聖書の探求(075) レビ記 6章 全焼のいけにえと、罪のためのいけにえの例

6章と7章では、これまでに述べてきた様々ないけにえの例が記されています。主に、6章では、全焼のいけにえと、罪のためのいけにえです。7章では、罪過のためのいけにえと、和解のいけにえについての例が示されています。

1~7節、他人に対する不正、あるいは、損金のためのいけにえ

この部分は5章の罪過のためのいけにえの続きで、その最後のものです。

レビ 6:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
6:2 「人が【主】に対して罪を犯し、不実なことを行うなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、

2節で、主に対する罪と隣人に対する罪が同格に扱われているのは、主イエスが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37、39)と言われたことの裏側です。

神を愛する人は、人をも愛し、隣人に悪を行う人は、神に対して罪を犯しているのです。愛や罪に対してこういう神と人とに対する関係は、聖書によらなければ、人は心に持つことができません。そしてこういう関係が人の心に根づいてくる時、その人の倫理性が高いものとなっていくのです。

この点で、私たちの住む社会は非常に低い倫理性しかもっていません。それは神を抜きにした愛や、神を抜きにした罪悪感しかもっていないからです。これはいかにキリスト信仰が重要であるかを物語っています。またキリストを抜きにした人の低俗性を示しています。

また、主が教えられたこの関係は、キリスト信仰の根本的なことに関わっており、実際的な信仰生活の根幹をなすものです。

ここでは特に、隣人の財産の扱い方と責任について教えられています。

2節、「預かり物」は、隣人から安全のために預かった物です。「担保の物」は、商取引に関する問題です。これらのものに対して、詐欺、強盗、ゆすりなどで不正な利益を得た場合のことです。

レビ 6:2 「人が【主】に対して罪を犯し、不実なことを行うなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、

3節、他人の落し物を見つけて、黙って自分のものにしてしまうことについてです。

レビ 6:3 あるいは落とし物を見つけながら欺くなど、人が行って罪を犯すことになるどれか一つについて偽りの誓いをする場合、

このように、今日でも好い加減にされてしまいそうなことにまで規定されていることには驚きます。これは、主が民に罪のない潔い生活を求めておられるからです。

罪過のためのいけにえについては、5章では、「知らないで犯した過失」についての規定が述べられてきましたが、ここでは意識的で故意の罪について記しています。ザアカイはこの部類の罪を犯していたのでしょう。

ここでは、このような罪を犯すようになった内面的な罪については、何も記していませんが、それは「人が主に対して罪を犯し」(2節)という言葉の中に暗示されています。人は、神との関係が損われる時、必ず隣人に対しても罪を犯すようになります。

レビ 6:4 この人が罪を犯し、後で咎を覚える場合、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、
6:5 あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は咎を覚えるとき、その元の所有者に、これを返さなければならない。

5節、この罪に対しては、全部を所有者に返し、さらに五分の一をこれに加えなければならないと命じられています。5章5節では、悔い改めに罪の告白が必要であることを教えられましたが、ここでは他人に損害を与えた時には、損害賠償をしなければならないことを教えています。

悔い改めには、罪の告白と他人に損害を与えた時には罪の償いが必要になるのです。6章5節では、その損害賠償を罪過のいけにえをささげる日にしなければならないと命じています。
新約においても、ザアカイの例に見られるように、イエス・キリストを信じて救われる時には、必ず、事の大小を問わず、具体的な悔い改めの祈りと、必要ならば償いをしなければなりません。

6、7節では、所有者への損害賠償の後に、罪過のためのいけにえがささげられています。

レビ 6:6 この人は【主】への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。
6:7 祭司は、【主】の前で彼のために贖いをする。彼が行って咎を覚えるようになる、どのことについても赦される。」

罪の悔い改めが明確にされる時にのみ、救いの信仰は有効になります。罪を犯しつつ、あるいは、罪をそのままにして、イエス・キリストを信じようとしても、それは有効ではありません。

8~13節、全焼のいけにえの教え

これまでのいけにえは、穀物のささげ物を除いて、みな神に関する面が教えられていました。しかしここからは、祭司やいけにえを献げる人に関することが規定されています。これは9節の「アロンとその子らに命じて言え」という言葉で始められており、「‥‥のおしえは次のとおりである。」というスタイルで教えられています。

レビ6:8 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
6:9 「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。

また、これまでのいけにえは、イスラエルのすべての人々に対して命じられていたのに対して、ここでは直接、民の贖(あがな)いのための仲介として奉仕する祭司たちに対して命じられていることに注目してください。

先ず、この部分には三回、祭壇の火を燃え続けさせなければならないこと、この火を消してはならないことが命じられています。(9、12、13節)

レビ 6:9 「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。

レビ 6:12 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。
6:13 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。

この火は神によって点火された聖なる火であり、この全焼のいけにえは神に対する献身を表わすものですから、献身と信仰によって、聖霊の火を燃やし続けなければならないこと、消してはならないことを教えています。(エペソ4:30、テサロニケ第一5:19)

エペ 4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

Ⅰテサ 5:19 御霊を消してはなりません。

この火は具体的に賛美と礼拝と祈りによって燃やし続けなければなりません。これが今日のクリスチャンの霊的祭壇です。これによって献身を明らかにしていく必要があります。

10節には、祭司が祭壇の灰を取り出す時の服装が記されています。ここでは特に、下着が記されています。祭司の衣は、二種類の繊維で混紡することが禁じられています。

レビ 6:10 祭司は亜麻布の衣を着なさい。また亜麻布のももひきをその身にはかなければならない。そして、祭壇の上で火が焼き尽くした全焼のいけにえの脂肪の灰を取り出し、祭壇のそばに置きなさい。

これは汚れが混ること、神以外の何物かが混って不純になること、二心になることを意味するからです。(ヤコブ1:6~8、4:8)

ヤコブ 1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

ヤコブ 4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

また毛の下着を着ることも禁じられています。虫がつきやすいからです。それはシミや汚れを意味すると考えられたからでしょう。(エペソ5:27、ペテロ第二2:13、3:14)

エペ 5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

Ⅱペテ 2:13 彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。

Ⅱペテ 3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

祭司は必ず、亜麻布の衣を着て仕えなければなりませんでした。このことは、人が神のみ前に出る時に、どのような衣を着るべきかを教えています。
主イエスは、天の御国について、婚礼の礼服を着る必要があることを教えています。(マタイ22:11~14)

マタ 22:11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。
22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

勿論、これは象徴的な意味で、神の義の衣を着るべきことを教えているのです。パウロは、「主イエス・キリストを着なさい。」(ローマ13:14)と言い、

ロマ 13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

「新しい人を着る」(エペソ4:24、コロサイ3:10)ようにとすゝめています。

エペ 4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

コロ 3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

ヨハネの黙示録では、3章18節で、「白い衣」を買う(信仰によって得る)ようにすゝめており、

黙 3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

16章15節では、「身に着物を着け」ること、

黙 16:15 ──見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである──

19章8節では、「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」とあります。

黙 19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」

7章14節では、「その衣を小羊の血で洗って白くしたのです。」と記しています。

黙 7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

レビ記では、祭司の衣について言われていますが、新約ではすべての真のクリスチャンは祭司ですので、聖なる霊の衣をつけて神を賛美し、礼拝すべきなのです。

14~23節、穀物のささげ物の教え

ここには二つのことについて言われています。

1. 14~18節、これは一般の人のささげ物です。

15節、これは、ひとつかみの小麦粉と油と乳香とを一緒にして、主へのなだめのかおりとして、祭壇の上で焼いて煙にしました。

レビ 6:14 穀物のささげ物のおしえは次のとおりである。アロンの子らは祭壇の前でそれを【主】の前にささげなさい。
6:15 すなわち、その中から穀物のささげ物のひとつかみの小麦粉と油を取り出し、穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、【主】へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい。

穀物は神の恵みによるものですが、また人の働きも含まれていますので、このささげ物には人の思い上がりの高ぶりが混ざりやすいのです。それで、油と乳香を一緒にささげなければなりません。すなわち、人の働きが加わる時には、聖霊によって潔められていなければならないのです。そうでなければ、神に喜ばれ、受け入れられることがありません。カインとアべルのささげ物はその例です。

レビ 6:16 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。

16節、その残りのものは、祭司たちが食べることができます。
しかしそれには、いくつかの条件があります。

①、聖なる所、会見の天幕の庭で食べるべきこと
②、種を入れないパンにして食べるべきこと

これは、祭司の生活が聖なるものでなければならないことを示しています。それにまた、神と人とのために奉仕する者が、そのささげ物によって生活すべきことを示しています。(コリント第一9:6~14、テモテ第二2:4~6)

Ⅰコリ
・・・・・
9:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。
9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。

Ⅱテモ 2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
2:6 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。

17、18節、このささげ物は、罪のためのいけにえや、罪過のためのいけにえと同じように最も聖なるものとされており、これに触れるものはみな、聖なるものとなります。

レビ 6:17 これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。
6:18 アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、【主】への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」

これは、聖なるものに触れる人は自らを潔くしなければならないということです。
しかしここで、ささげられた物は、ささげた人自身を表していますから、祭壇にのせたささげ物はすなわち全く自分自身であり、全く自分自身をささげたなら、信仰によって、神の潔めの恵みを受け取るべきであることを意味しています。
全き献身をしたのち、いつまでも信仰に立たないでいることは、神の聖化の力が不充分であると疑っていることになります。神は、不真実で、好い加減なお方ではありません。神は真実ですから、必ず約束したことをしてくださいます。(テサロニケ第一5:24)

Ⅰテサ 5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

ですから、私たちは、神を、人を真剣に確実に扱われるお方であると認識して信じなければなりません。

2. 19~23節、祭司による穀物のささげもの

レビ 6:19 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
6:20 「アロンとその子らが、その油そそがれる日に、【主】にささげるささげ物は次のとおりである。小麦粉、十分の一エパを常供の穀物のささげ物とする。半分は朝、他の半分は夕方の分である。
6:21 それを油でよくこねて平なべの上で作らなければならない。それを、粉々にした焼いた穀物のささげ物として持って入らなければならない。【主】へのなだめのかおりとしてささげなければならない。

これは、アロンとその子らが大祭司として油注がれる任職の日のささげ物について語っています。

「常供の穀物のささげ物」とは、彼が大祭司の任職中に、毎日、朝夕にささげるものです。このささげ物は主のために完全に焼いて煙にしなければなりません。(22節)

レビ 6:22 さらに、彼の子らのうち、油そそがれて、彼の跡を継ぐ祭司は、このことをしなければならない。永遠の定めによって、それを【主】のために完全に焼いて煙にしなければならない。
6:23 このように、祭司の穀物のささげ物はすべて全焼のささげ物としなければならない。これを食べてはならない。」

これは大祭司が自分とすべての祭司たちのためにささげるものです。特に、これは重要です。

教会では、信徒の信仰の成長のため、たえず信仰の訓練をしなければなりませんが、牧師や伝道者などのリーダーも、いつも潔められて、霊的成長をする必要があります。リーダーが停滞したり、堕落すると、必ず信徒も停滞し、堕落を始めます。

24~30節、罪のためのいけにえの教え

レビ 6:24 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
6:25 「アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、【主】の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。
6:26 罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。
6:27 その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。
6:28 さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。
6:29 祭司たちのうち、男子はみな、これを食べることができる。これは最も聖なるものである。
6:30 しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。

このいけにえは「最も聖なるものである」(25、29節)と言われています。これは聖なるものと俗なるものとを明確に区別することを教えています。

まず、このいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふられなければなりません。

私たちにとって、罪のためのいけにえはイエス・キリストです。主は全く御父の御旨に従われ、完全ないけにえとなってくださった故に、最も聖なるいけにえです。(ピリピ2:6~8、ヘブル5:8~10)

ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

ヘブル 5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
5:10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

このいけにえは、食べなければならないものと、食べてはならないものとがあります。

①、食べなければならないもの(26節)

レビ 6:26 罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。

このいけにえでは、脂肪を除いて、残りの肉は祭司の分となりました。これは聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければなりませんでした。
これは人間の側におけるイエス・キリストを受け入れる信仰を表しています。(ヨハネ6:53~57)

ヨハ 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

②、食べてはならないもの(30節)

レビ 6:30 しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。

聖所での贖(あがな)いをするために、その血が会見の天幕に持っていかれた罪のためのいけにえは食べてはなリません。これは神にささげられた分であり、その血は至聖所の贖罪(しょくざい)のふたに注がれ、その肉は火で焼かれました。これは神の側の分です。

私たちは信仰生活において、しばしば、神の権威に関わる分野にまで踏み入ろうとしがちです。神が赦された罪を自分で赦さなかったり、神の導きを待たずに自分勝手に歩み出しやすいのです。信仰には、神の側のことと、人の側のことがあります。私たちは神の権威を侵してはなりません。それはバベルの塔と同じほどの高ぶりとなるのです。

27節、そのいけにえに触れたものは、聖なるものとなります。人はみな、真にキリストに触れるとき、潔くなります。十二年間長血をわずらっていた女(ルカ8:43~48)も、サマリヤの女(ヨハネ4章)も、べテスダの池のほとりにいた三十八年間の病人(ヨハネ5:1~9)も、マグダラのマリヤも、そのほか大勢の人々がイエス・キリストに信仰の手で触れることによって、潔くせられたのです。

レビ 6:27 その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。
6:28 さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。

27、28節では、いけにえの血が少しでもかかった着物は聖なる所で洗い、それを煮た土の器はこわさなければなりません。
青銅の器なら、よくこすって磨いて、水で洗うように命じられています。これは、このいけにえによって、潔められたものが、世俗のものに使われないためです。ここにも神の聖潔のみこころが示されています。レビ記10章では、このことを守らなかったアロンの子ナダブとアビフは、主の前で死んでいます。パウロもテモテ第二2章21節で、クリスチャンが自分自身を聖めて、尊いことに使われる器となることをすゝめています。

Ⅱテモ 2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

私たちはこの世で生活をしていますが、国籍を天にもつ聖なるものですから(ピリピ3:20)、聖なる生き方を続けることが大切です。

ピリ 3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

あとがき

私たちクリスチャンは、聖書の価値をどれくらいに値積もっているのでしょうか。十四世紀から十五世紀のヨハン・フスは聖書を守ったために殉教しました。今日、私たちは聖書を、教会に持っていく道具の一つくらいに思っていないでしょうか。聖書の探求がおろそかにされる時、いつでもクリスチャンの信仰は空洞化し、権力争いや儀式主義や資本主義の横道に曲がっていってしまいました。
一、二の聖句や聖書中の有名な物語を知っているクリスチャンは大勢いるかもしれません。しかし、聖書全体に通じているクリスチャンはどれくらいいるでしょうか。聖書全体に通じるためには少なくとも、十回以上通読する必要があります。
さらに聖書は、読むだけでなく、信じるだけでなく、生活の中で活用されなければなりません。みことばは各々の生活の中で行われてこそ、光となり、力となります。ここに到達しなければ、みことばが分かった、ということにはなりません。

(まなべあきら 1990.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、Pieter Mortier I (1661–1711)によりオランダで1700年に出版された”illustrated print bible”の挿絵より「Burnt offering(全焼のいけにえ)」(Phillip Medhurst Collection, Wikimedia Commonsより)


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