聖書の探求(078b) レビ記 11章 食物によって身を汚さないための律法

この章は、神の民が食物によって身を汚さないようにという定めですから、食物の律法ということもできるし、身をきよく守るための律法ということもできます。

神はこの律法によって、三つのことを教えようとしておられます。

第一は、神が神の民の肉体の健康を顧みられていることです。

神は民の身体をも贖(あがな)われました。ですから、霊魂とともに肉体にも主の関心が注がれているのです。パウロはクリスチャンの復活は霊魂だけでなく、肉体にも及ぶと言っています(コリント第一15:35~54)。

Ⅰコリ 15:35 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
15:36 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
15:37 あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。
15:38 しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
15:39 すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。
15:40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、
15:41 太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
15:46 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
15:48 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
15:49 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。

ここには、古くから神によって定められた最良の食事の方法が記されていますが、今日、ぜいたくな社会に生きている私たちは、自分の肉体もまた主イエスによって贖(あがな)われた神の神殿である(コリント第一6:19,20)ことを思って、食事においても節制し、慎しみ深くありたいものです。

Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

ダニエルはそういうところまで心遣いをした人でした(ダニエル書1:5~16)。

ダニ 1:5 王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした。
1:6 彼らのうちには、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。
1:7 宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。
1:8 ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。
1:9 神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。
1:10 宦官の長はダニエルに言った。「私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう。」
1:11 そこで、ダニエルは、宦官の長がダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤのために任命した世話役に言った。
1:12 「どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。
1:13 そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。」
1:14 世話役は彼らのこの申し出を聞き入れて、十日間、彼らをためしてみた。
1:15 十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。
1:16 そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。

第二に、イスラエル民族は食事や衣服においても、聖別された特定の民であることを求められたのです。

食事はしばしば罪深いぜいたくや堕落に結びつきやすいものですし、衣服も心のゆるみを表しやすいものです。クリスチャンはぜいたくで派手な生活ではなく、簡素で清潔な生活をしたいものです。

第三に、神の民はきよい民でなければなりませんでした。

彼らが食用にできる動物はすべて清潔な習性のものであり、彼らはこれらのことを通して、すべてのことにおいて主に対して聖潔でなければならないことが教えられています。特に、ひづめが分かれていることと、反芻することとの両方が食用としてもよいきよい動物の条件になっていますが、これはクリスチャンにとっても大切な条件のように思います。すなわち、聖霊によって神の道を歩むことと、神のみことばをいつも心の内に反芻することです。

1~23節、食べてよいものと悪いものの区別

神の選民イスラエルは、常に聖い民でなければなりませんでした。それは神が聖なるお方であり、イスラエルは神との契約関係にあったからです。そこで神は、このレビ記を通して神の民に聖なることを要求されたのです。

1~7章では、礼拝において聖なること
8~10章では、祭司制度とその奉仕において聖なること
11~15章では、日常生活において聖なること

第一に、日常生活の問題においては、食べ物が取り上げられています。人間の歴史において、食べることは、健康の管理だけでなく、大きな宗教的セレモニーの意味をもっていました。

1、2~8節、動物については、ひづめが完全に分かれていることと、反芻することの両方の条件を満たしている動物だけを食べることが許可されています。

レビ 11:1 それから、【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。
11:2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。
11:3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。
11:4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:5 それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:6 また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:7 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。
11:8 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。

これが当時、どのような意味を持っていたのかは分かりませんが、4~7節では、どちらか一方だけを満足する動物、らくだ、岩だぬき、野うさぎ、豚は食べることを禁じられています。その死体に触れてもいけないと命じられています。当時、豚はカナン人のいけにえの儀式に使われていたといわれています。また、野うさぎ、はつかねずみ、蛇などは、特別な魔術の力を持っていると考えられていたようです。またこれらの動物は病原菌を多くもっており、しばしば疫病を起こして、多くの死人を出していたと思われます。それ故、宗教的意味からと、衛生的意味からの両面から、これらの動物を食べることやその死体に触れることが禁じられていたものと思われます。

しかし、きよい動物ときよくない動物の区別はモーセの時代に定められたのではなく、ノアの時代にすでによく知られていました(創世記7:2、8)。

創 7:2 あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、

創 7:8 きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、
7:9 神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。

神がこのような区別をされたのは理由があってのことだと思われますが、その理由が何であるかははっきりしません。しかしおそらく、いけにえに使用してよい動物と、してはいけない動物とを区別されたことがその基本ではないかと思われます。申命記14章4~6節では、きよい動物として、牛、羊、やぎのほか、七種類の動物が記されています。

申 14:4 あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、
14:5 鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。
14:6 および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。

このことから、イスラエル人はほぼ、いけにえにささげた肉だけを食べたようです。

しかし先にも記したことですが、ひづめが分かれていることと、反芻することを、今日の人々の適用のために霊的に考えて、ひづめが分かれていることは、神の道を忠実に歩むことを意味し、反芻することは、神のみことばを何度も深く味わうことを教えていると、今日の私たちが理解しても少しも差し支えないと思われます。

2、9~12節、水の中にいるもののうち、食べてよいものは、ひれとうろこのあるもので、この二つのないものは汚れたものとされています。

レビ 11:9 水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。
11:10 しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。
11:11 これらはさらにあなたがたには忌むべきものとなるから、それらの肉を少しでも食べてはならない。またそれらの死体を忌むべきものとしなければならない。
11:12 水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

すなわち、たこ、いか、うなぎ、どじょう、貝、えび、かに、かき、などは食べてはいけないものになります。
この区別の理由も明白ではありません。

3、13~19節、鳥 ここでは忌むべき鳥の名前が列挙されています。

レビ 11:13 また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、
11:14 とび、はやぶさの類、
11:15 烏の類全部、
11:16 だちょう、よたか、かもめ、たかの類、
11:17 ふくろう、う、みみずく、
11:18 白ふくろう、ペリカン、野がん、
11:19 こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。

これらはみな、肉食の猛禽類に属しています。食べてよい鳥は、うずら、山鳩、家鳩などくらいです。

4、20~23節、羽があって四つ足で歩くもの、ここでは食べてよいものの名前が列挙されています。

レビ 11:20 羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。
11:21 しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。
11:22 それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。
11:23 このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。

これらの区別が何を意味していたのかは、はっきり分かりませんが、しかしはっきり分かることが一つあります。それは、人に対する神の関心がこのような食べ物にまで及んでいたことです。すなわち、私たち自身のことで、神の関心の外にあるものは何一つないということです。

しばしば私たちは、なぜ神がこのように禁じられるのか、区別されるのか、理解することができないことがあります。しかし、それでも神のご命令を守ることが安全です。それを、「自分は理解できない。」と言って、押し切って、自分の考えで行うと悲劇を招くことになります。その証拠に、このような定めが与えられていなかった民族は、ほとんどが滅びてしまっています。

24~47節、聖なる者となりなさい。

24~42節は、死体に触れる者が汚れることについて記しています。

そのうち、24~31節は、人が死体に触れた場合であり、

レビ 11:24 次のことによっても、あなたがたは汚れたものとなる。すなわち、これらのものの死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。
11:25 また、これらのどの死体を運ぶ者もみな、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。
11:26 ひづめが分かれてはいるが、それが完全に割れていないか、あるいは反芻しない動物、これらすべてはあなたがたには、汚れたものである。これらに触れる者はみな汚れる。
11:27 また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。その死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。
11:28 これらの死体を運ぶ者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。これらは、あなたがたには、汚れたものである。
11:29 地に群生するもののうち、次のものはあなたがたにとって汚れている。すなわち、もぐら、とびねずみ、大とかげの類、
11:30 やもり、わに、とかげ、すなとかげ、カメレオンである。
11:31 すべて群生するもののうちで、これらはあなたがたには、汚れたものである。これらのものが死んだとき、それに触れる者はみな、夕方まで汚れる。

32~40節は、物の上に死体が落ちて触れた時の汚れについて記しています。

レビ 11:32 また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。
11:33 また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。
11:34 また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。
11:35 さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。
11:36 しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。
11:37 また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。
11:38 しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。
11:39 あなたがたが食用として飼っている動物の一つが死んだとき、その死体に触れる者は夕方まで汚れる。

前者の場合、夕方まで汚れることと、衣服を洗うことが命じられています。

後者の場合、32節の仕事に用いる物の上に死体が落ちたら、水で洗えば、夕方までは汚れていますが、それ以後はきよくなって使用することができます。
しかし33節のように食事に使う土器の中に落ちると、その土器は砕かなければなりません。
34節、水のかかっている食物に死体が触れた場合や飲み物の場合は、汚れて食べることができません。
35節、かまどや炉に死体が落ちた場合、それらは粉々に割るように命じられています。これは家庭生活に大きな影響を与えたでしょう。
36節、泉のように水が流れていたり、大量の水がたまっている場合はきよいとされています。
37,38節、かわいた種の上に死体が落ちてもきよいのですが、蒔くために水がかけられている種の上に死体が落ちた場合は汚れたものとなります。
39~42節、食用の動物でも、死んだ死体を食べることは禁じられています。

これは明らかに、民が死んだ動物を惜しんで食べることを禁じたのです。彼らは生きている動物に触っても汚れませんでしたが、死んだ動物に触れると、汚れることを強調しています。

ここでは、泉やかわいた種のような特別な例外を除いて、すべて汚れたものになると、厳しく命じられていることに注目しましょう。

特に、土の器やかまどや炉は砕かなければならないと命じられています。これはすなわち、死んだ動物の肉を惜しんで料理することを厳しく禁じているのです。このことは信仰上、霊的に重要であったとともに、健康衛生上からも重要な神の配慮でありました。しばしば死んだ動物が病原菌を持っていたり、腐敗していたりして、部族全体を滅亡に追いやるほど恐ろしい疫病になる危険があったからです。

しかしこういう神のご配慮を悟らない人々は、神のこういう処置が厳しすぎるといって、不満をもらして反抗するのです。私たちは自分の判断や目に見えるところの考えによらず、素直に、へりくだって主のご命令に従うことが最も安全で祝福される道であることを十分に悟っていなければなりません。このことが分かってくる時、本物の信仰者になってきます。事ごとに「ああだ、こうだ」と反論する愚かをやめなければなりません。

とにかく、イスラエル民族はこの神の戒めを守ることによって、他の異教民族が次々と滅亡していく中で、何千年の間、絶滅を免れたのです。彼らは信仰的な戒めを守ることによって、自らの命を守ったのです。私たちはこの世のものを惜しみ、この世のものに未練をもつことによって、自ら汚れた者とならないように気をつけたい。もしクリスチャンが世俗化と儀式化という病原菌から守られるなら、キリストのからだはますます拡大されます。

43~47節は、なぜ神の民が聖でなければならないかを示しています。

レビ 11:43 あなたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。またそれによって、身を汚し、それによって汚れたものとなってはならない。
11:44 わたしはあなたがたの神、【主】であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。
11:45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」
11:46 以上が動物と鳥、また水の中をうごめくすべての生き物と、地に群生するすべての生き物についてのおしえであり、
11:47 それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される。

それは民が仕えている神が聖であるからです(44,45、ペテロ第一1:15,16)。

Ⅰペテ 1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

これが、私たちが聖であるべき唯一の絶対的理由です。人は、自分が心から信じ、礼拝し、仕えているものに必ず似てきます。しかしなぜ、クリスチャンはなかなかキリストに似てこないのでしょうか。それは、この世にも仕え、キリストにも仕えようとしているからです。ですから、主イエスは、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と教えられたのです。

二人の主人に仕えたいという思いを持ちつつ、潔められるということは不可能です。私たちは、この世を離れ、神のみことばに従うことによって、神の聖を毎日の生活の中で、食べること、飲むこと、働くこと、話すことの中で現わすことができるようになるのです。私たちが聖なる者となるということは、キリスト教的思想やキリスト教的道徳の教えの問題ではなく、実際生活の問題なのです。パウロはこのことについて、次のように言っています。

「ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:20)

あとがき

八月の第一週の一週間、私たちは中学生のCSの生徒たちとバケーション・バイブル・スクールを行いました。毎朝六時に起き、ディボーションをし、毎日一時間のバイブル・スタディと一時間の自習、それに一日三回の食事の準備と洗濯、掃除、トラク卜伝道毎日一時間、それに作業と夕食後は一日の反省とディポーションを生徒たちにしてもらいました。聖書はテモテの第二の手紙を学びました。最後の日に、ある生徒は、「生きているって感じがする。」と言いました。このV・B・Sはクリスチャンとしての信仰生活を経験してもらうことが主な目的でした。しかし今回のV・B・Sを通して私は、霊的な生活を身につけるためには、霊的な人と寝食を共にすることがいかに必要かを悟らされました。主イエスも弟子たちと寝食を共にして教えられ、エリヤもエリシャを、サムエルもダビデをそのようにして、霊的な人に育てました。
ただ、霊的なことを教えられるだけでは、ほとんど身につかないものです。

(まなべあきら 1990.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、レビ記11章の分かりやすい図解説明。引用元は、「Doodle Through The Bible_ My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time! 」(http://www.doodlethroughthebible.com/)


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