民を深く思い、民の身も、霊魂も幸福になれるようにと配慮しておられることを示しています。
 「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。‥‥‥あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記11:44,45)

 これと同じ意味の聖句は、レビ記中に何度も記されています(19:2、20:26、21:8など)。

レビ 19:2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

レビ 20:26 あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。【主】であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』

レビ 21:8 あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する【主】、わたしが聖であるから。

 「聖い」「きよくする」「聖」という語は、レビ記中、繰り返して用いられています。これは、私たちの日常生活において、食物、衣服、個人、家族、国家に関すること、農業、商業などを、ことごとく神のみこころに従ってすべきであることを教えています(コリント第一10:31、コリント第二7:1)。

Ⅰコリ 10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

Ⅱコリ 7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

3、らい病

 13章と14章のらい病人についての定めは、罪が神と人との間を遮断して、交わりを断つことを示しています(イザヤ59:1,2)。

イザ 59:1 見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

 しかし、13章12,13節に、「もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、祭司が調べる。
 もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。」とあるのは、私たちが潔められる最初の条件であって、それは、自分が潔められる必要があることを認めることです。私たちは自分が罪人であることを悟るまでは、罪の赦しも、潔めも受けることはできません(ルカ18:13,14)。

ルカ 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 らい病人を潔めるために祭司は宿営より出て、その人のもとに行き、定めに従ってすべてのことをなし終えてから、その人は宿営の中に帰ることができたのです(レビ記14:2~20)。

レビ 14:2 「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。彼を祭司のところに連れて来る。
14:3 祭司は宿営の外に出て行き、調べて、もしツァラアトの者のツァラアトの患部がいやされているなら、
14:4 祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。
14:5 祭司は、土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふるよう命じる。
14:6 生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す。
14:7 それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけて、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。
14:8 きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営に入ることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。
14:9 七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とす。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、水をそのからだに浴びる。その者はきよい。
14:10 八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。
14:11 きよめを宣言する祭司は、きよめられる者と、これらのものを【主】の前、会見の天幕の入口の所に置く。
14:12 祭司はその雄の子羊一頭を取り、それを油一ログといっしょにささげて罪過のためのいけにえとし、それを奉献物として【主】に向かって揺り動かす。
14:13 罪のためのいけにえと全焼のいけにえをほふった所、すなわち聖なる所で、その雄の子羊をほふる。罪のためのいけにえと同様に、罪過のためのいけにえも祭司のものとなるからである。これは最も聖なるものである。
14:14 祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。
14:15 祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左の手のひらにそそぐ。
14:16 祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび【主】の前に振りかける。
14:17 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち先の罪過のためのいけにえの血の上に塗る。
14:18 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭に塗り、祭司は【主】の前で彼のために贖いをする。
14:19 祭司は罪のためのいけにえをささげ、汚れからきよめられる者のために贖いをする。そのあとで全焼のいけにえがほふられなければならない。
14:20 祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司は彼のために贖いをする。彼はきよい。

 キリストも私たちがさ迷っていた時に、聖い宿営である天から出て、堕落した私たちのそばに来て、ご自身の血をもって私たちを潔め、私たちを神に近い者としてくださいました(エペソ2:12~22)。

エペ 2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

 この潔めの定めには、祭司は二羽の潔い鳥をとり、一羽を殺して血を流し、その血の中にもう一羽の生きている鳥と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプとを取り寄せて浸し、その血をらい病から潔められる者の上に七たび振りかけて、その人をきよいと宜言してから、生きている小鳥を野に放ちました(レビ記14:4~7)。

レビ 14:4 祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。
14:5 祭司は、土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふるよう命じる。
14:6 生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す。
14:7 それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけて、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。

この二羽の小鳥は、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)との二重の真理を示すものです。生きている小鳥が野に放たれたのは、らい病人が潔められたしるしであり、これは私たちが義とされるために甦えらせられることの型です。
 小鳥はどんなに貧しい人の手にも入りやすいものであり、これは十字架につけられた救い主イエス・キリストを信じる単純な信仰だけで、救いの恵みを受けられることを示しています。
 けれども、そのらい病人は儀式的潔めだけで満足すべきではありませんでした。彼が宿営の中に入り、自分の天幕で住むことができるようになるためには、その前に水で身を洗わなければなりませんでした(レビ記14:8)。

レビ 14:8 きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営に入ることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。

このように、義とされた罪人は、気がつくすべての罪から離れ、かつ神のみことばという水で洗わなければなりません。
 次に、そのらい病人は、定めに従って礼物を携えて行かなければなりませんでした。
ささげる物は「手に入れることのできる」(レビ記14:22)範囲という許しがありました。

レビ 14:22 また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。

 このようにして、そのらい病人の首と手と足に、罪過のためのいけにえの血がつけられ、その血の上に油が塗られました(14:14~18)。

レビ 14:14 祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。
14:15 祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左の手のひらにそそぐ。
14:16 祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび【主】の前に振りかける。
14:17 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち先の罪過のためのいけにえの血の上に塗る。
14:18 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭に塗り、祭司は【主】の前で彼のために贖いをする。

  私たちが義とされるためにも、キリストの血が必要であり、その次に受けるべきものは、その血の上に注がれた聖霊の油です。

4、贖いの日

 レビ記の中心は、贖いの大なる日です(16章)。これは神の民が身を低くすべき日であって、民の心に罪を深く感じさせる機会でした。

レビ 16:34 以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」モーセは【主】が命じられたとおりに行った。

 これは年に一度だけでしたが(16:34)、「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました。」(ヘブル9:28)もはやキリストの犠牲のみわざは、繰り返す必要はありません。この世の初めより終わりまでの間に、唯一の完全な贖いの日があるだけです。

 レビ記16章5~9,15,16節に、イスラエル人の罪のためのいけにえには、二頭の雄やぎを用い、そのうち、主のくじに当ったやぎ一頭を罪のためのいけにえとしてほふり、それから祭司長は至聖所に入って、その血を贖いのふたの上と、贖いのふたの前に七回注ぐことが記されています。

レビ 16:5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。
16:6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
16:7 二頭のやぎを取り、それを【主】の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
16:8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは【主】のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
16:9 アロンは、【主】のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16:16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。

もう一頭の雄やぎはアザゼルのためです(アザゼルの意味については、「送り去る」、あるいは「放つ」との説があります。)。

 「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。」(16:21,22)

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)

 「‥‥主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:6)

 これらの各節は、主イエスが私たちの罪のためにアザゼルとなられたことを示しています。
 この二頭のやぎを用いることによって、型として贖いの意義を完全に表わしています。ほふられたやぎは、罪のために、神に対して完全な贖罪が成し遂げられたことを表わしています。一方、生きているやぎは、完全な罪の赦しが民に与えられたことを示しています。一年中の全会衆のすべての罪のために、わずかに二頭のやぎをいけにえとしてささげるのでは、あまりに少なすぎるように思えますが、それはこの儀式の全体が仮りの模型だからです。

 「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」(ヘブル10:4)

 どのような獣も、どんな人間も、いかなる天使も、罪の贖いを完全に成し遂げることはできません。ただ「肉において現われ」(テモテ第一3:16)たキリストだけが贖罪をなすことができたのです。この贖罪のために、キリストは人となられ、罪人のために苦しまれ、死なれたのです。

 「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、」(コリント第二5:19)ました。キリストが私たちの罪のために贖いをなされたのは、彼が完全な神であると同時に、完全な人としてすべてを成し遂げられたからです(ヘブル1:2,3、2:14~18)。

ヘブル 1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

ヘブル 2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
2:16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

 贖いの日には、罪のためのいけにえの雄牛とやぎの皮と肉と汚物を宿営の外に持ち出して火で焼きました(レビ記16:27)。

レビ 16:27 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。

 「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」(ヘブル13:12,13)。

 キリストの十字架は、私たち罪人を神に近づかせるために、聖所と至聖所の間の隔ての幕を切り裂いて(マタイ27:51)、その中にまで導き入れましたが、同じ十字架が、私たちを世に対しては、この世の宿営より投げ出された者としたのです。

マタ 27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。

 レビ記は、いけにえの血の意味を繰り返して強調し、血はいのちであると言っています(レビ記17:11,14)。

レビ 17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

これは、キリストの救いの基礎がキリストの血にあることを教えていますので、私たちはキリストの血の重要性を深く自覚しなければなりません。キリストの血なしには、洗礼(バプテスマ)を受けていることも、信仰的な自分の努力も救いの根拠にはならないのです。

〔キリストの尊い血(ペテロ第一1:18,19)について〕

Ⅰペテ 1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

1、血の意義(レビ記17:11,14)

レビ 17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
17:14 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』

2、血による贖罪(ペテロ第一1:18,19)

Ⅰペテ 1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

3、血による赦罪(エペソ1:7)

エペ 1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

4、血による義認(ローマ5:9)

ロマ 5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

5、血による平和(コロサイ1:20)

コロ 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

6、血による潔め(ヨハネ第一1:7、ヘブル13:12)

Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ヘブル 13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

7、血による罪からの解放(ヨハネの黙示録1:5)

黙 1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、

8、血による接近(ヘブル10:19~22)

ヘブル 10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

9、血による勝利(ヨハネの黙示録12:11)

黙 12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

10、血による永遠の光栄(ヨハネの黙示録7:14~17)

黙 7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

Ⅷ.分解

1~10 神に近づく道
11~27 民の潔め


l~16 神から分離する汚れの除去
17~26 神との交わり
27 付録


1~7 犠牲の律法(種類)
8~10 祭司らの聖別
11~15 汚れについての律法
16 贖罪の日
17 犠牲の血
18~20 道徳的律法と刑罰
21~22 祭司と犠牲
23~26 祭
27 誓願と十分の一


1章~6:7 五つのいけにえ(イエス・キリストの五つのすぐれた面を示す)
6:8~7章 いけにえの定め(順序、準備などについての細かい指示)
8章~10章 祭司職
 召命8:1~5
 潔め8:6
着衣 8:7~13
贖罪 8:14~29
油注ぎ 8:30
奉仕 9章
矢敗(ナダブとアビフ)10章
11~16章 潔めの律法
潔い食物11章
潔い身体12章~14:32
潔い家庭14:33~57
潔い習慣15章
絶えず血により頼むこと16章(大贖罪の章)
17章~26章 律法の再述
 潔い礼拝 17:1~9
 血に対する聖なる重視 17:10~16
 潔い道徳 18章
 潔い風習・衣服 19章~26章
 (23章は、節期の祝い)
27章 誓願に関する律法

Ⅸ.各章

 1章~7章のいけにえについての注意点

(1)、1~5章の律法は、全イスラエル人に述べられており
 6~7章は、アロンとその子孫に述べられています。
 この二つの律法には、多少異なった面がありますが、このことはレビ記が複数の記者によって書かれたことを意味しません。
 むしろ、この二つの部分の律法は、
 イ、同じ種類のいけにえについて記しています。
 ロ、次のような明白な関連性があります。
  4章 - 6:17
  3:5 - 6:22
  4:22~27 - 6:30

(2)、すべての律法は、キリストの十字架の描写であり、キリストはすべての律法の総和です。

イ、いけにえには三つの重要点があります。
  献げる者‥罪人
  祭司‥仲介者(神と、神と和解すべき罪人とがいることを前提としている)
  いけにえ‥犯した罪に対して

 イエス・キリストは私たち罪人の身代わりとなっていけにえを献げる者となってくださり、また神と罪人との間に立って執り成す祭司となってくださり、自ら十字架にかゝって「いけにえそのもの」となってくださったのです。

ロ、いけにえの特徴
 代償‥身代わり。罪を犯した者が、自分の命の代わりにいけにえの命をささげること。
 転嫁‥負担。刑罰を受けなければならない者がいけにえとなる動物の頭の上に手を置くことによって、その刑罰がいけにえに移されることによって象徴されている。
 死‥死は罪人が受けなければならない刑罰の執行を示している。すべてのいけにえは血を流し、殺されなければならなかったことによって象徴されている(ローマ6:23)。

ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

イエス・キリストの人格と働きの中には、これらのすべての要素が総合されています。
イエス・キリストの死の中に祭司としての行為があり(ヘブル9:14、ヨハネ10:17,18)、

ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

ヨハ 10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

イエス・キリストの献げ物は彼自身であり(へブル10:10)、

ヘブル 10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

イエス・キリストと彼が身代わりとなられた者とは一つです(ヨハネ10:11、ガラテヤ2:20)。

ヨハ 10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

ガラ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

あ と が き

 前回からレビ記に入り、何人かの方々から、お励ましと、「期待している」というお便りをいただき、感謝致しております。ずっと執筆を続けている者にとって、読者の皆様がどう受けとめていてくださるのかは、大変気になるところです。読者の方々の反響が「梨のつぶて」だと、執筆する気力も段々と衰えていってしまいますが、こうして激励してくださる方がいてくださることは、大きな力になります。どうぞ、今年も執筆のために続けてお祈りいただければ幸いです。また、多忙になっておりますが、霊性が下がらず、内容がいつも充実している執筆が続けられるようにお祈りください。執筆活動は読者の方が成長してくださり、実を結んでくださってこそ、その意味があるものです。そういう意味で、今年、この小冊子「聖書の探求」が読者の皆様おひとり一人に益をお分かちできるようにと、切に祈っております。

(まなべあきら 1990.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、1890年出版のHolman Bibleの挿絵より「The Altar of Incense, Altar of Burnt-Offering, and Laver(香の祭壇、全焼の生け贄の祭壇と洗盤)」(Wikimedia Commonsより)


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