聖書の探求(084) レビ記 19章 神の民が敬虔な日常の信仰生活を送るための戒め

19章は神の民が敬虔な日常の信仰生活を送るための戒めを取り上げています。
特別な事に関する戒めも重要ですが、私たちにとって最も必要なことは日常生活において、いかに神を畏れた敬虔な生活をすべきかという戒めではないでしょうか。福音書におけるイエス・キリストの教えは、ほとんどが私たちの日常生活におけることであります。そうですから、私たちも聖日の礼拝の時だけ敬虔な思いをもって過ごしたらいいのではなくて、聖日以外の日にも神のみこころにかなう生活を営むべきです。

1~4節、神の民のきよい生活の定め

この章の目的は、神の聖が神の民の実生活の中に浸透し、反映されていくことです。それ故、この章には神の民の生活の仕方が非常に具体的に細部にわたって記されています。
このことは、神の聖がただ神の民の宗教儀式的なものにとどまらず、実生活の中に取り入れるべきことを命じているのです。
これは今日のクリスチャンに対する大切な警告でもあります。
信仰と実生活が遊離しがちなクリスチャン生活への大きな警告であると受け留めなければなりません。

2節は、あらゆる聖の源泉が神にあることを示しています。

レビ 19:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
19:2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

神の民の聖は人の努力による皮相な相対的なものであってはならないことです。人は神の聖を受けることによって、聖なる生活ができることを教えています。

また、なぜ、人が聖なる生活をしなければならないかという理由も、神が聖であるからです。それ故、2節は、人が聖なる生活をすべき源泉と理由を示しています。
そしてペテロが、この節をペテロの手紙第一1章16節に引用してクリスチャンにも当てはめていることは、このみことばが私たちにとっても非常に大切なものであることを示しています。

Ⅰペテ 1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

この章は、2節の「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」という命令で始まり、36節の「わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。」と37節の「あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行ないなさい。わたしは主である。」という命令で締括られています。

2節は、神の存在そのもので命令を始め、36節は、神のみわざで締括っています。

レビ 19:36 正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、【主】である。
19:37 あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。わたしは【主】である。」

これは、この主のご命令が内面的なものだけでとどまらず、実際の生活や行動の中にまで現わされることを求めているのです。クリスチャンは、心に平安を持っているだけでは十分ではなく、それは実際の生活態度や行動にまで現わされることが求められているのです。生活行動に現れてこない霊的な恵みの経験というものはあり得ないのです。ここにキリスト信仰の真実性と具体性と力強さがあります。このことは他の偶像宗教にはないことです。ですから、主が37節の行動を求められることは当然です。

もう一つ、この章の特長は、各々の戒めの相間に、「わたしはあなたがたの神、主である。」とか、「わたしは主である。」という言葉が十五回記されていることです。これらのことばは、神の民が必ず、これらの戒めを忠実に行わなければならないことを強くうながしているのです。

さらに、この章に記されている命令はすべて、十戒のどれかの戒めの中に入れることのできるものです。

また、ここに示されている命令の多くは、悪から離れ、神の戒めを忠実に行うことです。このことを行うことが神の聖を私たちの生活に反映させることです。

その中でも、3,4節は、両親を敬うことと、安息日を守ること、偶像礼拝を避けることを、特に重要なこととして、命令の最初においています。

3節、「おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。」

レビ 19:3 おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。

これは十戒の第五戒です。この「恐れる」は、「崇敬する」、「尊敬する」という意昧であり、この「恐れる」という語は30節でも使われています。これは神の聖所に対して使われている重要な言葉です。それではなぜ、これほどに子どもは、間違いの多い親に対して尊敬を払わなければならないのでしょうか。それは、神の故です。特に、子どもが成人していない場合、親は神の代理人として子どもを指導する義務と責任があります。それ故、子どもが親を尊敬して従うのは、神に従うことと同じ意味をもっています。子どもが親に逆らうことは、神に逆らうことを意味することになります。

このことは新約聖書でも語られています。

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:1~4)

これは聖書全体の一貫したメッセージです。なぜ、このことが神の民の生活に重要なのでしょうか。それは、信仰がくずれてくるのは、親から子どもへの信仰の伝達がしっかりと行われなくなる時だからです。子どもが親を恐れることは、信仰生活の基本的なことであり、親を敬わない子どもは、決して神をも畏れなくなります。今日、家庭の中で親の権威が失われている状況の中で、クリスチャン・ホームは、健全な正しい意味で両親は子どもに対して神の代理人としての責任をもって育て、指導すべきです。

「また、安息日を守らなければならない。」これは十戒の第四戒です。安息日を守ることは、主を礼拝することを意味しております。安息日を守らないことは、人の怠慢や欲のために仕事をすることが多いからです。安息日に主を礼拝しない時、人の心は神から遠く離れています。安息日をいいかげんに考えるようになる時、その人の信仰は崩壊しかけているのです。このことは神の民の存亡にかかわる一大事なのです。

4節には、偶像に関して二つのことが警告されています。

レビ 19:4 あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。

一つは、「偶像に心を移してはならない。」です。これはすでに神を信じている者が、誘惑にさそわれて、神に不従順になり、不服従になり、神を捨てて、偶像に移っていくことを禁じています。しかしイスラエル人はこの戒めを破ってしまい、アッシリヤとバビロン捕囚という神の審判を受けたのです。
今日、クリスチャンも、未信者の人が日曜日に遊びに行くのを見てうらやんだり、酒を飲んでさわいでいる人や楽し気に遊んでいる人々を見て、うらやましく思って、心がさそわれていく危険があります。

もう一つは、「自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。」です。
これは、目に見えない霊の神を、偶像と同じように形あるもので表そうとする危険を警告しているのです。これは十戒の第二戒に当てはまります。このことは、信仰による内的経験が乏しい時に、形あるものによって確信を持とうとする危険を警戒しています。クリスチャンはまず、明確な回心経験と聖潔の恵みをもっていなければなりません。また、それに続いて、みことばによる聖霊経験を深めていかなければなりません。このことが教会の中に乏しくなる時、教会は教会堂や儀式や、形あるものによって自分の大きさや強さを現わそうとします。しかしこれはすでに偶像礼拝であり、ローマ教会はこれによって暗黒の堕落に陥ったのです。富や地位、名誉、野心、欲も偶像になり得るのです。これらのことをクリスチャンは避けなければなりません。そうしなければ、神に不服従になり、教会堂には集まっていても、霊的には神から離れてしまうことになるのです。

5~10節、和解のいけにえと落ち穂

1~4節のきよい生活のための基本的な定めの後に、具体的な定めが記されています。それらはほとんど、これまでに既に命じられてきたことですが、ここで再び繰り返されています。このような繰り返しは、私たちにとってクドクドと感じられることもありますが、しかし人は、一度、神の戒めを聞いただけでそれを生涯、行い続けるでしょうか。行い続ける人はほとんどいません。いたとしても極くわずかの人です。それ故、神は人の心の奥にとどまるようにと、何度も繰り返されたのです。パウロもこう言っています。

「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。」(ピリピ3:1)

5~8節は、和解のいけにえについての定めです。これは7章15~18節に言われています。

レビ 7:15 和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。
7:16 もしそのささげ物のいけにえが、誓願あるいは進んでささげるささげ物であるなら、彼がそのいけにえをささげる日に食べなければならない。残った余りを、翌日食べてもさしつかえない。
7:17 いけにえの肉の残った余りは三日目に火で焼かなければならない。
7:18 もし三日目にその和解のいけにえの肉を食べるようなことがあれば、それは受け入れられず、またそれをささげる人のものとは認められない。これは、汚れたものであり、そのいくらかでも食べる者はその咎を負わなければならない。

ここではまず、「あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。」(5節)と言われています。

レビ 19:5 あなたがたが【主】に和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。

「いけにえが受け入れられるように」と言わず、「あなたがたが受け入れられるように」と言われていることに注目しましょう。
いけにえが神に喜ばれるためには、いけにえをささげる者が神に喜ばれ、神に受け入れられる状態でなければなりません。この点で、アベルは神に受け入れられたので、彼のささげ物も神に喜ばれ、カインは彼自身が神に受け入れられない状態だったので、彼のささげ物も神に受け入れられませんでした(創世記4:4,5)。

創 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

パウロはローマ人への手紙12章1節で、「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」と言っています。

ロマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

これは、生きた供え物(クリスチャンの毎日の生活)とそれをささげる者(クリスチャン)自身について言っているのです。私たちは、神のためにささげる物や奉仕の働きにばかり気をとられて、それを行う自分自身が、神に喜ばれる者となっているかどうかを忘れてしまっていないでしょうか。ささげ物をする前に、奉仕につく前に、それをする自分自身が、神に受け入れられ、神に喜ばれる聖い者となっているかどうかを、聖霊にさぐっていただきましょう。

6~8節では、和解のいけにえの肉を食べることについて言われています。

レビ 19:6 それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは、火で焼かなければならない。
19:7 もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。
19:8 それを食べる者は咎を負わなければならない。【主】の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。

その肉は必ず、翌日に食べなければなりません。しかし、三日目まで残ったものは食べてはなりません。火で焼かなければなりません。三日目に食べた者は、汚れた者となって咎を負わなければなりません。これは腐敗した肉は食べないようにという衛生的な面もありますが、それ以上に宗教的な意味があります。すなわち、神のみことばを守るということです。人は自分の欲のために、三日目に残った肉を火で焼いてしまわず、食べることがあり得るのです。ここでは、箴言3章5節の「自分の悟りにたよるな」という戒めを示しています。自分の欲がからんだ考えで事を行うと、必ず咎を負うことになります。

箴 3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

9~10節は、在留異国人のために落ち穂を残しておく定めです。

レビ 19:9 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。
19:10 またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である

これは貧しい人々や旅人への神のあわれみです。あわれみはこのように、必ず具体的なことで表さなければなりません。あわれみは実際に、人を助け、思いやるものです。こういうあわれみがない所は、人が住めない所になります。家庭でも、学校でも、職場でも、あわれみがない所は、人の住めない所になります。それはちょうど川の水が汚染されて、魚がすめなくなるようなものです。全世界で自然環境の問題がさわがれていますが、家庭や学校や職場での人間環境の問題については、真剣に考える必要はないのでしょうか。レビ記はすでにその警告を発していたのです。

あわれみのない所では、人はたえず争い、殺し合い、他を蹴落します。あわれみがないということは、貪欲で自己中心であるということです。畑の作物を隈々まで刈り取り、落ち穂を一つも残さず、みんな集めてしまうことは、耕作をした者にとって、当然の権利と思うかもしれません。しかし、あわれみとは、当然の権利をすべて主張してしまわないことです。収穫は人の努力によるだけでなく、神の恵みと祝福によるものであることを覚えなければなりません。農業を営んでいる人には、このようなことは自覚しやすいことかもしれませんが、現代のようにサラリーマンが多い社会になってくると、自分の収入は自分の力だけで得たものと思いやすいのではないでしょうか。そこから自分に与えられたものを全部、自分のためだけに使うという、あわれみのない行動が行われるのです。

あわれみのない社会は人を滅ぼしますが、あわれみのある社会は、最も弱い者も神の愛を感じて幸せに暮すことができるのです。ここで、神が最も寄るべのない人々にあわれみの御手を伸ばしておられることに注目しましょう。これが隣人を愛することです。主イエスはこう言っておられます。

「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」(ルカ14:12~14)

私たちは、今、最も助けを必要としている人に助けを与える時、隣人を愛することになるのです。

落ち穂拾いでは、ルツを思い出します。落ち穂を拾うことは、当時であっても、かなり勇気のいることであったと思われます。しかし落ち穂は多くの人々の命を助け、慰めを与えたのです。もし、聖書の中にこの教えが記されていなかったなら、人類はもっと悲惨な運命をたどっていたことでしょう。

私たちは勇気をもって神の恵みの落ち穂を拾う生活と、他の人々に神の恵みを分かち与える落ち穂を残す生活をしたいものです。

11~18節、隣人愛

この部分の戒めは、具体的に様々なことが言われていますが、それを一言でいうなら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(18節)ということができます。
この戒めは主イエスが最も大切な戒めの総括として選ばれたものの一つです(マタイ22:39)。

マタ 22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

またこれは、十戒のうちの後半の人に対する戒めを総括するものです。そして、この戒めは聖書中、繰り返し繰り返し語られ続けている戒めであることも、覚えておかなければなりません。

次に、この部分の一つ一つの戒めについて考えてみましょう。そうすれば、それらのすべては、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という戒めが守られているなら、すべてが含まれてしまう戒めであることがお分かりになるでしょう。

11~12節には、四つの戒めが記されています。

レビ 19:11 盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。
19:12 あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは【主】である。

1、盗んではならない。

これは物や権利を不当に奪うことです。
今日、著作権や使用権の問題が広がっていますが、文化面や公共面や実際的生活面からいうと非常に複雑で、権利を認めて使用を制限すると、使用の範囲が非常に狭くなってしまいます。元々、この権利の保護は、権利の所有者の利益を保護することを目的としています。もし教会で聖書や讃美歌の使用権についてとやかく言う人が起きてきたら、福音宣教は停止してしまうでしょう。元々、みことばも賛美も主が与えてくださったものですから、著作権もある程度、利益を受けたなら、自由に使用できるようにしなければ、自分で自分の首を縛ることになってしまいます。権利の所有権については今後ますます複雑になっていくでしょう。

2、欺いてはならない。

これは、真実そうに見せかけて、不真実な態度をとり、相手の人格をひどく傷つけることです。正直でなく、ありのままでないことです。クリスチャンは故意でなくても、無責任や不用意な約束をすることによって、他人を欺くことになる危険があります。十分に注意したいものです。欺くつもりがなくても、結果的にそうなってしまった場合は、やはり謝らなければなりません。

3、互いに偽ってはならない。

ここでは、「互いに」に注目したい。ウソとウソのかけ引きは、この世の普通のやり方だからです。「互いに偽る」とは、本心とは別のところで付き合うことです。クリスチャンでもしばしばこのようなことをしているのではないでしょうか。正直な自分の考えをかくして、職場の上司や同僚と付き合ったり、取り引きしたりしていないでしょうか。パウロは、エペソ4章25節で、「あなたがたは偽りを捨て おのおの隣人に対して責実を語りなさい。」

エペ 4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。

特に、クリスチャンは旧約の偽りの預言者のように、罪を犯しているのに「平安だ、平安だ。」と言ってはなりません。また、罪を正しく処置しないで、洗礼を受けてしまったり、互いに慰め合ったりして、罪をごまかしてしまうことのないようにしたいものです。それは偽りであって、本当の解決にはなっていません。それは互いにだまし合い、互いに傷つけ合っていることにほかならないのです。やがてそこから問題が吹き出してきます。偽りの中からは何の真実な益も生まれてきません。

4、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。

これは祈りや神の御前での誓いにおける偽りを警告しています。
クリスチャンは他人との約束や誓いを守るだけでなく、祈りにおける神との約束や誓いもきちんと守らなければなりません。他人との約束は比較的に守っていても、神との約束はどうでしょうか。簡単に忘れてしまったり、そのままにしていることがないでしょうか。それは神を「なき者」と思っているのか、それとも、神をそのように扱ってもいいものと考えているからではないでしょうか。これは神を冒涜しています。私たちは祈りにおいて偽りにならないように慎重でありたいものです。自分が本当に実行する意志のないことを軽々しく祈らないことです。祈って神と約束したことを守らないことは罪です。それは神の御名を汚すことになるのです。もし、クリスチャンが本気で守る気持ちもないことを祈っているとしたら、祈りによって罪を犯していることになります。このような人の祈りに神が喜んで答えてくださることは決してありません。私たちは特に、祈りにおいて偽りがないように注意しなければなりません。

13節は、経済的な面で隣人を苦しめることです。

レビ 19:13 あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。

このことは今日、世界的な問題となっています。一部の富める国の人だけがぜいたくをし、貧しい国では人々は飢餓状態にあります。これは地球上の一部分の人々がぜいたくに暮し、貧欲になることによって生じているのです。これは富める国の人が貧しい国を援助しても、そのぜいたくな生活をやめない限り解決しません。そして苦しんでいるのは国ではなくて、個人個人であることを忘れてはなりません。クリスチャンはもっとお互いの生活をつつましやかにすべきではないでしょうか。

14節は、障害者への愛と配慮です。

レビ 19:14 あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは【主】である。

「侮る」とは、人格的な蔑視や差別のことであり、「つまずく物を置く」とは、故意なる悪意を示しています。ここでは物質的な福祉よりも、人格的な面が扱われています。人格的な面が、おろそかになって、物質面だけの福祉が先行すると、与える側は高慢になり、受ける側は卑屈になる人もあれば、当然と思う人も出てくるでしょう。福祉において最も重要なことは人格面にあることを聖書は教えています。人は心に恵みが満ちあふれている時、耳が聞こえないことも、目が見えないことも、もはや障害ではなくなります。人にとって最大の障害は心に神の恵みがないことです。そうですから、14節の終わりには、「あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。」と言われているのです。

15節は、正しい裁判を行うことについてです。

レビ 19:15 不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。

今日も権力の強い方に有利な裁判が行われる傾向があります。「弱い者におもねる」とは、弱い立場にある者に賄賂を要求することです。使徒24章26節に、ペリクスがパウロから賄賂を取ろうとして何度も呼び出したことを記しています。

使 24:26 それとともに、彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。

またペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいたのです。自分に対するユダヤ人の評判をよくして、ローマ皇帝から高い地位を得ようと、ユダヤ人にへつらっていたのです。正しい裁きをするためには、賄賂からも、高い地位につきたいという野心からも自由でなければなりません。つまり、正義には貧欲からの自由が必要なのです。

16~18節は、一つのことを言っています。

レビ 19:16 人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは【主】である。
19:17 心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。

動機的には、憎しみや恨みであり、行動的には、中傷や傷害、復讐の戒めです。これらが身内の者、同国の者の間で、すなわち、神の民の間で行われる時、神の民は汚れます。
これらの罪が神の民の間で起きることを避けるために、神は二つのことを教えておられます。
一つは、「あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。」(17節)です。隣人が神の道を歩むように導くことです。このことなしに、いくら他人に親切にしても、それは却って相手を我侭にしてしまうでしょう。神を畏れた正しい生き方を教えなければなりません。
第二は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(18節)です。これは愛の動機をもって接することです。私たちの人生は、この二つによって真直になるのです。

19~37節、神を畏れた生活

19節以後は、日常生活の細々とした規定を記しています。

19節、異なった二種類のものを混ぜ合わせてはならないこと。

レビ 19:19 あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。

‥‥‥家畜の交合において、種蒔きにおいて、衣服の布地を織ることにおいて、これは、神が創造されたもの以外をつくってはならないことを意味しています。新しい種類をつくり出すことは、神の権威の侵害になります。現代科学による遺伝子の組み換えによって新種をつくり出そうとする試みは、神の権威の侵害にならないでしょうか。それは病気の治療などの面で役立てることができるかもしれませんが、他方で取りかえしのつかない大きな危険も伴っているのです。科学者たちはさらに良いものをつくろうとして研究するのでしょうが、神が創造されたもの以上によいものを人間の知恵と技術でつくることば不可能です。それをあえてしようとするなら、人間は核兵器よりもっと恐ろしい悲劇を引き起こすか、それともバベルの塔の時のように神の直接の審判を受けることになるでしょう。科学の研究も、神の前に十分なへりくだりをもって行わなければなりません。

また、異なった二種類のものを混ぜ合わせてはならないことは、神の民の信仰がいつでも単一、純粋でなければならないことを教えています。神と富とに兼ね仕えてはならない(マタイ6:24)ことを、生活をもって示されているのです。

マタ 6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

私たちの信仰が神に対して純潔であることは、その生活をもって示さなければなりません(申命記22:9~11)。

申 22:9 ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。
22:10 牛とろばとを組にして耕してはならない。
22:11 羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。

この世が混っていてはいけないのです。これは純潔の律法なのです。

20~22節は女奴隷を犯した罪に対する規定です。

レビ 19:20 男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。
19:21 その男は、【主】への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。
19:22 祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によって【主】の前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。

性的行為は一時のことですが、それに対する責任はずっと続くのです。特に、贖(あがな)われていない(自由の身となっていない)女奴隷は非常に弱い立場にあります。それ故、その女が別の男と結婚することになっていても、犯される危険があったのです。犯すのは、しばしば主人や主人の息子なのです。この場合、男も女も殺されはしません。また女はその弱い立場の故に、罪の責任が問われていませんが、男は罪を告白し、罪過のいけにえをささげなければなりません。これは権力の乱用を規定するものです。

23~25節は、果樹園の収穫についての規定です。

レビ 19:23 あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。
19:24 四年目にはその実はすべて聖となり、【主】への賛美のささげ物となる。
19:25 五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。

三年間は人で言えば割礼のないもの、すなわち、神に属さないものとみなされています。これは神の恵みを受けて育ったものではないものとみなされたようです。実際、木の実がなり始めてから三年間くらいは、木があまり成長しておらず、十分に熟さないことがあります。四年目の実はすべて、神によって聖とされ、主への賛美のささげ物としてささげます。ヘブル13章15節に、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」と言われていますが、クリスチャンも信仰をもって四年目くらいから、段々と信仰の内容が分かりかけてきて、本物の讃美のいけにえがささげられるようになるのではないでしょうか。勿論、霊的なことは年数が決めることではありませんが、暗示深いものがあると思います。

五年目の実は、神の民が食べることができます。こうして四年間食べることを待つことによって収穫が増すことが約束されています。これは神の恵みが浸透してくるからですが、信仰者にとっては、祝福を受けるための忍耐が訓練される時でもあります(ヘブル10:36)。

ヘブル 10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

26節は、血のついたままで何も食べてはならないことと、まじない、卜占(うらない)をしてはならないこと。

レビ 19:26 あなたがたは血のついたままで何も食べてはならない。まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。

今でも、はっきりした人格的に根拠のある正しい信仰よりも、気まぐれなまじないやうらないを好む傾向があります。これは偶像礼拝の一種です。血を食べてはならないことは、何度も言われていることで、血は命だからです。

27節、頭のびんの毛とひげの両端をそり落としてはならないこと。

19:27 あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。

これらは、当時、神の権威や力を象徴するなんらかの意味をもっていたものと思われます。

28節、死者のために自分の体を傷つけたり、入墨をすることの禁止。

レビ 19:28 あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは【主】である。

これらはカナンの地の異教の民の習慣でした。そうですから、異教の民の責似をすることを禁じたものと思われます。また、神から与えられた体を、理由が何であれ、傷つけたり、汚したりすることは禁じられたのです。
私たちには、各々、自分のからだをもって神の栄光を現わすことだけが求められているのです。いたずらに体を酷使して、痛めつけたり、傷つけたりすることは慎まなければなりません。

29節、娘の売春行為の禁止。

19:29 あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。

これも異教社会の習慣でした。これは現代でも広く世界で行われていますが、これは社会の乱れる原因です。性を経済活動に使ってはなりません。

30節は3節にもありました安息日の遵守と礼拝を守ることです。

レビ 19:30 あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは【主】である。

ここでは、安息日と聖所が別々に書かれていることに注目してください。安息日には礼拝をするだけでなく、神のみこころにかなうことを行うべきです。主の日は一日中神のものですから礼拝式に出席したら あとは自分の好きなことをしてもいいというのではなく、主の日を一日中、神のために使うべきことを教えています。現代のクリスチャンは、もっとこの精神を回復しなければなりません。

31節は、26節のまじない、卜占と関係があります。

レビ 19:31 あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。

イスラエルの初代の王サウルは神を離れた結果、この戒めを破って口寄せを求めました(サムエル記第一28章)。

32節、これはただの敬老のことを言っているのではありません。

レビ19:32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは【主】である。

神を畏れた老人こそ、最も敬われるべきです。若者は老人を敬うべきですが、老人もまた敬われるに値する者とならなければなりません。愛される老人になるためには、若い時から心がける必要があります。

33~34節は、在留異国人に対する戒めですが、これは15~18節の隣人愛の補足です。

レビ 19:33 もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。
19:34 あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、【主】である。

ここでは、イスラエル人がエジプトで異国人として不自由な生活を強いられたことを思い起こさせています。私たちは自分が苦しかったことを忘れて、自己主張をしやすいのですが、特に、弱い立場にある人や、助けを必要とする人には、自分に対するのと同じように愛することが教えられています。

35~36節、商売や取引においても、神を畏れて、正しいはかりや物差しを用いなければなりません。

レビ19:35 あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。
19:36 正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、【主】である。

商売においても正直であれということです。このようなことは人間として当然のことですが、欲のとりこになってしまいやすい人間にとっては、神を畏れなければ仲々できないことです。商売もまた宗教的なことなのです。クリスチャンはこういう点においても、よいあかしをしなければなりません。

37節、人の生活の中で宗教でないものは一つもありません。

レビ 19:37 あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。わたしは【主】である。」

神を畏れずして、正しく行われることは何一つないのです。それ故、神を畏れて、すべての生活をすべきです。また、子どもたちを神を畏れる人に育てていかなければなりませんし、神を畏れる人を一人でも多く起こさなければなりません。それが良い社会をつくっていく唯一の道です。

あとがき

まもなく春です。この冬もかるい風邪をひいたくらいで守られて、乗り越えられそうで感謝しております。一日でも寝込んでしまうと、そのあとが大変になります。
私は、人が集会に多く出席することも願わないわけではありませんが、それ以上にクリスチャンが聖書がわかるようになり、聖書に従った生活ができるようにと全力を尽くしてきました。人が大勢集会に集まっても、それらの人々が聖書に根ざした生活をしていなければ、再び散っていって実を結ぶことができません。私のとってきた方法は地道で、気の遠くなるような方法ですが、特別な賜物がなくても、だれにでもできる方法です。そして教え方によっては、どんな人でも、実を結ぶことができます。急激に集会の人数が増えることはないかもしれませんが、確実に増えていきます。それ故、みことばに真剣に取り組んでいく人を教会の中心にして、すべての教会の営みをしていけば、必ず福音の働きは成功します。

(まなべあきら 1991.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、 “Les tables de la Loi”, vitrail de synagogue, Alsace, fin du 19e siècle, Musée alsacien de Strasbourg(シナゴーグの窓のステンドグラス「律法の板」-ストラスブールのアルザス地方博物館)(Wikimedia Commonsより)


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