聖書の探求(085b) レビ記 21章 祭司たちの生活についての定め

21章はおもに、祭司たちの生活についての定めが記されています。

1~9節、祭司たちの聖別

この箇所における中心メッセージは、「彼らは自分の神に対して聖でなければならない。」(6節)、「祭司は神に対して聖であるから。」(7節)です。

レビ 21:6 彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、【主】への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。
21:7 彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。

神の民の一般の人が聖でなければならないのなら、祭司はなおさらのこと、厳しく自らを律しなければなりません。この世の人ですら、道徳的に正しく生きることが求められているのなら、クリスチャンはそれ以上に、主に対して忠実でなければならないのではないでしょうか。ここでの聖別は、民のためにとりなしをする祭司たち自らが、自分の生活として守るべきことを示しています。

なぜ、祭司が聖でなければならないのかというなら、6節と8節で語られているように、それは「彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。」と言われているからです。このことは、神のみことばを取り次ぎ、教える者にとって、特に注意して聞くべきことばではないでしょうか。

レビ 21:6 彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、【主】への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。

レビ 21:8 あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する【主】、わたしが聖であるから。

それは牧師だけでなく、すべての教師、リーダー、カウンセラー、讃美指導者など、神に仕える者に対して適用されます。神に仕える者がいいかげんな生活をしていれば、その指導を受けて神に従おうとしている者は堕落してしまいます。それは神の御名を汚すことになります。神に仕える者は、その奉仕においてばかりでなく、生活においても聖でなければなりません。それでこそ人々から慕われ、尊敬されるようになり、指導の効果が上がるのです。

ここでは、大祭司だけでなく、一般の祭司たちについて語られています。

1~4節は、親類縁者の死者に触れることによって、身を汚すことを禁じています。これは、死を罪の刑罰とみなしているからです。

レビ 21:1 ついで【主】はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。

21:4 姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。

聖書は、死は罪の侵入によってもたらせたといっています(ローマ6:23、コリント第一15:21,22)。

ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

Ⅰコリ 15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

それ故、死者に触れることによって、罪に汚れることを教えられたのです。今日では、このメッセージは「罪の汚れ.から遠ざかっているべきこと」として受けとめなければなりません。パウロは、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)と言っています。

2,3節、ただし、両親、息子、娘、兄弟、結婚していない処女の姉妹の近親者の場合は、例外として扱われています(11節、大祭司の場合は、この例外も取り除かれています。)

レビ 21:2 ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。
21:3 近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。

ここには、妻の場合が記されていません。妻は近親者ではなく、聖書では「一体」(創世記2:24)なので、書き記す必要がなかったのです。

創 2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

これらの定めは、祭司が自分の罪の汚れを持ったまま神に仕えることは、神を冒涜することになり、主の御名を汚すことになることを指摘しています。

5節の、頭髪やひげをそったり、からだに傷をつけることは、異教社会では死んだ者のために嘆く儀式として普通に行われていました。

レビ 21:5 彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。

そのような、死者のために嘆く異教の行為は、すべて禁じられました(レビ記19:27,28)。

レビ 19:27 あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。
19:28 あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは【主】である。

もし祭司たちがこれらのことを行い始めたら、たちまち神の民全員に広がっていくからです。それ故、人を導く者は、勝手に自分の好みに走ってはならず、身を慎んで、神の戒めを曲げないようにしなければなりません。

7節、祭司は結婚することが許されています。

レビ 21:7 彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。

決して禁欲的な独身礼賛主義ではありません。ただし、祭司の妻になる者は、売春婦や離婚経験者であってはなりません。これはカナンの諸国では神殿売春が普通のこととして行われていたことに対する戒めです。祭司が彼らと似たような、まぎらわしいことをするなら、これもたちまちイスラエルの民全体に及んで、神の民は乱れ、滅んでしまうでしよう。
クリスチャンは勿論、再婚を禁じられていません。またクリスチャンはその結婚生活において、この世の人以上に純潔でなければなりません。

9節、祭司の娘も同様に性的に純潔でなけれはなりません。

レビ 21:9 祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。

祭司の娘による売春は、すぐに神殿売春につながりやすいので、死刑が課せられました。祭司たちは自分だけでなく、家族も神に対して聖なるものとして育て、守らなければなりません。これはすべてのクリスチャンの両親にも当てはまることです。

10~15節、大祭司の聖別

1~9節は一般的な祭司について考えられていましたが、10~15節は大祭司について語られています。大祭司には、特に厳しい聖なる規定が設けられています。ヘブル人への手紙をみますと、大祭司はイエス・キリストに当てはめて語られていますが、ここでは人としての大祭司の条件を示しているので、これは今日ではクリスチャンに当てはめて考えられるべきです。

10節、第一に大祭司は、頭にそそぎの油がそそがれています。

レビ 21:10 兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。

クリスチャンはイエス・キリストを信じて救われるばかりでなく、聖霊の油が注がれなければなりません。これは今日、クリスチャンの間で非常に稀薄になっています。これがクリスチャンに力がない主な原因です。聖霊の油そそぎを受けることなしに、クリスチャンは 祭司の役割を果たすことはできません。主イエスの弟子たちも五旬節の日に、聖霊に満たされることによって力強いキリストの証人となっています。主イエス様は「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)と約束してくださいます。

聖霊に満たされることなしに、私たちがいくら努力し、がんばっても力強い証人になることはできません。まず、主にすべてを明け渡し、主に全く信頼して聖霊に満たされてください。正しく条件さえ果たすなら、だれでも聖霊に満たされることができます。

第二に、大祭司は聖別された装束を身につけています。クリスチャンの聖別された装束は、キリストの血によって洗われた義の衣です(ヨハネの黙示録7:14、ローマ13:14)。

黙 7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

ロマ 13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

第三に、大祭司は髪の毛を乱したり、装束を引き裂くことが禁じられています。旧約聖書では、髪の毛を切らないことは、神への聖別を意味しております。またイスラエル人は悲しみを表す表現方法として、衣を引き裂きました。しかし大祭司は、自分の個人的な悲しみのために聖なる装束を引き裂くことが禁じられたのです。これは大祭司が個人的な悲しみの故に、聖なる務めができなくなるようであってはならないことを教えています。特に、直接献身して奉仕する者は、個人的なことのために奉仕が続けられないようであってはなりません。また、牧師、伝道者、クリスチャンのリーダーたちは、自分の感情をある程度コントロールできるだけの健全な霊的力を持っている必要があります。

11節、一般の祭司の場合は、両親の死の時には、その死体に触れることが許されていました(2節)。

レビ 21:11 どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。

しかし大祭司は許されていません。大祭司は神と人とに対して公人であって、私人としての行動に大巾な制限が加えられています。それは両親であっても、死体に触れるなら、神に仕えることができなくなってしまうからです。
このことは、クリスチャンが自分の家庭をかえりみなくてもよいということを教えているのではありません。しかし、家庭をかえりみるのは、家族全員が神に仕えるためであって、神に仕えることをおろそかにして、家庭サービスをするためではありません。私たちは神に仕えることによってのみ、人としての存在価値があるのであって、神をおろそかにした個人優先は、滅亡をもたらすだけです。

12節、大祭司は神に献身した者であって、たとい両親の死であっても、聖所から出ていくことが許されていません。

レビ 21:12 聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしは【主】である。

旧約時代の奉仕者には、これほどに献身の重みがあったのです。ここにも、その理由として、神のそそぎの油を記章として身につけているからであると語られています。私たちは自ら神への献身を明確にし、聖霊を憂しめたり、悲しめたりしないようにしなければなりません。

13~15節は、大祭司が不純な結婚によって、子孫が聖なる奉仕につくことができなくならないようにという警告です。

レビ 21:13 彼は処女である女をめとらなければならない。
21:14 やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。
21:15 彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別する【主】だからである。」

大祭司は同族の処女の娘と結婚することが定められています。これはその子孫が大祭司となって神に仕えることができるためです。

クリスチャンの両親はぜひ、子どもをサラリーマンにするために育てるのではなく、神に仕える者となるために育てていただきたいものです。信仰を正しく継承し、神に仕える使命を培っていかなければなりません。これが「子孫を汚さないこと」です。クリスチャンは自分の生涯だけでなく、子孫の生涯のことも十分に考えて信仰の歩みをしてください。

21:16~24節 祭司には身に欠陥があってはならない。

レビ 21:16 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
21:17 「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。
21:18 だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足のなえた者、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、
21:19 あるいは足や手の折れた者、
21:20 くる病、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。
21:21 祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、【主】への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。

いけにえにする獣に傷があってはならないように、いけにえをささげる祭司自身にも欠陥があってはならないのです。

これは第一に、私たちの大祭司であるイエス・キリストに対する条件です。イエス・キリストは一つの傷もない、全き神の小羊、すなわち、全きいけにえであるとともに(ペテロ第一1:19、2:22~24)、

Ⅰペテ 1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

Ⅰペテ 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

また完全な傷一つない大祭司であられます(ヘブル4:14,15、7:24~27)。

ヘブル 4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ヘブル 7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
7:26 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

このような条件を完全に満たすことのできるお方はイエス・キリストの外にはありません。

しかし第二義的には、私たちクリスチャンに対する神のご要求です。22節をみると、
アロンの子孫で身に欠陥のある者も、最も聖なる神のパンを食べることができます。

レビ 21:22 しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。

すなわち、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンなら、潔められていなくても、一応の神の恵みに与ることができます。しかしそれは浅い分野で、しかも限られた恵みでしかありません。

聖書はしばしばキリストのみわざを二段階に語っています。

「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、『何か見えるか。』と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。』と言った。それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」(マルコ8:23~25)

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)

すなわち、永遠のいのちをいただいていても、豊かにいただいていないことがあり得るのです。

ここに、身に欠陥のあるアロンの子孫は、聖なるパンを食することができましたが、聖所に入って行って、神のパンをささげることはできませんでした。すなわち、自ら、神と親しく交わり、そこから直接、神の恵みを豊かに受けることができないのです。

クリスチャンはすべての人が直接、神に祈ることができます。
しかしすべての人が大胆に神の恵みの座に近づき、豊かないのちと恵みにいつもあふれている状態にあるわけではありません。
ここに聖書も、私たちの経験も、クリスチャンの状態に二つあることを示しています。

身に欠陥のあるアロンの子孫が聖所に入ってはならない理由は、神の聖所を汚してはならないからであると記しています(23節)。

レビ 21:23 ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれらを聖別する【主】だからである。」

私たちも、救われてはいるけれども、潔められていないことの故に、神の聖なる御名を汚すことがあります。パウロはたえずクリスチャンに、潔められて聖なる者となるようにすすめています。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで、聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケ第一5:23)

クリスチャンは聖所の外で神のパンを食べることだけで満足せず、聖所の中に入って、神と親しく交わる恵みへと進まなければなりません。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(ヘブル6:1)

ロトのように低次元の恵みにとどまらず、アブラハムのように恵みの高嶺へと登りましょう。今、神の聖所とは、私たちのからだであり、これを潔めるのは御霊なる主であります(23節)。

レビ 21:23 ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれらを聖別する【主】だからである。」

(まなべあきら 1990.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型にて、聖所の中に置かれた祭司と大祭司の人形(2013年の訪問時に撮影)

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」


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