聖書の探求(091b) レビ記 レビ記のまとめ
最後に、簡単にレビ記のまとめをしておきましょう。
レビ記の主題は、人が神に近づき、礼拝をささげることです。礼拝は賛美や祈りや説教を聞くことにだけとどまらず、生活のあらゆる面を含んでいます。このことは、主が人の生活の全般にわたって主権を持っておられることを意味しています。これは今日のクリスチャンにも適用されます。
本書の鍵の思想は、聖、贖罪(しょくざい)、交わりでしょう。
その一例を挙げてみますと、
1~7章 聖なる犠牲
8~10章 聖なる祭司制度
11~15章 聖なる民
16章 聖なる大祭司制度
17~22章 聖なる行為
23~25章 聖なる節期
16~27章 聖なる国家
いけにえの分類
一、儀式的分類
①血を流すことが含まれているいけにえ、四つ(全焼のいけにえ、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ)
②血を流さないいけにえ、一つ(穀物のささげ物)
二、意義的分類
①完全な献納、二つ(全焼のいけにえ、穀物のささげ物)
②曇りなき交わり、一つ(和解のいけにえ)
③継続的な潔め、二つ(罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ)
三、機会的分類
①公的にささげる場合
②私的にささげる場合
これらのいけにえの意味と特長については、すでに記しましたので、ここでは省略します。
祭司制度について
一、祭司職に関して
8章 祭司の献身
9章 祭司の就任
10章 祭司の違反
二、祭司の特長
これは、なんといっても「潔さ」です(21:1~22:10)。
シナイ山での規定が与えられる前は、家族の長が祭司のつとめを果たしていました。
たとえば、ヨブはそのような人でした。「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりびとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」(ヨブ記1:5)
ノアも全焼のいけにえをささげています(創世記8:20)。
創 8:20 ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
族長アブラハムもしばしば祭壇を築いています。
シナイ山の規定後は、この任務は大祭司アロンにゆだねられています。また大祭司の助手としての祭司たちには、アロンの子らが任命されており、祭司の助手としてはレビ人が聖別されています(民数記)。この大祭司制度は世襲的で、アロンの家系の子孫が引き継ぎました。
しかしこの大祭司制度は真の大祭司のヒナ型であり、欠陥が多く、不十分なものでした。真の大祭司はアロン系ではなく、父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもない、メルキゼデクに似た祭司王であられるイエス・キリストです(ヘブル7:1~3)。
ヘブル 7:1 このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
7:2 またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。
7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
彼は罪なく、しみもない全く聖なるお方です。私たちはこのお方を大祭司としていただいていますので、心強い限りです。そうですから弱音を吐かず、すべてを主におまかせし、全く信頼して従わせていただきたいものです。そうすれば、この大祭司なるお方のすばらしさと力強さがよく分かるようになります。
三、祭司のつとめ
祭司のつとめは大きく四つにまとめることができるでしょう。
①、いけにえを主の規定に従ってささげること。
②、主の民に、主の規定を教えて、各人の生活の中で実行できるようにすること。
そうすることによって、主の民は潔い生活を送ることができ、主の祝福を受けることができるようになるのです。
③、潔いものと、汚れたものとの区別を判定すること。これは、らい病においても、いけにえの評価においても見られました。
これは聖なる主の基準によって判定されるべきことが強調されているのです。今日、聖書の解釈が各々の手にゆだねられているとはいえ、それは各々、自分勝手な解釈をしてもよいということが許されているわけではありません。特に、みことばを取り次ぐ者たちは、身をひきしめ、自ら潔められて、主の聖なる基準に従って人々を導くことができるようでなければなりません。そうでなければ、アロンの子ナダブとアビフのように汚れた祭司として、自ら、わざわいを招くことになります。
④、幕屋の整理と管理
レビ人たちは祭司の指示に従って幕屋を管理する奉仕をしました。また祭司は毎日、いけにえをほふって、ささげたり、ともしびを守ったり、香を調製して、ささげたり、それは重労働に値する働きでした。
この外にも、祭司の働きはいろいろとあり、これらのことがあって、民のための執り成しの働きができるのです。私も教会の奉仕をさせていただくようになってから、「こんなことも含まれていたのか」と思われるものが沢山ありました。警察、裁判所、社会福祉事務所、法務局、病院など、牧師になる前には考えてもみたことのない所に行ったり、幼児のおしっこの面倒をみたり、おしりを叩いたり、近所の人から怒鳴られたり。
モーセは主のお仕事を一手に引き受けて、疲れ果てそうになったことがありました。今日、一所懸命に奉仕している牧師たちは、みな教会の働きを一手に引き受けて疲れていると思います。信者の方々は、ただ、口で労をねぎらうだけでなく、訓練を受けて、実際に牧師の手足となって助けていただきたいと思います。牧師にぶらさがっている信者ではなく、牧師を支えている信者になってください。
最後に、レビ記は、潔いものと汚れたものをはっきりと区別することを強調しているように思われます。
①、11章、 きよい食物と汚れたもの、
②、12章、 出産時のきよめ、
③、13~14章32節、らい病のきよめ、(からだのきよめ)
④、14章33~57節、家の潔め、家庭の潔め、
⑤、15章、 生活や習慣の潔め、
⑥、16章、 レビ記中の聖の中心、聖所の潔め
この聖と汚れは大きく、からだに関する面と、儀式に関する面と、道徳に関する面の三つに分けられているように思います。
さらに、これは、
①、汚れる原因(らい病になることレビ記13、14章や、死体にふれること民数記19章など)
②、汚れた結果(効果)(イスラエルから絶たれる)
③、回復としての潔め(いけにえの灰の水で洗う、水浴でする、火で焼くなど)
の順序で記されています。
このように、聖と汚れをはっきり区別された理由は、
①、イスラエルが異教の人とは異なり、異邦人から離れており、交わりを禁止する意味をもっていたこと、
②、聖なる神にならって、聖なる民となること。
③、衛生的な面、イスラエル人の衛生的な面は当時としては他に並ぶものがありません。このことの故に、多くの疫病から免れたものと思います。
④、具体的な生活行動を通して、霊的訓練をするためであったと思われます。
レビ記は旧約の多くの限界をもっていますが、その中には多くの新約のヒナ型を含んでいますから、私たちが新約の目をもって読みますなら、多くの霊的奥義を発見することができます。
ヘブル人への手紙10章1節に、「律法には、後に来るすばらしいものの影」があると言っています。
ヘブル 10:1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
私たちはレビ記を読む時、影絵遊びをしているように、その影を見て真理の実体を次々と発見していく喜びを経験することができます。その中で最大のものは、いけにえによる罪の全き贖(あがな)いです(レビ記16:30)。
レビ 16:30 なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、【主】の前でそのすべての罪からきよめられるのである。
あとがき
時折「聖書の探求のように書いてある本はありませんか。」と言われることがあります。私の知る範囲では、まだどこにも見たことがありません。聖書の探求は一見、小さな、見映えのしない冊子ですが、その中昧は充実させているつもりです。この冊子も、もう七年以上も続いています。そして今回、恵みのうちに難解の書と言われるレビ記を完了致しました。これも皆様のお祈りと御愛読があったからです。次回から民数記に入ります。引き続き、御愛読と御支援をいただければ幸いです。
今までで聖書の約十分の一を完了したことになります。健康が許されて、執筆が続けられるようにお祈りいただければ幸いです。
さらに、皆様が聖書に熟達されて、実り豊かなあかしの生涯を送られますように、心よりお祈り申し上げます。
(まなべあきら 1991.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、アメリカの牧師 Henry Davenport Northrop (1836 – 1909)により1894年に出版された「Treasures of the Bible」の挿絵「High priest offering a sacrifice of a goat, as on the Day of Atonement, Yom Kippur(大贖罪日にやぎのいけにえをささげる大祭司)」(Wikimedia Commonsより)
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