聖書の探求(076) レビ記 7章 罪過のためのいけにえと、和解のいけにえ

イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型での祭壇(2013年の訪問時に撮影)


7章は、いけにえの教えの最後の章で、罪過のためのいけにえと、和解のいけにえについて記しています。

1~10節、罪過のためのいけにえ

7節をみると、罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえの類似性を示しています。

レビ 7:7 罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえについてのおしえは一つである。そのいけにえはそれをもって贖いをする祭司のものとなる。

罪のためのいけにえについては5章14節~6章7節にくわしく記されていますが、ここでは二つのことが強調されています。

1、主にささげる分について

レビ 7:1 罪過のためのいけにえのおしえは次のとおりである。これは、最も聖なるものである。

主にささげるものは二つです。

①、一つは、いけにえの血です。(2節)

レビ 7:2 罪過のためのいけにえは、全焼のいけにえをほふる場所で、ほふらなければならない。そして、その血を祭壇の回りに注ぎかけなければならない。

これはキリストの十字架の血による贖(あがな)いです。キリストの血による救いの外に救いはありません(使徒4:12)。

使 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

これをもし、すりかえて、自分の力によって救いを完成しようとするなら、神の道からはずれてしまい、私たちはつまずき倒れてしまいます。どんな時にも、キリストの血に信頼することこそ、神に受け入れられる道なのです。

②、もう一つは、脂肪の全部です。

レビ 7:3 それから取った脂肪を全部、すなわち、あぶら尾と内臓をおおう脂肪、
7:4 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなければならない。
7:5 祭司は、それらを祭壇の上で【主】への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。これは罪過のためのいけにえである。

当時、脂肪はいけにえの中で、最も良い部分とされていました。それ故、脂肪をささげることは、神に最も良いものをささげるべきことを教えています。クリスチャンは毎日、自分の最も良い時間、最も良い能力、最も良い生涯を神にささげるべきです。神には、あまり物や、残り物ではなく、最も良い物をささげたいものです。それでこそ、神を喜ばせることができるのです。
確かに、定年退職したあとの生涯を神のために用いるというのも尊いことですが、若い人はぜひ、神のために最も働くことができるその若い生涯を神にささげることを考えていただきたいのです。神にささげるのに、なにも停年まで待つ必要はありません。

2、祭司が受ける分(6~10節)

7:6 祭司たちのうち、男子はみな、それを食べることができる。それを聖なる所で食べなければならない。これは最も聖なるものである。
7:7 罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえについてのおしえは一つである。そのいけにえはそれをもって贖いをする祭司のものとなる。

これもまた、二つあります。

一つは、全焼のいけにえの皮(8節)、

7:8 祭司が、ある人の全焼のいけにえをささげるとき、そのささげた全焼のいけにえの皮はその祭司のものとなる。

もう一つは、動物のいけにえと一緒にささげた穀物のささげ物です。

7:9 さらに、かまどで焼いた穀物のささげ物全部、およびなべや平なべで作られたものはみな、それをささげる祭司のものとなる。
7:10 また、穀物のささげ物で油を混ぜたものも、かわいたものもみな、ひとしくアロンの子ら全員のものとなる。

このことは、直接、神のために奉仕する者はささげ物によって生活すべきことを教えています(コリント第一9:14)。

Ⅰコリ 9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。

できることなら、牧師や伝道者は、神に仕えることに専念するために、ささげ物によって生活をすることが望ましいのです。また教会員は、自分たちが牧師の家族を養っているのだというような高ぶった思いからささげるのではなく、主に献げているのだという信仰の意識をはっきり持ってささげるべきです。そうしないと、教会の中に権力争いなどが必ず持ち上がってきます。またささげ物によって生活する牧師の家族は教会員に対してこびへつらうような説教をしないようにしなければなりません。あくまでも主から養いをいただいているという信仰を失ってはいけません。とかく、主イエス抜きの、牧師と信徒の関係になってしまって、争いを起こしているケースが少なくありません。

ここでは、「ささげる」ということの意味が強く強調されているように思われます。クリスチャンにとって、主にささげることができるのは大きな特権であり、祝福です。もし、私たちが主にささげることをしなかったら、私たちの時間も、富も、健康も、才能も、何に使ってしまっているでしょうか。主にささげることは決して損をすることではありません。それは大いなる祝福なのです。主にささげることをそのように感じられるようになる時、あなた自身がヨセフのように祝福された人になっています(創世記39:2)。

創 39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

マラキ書3章10~12節を、ぜひ読んでください。そこに、あなたが祝福を受ける道が約束されています。

マラ 3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
3:11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の【主】は仰せられる──
3:12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の【主】は仰せられる。

また、牧師は主にささげられたものを、御国の拡大のために最大限、賢明に活用すべきです。しかし、これらのささげ物のすべての根底に、主イエスによって罪赦され、罪が潔められたという確信がなければなりません。私たちは、ささげ物によって、罪赦され、潔められ、天の御国に入れられるのではないからです。ささげ物はすべて、天の御国に入れられる者とされた者の感謝の表れであり、神から与えられたものの一部を神にお返しすることなのです。このことを間違えないようにしてください。

11~21節、和解のいけにえの教え(三種類のいけにえ)

レビ 7:11 【主】にささげる和解のいけにえのおしえは次のとおりである。

和解のいけにえは三種類あります。

①、感謝のいけにえ(12節)‥‥これは神に対して感謝を表すいけにえです。

7:12 もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい、さらに油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪型のパンをささげなければならない。

②、誓願のいけにえ(16節)‥‥神の助けを求めて、神にささげると約束したいけにえです。

7:16 もしそのささげ物のいけにえが、誓願あるいは進んでささげるささげ物であるなら、彼がそのいけにえをささげる日に食べなければならない。残った余りを、翌日食べてもさしつかえない。

③、進んでささげるささげ物(16節)‥‥これは神のいつくしみ深いあわれみと忠実さに対して、自発的にささげるささげ物です。

すべてのいけにえ(全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、和解のためのいけにえ)のうち、ささげた者(礼拝者)がそれに与かって食べることができるものは、和解のいけにえだけです。それ故、このいけにえは特殊ないけにえです。このいけにえは、主の分、祭司の分、礼拝者の分と、区別されています。

主の分は脂肪で、祭壇の上で焼かれます(22~25節)。

レビ 7:22 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
7:23 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。
7:24 死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。
7:25 すべて、火によるささげ物として【主】にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。

祭司の分は揺り動かした胸と右のももで(30~36節)、彼らがそれを食べます。

レビ7:30 その者は、【主】への火によるささげ物を、自分で持って来なければならない。すなわち彼は、その脂肪を胸に添えて持って来なければならない。そしてその胸を奉献物として【主】に向かって揺り動かしなさい。
7:31 祭司はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その胸はアロンとその子らのものとなる。
7:32 あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。
7:33 その右のももは、アロンの子らのうち、和解のいけにえの血と脂肪をささげる者の受ける分として、その人のものとなる。
7:34 それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。」
7:35 これは、モーセが彼らを近づけて、祭司として【主】に仕えさせた日から、アロンとその子らが、【主】への火によるささげ物のうちから、受ける分であって、
7:36 それは、彼らが油そそがれた日から永遠のおきてとして、代々イスラエルの人から取って彼らに与えるよう、【主】が命じられたものである。

礼拝者は残りの肉を制限つきで受けることができます(15~19節)。

レビ 7:15 和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。
7:16 もしそのささげ物のいけにえが、誓願あるいは進んでささげるささげ物であるなら、彼がそのいけにえをささげる日に食べなければならない。残った余りを、翌日食べてもさしつかえない。
7:17 いけにえの肉の残った余りは三日目に火で焼かなければならない。
7:18 もし三日目にその和解のいけにえの肉を食べるようなことがあれば、それは受け入れられず、またそれをささげる人のものとは認められない。これは、汚れたものであり、そのいくらかでも食べる者はその咎を負わなければならない。
7:19 また、何であろうと汚れた物に触れたなら、その肉は、食べてはならない。それは火で焼かなければならない。その他の肉ならば、きよい者はだれでもその肉を食べることができる。

1、感謝のいけにえ(12~15節)

これは神から受けた恵みに対する感謝、危機から救い出された感謝(詩篇50:15、107:22、116:17)などとしてささげられます。

詩 50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」

詩 107:22 彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。

詩 116:17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、【主】の御名を呼び求めます。

このささげものには獣のいけにえの外に、数種類の輪型のパンとせんべいを一緒にささげることになっています。

レビ 7:12 もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい、さらに油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪型のパンをささげなければならない。
7:13 なお和解のための感謝のいけにえに添えて、種を入れた輪型のパンをささげなさい。
7:14 そのうちから、おのおののささげ物の一つを取って、【主】への奉納物として、ささげなければならない。これは、和解のいけにえの血を注ぎかける祭司のものとなる。

これらの菓子類には、油を塗ったり、混ぜたりしていますが、乳香が加えられていませんので、穀物のささげ物としては扱われていません。

さらに、「種を入れない輪型のパン」(12節)と「種を入れた輪型のパン」(13節)との両方がささげられていることに注意しましょう。「種を入れたパン」は民の日常食でしたから、これは民の日常食を神にささげることを意味しています。しかし、これは祭壇の上に置くことができませんから、祭司と民のものとなりました。このことは一体、何を意味しているのでしょうか。これは、和解のいけにえは霊的交わりの行為という性格を持っていることを示しています。このことは3章では、まだはっきりと示されていなかったことです。しかし、ここではっきりと、神と祭司と礼拝者との霊的交わりの重要性が示されたのです。

とかく、クリスチャンの信仰生活も、形式的になりがちです。聖書を読むのも、祈るのも、形ばかりになり、教会の集会に出席しても、主と交わることなしに、むなしい心で家に帰ってくるということがないでしょうか。聖書を読むことも、祈ることも、教会出席も、主と交わるための恵みの手段です。その手段を目的にしてしまうと、私たちは主と生きた交わりをすることなしに、むなしい形式的信仰で自己満足するようになってしまいます。そこには信仰の成長も勝利もありません。旧約時代のいけにえですら、神と交わるための手段として用いられていたのです。この信仰の手段を目的にする時、律法主義になってしまったのです。

さらに、15節では、感謝のいけにえの肉はその日のうちに食べなければならず、少しでも翌朝まで残しておいてはならないと言われています。

7:15 和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。

これは申命記12章7、12、節に記されているように、

申 12:7 その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、【主】の前で祝宴を張り、あなたの神、【主】が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

申 12:12 あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。

感謝すべきことは物惜しみして何日も取っておくことをせず、友人、隣人、特に貧しい人々を招いて、喜びを分かち合うようにすゝめているのです(ルカ14:12~14)。

ルカ 14:12 また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。
14:13 祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。
14:14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」

感謝な喜ばしいことを一人占めにしていてはならないのです。

2、誓願や進んでささげるささげ物(16~21節)

レビ 7:16 もしそのささげ物のいけにえが、誓願あるいは進んでささげるささげ物であるなら、彼がそのいけにえをささげる日に食べなければならない。残った余りを、翌日食べてもさしつかえない。
7:17 いけにえの肉の残った余りは三日目に火で焼かなければならない。
7:18 もし三日目にその和解のいけにえの肉を食べるようなことがあれば、それは受け入れられず、またそれをささげる人のものとは認められない。これは、汚れたものであり、そのいくらかでも食べる者はその咎を負わなければならない。
7:19 また、何であろうと汚れた物に触れたなら、その肉は、食べてはならない。それは火で焼かなければならない。その他の肉ならば、きよい者はだれでもその肉を食べることができる。
7:20 人がその身の汚れがあるのに、【主】への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。
7:21 また、人が、何であろうと汚れた物に、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた動物、あるいはすべて汚れた忌むべき物に触れていながら、【主】への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。」

この場合は、翌日食べてもさしつかえないことになっています。

これらのことからして、和解のいけにえは、主との喜ばしい交わりと礼拝を通して、神の民が互いに喜びの交わりをかわすことを目的としていることが分かります。このことはキリストの十字架のタテの木とヨコの木を合わせた意味を持っているように思われます。イエス・キリストはご自分が十字架にかかられることによって、私たちを神との関係においては神の子としてくださり、人との関係においては神の家族としての交わりを与えてくださったのです。神に対する愛は必ず、人に対する愛となって現われてこなければなりません。それは主イエスがマタイの福音書22章37~39節で、「主を愛せよ。」という戒めと「あなたの隣人を愛せよ。」という戒めを並列して話されたことでも分かります。

マタ 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

神との関係は必ず、人との関係の中に現われてこなければなりません。

しかし、18~21節では、一つの警告がなされています。それは、その交わりの中には汚れがあってはならないことです。

レビ 7:18 もし三日目にその和解のいけにえの肉を食べるようなことがあれば、それは受け入れられず、またそれをささげる人のものとは認められない。これは、汚れたものであり、そのいくらかでも食べる者はその咎を負わなければならない。
7:19 また、何であろうと汚れた物に触れたなら、その肉は、食べてはならない。それは火で焼かなければならない。その他の肉ならば、きよい者はだれでもその肉を食べることができる。
7:20 人がその身の汚れがあるのに、【主】への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。
7:21 また、人が、何であろうと汚れた物に、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた動物、あるいはすべて汚れた忌むべき物に触れていながら、【主】への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。」

主の戒めを破ったり(ヨハネ15:10)、

ヨハ 15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

この世の汚れを持ち込まないことです(ローマ12:2、コリント第二7:1)。

ロマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

Ⅱコリ 7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

22~38節、和解のいけにえ‥‥主のものと祭司のもの

この箇所で、1章から続いてきた「いけにえ」についての規定が終わります。

23~27節には、いけにえの脂肪と血は、すべて主にささげるものであって、それは決して人が食べてはならないことが記されています。

レビ 7:22 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
7:23 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。
7:24 死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。
7:25 すべて、火によるささげ物として【主】にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。
7:26 また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。
7:27 どんな血でもこれを食べる者はだれでも、その者はその民から断ち切られる。」

ここには、なんとすばらしい真理が表されていることでしょうか。
脂肪は最も良いものです。礼拝者は自分の最も良いものを神にささげる時、神は最も良いもの(マタイ7:11、ルカ11:13)、すなわち聖霊を下さるのです。

マタ 7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

ルカ 11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

クリスチャンの中には、聖霊の内住経験に確信がもてない人が、かなりいるように思われます。イエス・キリストなら、はっきりと信じることができるのに、聖霊のことになると分からなくなってしまう人がいます。しかし、聖霊とはキリストの御霊です。それ故、キリストを信じて、聖霊を信じないということはあり得ないことですが、この信仰がはっきりしないことによって、クリスチャンは力を失っています。

また、聖霊について話すことは、熱狂主義か、異端にでもなってしまうかのように思い込んでいる人もいます。確かに、マルキオンのように聖霊を強調したところから、異端に陥った人もいます。しかし「熱さにこりて、ナマスを吹く」ようなことをして、聖霊を排除したら、それこそ異端になってしまいます。パウロは、こう言っています。「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8:9)

さらに、パウロは引き続いて、この御霊がイエスを死者の中からよみがえらせたお方であり、その御霊が私たちの内に住んでいてくださる時、この内住の御霊によって、私たちの死ぬべきからだをも生かしてくださると言っています(ローマ8:11)。

ロマ 8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

それ故、聖霊を拒み、聖霊を内に宿さなかったなら、霊的な信仰生活を営むことができず、よみがえることもできなくなってしまいます。私たちは異端に陥らないで、聖霊の内住経験はできるのですから、恐れず、しつかりと信仰に立ちたいものです。

次に、血は命を表します。そして、それはキリストの十字架の死を意味します。キリストの十字架のいけにえが神に受け入れられることによって、礼拝者は神の命を受けることができるようになったのです。

しかしもし、人が脂肪と血を自分のものにしようとするなら、神の民から断たれてしまいます。これは、今日、私たちが自分の勢力と自分の義によって神に近づこうとして滅ぼされてしまうことに対する警告です。私たちは、脂肪も、血も、そしてその他のすべてのものも、まず神にささげて後に、神から与えられるものであることを自覚しなければなりません。そこには恵みと祝福が満ちていますが、自分の手でわしづかみするような態度には、わざわいが満ちています。

29~34節、いけにえの胸と右のももとは祭司に与えられています。

脂肪と血が、霊的意味で献身と信仰を示すとするなら、胸と右のももは、物をもってするささげものを示しています。それは祭司に与えられ、祭司はそれをもって、神に仕えるのです。

胸は脂肪に添えて、礼拝者が自分で主のところに持ってきます(30節)。そして胸だけは主に向かって揺り動かします。これは主にささげていることを意味しています。ですからこれを揺祭と呼んでいます。

レビ 7:29 「イスラエル人に告げて言え。和解のいけにえを【主】にささげる者は、その和解のいけにえのうちから、そのささげ物を【主】のところに持って来なければならない。
7:30 その者は、【主】への火によるささげ物を、自分で持って来なければならない。すなわち彼は、その脂肪を胸に添えて持って来なければならない。そしてその胸を奉献物として【主】に向かって揺り動かしなさい。
7:31 祭司はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その胸はアロンとその子らのものとなる。
7:32 あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。
7:33 その右のももは、アロンの子らのうち、和解のいけにえの血と脂肪をささげる者の受ける分として、その人のものとなる。
7:34 それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。」

物が沢山あるなら、豊かなささげ物をするとは限りません。パウロはマケドニヤのクリスチャンたちのささげ物について、「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(コリント第二8:2~5)と言っています。豊かな信仰、豊かな感謝から、豊かなささげ物が生まれてきます。マケドニヤのクリスチャンたちは激しい試練と極度の貧困の中でも、惜しみなくささげ、施す信仰を持っていたのです。彼らはパウロの宣教活動を実際的に支えていたのです。彼らの信仰はパウロにとって、大きな励ましとなり、また喜びでした。それがピリピ人への手紙に記されています。

日本は、世界の中で経済大国と呼ばれていますが、教会の数は韓国の半分に過ぎません。クリスチャンの人口は比較できないほどわずかです。送り出している宜教師はスエーデンの四分の一でしかありません。これを見ても、日本がキリスト教において非常に後進国であることがわかります。これは信仰がそれだけしかないことが最大の原因なのです。それ故、まず、日本のクリスチャンが豊かな信仰を持つように育てていくところから始めなければなりません。

35~38節は、これらのいけにえの規定の起源が神にあることを宣言しています。

レビ 7:35 これは、モーセが彼らを近づけて、祭司として【主】に仕えさせた日から、アロンとその子らが、【主】への火によるささげ物のうちから、受ける分であって、
7:36 それは、彼らが油そそがれた日から永遠のおきてとして、代々イスラエルの人から取って彼らに与えるよう、【主】が命じられたものである。
7:37 これは、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、任職と和解のいけにえについてのおしえである。
7:38 これは、モーセがシナイの荒野でイスラエル人に、そのささげ物を【主】にささげるよう命じた日に、【主】がシナイ山でモーセに命じられたものである。

それ故、人はこれらのいけにえが示す真意を変えることができないのです。

旧約のいけにえの儀式そのものは、新約のイエス・キリストを予表するヒナ型です。旧約の儀式は終わっても、キリストの死による贖(あがな)いと、キリストの血と聖霊による新たなる交わりはますます深められていかなければなりません。これこそ、これらのいけにえが示す奥義です。

あ と が き

主イエス様は、私たちが百倍の実を結ぶためには、「正しい(神に対して単一な)、良い(教えられやすい、やわらかい、受け入れやすい)心でみことばを聞くと、それをしっかり守り(他の誘惑に迷わされず)、よく耐えて(せっかちにならず、困難や迫害をも耐え忍び、コツコツと着実に)、実を結ばせるのです。」(ルカ8章15節)と言われました。
短期間、熱心に聖書を学ぶ人は大勢います。しかし実がたわわに実るほど忍耐強く学ぶ人はあまりいません。私たちはすぐれた聖徒を見る時、「あの人はすばらしい、あの人のようになりたい。」と思います。しかし、その人がどんなに長い間、忍耐を重ねてきたかを考えないのです。

聖書を探求することは、そう簡単な仕事ではありません。こうして聖書の探求を書き続けて六年以上が過ぎましたが、こんなうすい冊子を書くのも結構大変な仕事でした。しかしコツコツ書き続けることによって、確かに大きな収穫を得たことは確かです。

(まなべあきら 1990.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


 

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