聖書の探求(096) 民数記 3章 レビ人の任務の内容と人口調査
3章は主に、レビ人の任務の内容と人口調査を記しています。
1~13節、レビ人の聖別と任務のあらまし
レビ人が聖別された理由は、幕屋の管理の奉仕をするためです。しかも主は、レビ人の三氏族に、各々別々の特定の任務を与えて、すみやかに組織的に任務が果たせるように整えておられます。これは混乱が起きないために、重要な秩序でした。神は秩序の神であり、教会やクリスチャンの個人が乱れずに、秩序正しく神の奉仕を成し遂げるために、任務を分担しようとしておられるのです。私たちも秩序正しく、主の任務を担えるように、潔められて、主のご用に備えたいものです。
「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(テモテ第二2:21)
「聖書はすペて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテ第二3:16,17)
しかし、イスラエルは約束の地への旅の途中で多くの敵意を持つ地を通過したのに、レビ人一部族だけであっても、全く軍務につかさず、神の幕屋の奉仕だけに当らせたことは、驚異的なことで、注目に価します。これはどんなに軍事上の必要があっても、それ以上に神を礼拝することが大切であることを、主は示しておられます。もし人が神を礼拝することをおろそかにして戦っても、働いても、永続的な勝利を得られないことを示しています。
神は、神の民が先ず、神を礼拝する生活を第一に求めておられます。このことが確立されないなら、どのような成功も、勝利も、繁栄も、やがてむなしく敗北に終わってしまうのです(詩篇127:1)。
詩 127:1 【主】が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
1~4節 アロンとモーセの系図
民 3:1 【主】がシナイ山でモーセと語られたときのアロンとモーセの系図は、次のとおりであった。
3:2 アロンの子らの名は長子ナダブと、アビフと、エルアザルと、イタマルであった。
3:3 これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。
3:4 しかしナダブとアビフは、シナイの荒野で【主】の前に異なった火をささげたとき、【主】の前で死んだ。彼らには子どもがなかった。そこでエルアザルとイタマルは父アロンの生存中から祭司として仕えた。
レビ人たちは祭司を助ける者たちですので、祭司の指示に絶対的に従わなければなりませんでした。そこで、その指示を出すアロンの子らの名前が記されています。ここではレビ人の聖別の記事の序論として、レビ人を指導する権利についての神のみこころを明示することのためにだけ記していますので、非常に短くなっています。
大祭司となったアロンには四人の子どもがいましたが、残念なことに長子のナダブとアビフはシナイの荒野で主の前に異なった火をささげたために、主のさばきを受けて死んでしまいました(レビ記10:1,2)。
レビ 10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を【主】の前にささげた。
10:2 すると、【主】の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは【主】の前で死んだ。
このような不名誉なことは、ちょっとした系図を記す時にも、繰り返して記さなければならなかったのです。彼らは大なる特権のある家庭に生まれていながら、霊的恵みを悟らず、高慢になって不名誉な罪を犯してしまいました。
信仰は家系や親の地位や特権とは関わりがありません。生まれながらにして、大なる特権のある家庭に生まれ育った人は、主の前に畏れおののいて、へりくだって主の道を歩むのでなければ、その特権の故に、却って自らを滅ばすことになります。また、何の特権もない家庭環境に生まれた人も、他人をうらやまず、主の前にへりくだって恵みを求めたいものです。主は生まれながら持っている特権に対してではなく、各々の信仰に対して恵みをお与えくださるからです。ナダブとアビフは高慢の故に、その特権を失ったばかりでなく、自ら滅んでしまったのです。
聖書は、その弟たちのエルアザルとイタマルが祭司として仕えたと記しています。4節の終わりには、彼らは「父アロンの生存中から祭司として仕えた。」と記しています。おそらく二人は父アロンから指導を受け、十分な訓練を受けて一人前の祭司となることができたのでしょう。
教会の奉仕を見ていると、教会学校の教師でも、集会の司会でも、簡単にだれでもできそうに見えますが、十分に指導と訓練を受けなければ、また潔められていなければ、十分な働きが出来ないばかりでなく、自ら高慢になる危険があります。教会によっては、救われるとすぐに教師や役員にしてしまうところもあるようですが、これは少し軽率ではないかと思います。本人の信仰のためにも良いことではないと思います。
パウロも、「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(テモテ第一3:6)と警告しています。一人前の奉仕者になるには、それ相当の訓練を受け、信仰に成長している必要があります。
5~10節は、レビ人の任務のあらましを記しています。
民 3:5 【主】はモーセに告げて仰せられた。
3:6 「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。
3:7 彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。
3:8 彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエル人の務めを守って、幕屋の奉仕をしなければならない。
3:9 あなたは、レビ人をアロンとその子らにあてがいなさい。彼らはイスラエル人の中から、正式にアロンにあてがわれた者たちである。
3:10 あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。」
6節の三つの動詞は、その任務を示しています。
①「近寄らせ」、神の臨在に近づく特権を与えるために聖別すること。10節と38節では、これとは反対に「近づく者は殺される」と命じられています。ここでは、レビ人は祭司とも、またモーセやアロンとも、はっきりと区別されています。しかし一般のイスラエルの民よりも神の臨在に近づく特権が与えられたのです。これには神の聖別が必要だったのです。
私たちは今日、主を礼拝するのに、汚れたままの、ざわついた心で主の前に出ていないでしょうか。小羊なるイエス・キリストの血潮をたずさえて主の御前に近づいているでしょうか。小羊の血をたずさえている時だけ、私たちは主の御前に大胆に近づくことができるのです。
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル9:14)
②「祭司アロンにつき添わせ」これは祭司の指示、監督に従うべきことを示しています。レビ人は自分勝手に奉仕することが禁じられています。秩序を保つために制限が加えられています。神への奉仕は、ただ熱心であればいいのではありません。神のみこころにかない、また秩序が保たれていなければなりません。これを守っている限り、レビ人は祝福を受けたのです(9節)。
③「仕えさせよ」7,8節の彼らの任務は、幕屋の奉仕ですが、それには大きく二つありました。一つは、アロンの任務を助けることであり、もう一つは、全会衆のために幕屋のすべての用具を管理、整備することでした。
教会では説教や集会を助ける司会のような奉仕とともに、教会内の管理、整備などの多くの繁雑な奉仕があります。これらは、一見、だれでも簡単にできるように思われていますが、決してそうではありません。どのような奉仕もみな、主のためになされるものであり、すべての奉仕者は主に対して献身し、聖別されていなければなりません。安易な動機から奉仕にたずさわると、必ず、不満や呟きが出てくるようになります。
10節では、もう一度繰り返して、祭司になるのはアロンの家系に限ることを示しています。
民 3:10 あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。」
11~13節は、主がレビ人を聖別された理由を示しています。
民 3:11 【主】はモーセに告げて仰せられた。
3:12 「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。
3:13 初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは【主】である。」
それは、イスラエル人の初子の代わりにレビ人を聖別して、ご自分のものとされるというのです。初子がすべて、主のものであるという概念は、出エジプトの時に、主がエジプトのすべての初子を打たれた時に、はっきりと示されました(出エジプト記13:2、11~16)。
出 13:2 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」
出 13:11 【主】が、あなたとあなたの先祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに賜るとき、
13:12 すべて最初に生まれる者を、【主】のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は【主】のものである。
13:13 ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。
13:14 後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか』と言うときは、彼に言いなさい。『【主】は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。
13:15 パロが私たちを、なかなか行かせなかったとき、【主】はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私は初めに生まれる雄をみな、いけにえとして、【主】にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は贖うのだ。』
13:16 これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは【主】が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れ出されたからである。」
この概念は、ここで主が全イスラエル人からレビ人を聖別して、ご自分のものとすることによって、より恒久的に現実化されました。なぜ、レビ人が初子の代わりに選ばれたのかというなら、モーセとアロンがレビ人出身であったから、という考え方をする人もいますが、むしろそれは、出エジプト記32章26~29節で、イスラエルが金の子牛を作って礼拝していた時、レビ人は主の側について献身し、偶像礼拝者を取り除いたからです。
出 32:26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、【主】につく者は、私のところに」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。
32:27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
32:28 レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。
32:29 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」
それ故、このレビ人の聖別には、私たちの献身に対する主の聖別に似た要素があります。
何はともあれ、主は、全く献身して奉仕する主のしもべたちを求めておられるのです。あなたはそれに応える信仰の備えがあるでしょうか。
14~39節、レビ人の人口調査とその任務
民 3:14 【主】はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。
3:15 「レビ族をその父祖の家ごとに、その氏族ごとに登録せよ。あなたは一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。」
3:16 そこでモーセは【主】の命により、命じられたとおりに彼らを登録した。
先に、イスラエル人全体の軍務につく者が数えられた時には、レビ人は数えられませんでしたが、今回、レビ人が幕屋の任務につくために、その人数を数える必要がありました。軍務につく者の場合は、20才以上でしたが、レビ人の場合は、一か月以上のすべての男子が登録されています。このことは、レビ人の子どもたちも何らかの意味で任務を果たしていたか、その任務について教えを受けていたものと思います。サムエルはレビ人ではありませんでしたが、乳離れした時から祭司エリの所で主に仕えていたことが記されています(サムエル記第一1:24、3章)。
Ⅰサム 1:24 その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの【主】の宮に連れて行った。その子は幼かった。
このことからすると、人は少なくとも、生後一か月から、神を讃美したり、祈ったりする環境の中で過ごすことによって、霊的成長をうながしていく必要があることが分かります。
17節に、まず、レビの三人の子、ゲルション、ケハテ、メラリの名前が上げられています。
民 3:17 レビ族の名は次のとおりである。ゲルションと、ケハテと、メラリ。
そして18~20節で、各々から出た氏族の名前を記し、各々の氏族の人数と、宿営の場所と、その長(責任者)と、その任務を記しています。それは非常に秩序正しく行われています。
民 3:18 ゲルション族の氏族名は次のとおりである。リブニとシムイ。
3:19 ケハテ族の諸氏族はそれぞれ、アムラムとイツハル、ヘブロンとウジエル。
3:20 メラリ族の諸氏族は、それぞれ、マフリとムシ。これらがその父祖の家によるレビ人の諸氏族である。
21~26節、ゲルションの氏族
民 3:21 リブニ族とシムイ族はゲルションに属し、これらがゲルション人の諸氏族であった。
3:22 数を数えて登録された者は、一か月以上のこれらすべての男子で、登録された者は、七千五百人であった。
3:23 ゲルション人諸氏族は、幕屋のうしろ、すなわち西側に宿営しなければならなかった。
3:24 ゲルション人の、一族の長は、ラエルの子エルヤサフであった。
3:25 会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、
3:26 庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の入口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてである。
人数、7500人
宿営、幕屋の西
一族の長、ラエルの子エリヤサフ
任務、幕屋の外部の幕とそのひもの管理、ただし、聖所の垂れ幕はケハテの氏族が管理している。
27~31節、ケハテの氏族
民 3:27 アムラム族、イツハル族、ヘブロン族、ウジエル族はケハテに属し、これらがケハテ人の諸氏族であった。
3:28 これらの一か月以上のすべての男子を数えると、八千六百人であった。彼らが聖所の任務を果たす者である。
3:29 ケハテ諸氏族は、幕屋の南側に沿って宿営しなければならなかった。
3:30 ケハテ人諸氏族の、一族の長は、ウジエルの子エリツァファンであった。
3:31 彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関するすべての奉仕である。
人数、8600人(一番多い)
宿営、幕屋の南
一族の長、ウジエルの子エリツァファン
任務、聖所と至聖所の内部の器具の管理、彼らは幕屋の中で最も重要なものを任されていた。それだけに高慢になって、神のさばきを受ける危険も大きかった。
33~37節、メラリの氏族
民 3:33 マフリ族とムシ族はメラリに属し、これらがメラリの諸氏族であった。
3:34 数を数えて登録された者は、一か月以上のすべての男子で、六千二百人であった。
3:35 メラリ諸氏族の父の家の長は、アビハイルの子ツリエルであった。彼らは幕屋の北側に沿って宿営しなければならなかった。
3:36 メラリ族に任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具およびそれに用いるすべてのもの、
3:37 庭の回りの柱とその台座、その釘とそのひもについてである。
人数、6200人(一番少ない)
宿営、幕屋の北側
一族の長、アビハイルの子ツリエル
任務、板、横木、柱、台座などの幕屋の骨組の管理
これらの分担は非常にはっきりしていて分かりやすい。複雑すぎて分かりにくい秩序はなきに等しい秩序です。秩序はだれにでもはっきりと分かるものでないと混乱や争いを起こしやすいのです。
更に、32節で、レビ人の長の長として、聖所の任務を果たすための総監督としてアロンの子エルアザルが立てられています。
民 3:32 レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった。
アロンが生きていた時は、エルアザルは祭司の仕事もしていたようですが、主に幕屋の設営と管理に当っていたようです。祭司には、外部の者には分からない様々な仕事があったのです。
私も、「牧師は集会のない日は何をしているのですか。」と言われたことがありましたが、人はそのようにしか見ていないものです。特に、主のための任務についている者は、他人に説明できない、また説明してはいけない様々な働きをしているのです。
38節、幕屋の正面、すなわち東側にはモーセとアロンとその子らの宿営がありました。
民 3:38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。
彼らは直接、聖所の任務を果たしており、「ほかの人でこれに近づく者は殺される。」とありますから、彼らには、決して侵されない権威が与えられていたのです。しかしイスラエル人の中には、不満やネタミを持つ者がいて、この不可侵の権威を侵そうと試みて滅ぼされています。この点で、ダビデはサウル王が自分の命をねらっていても、サウル王がひと度、主によって任命された王であったので、自分の手でサウル王を撃とうとはしませんでした。ここにダビデの敬虔さが見られます。
今日、簡単に牧師や教会を批判する人が沢山います。勿論、牧師にも足りない点や欠点は沢山あり、時には非を犯していることもあるでしょう。しかし軽々しく牧師や教会を批判、攻撃すべきではないと思います。それは自ら、神の前に敬虔さを失ってしまうことになるのです。モーセとアロンは神の代務者として任命を受け、イスラエル全体を指導したのです。
神の召命や指導者としての権威は、人がこれを侵すことはできません。これを侵そうとするなら、その人が神のさばきを受けることになります。さらにまた、この不可侵の権威は、後継者に正しく委譲していかなければならないのです。
39節、レビ人の一か月以上の男子の合計は二万二千人であったと記されています。
民 3:39 モーセとアロンが【主】の命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。
しかしレビ人の三氏族の人数の合計は二万二千三百人になります。しかもレビ人の二万二千人は概数ではなく、正確な実数であったことは43と46節によって、イスラエル人の初子は二万二千二百七十三人であって、レビ人の数より二百七十三人超過していたと記していることによって分かります。
民 3:43 その登録による、名を数えられたすべての一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった。
民 3:46 レビ人の数より二百七十三人超過しているイスラエル人の初子の贖いの代金として、
この違いについて、カイルは次のように説明しています。
この人数を数えた時、記録者が一字間違えて書いたのだとしています。ヘブル語では母音があるのとないのとでは、数が変わってくるからです。しかし他の人々は、この三百人の差は、レビ人の中の初子であって、その人はすでに主のものであったので数えなかったのだとしています。そのどちらであったのかは、今日、判定することができません。しかしレビ人の数はほぼ、イスラエル全体の初子の数に近かったのは奇跡です。
今日、教会においても、初子的奉仕、レビ的奉仕者が多数必要ですが、それは潔められて、忠実で、よく秩序が保たれ、よく訓練を受けた奉仕者でなければなりません。これまで教会は信者を過保護的に扱ってきました。これでは神の民が栄えることはできません。恐れずに、神の民として、またよく訓練された奉仕者となるべく、あらゆる点で訓練をしていく必要があります。
よく訓練された奉仕者がそろっている教会は必ず成長することができます。しかし、聞くだけで、一向、自分を訓練に渡そうとしない人は、成長することも、主のための奉仕者として主の栄光を現わすこともないのです。そういう人を教会は奉仕者として用いるべきではありません。
40~51節、初子の贖い
民 3:40 【主】はモーセに仰せられた。「イスラエル人のすべての一か月以上の男子の初子を登録し、その名を数えよ。
これまでは、人の罪の身代わりとして動物のいけにえがささげられてきました。しかしここに新しい贖いの思想が導入されました。すなわち、レビ人がイスラエル人全体の初子の身代わりとして聖別されたことです。人に対して人が身代わりとなったのは、レビ人が初めてです。もう一つは、「贖いの代金」、すなわち、贖いの代価が支払われていることです。これらの思想はどれも、全人類の身代わりとしてのキリスト、贖いの代価を払われるキリストにつながっていく思想です。
41節、さらに、「わたしのため、わたし自身、主のために、イスラエル人のうちのすベての初子の代わりにレビ人を取」るように命じられています。
民 3:41 あなたは、わたしのために、わたし自身、【主】のために、イスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取り、またイスラエル人の家畜のうちのすべての初子の代わりに、レビ人の家畜を取りなさい。」
これは、主ご自身がご満足されるためのご要求です。贖いの身代わり、贖いの代価は主ご自身のためであることを強く覚えなければなりません。
そして私たちは、主が神の民に対して贖いのために三つのことを求めておられることを知ることができます。
第一は、動物のいけにえをとおして、罪のための代価としてのいけにえ(キリストの十字架)
第二に、身代わりのレビ人から、奉仕者としての聖別(献身と奉仕)
第三は、富をささげることによる聖別(献金)
第一のいけにえはイエス・キリストが完成してくださいましたが、第二と第三の聖別は各々がなすべきことです。この区別を明確にしておかなければなりません。第一のキリストの十字架のいけにえをはっきり信じないで奉仕や献金をすることによって、自分はクリスチャンであると思い込んでいる人も少なくありません。この点をもう一度、再点検して救いを明確にしておきたいものです。
43節で数えられた一か月以上の初子、二万二千二百七十三人は、多分、出エジプト後、シナイの旅の途中に生まれた男子の御子であったと思われます。その数はレビ人の数より二百七十三人超過していました(46節)。
民 3:42 モーセは【主】が彼に命じられたとおりに、イスラエル人のうちのすべての初子を登録した。
3:43 その登録による、名を数えられたすべての一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった。
3:44 【主】はモーセに告げて仰せられた。
3:45 「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは【主】である。
3:46 レビ人の数より二百七十三人超過しているイスラエル人の初子の贖いの代金として、
これらのわずかの人数分に対しても、主は好加減にされませんでした。最後のひとりに至るまで、初子は神のものであり、必ず聖別されなければならなかったのです。クリスチャンひとり一人は、神にとって初子であり、聖別されないではおかれないお方です。
47節、超過した人数分については、一人当り五シェケルの銀でささげることになっていました。
民 3:47 ひとり当たり五シェケルを取りなさい。これを聖所のシェケルで取らなければならない。一シェケルは二十ゲラである。
3:48 そして、この代金を、超過した者たちの贖いの代金として、アロンとその子らに渡しなさい。」
3:49 こうしてモーセはレビ人によって贖われた者より超過した者たちから、贖いの代金を取った。
3:50 すなわちイスラエル人の初子から、聖所のシェケルで千三百六十五シェケルの代金を取り、
3:51 モーセは、【主】の命により、この贖いの代金を、【主】がモーセに命じられたように、アロンとその子らに渡した。
聖所のシェケルというのは、通常、生活で使っている貨幣が異邦人との取引きでも使っていたので、神にささげるものは区別されていました。それにしても、ひとり五シェケルは、そうたいした金額ではなく、銀五十七グラムです。二百七十三人分で一五・五六一キログラムです。これをイスラエル全体の公庫から出すのは、そんなに負担にならなかったと思われます。
主にとっては、額の多少に問題があるのではありません。イスラエルのすべての初子が神のものとなることを求めておられるのです。主はこのことを、「わたしのために、わたし自身、主のために」するようにと命じられました。また、初子の代わりに取られたレビ人も、レビ人の家畜も「わたしのものである」と言われました。パウロは、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:19,20)と言って、クリスチャンが神のものであることを宣言しています。
ここに言われている「からだ」とは、肉体だけのことではなく、自分の全存在を表す言葉として「からだ」という言葉が使われています。すなわち、私たちの思い、考え、態度、行動、生活のあらゆる面を含んで、私のすべては神のものであるということです。このことが私たちに本当に分かってくるなら、毎日の生活の仕方は変わってくるはずです。クリスチャンだと告白しつつ、この世の人と同じような思いを持って生活していないでしょうか。手足も、時間も、金銭も、才能も、神のものとして使っているでしょうか。もし、あなたが、自分のすべてが神のものであり、神からの預かりものであることを悟ったら、あなたの生き方は決まってくるはずです。主はこのことをタラントのたとえ(マタイ25章)で教えてくださいました。
パウロも、「むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。‥‥今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」(ローマ6:13、19)と勧告しているのです。あなたもこの道を進んでください。
あとがき
本誌は、一見、簡単な冊子のように見えますが、その内容は相当詳しく聖書を掘り下げているつもりです。見かけは実に粗末に見えますが、中味はできるだけ充実させたいと祈りつつ執筆しております。私は私の生涯をかけての働きをこの冊子の中に凝集して、後代に伝えようと思っています。そうですから、この冊子は私の遺言書でもあります。私はそういう思いをもって本書を書き続けてきました。外側の見かけだけを見る人は、「なんだ、こんなもの」と思って、見向きもされませんが、中味を理解して下さる方は、ずっとご愛読下さっておられます。
何がなんでも、私たちはまず、聖書に強いクリスチャンにならなければなりません。異端に引っぱっていかれてしまう人が多いのも、聖書を知らないからです。いろいろ信仰の理屈が言えるようになる前に、聖書をよく知っていただきたいと思います。みことばは「いのちの種」ですから、必ず、この日本にもリバイバルを見ることができるはずです。
(まなべあきら 1992.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の図は、「NIV Study Bible, Zondervan」より引用。
「聖書の探求」の目次
【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2020年7月現在、通巻437号 歴代誌第二24章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料82円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」
発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421