聖書の探求(090) レビ記 26章 条件付きの祝福と警告

26章は、条件付きの祝福と警告が記されています。

この章は申命記11章や同28章と深い関係があります。すべて、神の祝福は条件付きです。私たちが条件を果たしている間だけ、祝福を与えてくださるのです。今日的なことで言うなら、一度、主イエスを信じて洗礼を受けたら、あとは自動的に天の御国に行けるというのではありません。毎日毎日、主イエスを信じる信仰を守ることによって、天の御国に入ることができるのです。この条件をおろそかにするなら、ただちに祝福は取り去られて、詛(読みは「そ」、意味は「のろい」)を受けるようになります。

この26章は、前半に、主の命令を守り行う者への祝福が記されており、14節以後の後半は、主の命令に聞き従わない者への刑罰を記しています。この章では、後半の「聞き従わない者」への警告が圧倒的に多く、この部分が強調されています。それはレビ記も終わりに近づいており、特に、不信仰な者、不従順な者への警告が多くなっているものと思われます。

1~13節、主の命令を守り行うなら

1,2節、二つの命令

レビ 26:1 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、【主】だからである。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは【主】である。

これまで多くの戒めと定めとが命じられてきました。しかしここに至っては、二つだけが取り上げられています。それはこの二つが日常的なことで、最も重要な戒めだからです。
すなわち、一つは偶像を作らず、拝まないこと。もう一つは安息日を守って、礼拝することです。この二つをきちんと守るなら、他の戒めは自ら守ることになります。

この二つの命令は今日でも非常に重要です。クリスチャンはしばしばこの二つの命令をいいかげんにすることによって、再び堕落しています。あなたは、あらゆる偶像と、偶像的なこの世のあらゆる風習、慣習的行事などから完全に遠去かっているでしょうか。聖日の礼拝は何をさておいても守っているでしょうか。これはクリスチャンとして守るべき最低限度の主の命令なのです。このことをいいかげんにしていて、恵みと祝福を得ようとしても、それは無理なことです。

3節は、祝福を受けるための条件です。

「もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら、」。(レビ 26:3)
これは信仰を具体的に生活の中で行うことを意味しています。神の祝福は思想や哲学的な信仰の中にはありません。これは主が私たちに求めておられる信仰生活がどういうものであるかを明らかに示しています。

4~12節、祝福は大別して五つ記されています。
一、4,5節、豊かな収穫

レビ 26:4 わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、
26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。

季節にしたがったふさわしい雨は、地に多くの産物を与えます。恵みの雨は主が下さるものです。麦の収穫とぶどうの収穫が交互に、間をおかずに続けて与えられるほどの祝福です(5節)。これは神の祝福が途絶えることがないことを示しています。私たちが信仰の条件をきちんと守り続けるなら、主の祝福は途絶えることなく与えられます。

二、6節、地に平和が与えられる。

レビ 26:6 わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。

(ルカ2:14「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」)
ここでは、安らかな安眠が保証されています。心に悩みがあれば熟睡することができません。心に平安が与えられている時に、安眠することができます。当時、ジャッカルのような獣が襲ってきたりして、人々を恐れさせていましたし、諸国の部族がたえず略奪や権力争いで戦いを繰り返していました。しかしイスラエルの歴史を見ると、彼らが信仰の条件を果たしている時は、争いは止み、平和が訪れ、平和な期間が長く続くと、その国は繁栄したのです。

家庭でも、会社でも、教会でも、国家でも、世界でも、争いが続いていると衰退し、平和な時は人々は力をつけてきます。神の祝福が与えられるからです。主は、「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。」(ルカ11:17)と言われました。私たちは争いを止めるために何が必要かをはっきりと知っておく必要があります。それは相手との問題を解決する前に、神に対する信仰の条件が果たされていることです。神に対する信仰の条件を果たさないで、いくら他人との間の仲直りをしても、争いは繰り返されます。

三、7,8節、たとい敵が攻めて来ても、神の民は強められて勝利を得ます。

レビ 26:7 あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。
26:8 あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。

神の命令に従っている者は、従っていない者の二〇倍から百倍の力を持つようになります。パウロはクリスチャンに対して、主の大能の力によって強くなるようにすゝめています。(エペソ6:10)

エペ 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

その方法がここに記されています。主のみことばに聞き従い、それを守り行うことです。あくまでも己の悟りに頼らないことです(箴言3:5)。

箴 3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

主はみことばを守り行う者には、百倍、六十倍、三十倍の実を結ばせると約束してくださいました(マタイ13:3~23)。

マタ 13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
・・・
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

あなたはこれらの主のお話を、ただの話として聞いているのでしょうか。それなら何の役にも立ちません。信じて実行すべきです。

四、9,10節、神は契約の如く、神の民をふやしてくださいます。

レビ 26:9 わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。
26:10 あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。

それはアブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいています。神は契約に従ってだけ、祝福します。そうですから、私たちは神との契約にしっかりと立ち続けなければなりません。神は契約を違えたり、破棄したりしたことは一度もありません。ただし、私たちの側で契約を守らないと、私たちが契約を破棄してしまうので、祝福はなくなります。「顧み」とは、神が民の方に向いてくださることです。これが神の恵みなのです。さらに、神の民はふえても、食糧は十分に貯えられていて十分に足ります(10節)。

五、11~13節、主の常住的臨在の交わりが約束されています。これは決定的な祝福です。

レビ 26:11 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。
26:12 わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

ただ、主の命令を守り行うだけで、なぜ、これほどにまで祝福されるのでしょうか。それは私たちが主の命令を守り行ったことに対する報酬ではありません。それは、主がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から導き出してくださった主であるからです。

レビ 26:13 わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、【主】である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。

私たちも、主のみことばに信頼し、従うことによって祝福を受けます。しかしそれは私たちの行いに対する報酬ではありません。主イエスが十字架にかかってくださった愛とあわれみの故です。私たちが神の御国に入れるのは、私たちの功績によるのではなく、主の愛の十字架によるのです。

14~33節、不従順に対する懲罰①・・・懲らしめ

主の懲らしめは五段階に行われています。

最初は14~17節、次は18~20節、第三は21~22節、第四は23~26節、第五は27~33節、

このように、主が忍耐強く懲らしめるのは、滅ぼすためではなく、訓戒し、矯正するためであることが分かります(テモテ第二3:16)。

Ⅱテモ 3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

一、14~17節、

レビ 26:14 もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行わないなら、
26:15 また、わたしのおきてを拒み、あなたがた自身がわたしの定めを忌みきらって、わたしの命令をすべて行わず、わたしの契約を破るなら、
26:16 わたしもまた、あなたがたに次のことを行おう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。
26:17 わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。

ここでは懲らしめが行われる条件が五つ記されています。

①、わたしに聞き従わず、
②、これらの命令をすべて行わないなら(二回)・・・(以上の二つは、無視)
③、わたしのおきてを拒み、
④、わたしの定めを忌みきらって、‥(以上の二つは、積極的反抗)
⑤、わたしの契約を破るなら‥(離反)

これらがみな、主のみことばに関して語られていることに注目したい。信仰生活の基本的なことはみな、みことばに従順に従うことであることが分かります。

16節の「わたしもまた、あなたがたに次のことを行なう。」は、主がみことばをおろそかにする者に対抗されることを示しています。主が生けるご人格を持っておられるお方であることを忘れてはなりません。

私たちは、主が肉眼で見えないから、無視したり、軽んじてしまいやすいのです。そこから、恐ろしい離反が生じるのです。

次に、主が与える懲らしめは何かについて考えてみましょう。

①、恐怖・・・心配、悩み、思い煩い
②、病気による心身の衰退・・・人が罪から完全に離れるまで、次々と新しい病気が生じることになります。
③、労働に結実がない‥‥むなしい生涯
④、神が民から顔をそむけられる結果として、敵に打ち負かされ、踏みつけられ、たえず恐怖でおびえるようになる。神の保護が取り去られるから。普段の平安は神の保護の故であることを忘れてはなりません。それ故、ますます主に忠実に従いたいものです。

二、18~20節、

レビ 26:18 もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。

二度目からの懲らしめはすべて、七倍重く、厳しくなっているのを見ます。「七倍」は、神の完全数であり、懲らしめの強さを示しています(エレミヤ書15:2,3、エゼキエル書14:21)。

エレ 15:2 彼らがあなたに、『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『【主】はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに。』
15:3 わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。──【主】の御告げ──すなわち、切り殺すために剣、引きずるために犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。

エゼ 14:21 まことに、神である主はこう仰せられる。人間や獣を断ち滅ぼすために、わたしが剣とききんと悪い獣と疫病との四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、

もし、罪を犯しても、最初の懲らしめで、すぐに主に立ち帰る者でありたい。エジプトのパロのように、いつまでも心を頑なにして強情を張って主に逆らい続けるなら、厳しいさばきを受けて滅びてしまうのです。

19節、自分の力を頼みとする高慢は打ち砕かれます。

レビ 26:19 わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。

「天を鉄のように」とは、天から雨も露も降らないこと。「地を青銅のように」とは、作物がとれないことを示しています。
それ故、20節、人の労働はすべてむなしくなり、何の収穫も得られなくなります。

レビ 26:20 あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。

これが、主に不従順な者の生涯です。主イエスが、「あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4)と言われたのと同じです。このことがお互いの間でどれくらい定着しているでしょうか。
このことは私たちの生涯を実り豊かなものにするか、不毛にするかを決める重要なことであることを、自覚しているでしょうか。

三、21~22節、

レビ 26:21 また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。
26:22 わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。

このようになっても、人はまだ神に反抗して歩むことがあり得ることを示しています。ここに人間の自己中心性の深さが分かります。この懲らしめは、野獣によって、子どもたちが殺され、家畜が絶えて、人口が減り、民の生活が荒れ果てていくことです。かつて、イスラエルの民がシナイの荒野を旅している時、食べ物のことで、主とモーセに逆らった時、主はそれまでとどめておられた猛毒をもつ蛇を放たれ、多くの民が死んだことがありました(民数記21:4~9)。

民 21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

私たちは、主に逆らうことがどんなに恐ろしいことであるかを、本当に理解しているでしょうか。これらの警告をただの教訓として受けとめていてはいけません。

四、23~26節、

レビ 26:23 もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、
26:24 わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。

24節、「わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。」
主は、私たちが主に対している態度にふさわしくなられるお方です。私たちが主に反抗するなら、主も私たちに反抗されます。ここでは、主はもっと積極的に、民に敵されると言われています。
これの裏返しが、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)です。主が私たちの味方となってくださるためには、私たちが主の味方となっていればいいのです。

25節、主の敵対は恐るべき方法で行われます。

レビ 26:25 わたしはあなたがたの上に剣を臨ませ、契約の復讐を果たさせよう。またあなたがたが自分たちの町々に集まるとき、わたしは、あなたがたの間に疫病を送り込む。あなたがたは敵の手に落ちる。

剣と疫病と、敵の手によって、民が主との契約を破った復讐をされるのです。
主は、イスラエルの反逆に対して、主の敵アッシリヤとバビロンを用いて捕囚の刑罰を加えられました。主が敵の手を用いられることは、主がいかに激しくお怒りになっておられるかを示しています。

26節、食糧が非常に乏しくなります。

レビ 26:26 わたしが、あなたがたのパンのための棒を折るとき、十人の女が一つのかまであなたがたのパンを焼き、はかりにかけて、あなたがたのパンを返す。あなたがたは食べても、満ち足りない。

旧約時代において、ききんはしばしば主が、懲らしめとして用いられた方法です。

五、27~33節、

レビ 26:27 これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、
26:28 わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。
26:29 あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。
26:30 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。
26:31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。
26:32 わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。
26:33 わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。

それでも、主に反抗して歩む者がいる危険を示しています。人の罪の性質は恐ろしく、自らが滅びることが目に見えてきても、なおも主に逆らい続ける者がいるのです。

28節、ついに主の怒りが爆発します。

私たちは主の愛とあわれみに慣れてしまって、主の審判を甘くみたり、主をあなどったりしてはいけません。主の愛とあわれみが大きい分だけ、主に逆らう者への主の怒りは激しく厳しくなることを知らなければなりません。

神の怒りは、

①、飢えの故に、自分の息子や娘たちの肉を食べるほどになること。これは飢餓の状態のひどさだけでなく、人が自分の子どもの肉を食べるほどに残虐な性質を帯びることを教えています。
②、こわされた偶像の上に、民の死体を積み重ねられるほどに、主に忌みきらわれます。
③、町々は廃墟になり、聖所は荒れ果て、彼らの祈りも、いけにえも忌みきらわれ、その荒廃ぶりは敵すら、青ざめてしまうほどです(31~32節)。

④、民は離散させられ、たえず敵の剣(権力)におびえなければならなくなります。

イスラエルは捕囚を経験し、今も世界に離散させられています。これは、彼らが主に聞き従わず、神の命令を行わず、主に逆らって、契約を破ったからです。この警告は今日、私たちクリスチャンにも当てはめなければなりません。これらの事実は、いかに神のみことばに従うことが重要かを教えています。

34~39節、不従順に対する懲罰②‥‥地の荒廃

神の民が不従順になり、神の戒めを守らず、特に、安息の休みを守らなければ、主は強制的に捕囚という方法で安息を守らされます。

34節は、民が不従順になる時には、捕囚の刑罰が下ることをすでに予告しています。

レビ 26:34 その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。

私たちは、従順によって主の安息を守るか、不従順によって強制的に刑罰として安息を守らされるか、どちらかを選ばなければなりません。イスラエルは愚かにも後者を選んだのです。パウロはこう言っています。「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。‥‥‥あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」(ローマ6:16、19)

イスラエルのバビロン捕囚に対しても、この規定が当てはめられています(歴代誌第二36:21)。

Ⅱ歴代 36:21 これは、エレミヤにより告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。

このことは、七〇年間のバビロン捕囚は、イスラエルが七〇回、安息の年を守っていなかったことを意味するものではありません。しかし、これは、確かにイスラエルの民が安息の年を無視していたことを意味しています。預言者イザヤも、エレミヤも、エゼキエルも、イスラエルの民が安息日を守らなくなっていたことを厳しく叱責しています(エレミヤ書17:19~27)。

エレ 17:19 【主】は私にこう仰せられる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、
17:20 彼らに言え。これらの門のうちに入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ。【主】のことばを聞け。
17:21 【主】はこう仰せられる。『あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。
17:22 また、安息日に荷物を家から出すな。何の仕事もするな。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。
17:23 しかし、彼らは聞かず、耳も傾けず、うなじのこわい者となって聞こうとせず、懲らしめを受けなかった。
17:24 もし、あなたがたが、ほんとうにわたしに聞き従い、──【主】の御告げ──安息日にこの町の門のうちに荷物を持ち込まず、安息日をきよく保ち、この日に何の仕事もしないなら、
17:25 ダビデの王座に着く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この町の門のうちに入り、この町はとこしえに人の住む所となる。
17:26 ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地や低地から、また山地やネゲブから、全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、穀物のささげ物や乳香を携えて来る者、感謝のいけにえを携えて来る者が、【主】の宮に来る。
17:27 しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日をきよく保たずに、安息日に荷物を運んでエルサレムの門のうちに入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くして、消えることがないであろう。』」

私たちは、教会生活を守ることの重要性と、その祝福がいかに大きいかに気づいていないのではないでしょうか。また、教会生活をおろそかにすることによって、いかに大きな損失をしているかに気づいていないのではないでしょうか。神の報復は地の荒廃だけでは終わりません。

36,37節、民の生き残る者は、臆病になり、たえず恐怖に追い立てられ、だれも追いかけないのに、自ら恐れて逃げまどい、悩み苦しみ、つまずき倒れるのです。

レビ 26:36 あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。
26:37 追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。

これは主の戒めを守らなかった結果です。現代、主から離れ、主に心を向けようとしない人々の心の状態は、臆病と恐怖、そして仕事や人間関係に追い立てられて、あせり、つまずき倒れています。聖書は、「折り重なって、つまずき倒れる。」と言っています。これは倒れる者が続出することを言っています。このことばの如く、今日、精神的敗北者が続出しており、過労で死ぬ者も続出しております。

37節後半から38節では、敵の前では立つこともできず、国々の間に散らされ、滅びていくと言われています。その理由は明らかです。

レビ 26:37 ・・・あなたがたは敵の前に立つこともできない。
26:38 あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。

39節、「自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。」

レビ 26:39 あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。

これほど恐ろしい主の報復のことばは、ヨハネの黙示録に出てくる以外には、あまり見られません。
この箇所では、地も、人の心も、神の民としての国家も、極みまで荒廃してしまうことが記されています。それは、主の安息の休みを無視して守らなかったからです。主の安息を守らないことが、すべてを荒廃させてしまいます。そして現代は、それが目に見える形で、世界的に現われてきている時代です。多くの人々が環境破壊や自然破壊について叫んでいますが、それが主の安息を守らないことに起因していることを叫ぶ人はだれもいません。クリスチャンは先ず、みことばを通してこのことに気づき、主の安息を守ることをキチンと立て直し、外に向かっても、ただの自然保護だけでなく、主の安息を守ることによって、主が造られた地球を大事にしていくことを叫ばなければなりません。主の安息の重要性をもう一度はっきりと知ることから始めなければなりません。

40~46節、契約を思い起こされる神

40~41節は、主が契約を思い起こして、回復してくださるための条件を記しています。

レビ 26:40 彼らは、わたしに不実なことを行い、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、
26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。

①、主に反逆して歩んだ咎(とが)の告白をすること。

それには、自分たちの咎と先祖たちの咎の告白が求められています。
罪の告白とは、おわびをすることではなく、「もう二度としません。」という決意表明でもありません。それは犯した罪咎をありのまま言い表わすことです(ヨハネ第一1:9)。

Ⅰヨハ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

この罪の告白には、個人的な告白と民族的なものとがあります。民族的な罪に対しては、民族的告白が必要になります。たとえば、先の日本の侵略戦争は民族的罪です。ですから現代の日本の青少年は、直接、戦争に参加していなくても、その戦争責任は、主に対して、また侵略した国々に対しても負わなければなりません。そのために国は、今日の若い人々に父祖たちがどのような罪を犯したのか、正直に、ありのままに教えていく必要があるのです。
イスラエルの罪は、主に忠実であったダニエルたちをもバビロン摘囚に巻き込んだのです。個人の罪も恐ろしいものですが、民族的罪は罪を犯さない者をも悲惨な運命に巻き込んでしまうのです。

②、無割礼の心がへりくだること、

「無割礼の心」とは、主を知らない異教の民が主に対してとる高慢で、横柄な心の態度のことです。イスラエルはシナイ山で主のおきてを受けて、主との契約を結んだ時、神の民となりました。しかし彼らが主との契約を破り、主のおきてを捨てて、異教の民のように生き始めた時、彼らの心も無割礼になり、高慢で頑なになってしまったのです。私たちの霊魂は主から離れると、頑なになるように造られているのです。その頑なな心が砕かれて、へりくだる時、主は恵みを与えてくださいます。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(ペテロ第一5:5)

③、咎(とが)を償うこと。

罪は隠さず、正直に告白し、その罪に対する刑罰を受けることです。言い訳けをせず、逃避せず、正直に、責任をもって刑罰を受けることです。イスラエルの罪に対しては、七十年間の捕囚という刑罰を受けることなしには、回復も、祝福もあり得なかったのです。
これらが、主が再び民との契約を思い起こしてくださる条件だったのです。主の恵みと祝福は常に条件付であることを、よく知っておかなければなりません。私たちが主に忠実である時にのみ、主は恵みを与えてくださるのです。

42~46節は回復について記しています。

レビ 26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。
26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。

42節の契約には、ヤコブ、イサク、アブラハムの名が連ねられています。先祖によい信仰者を持つ者は幸いです。もし彼らと主との契約がなかったなら、主がイスラエルにあわれみをかけられる根拠はなくなり、完全に滅びたでしょう。すぐれた信仰者の両親の訓育を受けた者は幸いです。幼い頃からすぐれた信仰者の影響を受けて育った者は幸いです。
私たちにとっては、イエス・キリストとの契約があります。私たちはキリストとの契約によって、大いなるあわれみを受けることができます。しかし、キリストとの契約を結ばない者は、あわれみを受けるためのすべての根拠を失ってしまうことになります。

44節、主のあわれみは、民が敵の国に捕囚されている間も現わされます。

レビ 26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、【主】である。

勿論、これは先の条件を果たした場合においてです。罪を犯した者は、この地上においてその刑罰を受け、咎の償いをしなければなりません。しかし、その期間においてすら、主はあわれみを示してくださるのです。

「退けず」「忌みきらって、彼らを絶ち滅ぼさず」「契約を破ることはない。」‥‥これらは消極面です。

「わたしは彼らの神、主である。」‥‥これは積極面です。

これらの主のあわれみが分かってくると、私たちの信仰の回復がいかに大きく神のみこころを動かすものであるかを知ることができます。主は生きておられる人格神なのです。私たちが信仰を回復し、しっかり保つなら、主は私たちを恥じることなく、私たちの神、主であると、宣言してくださるのです。

45節の「契約を思い起こそう」は、エジプトの地からイスラエルの民を主が連れ出された目的と結び合わせて語られています。

レビ 26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは【主】である。」

すなわち、これは民が捕囚されても、再び、約束の地に復帰することを暗示しています。申命記30章1~5節では、このことが明示されていますが、ここでは、それが暗示されるだけにとどめられています。

申 30:1 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、【主】があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、
30:2 あなたの神、【主】に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
30:3 あなたの神、【主】は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。
30:4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。
30:5 あなたの神、【主】は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。

「約束の地に住む」ことは、契約の中でも重要なことです。ここでは44、45節で繰り返されている、「わたしは彼らの神、主である。」「わたしは‥‥彼らの神となる。」という点に焦点が合わされています。アブラハムも、イサクも、エリメレクとナオミも、約束の地にとどまるということで失敗しています。そして再び、約束の地に帰らされています。主は、ご自分の民に愛とあわれみを注ぎたいお方です。そのためには、ぜひ、民に信仰をしっかり持って、主との契約を確立してもらいたいとの深い願いを持っておられます。私たちはぜひ、主のご期待に応えたいものです。

46節は、これらの戒めは、主がシナイ山でモーセを通してご自身と民との間に立てられたおきてと定めであると、言っています。

レビ 26:46 以上は、【主】がシナイ山でモーセを通してご自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。

この言葉は、この戒めが、真正に主の戒めであることを証明しています。後々の子孫が読んでも、すぐに神の権威をうなずくことができるためです。

これらを通して、私たちの信仰に最も大切なことは、主との契約のみことばに忠実であり、従順に従うということであることが分かります。そしてそれが大いなる祝福の秘訣だということも分かります。

(まなべあきら 1991.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、レビ記26章の分かりやすい図解説明。引用元は、「Doodle Through The Bible_ My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time! 」(http://www.doodlethroughthebible.com/)


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