聖書の探求(086) レビ記 22章 祭司たちの生活の定め(続)と、傷のないいけにえについて

22章の前半(1~16節)は、21章に関係したことが記されており、後半(17~33節)は、傷のないいけにえについて記しています。

1~16節、祭司も汚れる危険性がある

祭司は聖所での奉仕のために聖別されています。しかし、らい病になる危険はあるし、また、注意しなければ、一般の人々と同じように汚れる危険性があります。

クリスチャンはキリストの血によって贖(あがな)われ、潔められても、再び、世の人と同じように汚れた状態に陥る危険性があります。それ故、たえず信仰の条件を守っていなければなりません。私たちはキリストの血を離れては、自らを潔く保つことができないのです。

2節は、神の民が聖くなければならない理由と目的を示しています。

レビ 22:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
22:2 「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるものとすべきものである。わたしは【主】である。

それは、第一義的には神のためであり、神の聖なる御名のためです。神が私たちを潔めてくださるのは、第一義的には神ご自身のためです(テトス2:14)。

テトス 2:14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
潔められた生活における様々な祝福は、その結果なのです。それ故、私たちが潔めの恵みを求める動機をはっきりさせなければなりません。もし自分の幸せのために潔められることを求めるなら、それは神のみこころと違っているので、いくら潔められることを求めても、潔められません。その動機が、潔めを求めながらも、自己中心だからです。神の栄光のために自分が潔められることを求める時、神は潔めてくださるのです。

3節、本質的に、聖なる神には、人が汚れたままで近づくことはできません。

レビ 22:3 彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人が【主】のために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしは【主】である。

それでも無理矢理近づこうとすれば、その人は滅びるのです。旧約聖書では、祭司は様々な儀式的な潔めを行って後、聖所の奉仕が許されています。しかし今日、私たちは、ただちにイエス・キリストの血を受けて潔められることができます(ヨハネ第一1:7)。

Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

それ故、私たちはたえずキリストの血をたずさえて神に近づき、奉仕すべきです。礼拝でも、祈りでも、賛美でも、キリストの血への全き信頼をもって行うなら、大いなる祝福を受けることができます。しかしキリストの血への信頼がなければ、それらはみな、むなしく終わってしまいます。

4~5節は、様々な汚れさせるものを挙げています。

レビ 22:4 アロンの子孫のうち、ツァラアトの者、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、
22:5 あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、

この世には、クリスチャンを汚れさせる誘惑や汚れが満ちています。ですから、不用意にこれらに近づいて汚れないように、注意しなければなりません。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

6~7節、汚れは翌日まで持ち越してはいけません。

レビ 22:6 このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。
22:7 ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。

その日の内に潔い状態を回復しなければなりません。パウロは、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:26)と言っています。仲違いや恨みなどを翌日まで持ち越すともっと深い溝ができてしまいます。また神からもずっと離れて、遠去かってしまいます。ぜひ、その日のうちに回復しておかなければなりません。

8節、クリスチャンは自分を汚すような食べもの、すなわち、読むもの、聞くもの、見るものに注意すべきです。それらが自分の霊魂を汚し得るのです。

レビ 22:8 自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしは【主】である。

9節、「彼らがわたしの戒めを守るなら、」

レビ 22:9 彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別する【主】である。

神を愛する者は神の戒めを守るのです。戒めは強制によっては守ることができませんが、愛によって守ることが可能になります(ヨハネ15:10)。

ヨハ 15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

10~13節は、祭司の家族とその他の者とを区別しています。

レビ 22:10 一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。
22:11 祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。
22:12 祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。
22:13 祭司の娘がやもめ、あるいは離婚された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。

しもべは祭司の家族の一員として認められて、祭司のパンを食べることができますが、同居人や雇い人は食べることができません。また祭司の娘が一般人と結婚すれば、祭司の家族とは認められなくなります。しかし、子どももなく、やもめとなって祭司の家に戻ってくるなら、祭司の家族と認められるようになります。

教会の集会には、クリスチャンとクリスチャンに近い人とがいます。しかし、いのちのパンを食べることができるのは(ヨハネ6:35、48~51)、真のクリスチャンだけです。この区別は明確でなければなりません。

ヨハ 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

ヨハ 6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

14節、しかし、あやまって聖なるものを食べた場合、厳重な刑罰は下されず、五分の一を足して、聖なるものを祭司に渡せばよいことになっています。

レビ 22:14 だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。

15,16節、祭司は一般人が聖なるものを食べて咎を負うことのないように指導しなければならないように、クリスチャンはこの世の人々に福音を伝えて、罪を犯させないようにすべきです。

レビ 22:15 イスラエル人に、その【主】に奉納する聖なるものを汚し、
22:16 聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別する【主】だからである。」

17~33節、傷のないいけにえ

1~16節においては、祭司自身が不注意によって汚れたものとなってはならないことが警告されていました。17節以後では、主にささげるいけにえについて語られています。

レビ 22:17 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
22:18 「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえを【主】にささげるなら、
22:19 あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。

19節、主にささげるいけにえは、牛、羊、やぎのうち、傷のない雄でなければならないと命じられています(出エジプト記12:5)。

出12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。

それは、そのささげものが神に受け入れられるためです。主へのささげものは、主に受け入れられてこそ、意味があることを、私たちは覚えなければなりません。私たちの祈り、能力、奉仕、献金など、あらゆるささげものをする時に、ただささげればいいというだけでなく、神に受け入れられるようにささげることに心を用いなければなりません。

神に受け入れられないささげものは、わざわいです。カインのささげものは、神に受け入れられず、のろわれるものとなりました(創世記四章、ヨハネ第一3:12)。

Ⅰヨハ 3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。

私たちは、ささげものは、神に受け入れられるものでなければならないことが、必須条件であることを覚えましょう。

この傷のない、欠陥のないささげものとは何でしょうか。

第一に、神の小羊なるイエス・キリストのことを指していることは明らかです(ヨハネ1:29)。

ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

イエス・キリストは完全な祭司であり、全きいけにえであられたが故に、ただ一度、ご自分をささげることによって、永遠に、しかも完全に私たちを救うことがお出来になるのです(ヘブル7:24~27)。

ヘブル 7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
7:26 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル9:14)

「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。‥‥しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、」(ヘブル10:10、12)

「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(ペテロ第一1:19)

この完全な祭司によってささげられた完全ないけにえは、永遠に贖(あがな)いの力を発揮するのです。このお方によってのみ、私たちは救われ、潔められます。

第二に、この傷のないささげ物は、私たちの生涯のすべてを指しています。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

旧約時代のいけにえは獣をほふって、ささげました。しかし新約時代のささげ物は生きた供え物です。すなわち、私たちの毎日の生活が神に喜んで受け入れられるものであることです。すなわち、全き信仰、愛の動機、御霊に満たされた生活です。このような生活を送ることが、毎日の礼拝なのです。

25節、「外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。」

レビ 22:25 また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。」

これは、神を知らない異邦人から受けたものを、そのまま聖なる供え物とすることができないことを言っています。そこには汚れた動機、汚れた行い、不信仰などが含まれているからです。これはまた、悪い行いによって得たものを神にささげてはならないことも教えています。

23節には例外が記されています。

レビ 22:23 牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。

進んでささげる自発的なささげ物には、足が伸びすぎたり、なえ縮んだものもささげることが許されています。しかし誓願のささげものにすることができません。このようなことの中にも、神へのささげ物は、余りものや、残りものをささげるのではなく、自分が心から聖別してあるものをささげるべきことを教えています。勿論、主イエスは五千人のパンの給食のあとで、残りを拾い集めさせていますから、私たちは祝福されて、残ったものを集めて、感謝をもって主にささげることも大切です。しかしそれは進んでささげる自発的なささげ物に限られています。通常は心に定めて聖別したものをささげるべきです。これが聖書の教えです。

26~28節は、いけにえにする獣への配慮がなされています。

レビ 22:26 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
22:27 「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それは【主】への火によるささげ物として受け入れられる。
22:28 しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。

いけにえにする獣の親子関係について配慮されているのは主だけです。これに似た戒めに、子をその母の乳で煮てはならないというのがあります(出エジプト記23:19、34:26、申命記14:21)。

出 23:19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。

出 34:26 あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。子やぎをその母の乳で煮てはならない。」

申 14:21 あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民である。子やぎをその母の乳で煮てはならない。

これは、獣にも愛情に似たものがあり、むやみに殺したり、残虐な行為をしてはならないことを戒めています。

29~30節は、感謝のいけにえをその日のうちに食べることで、いけにえについての定めを締括っていますが、終わりに(30~33節)、四回「わたしは主である。」が出てきます。

レビ 22:29 【主】に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。
22:30 その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは【主】である。
22:31 あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしは【主】である。
22:32 わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別した【主】である。
22:33 あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、【主】である。」

それは、この競走が祭司と民の生活の多肢にわたっており、そのすべてを支配しているのは主であることを強調しているものと思われます。私たちは主の命令を守り、聖名を汚さず、聖なる者となる時、主は私たちの神となってくださるのです。

(まなべあきら 1990.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型の入口に架けられたポスター(2013年の訪問時に撮影)

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」


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