聖書の探求(088) レビ記 24章 ともしびと供えのパン、主の御名を冒涜する者への刑罰

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型の中の聖所に置かれた燭台(2013年の訪問時に撮影)

この章の前半は、ともしびとパンのこと、後半は、主の御名を冒涜する者への刑罰が記されています。

1~9節、ともしびと供えのパン

1~4節では、ともしびを絶えずともしておくように命じられています。

レビ 24:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
24:2 「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。
24:3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで【主】の前に絶えず、そのともしびを整えておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。
24:4 彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず【主】の前に整えておかなければならない。

これは、3節ではアロンに命じられていますが、2節ではイスラエル人に対して命じられていますから、イスラエル入全員が責任を負うべきことであります。幕屋の照明は燭台の七つのともしびだけでありました。その燈火用の油はイスラエル人が自発的にささげるものでした。この油は質の良い純粋なオリーブ油でなければなりません。神のために用いるものですから、最上質の油を用いるのは当然です。不純物が含まれていると、燃えが悪くススばかりが出て、明かりを灯すのに骨が折れます。ここにも霊的な意味があります。

この暗黒の世の中をキリストの福音の真理をもって照らすことができるのは、神の教会だけです(ヨハネの黙示録1:20)。

黙 1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

そして主は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」(マタイ5:16)なさいと言われましたが、私たちのうちに怒り、ネタミ、不信仰、この世への妥協や未練などの不純物があるなら、人々の前で光り輝くことはできません。

マタ 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

オリーブは神の民を表わしています(ゼカリヤ書4:1~14)。

最上質の神の民はよく神の栄光を現わします(テトス2:11~14)が、不純物を含んでいる神の民はいつもくすぶっていて、争いを起こしています。

テトス 2:11 というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、
2:12 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。
2:14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

3,4節、ともしびは夕方から朝まで主の前に絶えずととのえておかなければなりません。

24:3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで【主】の前に絶えず、そのともしびを整えておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。
24:4 彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず【主】の前に整えておかなければならない。

これは夜通し、ともしびがともっていたことを示しています。祭司は夜も、ともしびの芯をととのえて、明るく燃えるようにしておかなければなりません。このことは私たちの霊性にも必要です。油が聖霊を表していることは、よく知られています。この聖霊の火が私たちの心の中で、いつも明るくともっているためには、いつも心の芯をきれいに掃除しておくこと、すなわち、神に全く献げて、明け渡し、全く信頼している状態に整えておく必要があります。このように心を整えることを少しでも怠ると、心は曇ってきます。そして聖霊の火は燃えなくなってしまうのです。

この火は、「夕方から」とありますから、おそらく全焼のいけにえから取られたものであると思われます。そうだとするなら、これはキリストの十字架と聖霊の火との関係をよく表すものです。イエス・キリストの十字架の信仰なくして、聖霊の火の経験はあり得ません。今日も神のために霊魂を整えて、聖霊の火を明るくともしていたいものです。

5~9節は、主の前に供える十二個のパン

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型の中の聖所に置かれた12個の備えのパン。

レビ 24:5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。
24:6 それを【主】の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。
24:7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、【主】への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。
24:8 彼は安息日ごとに、絶えずこれを【主】の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。
24:9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、【主】への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

パンが十二個であるのはイスラエルの十二部族を意味していると思われます。すなわち、神の民を示しています。十二は神の完全数です(ヨハネの黙示録21:12)。

黙 21:12 都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。

また、このパンはキリストの人性を表しています。

このパンも安息日ごとに主の前に整えておかなければなりません。このパンは一部、祭壇の上で火によるささげ物として焼かれましたが、その他は祭司たちの聖なる食物とされました。これも霊的意味をもっています。私たちは「いのちのパン」であるイエス・キリストを食べることによって、クリスチャンとして成長することができるのです(ヨハネ6:35、48~58)。

ヨハ 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

ヨハ6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

今、この信仰経験がクリスチャンの中から消えつつあります。その代わりに、儀式主義や感情や神秘主義やカリスマ主義が取って代わっている傾向があります。それらはある種の不思議を行ったり、一抹の安心感を与えたりしますが、キリストにある人格的救いと潔めと、成長をもたらすことはありません。それ故、どんなに熱心であり、激しくても、真の実を結ぶことができません。救いを洗礼に頼ったり、感情の高揚を聖霊の満たしと考えていても、ガラテヤ人への手紙5章22,23節にある御霊の実を結ぶことができません。

ガラ 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

イエス・キリストのみことばは、ただのことばではありません。キリストのみことばには神の権威が満ちているのです。それ故、キリストのみことばを信じることによって、キリストのご人格を内に経験することができます。それが「いのちのパン」を食べることです。それは必ず、キリストにある人格を自分のものとし、それを成長させて、実を結ばせるのです。

内なる聖霊のともしびを整えることと、いのちのパンを食べて成長することの、この二つの奥義の経験は、今日、クリスチャンが失いかけているので、もう一度、私たちははっきりとこれを回復し、確立し、強調して語らなければなりません。

10~23節、主の御名を冒涜する者

10~16節は、主の御名を冒涜した者への神の審判です。

レビ 24:10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。
24:11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。
24:12 人々は【主】の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。
24:13 そこで、【主】はモーセに告げて仰せられた。
24:14 「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。
24:15 あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。
24:16 【主】の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。

そして、主の御名を冒涜する罪こそ、今日の最大の罪の一つであることを考えると、私たちはこの記事を重要視しないではいられません。この問題を引き起こした者は、イスラエル人を母とし、エジプト人を父としていた息子でした。彼らはおそらく、出エジプト記12章38節に記されているところのエジプト脱出の時に同伴した者たちでしょう。

出 12:38 さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。

ここに、私たちは二つの警戒を見ることができます。

第一は、家庭宗教が確立していない家庭に、神をのろう者が出ることです。この母がエジプト人と結婚したことは、この息子の信仰を大きく妨げたと思われます。また、私は、クリスチャン・ホームの子どもたちが主をのろうのを聞いたことがあります。形式上のクリスチャン・ホームではなく、実質上の家庭宗教の確立が必要です。お互いはこのことに最大の野心と注意を払い、仕事以上に真剣に祈り、家族全員が主を畏れる者になっていかなければなりません。

第二に、神をのろうことは、宿営の中で争っている時に起きました。おそらく、イスラエル人が、この混血児をイスラエルの神の契約の外にある者と言ったのでしょう。それに対して彼は神をのろったものと思われます。

特に、若い人は周囲の状況の影響を受けやすいので、教会の中に争いや批判が行われていれば、若者は批判的な態度をとったり、批判的なことばを言うようになります。そうですから、若者を責めるだけでなく、周囲の大人たちも自ら悔い改めて、主の恵みに満たされていなければなりません。

争いの時には、ふと、神の御名を汚す言葉が出やすいのです。こうして彼は十戒の第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない。」を破ってしまったのです。

12節、彼が純粋のイスラエル人であったなら、すぐに石打ちで殺されていたでしょう。

24:12 人々は【主】の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。

しかし、彼は混血児であったので、主のご命令を待つために、彼は監禁されました。主の御名を冒涜することに対しては、16、22節にもあるように、すべての人に対して刑罰が加えられます。

出 12:16 また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。

17~21節には、人や動物に対する殺傷問題が記されています。

レビ 24:17 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。
24:18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。
24:19 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。
24:20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。
24:21 動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。

神の御名を冒涜する罪は、殺傷の罪と同じように極悪な罪として扱われることを示しています。
一般に、神の御名をのろうことは、口だけの罪として軽く考えられがちです。しかし、神をのろうことは、人間の根本的な罪であり、その中に、すべての犯罪が含まれています。神をのろう人は、あらゆる犯罪を犯す危険性を持っています。それ故、この事件をとおして、主は神の御名を冒涜する罪に対して厳しい審判を下されたのです。

18~20節には、自分が犯した罪に対して、同じ刑罰が加えられるという定めが記されています。

レビ 24:18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。
24:19 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。
24:20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。

この定めは、

一、報復のためでなく、正義を厳しく守るための刑罰としての定めです。

二、これは私的な報復ではなく、公けの審判であること。

三、殺人罪には、賠償金が通用しなくなっていること。

の特長があります。この定めの規準は、今日の世界の法律の中に取り入れられています。犯罪を犯した者は、その犯罪に対してそれ相当の刑罰を受けるように定められています。
しかし、神の御名を冒涜する罪に対しては、この定めは通用しません。お互いの子女たちが、間違っても神をのろう罪を犯さないように実際的な家庭宗教を確立しておかなければなりません。

レビ 24:23 モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、【主】がモーセに命じられたとおりに行った。

あとがき

使徒ヨハネは、「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一3:18)といい、ヤコブは、「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)と言いました。
言うは易く、するは難しで、私は聖書全巻をまず五回読むことを強くすゝめていますが、信仰を持って五、六年経っている人でも、ほとんどが実行していません。これは通常、毎日、聖書を読む人なら、四、五年で達成できるはずですし、またクリスチャンなら、それくらいのことはしなければなりません。クリスチャンが聖書通読で四苦八苦している婆は、子どもが野菜嫌いで食べないのとよく似ています。聖書を読むことで、いろいろ言われているようでは、ほとんど見込みはないのです。聖書を好んで積極的に読む人になってください。ヒマがあれば聖書にかじりついている人、そういう人になってください。その人は必ず、実を結んできます。

(まなべあきら 1991.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


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