聖書の探求(077a) レビ記 8章 アロンとその子らの聖別(任職) 式

8章は、アロンとその子らの聖別(任職)式が記されています。1~7章では、主を礼拝するために必要ないけにえについて記されていました。しかし、その礼拝には祭司の仲介が必要だったので、それに続いて祭司の聖別の章が記されているのは適切であると思われます。

さらに、この箇所の儀式的表現や、「そこで、モーセは主が命じられたとおりにした。」(4、9節)という表現はこの書が出エジプト記の続きであることを匂わせています。

レビ 8:4 そこで、モーセは【主】が命じられたとおりにした。会衆は会見の天幕の入口の所に集まった。

レビ 8:9 また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた。【主】がモーセに命じられたとおりである。

祭司については、8~10章に記されていますが、

8章は、祭司の聖別について、
9章は、幕屋における礼拝の開始について、
10章は、ナダブとアビフの事件を通して、不従順を警告しています。

祭司の聖別(任職)式については、出エジプト記28、29、40章にも記されています。

1~9節、祭司の聖別の準備

レビ 8:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
8:2 「アロンと彼とともにいるその子らを連れ、装束、そそぎの油、罪のためのいけにえの雄牛、二頭の雄羊、種を入れないパンのかごを持って来、
8:3 また全会衆を会見の天幕の入口の所に集めよ。」
8:4 そこで、モーセは【主】が命じられたとおりにした。会衆は会見の天幕の入口の所に集まった。
8:5 それで、モーセは会衆に言った。「これは【主】が、するように命じられたことである。」
8:6 それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。
8:7 そして、モーセはアロンに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着けさせた。すなわち、エポデを帯で締め、あや織りのエポデをその上に着けさせた。
8:8 次に、モーセは彼に胸当てを着けさせ、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。
8:9 また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた。【主】がモーセに命じられたとおりである。

祭司の聖別において最も重要なことは、アロンとその子らが、イスラエル人たちによって、祭司として選ばれたのでもなく、また、アロンとその子らが自ら、祭司として聖別したのでもなく、神によって選ばれたことにあります。すなわち、「これは主が、するように命じられたことである。」(5節、ヘブル5:4,5、ヨハネ15:16)

ヘブル 5:4 まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。
5:5 同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。

ヨハ 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

また、祭司はイスラエルを支配するためではなく、イスラエルのために主の御前で仕えるために召されているのです。

ここでは、モーセは神のみことばを預かる預言者の働きをしており、さらに、アロンとその子らに祭司職が与えられようとしています。そして、王としての支配権はまだ啓示されておらず、神の御手の中に秘められています。これらの預言者、祭司、王の三職分は、イエス・キリストにおいて完全に成就したのです。

①、預言者なるキリスト(ヨハネ1:1,14、6:68、17:8、ヘブル1:2)

ヨハ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハ 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハ 6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

ヨハ 17:8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

ヘブル 1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

②、祭司なるキリスト(ヘブル2:17、3:1、4:14,15、5:5、7:25、9:11~15)

ヘブル 2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

ヘブル 3:1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

ヘブル 4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ヘブル 5:5 同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。

ヘブル 7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

ヘブル 9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。

③、王なるキリスト(マタイ2:2、21:5、マルコ15:2、ヨハネの黙示録3:7、5:5、11:15、17、20:4、6)

マタ2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

マタ 21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

マル 15:2 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」

黙 3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。

黙 5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

黙 11:15 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

黙 20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

黙 20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

さて、この任職式は会見の天幕の入口に集まって、全会衆の前で公けに行われました。モーセは神の代理人としてこれを執行しました。

6節、まず、アロンとその子らを水で洗い、潔めました。

レビ 8:6 それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。

これは神の臨在の御前に出るのに、汚れたままでは死を意味したからです(出エジプト記30:17~21)。

出 30:17 【主】はまたモーセに告げて仰せられた。
30:18 「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。
30:19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。
30:20 彼らが会見の天幕に入るときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、【主】への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、
30:21 その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」

パウロは、「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)と勧告しています。

人は自分の汚れがどんなに恐ろしい結果をもたらすか、気づいていません。ですから、平気で高慢な態度をとるのです。このような態度は民数記12章のミリヤムとアロンの姿に、また民数記16章のコラ、ダタン、アビラム、オンたちの姿の中に見られます。高慢の汚れは自己卑下や劣等感を生むかと思えば、他方でネタミも生んでいます。こうした汚れが自らを滅ぼしていくのです。神と人の前で奉仕する者は高ぶりやすくなるので、必ず、罪汚れが洗われ、深められていなければなりません。

次に、モーセはアロンに祭司としての聖なる衣服(長服、飾り帯、青服、エポデ)を着せました。

祭司が神の前で仕える時には、衣服に不注意や不従順があっても致命的でした(出エジプト記28:35、43)。

出 28:35 アロンはこれを務めを行うために着る。彼が聖所に入り、【主】の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死なないためである。

出 28:43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って、死ぬことのないためである。これは、彼と彼の後の子孫とのための永遠のおきてである。

ヨハネの黙示録7章では、神の御座の前に立って仕えている大群衆はみな、小羊の血で洗った白い衣を着ています。主イエスはまた、婚礼の時に礼服を着てこなかった者を外の暗闇に放り出すように命じておられます(マタイ22:11~13)。

マタ 22:11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。

クリスチャンはいつも、救いの確信を握って、キリストの義の衣を着て、主に仕えていなければなりません。不信仰や疑いを抱きつつ、主に仕えていてはいけません。

さらに8節で、モーセは胸当てと、その胸当てにウリムとトンミムを入れています。

レビ 8:8 次に、モーセは彼に胸当てを着けさせ、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。

このウリムとトンミムがどのようなものであったかは、はっきりしていません。ある人は、これは平らなもので、片面にウリム(アーテル「のろう」から生じた言葉)、他面にトンミム(ターマム「完全な」から生じた言葉)が書かれていたと言っています。祭司はこのウリムとトンミムで、神のみこころを受けることができたと言われています。このウリムとトンミムはイスラエルの初代の王サウルの時で終わり(サムエル記第一28:6)、捕囚の後の時代まで再び聖書中に現われていません(エズラ記2:63、ネヘミヤ記7:65)。

Ⅰサム 28:6 それで、サウルは【主】に伺ったが、【主】が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、

エズ 2:63 それで、総督は、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならない、と命じた。

ネヘ 7:65 それで、総督は、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならない、と命じた。

今日、私たちにとってのウリムとトンミムは、みことばと聖霊です。私たちはみことばと聖霊によって神のみこころを深く知ることができます。それ故、私たちがもっと深く神を知るために、もっとみことばと聖霊に親しみ、忠実でありたいものです。そしてこのことが、神と人とのために働く者にとって最も重要なことなのです。

10~36節、七日間の聖別(任職)式

1、10~13節、油そそぎによる聖別

レビ 8:10 ついで、モーセはそそぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油をそそいだ。こうしてこれらを聖別した。
8:11 さらにそれを祭壇の上に七たび振りかけ、祭壇とその用具全部、また洗盤とその台に油をそそいで、これらを聖別した。
8:12 また、そそぎの油をアロンの頭にそそぎ、油をそそいでアロンを聖別した。
8:13 次に、モーセはアロンの子らを近づかせ、彼らに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、彼らにターバンを巻きつけさせた。【主】がモーセに命じられたとおりである。

モーセは幕屋とその中にあるすべてのもの、祭壇と洗盤に油をそそぎました。また大祭司となるアロンの頭に油をそそいでいます。しかしアロンの子らには油がそそがれていません。

この「油をそそぐ」はへブル語で「マーシャク」で、この語から「油そそがれた者」を表すメシヤという語が生まれました。この油は聖霊のしるし(ヨハネの手紙第一2:27、コリント第二1:21,22)です。

Ⅰヨハ 2:27 あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

Ⅱコリ 1:21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

この油そそぎは、全く神のものとなって深められることと、神の聖なる奉仕のために必要な神の力を受けることを意味しています。私たちは聖霊の油そそぎを受けることによって、神のために効果ある働きをすることができるようになります。

2、14~28節、三つのいけにえ

①、14~17節、アロンとその子らのための罪のためのいけにえ

レビ 8:14 ついで彼は罪のためのいけにえの雄牛を近寄せた。そこでアロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。
8:15 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした。
8:16 モーセはさらに、その内臓の上の脂肪全部と肝臓の小葉、二つの腎臓とその脂肪を取り、それを祭壇の上で焼いて煙にした。
8:17 しかし、その雄牛、すなわちその皮とその肉とその汚物は、宿営の外で火で焼いた。【主】がモーセに命じられたとおりである。

人間の祭司はまず自分のために罪のためのいけにえをささげなければなりませんでした。14節で、アロンとその子らがいけにえの雄牛の上に手を置いているのは、雄牛が彼らの身代わりとなって、いけにえになることを意味しています。それ故、あくまでも人間の祭司は予表であって不十分なのです。しかしイエス・キリストはアロン系の祭司ではなく、全く罪のないお方である故に、その祭司としての働きは完全です(ヘブル4:16~5:10、9:11~15、23~28、10:10~25)。

ヘブル 5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
5:10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

ヘブル 9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。

ヘブル 9:23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
9:25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
ヘブル 10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
10:11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
10:15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
10:16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
10:17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
10:18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

②、18~21節、全焼のいけにえ

レビ 8:18 次に、彼は全焼のいけにえの雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。
8:19 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を祭壇の回りに注ぎかけた。
8:20 さらに、その雄羊を部分に切り分け、モーセはその頭とその切り分けたものと内臓の脂肪を焼いて煙にした。
8:21 それから、その内臓と足を水で洗い、モーセはその雄羊全部を祭壇の上で焼いて煙にした。これはなだめのかおりとしての全焼のいけにえで、【主】への火によるささげ物であった。【主】がモーセに命じられたとおりである。

これはすでに解説してきたように、全き献身を表しています。

③、22~29節、任職のいけにえ

レビ 8:22 次に、彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。
8:23 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、それをアロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った。
8:24 さらに、モーセはアロンの子らを近づかせ、その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗り、モーセはその血の残りを祭壇の回りに注ぎかけた。

このいけにえは、これまでのいけにえの規定の中に出てこなかったものです。これは和解のいけにえとよく似ているところがあります。「任職」と訳されているへブル語は「ミリュー・イム」で、「満たす」という意味があります。すなわち、33節の「あなたがたを祭司職に任命する」は、「あなたがたの手を満たす。」という意味になります。

レビ 8:33 また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。

これは、祭司が神のみことばを十分に注意深く聞き、聖いささげものによって手を満たして奉仕し、聖所を歩きまわらなければならないということです。

それ故、23,24節で、血は祭司たちの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗られました。これらのことは、今日、クリスチャンにも必要です。

神のみことばを聞く耳が潔められていなければなりません。

神のみわざを行う手も、神の恵みで満たされていなければなりません。

神の道を歩む足も、潔められていなければなりません。

これらの三箇所は、人間の全人格を代表するものとして血が塗られています。

レビ 8:25 それから彼はその脂肪、すなわちあぶら尾、それと内臓の上の脂肪全部、また肝臓の小葉、および二つの腎臓とその脂肪、それからその右のももを取った。
8:26 それにまた、【主】の前にある種を入れないパンのかごから、種を入れない輪型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個とを取り、それをその脂肪と右のももの上に置いた。
8:27 それから、彼は、その全部をアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として【主】に向かって揺り動かした。
8:28 ついで、モーセはそれらを彼らの手のひらから取り、祭壇の上で、全焼のいけにえとともにそれを焼いて煙にした。これらは、なだめのかおりとしての任職のいけにえであり、【主】への火によるささげ物である。
8:29 モーセはまた、その胸を取り、奉献物として【主】に向かって揺り動かした。これは任職のいけにえの雄羊のうちからモーセの分となるもので、【主】がモーセに命じられたとおりである。

27節では、モーセは25,26節のささげものにする全部を取って、アロンとその子らの手に満たしました。祭司たちはそれを主にささげ、あるものは全焼のいけにえにし、また他のものは主に向かって揺り動かしました。このことは、神に仕える者の手は常に、聖いもので満たされていなければならないことを示しています。これはクリスチャンの生活そのもののことです。

3、30~36節、七日間の聖別

レビ 8:30 それから、モーセはそそぎの油と、祭壇の上の血を取り、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束の上に振りかけて、アロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束を聖別した。
8:31 そして、モーセはまた、アロンとその子らに言った。「会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。そしてそこで、それを任職のかごにあるパンといっしょに食べなさい。私が、アロンとその子らはそれを食べよと言って命じたとおりに。
8:32 しかし、肉やパンの残りは火で焼かなければならない。
8:33 また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。
8:34 きょうしたことは、あなたがたの贖いをするように【主】が命じられたとおりである。
8:35 あなたがたは会見の天幕の入口の所で、七日の間、昼も夜もとどまり、【主】の戒めを守らなければならない。死なないためである。私はそのように命じられたのである。」
8:36 こうしてアロンとその子らは、【主】がモーセを通して命じられたことを残らず行った。

30節、これらのいけにえをささげて後、モーセは血と油とを混じえてアロンとその子らとに注ぎました。こうして初めて主によって養われることを経験しました。アロンとその子らは任職式の七日間、会見の天幕の入口から外へ出ることを許されませんでした。彼らはそこで、いけにえの肉とパンを食べ、残りは火で焼かなければなりませんでした。そこで、彼はたえず神によって養われることを学びました。このことは私たちも学ぶべきことではないでしょうか。

主イエスは、いけにえとしてほふられる前に聖霊の油を注がれましたが(マタイ3:13~17、マルコ1:9~11、ルカ3:21~22)、弟子たちはそうではありませんでした。

マタ 3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

マル 1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

ルカ 3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

弟子たちには、主イエスの死と復活の後に、彼らの上に聖霊が注がれたのです。(使徒2章、ヨハネ7:39、16:7)

使 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

ヨハ 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

ヨハ 16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

(まなべあきら 1990.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、1890年に出版された”Holman Bible”の挿絵より「Consecration of Aaron and His Sons(アロンとその子らの聖別)」(Wikimedia Commonsより)


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