聖書の探求(089) レビ記 25章 「地の安息」の定め
25章は、「地の安息」の定めを記しています。
これには二つあり、七年目の地の安息と、五十年目のヨベルの年の安息です。
1~7節、七年目の地の安息
2節、土地も主の安息を守るようにという定めは、非常に珍しい定めですが、重要です。
レビ 25:1 ついで【主】はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。
25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。
土地は生きており、働いています。ですから、これを休ませなければ、土地はやせ衰えて、穀物を産出しなくなります。
土地を休ませることは、人もまた休むことを意味しますから、人の貪欲を防ぐための有効な手段でもあります。
3節、六年間は畑に種を蒔いて収穫を得、ぶどう畑の枝をおろして、沢山の収穫を得ることができます。
レビ 25:3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
神の民は働くべき時には、全力を尽くして働かなければなりません。
4,5節、しかし、七年目は土地も主の全き安息を迎えます。
レビ 25:4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。
25:5 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。
この時には、畑を耕すことも、種を蒔くことも、ぶどう畑の枝をおろすことも、収穫することも禁じられています。
6,7節、それは人の働きによらず、神の恵みによって地に与えられた産物が、すべての者に平等に与えられるためです。
レビ 25:6 地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、
25:7 また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。
奴隷たちも、雇い人も、居留者たちも、家畜や獣も、自由に食べることができるためです。これはシナイの荒野を旅していた時に与えられたマナの供給の方法とよく似ています。すべての者に平等に与えられる年なのです。それは畑の所有者だけが、自分のものとすることを禁じた定めなのです(5節)。
25:5 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。
働き続けることを善とし、休むことを悪と考える人は、昔からいました。エジプトのパロがそうであり(出エジプト記5章)、ヒットラーや、今日の日本人たちもそうです。働きを休んで神を礼拝することを拒む者は、本人も国家も滅びることを覚悟しなければなりません。そのように働き続けて、長く繁栄した国家はいまだ存在したことがありません。この日本の繁栄も、間もなく衰退していくことが目に見えています。
それでは、なぜ、人は休むことを悪と考えるのでしょうか。収入が減ると思うからです。そこには神の祝福が計算に入っていません。
20~22節をみるなら、主は、この安息の年の間、食物は十分に与えると約束されています。
レビ 25:20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか』と言うなら、
25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。
この安息の年は、確かにイスラエルを非常に繁栄させました。多くの奴隷や使用人たちは、一週間や十日間の休みではなく、一年間、激しい労働から解放されて十分に休むことができ、神の恵みによって力づけられることができたからです。休みなく働き続ける人は決して繁栄しないばかりでなく、必ず滅んでいきます。それは現代人が滅んでいく姿の中にも見られます。
それでは、この七年目の安息の年には、民は何をしていたのでしょうか。申命記31章9~22節をみると、この1年間、神の民は、物を得るための働きを休んで、みっちり神の教えを学び、訓練を受けたのです。
申 31:9 モーセはこのみおしえを書きしるし、【主】の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。
31:10 そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、
31:11 イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、【主】の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。
31:12 民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うためである。
31:13 これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、【主】を恐れることを学ばなければならない。」
31:14 それから、【主】はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。
31:15 【主】は天幕で雲の柱のうちに現れた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。
31:16 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、入って行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、
31:17 その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか』と言うであろう。
31:18 彼らがほかの神々に移って行って行ったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。
31:19 今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。
31:20 わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。
31:21 多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」
31:22 モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。
もしイスラエルがこの制度を取り続けていたら、もっと驚くべき民族になっていたことでしょう。
この点で、現代のクリスチャンはもっと真剣に、時間を聖別して神のみことばを学び、信仰の訓練を受けるべきではないでしょうか。一週間に一回、教会に出席すれば、それで義務のすべてを果たしたと思うようでは、成長も祝福も期待することはできません。
8~22節、ヨベルの年の安息(一般的規則)
ヨベルの年の安息は、七年目の安息を七回繰り返した後にきます。すなわち、半世紀に一回の、最大の、そして民の完全な解放を意味する重要な安息です。
神はなぜ、このような安息の年を設けられたのでしょうか。その理由の一つは、人はみな、神によって解放されなければならない重荷を背負っていることを人間に教えるためです。
もう一つの理由は、神の前では、すべての人が等しく神の恵みを受けることができ、また、神の顧みを受けるのには、財産や地位などの人間的特権は何の役にも立たないことを人が知るべきだからです。
8、10節、ヨベルの年の設定
レビ 25:8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。
25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
ヨベルの年は七回目の安息の年の次の第五十年目です。それ故、イスラエルの民は七年目の安息の年(四九年目)と五十年目のヨベルの年の二年間、続けて休むことになります。
それ故、21節では、四九、五〇、五一年の三年間のための収穫が六年目(四八年目)に与えられると約束されています。
レビ 25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
現代のクリスチャンの中には、聖日に仕事を休むと収入が減ると考えている人がいますが、神は旧約時代から、休みにはそれにふさわしい祝福を与えて下さっているのを見ることができます。信仰に満ちて、神を礼拝するために仕事を休むことは、決して収入が減ることにはなりません。それを、この世的計算をするから、祝福が得られなくなるのです。
9節、五十年目の贖いの日に角笛を全土に鳴り響かせます。
25:9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。
この角笛は特別な時にだけ用いられるものです。この角笛は十戒が与えられる前にも鳴り響いています(出エジプト記19:16)。
出 19:16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
これはイスラエルを神の契約の民とするためのものでした。やがて主イエスが再臨される時も、天からこの角笛が鳴り響くでしょう(テサロニケ第一4:16)。
Ⅰテサ 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
このヨベルの年の第一の目的は、すべての民の解放の宣言です(10、13節)。
レビ 25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
25:13 このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。
借金のために使用人として働いていた人も、自分の家族と自分の所有地に帰ることができます。この時には、すべて貸借閑係が清算されて、自由となるのです。
11,12節、ヨベルの年にも、畑からの収穫が禁じられています。
25:11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。
25:12 これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。
畑にも安息が与えられなければなりません。神の民には、自分の所有物であっても、決して自分勝手に使っていいとはされていません。神は、人の所有物をその人個人に与えられたのではなく、その部族、その子孫にも与えられているのですから、個人の意志で土地の売買は禁止されています。ナボテがアハブ王からぶどう畑を売るように言われた時に、これを断ったのも、この理由によります(列王記第一21:3)。
Ⅰ列王 21:3 ナボテはアハブに言った。「【主】によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」
14~16節、土地を売ると言っても、今日とは違って、土地そのものを売るのではなく、土地から生じる収穫を売るのです。
レビ 25:14 もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。
25:15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。
25:16 年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。
それ故、土地の価値はヨベルの年までの収穫回数によって決められます。
14、17節、土地の売買については、神を恐れて、互いに害を与えないようにしなければならないことを警告しています。
レビ25:14 もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。
25:17 あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、【主】である。
18~22節、民が、これらの定めを守り行うなら、彼らはそこに安らかに住むことができ、満ち足りた祝福を受けることができると約束されています。
レビ 25:18 あなたがたは、わたしのおきてを行い、わたしの定めを守らなければならない。それを行いなさい。安らかにその地に住みなさい。
25:19 その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。
25:20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか』と言うなら、
25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。
23~34節、土地と家の買い戻しの権利
23~28節、土地の買い戻しの権利
23節、聖書は、土地は神が創造したものであり、神にのみ属することを告げており、土地はどの人の所有でもないと宣言しています。
レビ 25:23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。
25:24 あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。
人は土地の所有者ではなく、神から土地を借りている寄留者であり、旅人です。今は、人が土地の所有者であるかの如く錯覚しているところから、土地の値上がりを起こさせたりして、貪欲な人々の欲望をかき立てています。しかし人は、神が創造された土地を決して所有することはできません(詩篇49:10~13)。
詩 49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。
49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。
49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。
49:13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。 セラ
人はこの地上に生きている間、神の土地を借りているだけであることを覚えなければなりません。それ故、神は、イスラエル人の間に、大地主と小作人が生じないように、深い配慮をされたのです。
25節、たとい兄弟が貧しくなって所有地を売っても、必ず、それは買い戻さなければならないし、本人が買い戻せない場合は、近親者が代行しなければなりません(ルツ記2~4章)。
レビ 25:25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。
25:26 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、
25:27 売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。
25:28 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。
それでもできない時は、ヨベルの年に返還されることになっていました。買い主は他の者に転売することが禁じられていました。この世の栄華を求める者は、土地の所有を望むでしょう。しかしその土地を得るために一生をむなしく費してしまうのです。そしてその霊魂は滅び、その土地も失うことになります。
29~34節は、家を買い戻す権利について記しています。
29,30節では、例外として、城壁のある町の中の住宅については、買い戻す権利が一年間に限って認められています。
レビ 25:29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。
25:30 もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。
その一年を過ぎると、ヨベルの年にも返還されません。これは、城壁のある町はその広さが限られており、土地で耕作することがほとんどなかったからであると思われます。そして、人間にとっては、人が住む住宅よりも、命の保持のための食糧を生み出す耕作地のほうが重要だったからです。
31節、しかし城壁のない村落の家は住宅としてより、耕作地として認められ、買い戻しの権利とヨベルの年の返還が認められています。
レビ 25:31 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。
これは今日の土地に対する価値観と反対になっています。今日では耕作地より宅地のほうが高価に考えられています。しかし大飢饉が起きるなら、たちまちこの価値観はくずれて、反転してしまうのです。
32~34節、レビ人の町について
レビ人は祭司とともに神への奉仕をするので、特別の権利が与えられ、その生活は完全に保証されています。それ故、レビ人には耕作地が与えられていません。レビ人の嗣業は神に仕えることだったからです。
これを新約時代に当てはめて考えるなら、教会は牧師の生活を完全に保証しなければなりません。また主の恵みがありますから、信者ひとり一人が感謝して惜しみなく献金するなら、ほとんどの教会の牧師はアルバイトすることなく、生活は保証されるはずです。
ちなみに、私は開拓時代から一度もアルバイトをしていません。現代の日本の経済力から考えるなら、他の貧しい国々の献金と比べても、もっと献金ができるはずだと思いますが、献金のレベルでも日本が低い水準にあるのは、やはり信仰のレベルが低いからに違いありません。もし私たちすべてのクリスチャンが、おざなりの献金をしないで、一回一回よく祈り、精一杯感謝をこめて献金するなら、必ず教会は大いなる祝福を得、福音宣教は急速に進むはずです。
「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」(コリント第二8:1~4)
レビ 25:32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。
25:33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。
こうしてレビ人は耕作地のない町に住んでいましたが、それを売った場合、いつでも買い戻すことができ、また必ずヨベルの年には返還されました。
34節、レビ人の町々には放牧用の畑がありました。
レビ 25:34 しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。
この畑は主にいけにえとしてささげるための羊や牛を飼っていたのです。ですからこの畑は売ることが禁じられています。おそらく、ルカ2章8~20節の、主が降誕された時に羊飼いたちが飼っていた羊は、この放牧地の羊ではなかったかと思われます。
ルカ 2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
この、神に仕える者の生活が保証されるという問題は、今日も重要な問題であり、まず、神に仕える者はサラリーマン化せず、たえず神によって生活が保証されることを確信しなければなりません。それとともに、教会は神に仕える者の生活を保証する責任と制度とを確立していく必要があります。この両方が整ってこないと、すぐれた神の器は起きてこなくなります。後にイスラエルの会衆がささげ物をしなくなった時、レビ人は神殿での奉仕を投げ出して、自分たちの町で耕作を始めたことが起きています。現代の教会もこれと似たようなことが起きていないでしょうか。
これらの買い戻しの権利の中には、確かに、キリストによる霊魂の贖(あがな)いの真理が隠されていることは事実です。しかしそれとともに、土地は神が創造されたもので、神に属するものであること、そして人間の貪欲が神のご計画を妨げないようにとの深い配慮がなされています。しかし、このような競走は、人が神に従っている間だけ有効であり、次第に人間の貧欲が優先して、土地の獲得競争が人間の人生の最大の目的となってしまっています。そして霊魂は滅び失せていくのです。自分の一生を土地獲得のためだけに使い果たすのならこれほど空しく、愚かしい生き方は外にありません。
35~55節、イスラエル人の買い戻しの権利
35~43節は、神の民である兄弟が貧しくなり、暮らしが立たなくなった時のことを記しています。ここには隣人への愛の配慮が示されています。
レビ 25:35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。
25:36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。
25:37 あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。
25:38 わたしはあなたがたの神、【主】である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。
25:39 もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。
25:40 あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。
25:41 そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。
25:42 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。
25:43 あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。
この場合、決して兄弟を奴隷として、しいたげてはならないことが命じられています(39節)。たとい身売りしていても、住み込みの雇い人(40節)として扱い、生活ができるようにし、利息も利得も取ってはならない(36,37節)ことが命じられています。
そしてヨベルの年が来たら、各々、自分の一族の所、すなわち、自分の先祖の所有地に帰らせるように命じています(40~41節)。
なぜ、兄弟をこのように扱うべきなのでしょうか。その理由は二つあります。
(イ)、第一は、「あなたの神を恐れなさい」(36、43節)です。
レビ 25:36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。
25:43 あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。
主はあなたの神であるとともに、貧しい兄弟にとっても、主は彼の神であられるからです。それ故、経済的な問題だけで、貧しい者をしいたげてはならず、また見くびってはならず、むしろ立ち直れるように支援することが求められています。もし、貧しい兄弟をあなどり、しいたげるなら、それは主をあなどり、しいたげることになります。
かつてサウロがクリスチャンを迫害していた時、主はこう叫ばれました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。‥‥わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:4,5)
私たちは日常生活での人との関係において、あまりにも主を忘れてしまい、主を抜きにした考え、主を抜きにした行動をとっていないでしょうか。そこから人をあなどったり、ばかにしたりすることが生じるのです。主を抜きにして、人を愛することはできません。それ故、兄弟を愛することは主を愛することです。クリスチャンはこの地上において、兄弟を愛することによって、具体的に主を愛することを現わすのです(ヨハネ15:12、17、ヨハネ第一3:11~18)。
ヨハ 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
Ⅰヨハ 3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。
3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。
3:13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
3:18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
このことを私たちは片時も忘れてはなりません。
(ロ)、第二の理由は、42節、神の民は、主がエジプトの地から連れ出された主の奴隷だからです。
レビ 25:42 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。
主の奴隷を勝手に人の奴隷とすることはできません。主が代価を払って買い取られた民であるからです。
私たちクリスチャンも、主の血という尊い代価によって買い取られている主の奴隷なのですから、自分で自分を勝手に、自分の欲のままに使うことはできないのです(コリント第一6:19,20)。
Ⅰコリ6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
とにかく、隣人を愛するということは、主を恐れることによってのみ可能になります。相手の人も、主から愛され、主のものであることを認識する時に、私たちは隣人を尊重し、愛することができるようになります。
44~46節では、異国人の男女を奴隷にすることができると言われています。
レビ 25:44 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。
25:45 または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。
25:46 あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。
このことで神を疑ったり、驚いたりする人がいるかも知れません。しかしここで言われている奴隷は、ほとんど現代の使用人と同じです。ローマ時代の奴隷や、先代のアメリカやヨーロッパ主義の奴隷のように、人を牛や馬のように扱う奴隷とは異なります。現代でも使用人をひどくしいたげたり、苦しめたりする雇い主がいます。そのために、ある者は過労死し、ある者は精神的苦痛を受けて自殺したり、病気になっています。日本における雇用関係では、個人の人格や生活まで無視して支配しようとする傾向が強いので、これは酷使する奴隷の扱い方です。無理に酒を飲ませたり、個人の宗教をあざわらったり、健全な家庭生活ができないほど働かせたりすることは、人を経済的奴隷にすることなのです。
神はこのことを禁じたのです。ただし、異国人の奴隷の場合には、ヨベルの年における買い戻しの権利が与えられていません。それはその人が神の民となっていないからです。その人は、生涯、主人の使用人として働かなければならないのです。
これに対して、47~54節では、イスラエル人が同じイスラエル人にではなく、イスラエル人の間に住む在住異国人に身売りをした場合のことが記されています。
レビ 25:47 もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、
25:48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。
25:49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。
25:50 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。
25:51 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。
25:52 もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。
25:53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。
25:54 たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。
すなわち、在住異国人であっても、イスラエル人の社会では、暮らし向きが良くなり、使用人を使う人も出てくる可能性が十分にあったということは、決して異国人がしいたげられていたのではないことを示しています。要は、各々が、民族を問わず、神をおそれた生活をするか、どうかに、かかっているのです。
イスラエル人が異国人に身売りをした場合でも、律法は適用されています。
イ、53節、彼らは酷使されてはならず、雇われた者として扱わなければなりません。
レビ 25:53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。
ロ、48~49節、買い戻しの権利が与えられています。
レビ 25:48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。
25:49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。
暮らし向きが良くなれば、自分で買い戻すことができるし、あるいは、他の近親者が買い戻すこともできます。そのよい例はルツ記のボアズです。ただし、近親者が買い戻す場合は、近親者にその意志がなければなりません。その身代金はヨベルの年までの年数で決められます。
ハ、たとい、自分も、近親者も買い戻すことができない場合でも、ヨベルの年には解放されることができます。
これは神の民にだけ与えられている特権です。
この買い戻しの権利とヨベルの年の解放がイスラエル人にだけ適用されていることは、大いに注目しなければなりません。ここに、イエス・キリストの贖(あがな)いの真理が示されているからです。
55節、キリストのしもべとなる者には、大いなる特権が与えられるのです。
レビ 25:55 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、【主】である。
このことを私たちは忘れたり、また過少評価したりしてはいけません。
〔贖(あがな)い主としてのキリストのみわざ〕
一、25、48、49節、贖う者と贖われるべき者とは、近親者でなければならないこと(ヘブル2:14~18)
レビ 25:25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。
レビ 25:48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。
25:49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。
二、47~55節(ルツ記4:4~12)その近親者は人を贖う意志を持っている贖い人であること。
主イエスもその民を贖われました。主はそのために天の御座から下ってくださったのです(コリント第一6:19,20、ピリピ2:6~8)。
レビ 25:47 もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、
25:48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。
25:49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。
25:50 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。
25:51 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。
25:52 もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。
25:53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。
25:54 たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。
25:55 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、【主】である。
ルツ 4:4 私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。」すると彼は言った。「私が買い戻しましょう。」
4:5 そこで、ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」
4:6 その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」
4:7 昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。
4:8 それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分のはきものを脱いだ。
4:9 そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。
4:10 さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」
4:11 すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。「私たちは証人です。どうか、【主】が、あなたの家に入る女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。
4:12 また、【主】がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」
Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
ピリ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
三、25、29節、贖(あがな)う者は人手に渡った嗣業をも贖うべきであった。
レビ 25:25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。
レビ 25:29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。
イエス・キリストも私たちが失った嗣業を私たちのために贖われた(ペテロ第一1:3~5)。
Ⅰペテ 1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
1:4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。
四、民数記35:12、申命記19:11~13
民 35:12 この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。
申 19:11 しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、
19:12 彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。
19:13 彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。
近親者はその肉親の敵には復讐して、その殺人者を除くことが命じられています。
イエス・キリストも、再臨時に、その民の敵、サタンと彼に属する者たちに報復されます(申命記32:43、テサロニケ第二1:6~8、2:8)。
申 32:43 諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。
Ⅱテサ 1:6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。
1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
あとがき
今年も、はや、半分を過してしまいました。時の過ぎ行くのは早く、仲々、思うように働きが進みませんが、それでも、感情的な信仰ではなく、みことばに立つ信仰を求める方々が起こされていることは感謝です。
聖書のみことばが身についてくるには、コツコツと忍耐強く学び続けることが必要ですので、あまり人気がありません。しかし着実に行う人は実を結びます。クリスチャンは地上に生きている限り、喜んで聖書を学ぶ者でありたいものです。
聖書を第二、第三にする生活からは実りはありません。それは主が語っておられるとおりです。「良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8:15)
クリスチャンが先ずしなければならない訓練は、聖書を読み、学び、守り行う自己訓練です。このことなしに、いかなる収穫も期待することはできません。この習慣を全員で身につけたいものです。
(まなべあきら 1991.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、レビ記25章の分かりやすい図解説明。引用元は、「Doodle Through The Bible_ My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time! 」(http://www.doodlethroughthebible.com/)
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