聖書の探求(091a) レビ記 27章 誓願と十分の一の献物について
ついにレビ記の最後の章に到着しました。
この章は、誓願と十分の一の献物について記しています。
1~8節、主に特別な誓願を立てる場合の評価。
レビ 27:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
27:2 「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって【主】に特別な誓願を立てる場合には、
27:3 その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。
27:4 女なら、その評価は三十シェケル。
27:5 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。
27:6 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。
27:7 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。
27:8 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。
ここには三つの評価基準が記されています。
第一は年令による評価、第二は性別による評価、第三は貧富による評価です。
これは人間の価値の評価ではなく、各々が誓願する場合に献げることのできる能力による基準を記しているだけです。これは一家の長が家族の為に誓願を立てる時の基準でもありました。この例はハンナ(サムエル記第一1:11)やエフタ(土師記11:30~31)に見られます。
Ⅰサム 1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の【主】よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を【主】におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
士 11:30 エフタは【主】に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
11:31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を【主】のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」
ハンナは誓願どおりサムエルを神にささげ、エフタは彼の娘を主にささげました。
申命記23章21~23節を見ると、主に誓願を立てたなら必ずそれを行わなければならない。遅れてはならない。それを行わないと罪になる、と言われています。
申 23:21 あなたの神、【主】に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、【主】は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。
23:22 もし誓願をやめるなら、罪にはならない。
23:23 あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、【主】に誓願したとおりに行わなければならない。
しかし誓願は立てなくてもよく、それは罪にはなりません。私たちはエフタのような軽はずみな誓願を立てないようにしたいものです。しかし、誓願は主への傾倒や献身を表すために立てることがありました。ハンナの例がそれです。そこで、8節の貧しい者に対する規定が加えられているのは、各々がその能力に応じて特別な誓願ができるようにとの配慮がなされています。これは通常の献物以外の献物です。
9~13節、誓願に家畜をささげる場合
レビ 27:9 【主】へのささげ物としてささげることのできる家畜で、【主】にささげるものはみな、聖なるものとなる。
27:10 それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。
27:11 【主】へのささげ物としてささげることのできない汚れた家畜一般については、まずその家畜を祭司の前に立たせる。
27:12 祭司はそれを良いか悪いか評価する。それは祭司があなたのために評価したとおり、そのようになる。
27:13 もしその者が、それを買い戻したければ、その評価に、その五分の一を加える。
家畜にはささげることのできるものと、ささげることのできないものとがあります。また、良いものと悪いものとを自分で判断して取り替えることが禁じられています。良いか悪いかの評価は祭司の権限にゆだねられています。すなわち、私利私欲による妥算的代用が禁止されています。ここで、「聖なる家畜」と「汚れた家畜」の区別は、衛生上のことよりも、主のみこころにかなっているか否かによって決められています。これは私たちが聖なる者であるか否かにおいても同じです。それは自分の判断で道徳的に深く、すぐれた者であると思うかどうかよりも、神のみこころにかなっているかどうかという基準で判断しなければ、大きな過ちを犯すことになります。
自分の出来具合や能力などで判断すると、神のみこころからそれてしまいます。主に自らを献げることによって、主が聖とされるのです。人も動物も自らを潔くすることはできません。しかし主に献げることのできない家畜は、祭司に見せて値積りをしてもらい、ロバなどのように所有者が仕事に使いたくて買戻す時は、祭司の値積りに五分の一を加えて買い戻すことができます。買い戻さない場合は、その家畜を売って、値積り分を献げます。
14~15節、家を主に献げる時も、家畜と同じようにします。
レビ 27:14 人がもし、自分の家を【主】に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。
27:15 もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。
その家を所有者が買い戻したい時は、評価額に五分の一を加えます。
家を献げることも幸いですが、家の中に住む人とともに主に献げることができたら、もっと幸いです。クリスチャンはもっともっと自分の家を主のために用いることを考えなければなりません。クリスチャンの家庭は教会の出張所のようなものです。その機能を十分に活かして主をお伝えしたいものです。そういう誓願の献物をする人が多く起こされてくる時、多くの人が救われるようになります。
ここで、もう一つ注目しておきたい点は、人に対する年令と性別の評価や、きよい家畜のようにはっきりと定められているもの以外は、祭司が各々、評価していることです。私たちが自分の献身や信仰を評価する場合、それは大祭司なるイエス・キリストによってなされなければなりません。各々自分で勝手な評価をする時、ある人は高ぶり、ある人は自己卑下の苦しみに陥ります。また私たちが他人を導く時、自分の基準に合わせず、主の基準に合わせて導かなければなりません。
16~25節は、畑を主に聖別する場合の評価です。
16~21節は、自分の所有の畑を聖別する場合であり、22~25節は人から買った畑の場合です。
レビ 27:16 人がもし、自分の所有の畑の一部を【主】に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。
27:17 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。
27:18 しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。
27:19 もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。
27:20 もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。
27:21 その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として【主】の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。
この二つが異なるのは、畑の売り主に対する配慮からです。イスラエルの人々は土地そのものを売ることはできませんでした。土地は主から与えられたものだからです。それ故、買った後でも、売り主のことが配慮されています。何事でも、主から与えられたものであると受けとめる時、そのものの正しい取り扱い方が分かってきます。
畑の評価は二つの条件によっています。
一つは(16節)、畑に蒔かれた種の量によります。
レビ 27:16 人がもし、自分の所有の畑の一部を【主】に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。
もう一つは(17,18節)、ヨベルの年までに残っている年数によります。
27:17 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。
27:18 しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。
この二つの評価基準は、その畑からとれる収穫物によることを意味しています。よく手入れされ、種の蒔かれている畑は高い評価を受け、なまけて種の蒔かれていない畑は低い評価を受けます。主イエスは、たねまきのたとえ話で私たちの霊魂を畑にたとえておられますが、よく耕し、多くの種が蒔かれた畑は、多くの収穫が得られ、主から高い評価を受けることができます。
自分の畑を誓願にささげた後、買い戻す時は評価額に五分の一を加えます。しかしその畑を買い戻さず、他人に売られている時は、もはや買い戻すことはできず、ヨベルの年には主の聖なるものとなり、祭司の所有地となります。
22~24節、他人から買った畑を主にささげた後、買い戻す時は評価額だけで買い戻すことができます。
レビ 27:22 また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを【主】に聖別する場合、
27:23 祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を【主】の聖なるものとしてささげなければならない。
27:24 ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。
しかしその畑はヨベルの年には元の売り主に返されます。
25節は聖所で使う貨幣を記しています。
レビ27:25 評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。
聖所の一シェケルは二十ゲラ(出エジプト記30:13、民数記3:47、同18:16)。
出 30:13 登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを【主】への奉納物とする。
民 3:47 ひとり当たり五シェケルを取りなさい。これを聖所のシェケルで取らなければならない。一シェケルは二十ゲラである。
民 18:16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。
一般の生活に使う金銭と聖所でささげる貨幣とが区別されていたのは、聖所の意味を教えるためであったと思われます。
26~27節は、家畜の初子についてです。
レビ 27:26 しかし、家畜の初子は、【主】のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは【主】のものである。
27:27 もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。
家畜の初子は、もともと主のものですから、(出エジプト記13:2、12、申命記15:19~23)、誓願の献物に使うことはできません。
出13:2 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」
出 13:12 すべて最初に生まれる者を、【主】のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は【主】のものである。
しかし主に献げることのできない汚れた家畜の初子であれば、評価額の五分の一を加えて贖(あがな)うことができ、また評価額に従って売ることもできました(出エジプト記13:13)。
これらの家畜はしばしば労働のために用いられたからです。
28~29節、絶滅すべき聖絶のもの。
レビ 27:28 しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち【主】のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、【主】のものである。
27:29 人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。
これは、「のろわれたもの」のことを意味しています。これは人であれ、家畜であれ、自分の所有の畑であっても、売ることも、買い戻すこともできません。29節では、特に人について語られています。聖絶されるべきものは、贖(あがな)われることができず、必ず殺されなければならないとされています。アカンは聖絶すべきものを盗みました(ヨシュア記6:17,18、21、7:1、11、13)。
ヨシ 6:17 この町と町の中のすべてのものを、【主】のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。
6:18 ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。
ヨシ 6:21 彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。
ヨシ 7:1 しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、【主】の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。
ヨシ 7:11 イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。
ヨシ 7:13 立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、【主】がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。
その結果、アカンとその家族がみな、のろわれるものとなってしまいました。サウル王は、「アマレクを聖絶せよ」と命じられたにもかかわらず、アマレク人の王アガグと肥えた羊や牛を生かしておきました(サムエル記第一15:1~23)。その結果、サウル王は主からのろわれる者となりました。主の聖別では、不純物を全く取除くことが強く要求されています。
これに対して、人間の欲や人間の知恵による判断がいかにのろいを招くかを教えています。自分の悟りに頼らず、主に従うことこそ、最も重要です(箴言3:5)。
箴 3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
30~33節は、十分の一は主のものであることを記しています。
レビ 27:30 こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな【主】のものである。それは【主】の聖なるものである。
27:31 人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。
27:32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、【主】の聖なるものとなる。
27:33 その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」
地の産物や木の実については、五分の一を加えれば買い戻すことができます。しかし牛や羊については、買い戻すことは許されていません。牛や羊の十分の一を決める方法も、所有者自身で決めることができません。牧者の杖の下を十番目に通る者と定められています。たといその牛や羊が良いものでも、悪いものでも、取り替えることが禁じられています。もし万一、取り替えたりするなら、その両方が主のものとなるのです。ここにも人間の利己的価値判断が入り込まないように配慮されています。
34節は、26章46節の繰り返しのようですが、これはレビ記がシナイ山で、主がモーセを通してイスラエルの民に与えられたことを証明し、強調しており、主の認印のようなものです。
レビ 27:34 以上は、【主】がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。
レビ 26:46 以上は、【主】がシナイ山でモーセを通してご自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。
(まなべあきら 1990.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、レビ記26章の分かりやすい図解説明。引用元は、「Doodle Through The Bible_ My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time! 」(http://www.doodlethroughthebible.com/)
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